今週の1枚(03.11.03)
ESSAY 129/ Keep The Bastards Honest
写真は、先週のボンダイビーチ。まだ小学校2,3年くらいの少年が波に向かっていきます。この年からやってたら、そりゃ上手になるよね。
日本ではそろそろ総選挙ですね。町では選挙カーが出てきて、「よろしくお願いします!!」と連呼していることでしょう。選挙時期に日本に帰っていないこともあって、あの選挙カーのうるささも、もう10年以上聞いていないと、なにやら懐かしさすら覚えます。まあ、実際に聞いたら懐かしいのは10秒くらいで、あとはまた「だー、うるさい」って思うのでしょうけど。ちなみにオーストラリアではああいう選挙カーという存在はありません。
ともあれ、僕は一足お先に在外選挙を済ませました。海外在住の日本人にも投票ができるようになっているのですね。といっても比例代表の方しか投票できないのですが、それでも出来るようになっただけ大きな進歩です。実現に当たって尽力されてきた関係者諸氏に深甚なる謝意を示します。ありがとうございました。
さて、今度の選挙はどうなるんでしょうねー。争点がどうのとか、小泉内閣がどうのとか、野党の政策がどうのとか色々いわれているようですが、僕の意見としては、日本の選挙において本当の争点は常にただ一つだけだと思います。それは、自民党の一党独裁が崩れるかどうかです。抽象的にいえば、別に自民党でもなんでもいいのですが、ともあれ「しょーもない政治をすると次の選挙でクビになる」というクソ当たり前のシステムがちゃんと稼動するかどうかです。まあ、小選挙区制になっていることでもありますし、「二大政党制になるかどうか」と言い換えてもいいですが、本質は、選挙というものが「ちゃんと機能するか」どうかということです。だって、どんな滅茶苦茶な政治をやっても、クビにならない(政権を奪われない)のだったら、そりゃ誰だって為政者は国民を舐めますよ。「なんだかんだブチブチ文句を言ってるけど、結局俺らを選ぶしかないんだろ?」って。どんなに高い値段で売りつけられようが、ぼったくられようが、他に選択肢がなかったら言うなりにならざるをえない。
長期政権が必ずしも論理必然的に悪いわけではないです。とにかく政権が交代すればいいってもんでもないです。しかし、モノには限度というものがあるでしょう。日本の場合、戦後すぐに一瞬社会党政権が出来て、あとは細川連立内閣が出来たくらいで、長い目で見れば殆ど戦後ずーっともう58年くらい自民党が政権を取ってます。これだけ長い政権というのは、世界でも日本だけかもしれないです。一般にアジアの政権は比較的長いですし、長老格の抜きん出たリーダーが長いこと実権を持っていたりします。中国、台湾、シンガポール、マレーシア、インドネシアなどなど。しかし、日本のように戦後一貫して全然変わらず、、という国はないですよ、って、ああ、あと北朝鮮があったか。ともあれ、この二国くらいじゃないですか。そして日本の場合は、これまた世界でも例がないくらい首相の首がポンポン入れ替わるくせに、政権基盤そのものは全然変わらない。これだけ政権が長期化すると、いろいろガタが出てきますし、動脈硬化も起こるし、現に起きてます。
適度に政権が変わることが良いと言われるのは、政権が同じままだと大きな改革が出来なくなるという点があると思います。大改革というのは一種の過去否定になるわけですが、過去のシステムを他人(敵方)が作ってくれたのならば、「だからあいつらはダメなんだよ」と遠慮会釈なくバキバキ壊したり、改変したりできます。しかし、過去を作ったのが他ならぬ自分達だと、過去の(そして現状の)システムを批判するということは、仲間内の誰かのやったことを批判することになり、またそのシステムによって利益を受ける既得権集団(それは自分自身の支持基盤でもある)を敵に廻すことになります。だからやろうと思っても自ずと限度があります。特に「なあなあ」に済ませたいというメンタリティを濃厚に有する日本人だったら尚更でしょう。実際、小泉さんがやろうと言ってても、あれこれ身内連中から横槍が入ったり、サボられたり、骨抜きにされたり、難渋しているわけです。改革というのは、赤の他人の、無遠慮な手によってなされた方が、より大胆に合理的に物事が進むと思います。部屋の整理だって、他人にやらせた方が「こんなの、もう要らんでしょ、捨てちゃっていいよね」とばかりに遠慮なくバサバサ整理するからよくはかどる。自分でやってると、どうしても「一応とっておこうか」とかイジコイこと考えるから中々進まない。
しかし、現在の日本に政権が変わるという雰囲気はあまりありませんね。曰く野党は頼りないから、曰く政策的に結局そんなに違いが無いから、等などの理由で結局、「お行儀は悪いし横柄だけど実力はある」と思われている自民党が政権を無事維持することになるという。だけど、野党がだらしないとかいっても、殆ど一度も政権を取ってないのだから、本当にだらしないのかどうか分からんですし、実力なんか現場で鍛えられるのだから、現場を踏まない野党は永遠にペーパードライバーのままですし、だから永遠に政権交代なんか生じないことになります。
それじゃマズイでしょう。状況は、野党の質を問うとかいう言う以前の問題であり、もっと深刻なのだと思います。実質的な意味で野党が存在しない。なんで存在しないのかというと、国民が育てていないからです。新入社員でもなんでも、厳しくボロカスに叱りながらでもとにかく実戦現場の機会をふんだんに与え、育てていきます。それをイッコも現場を踏ませないまま、実力がないとか、頼りないとかいってたって、そりゃそうですわね。当たり前ですわ。
国民としては、俺らの代理人として政治をしているはずの連中が、あたかも生まれながらの権力者であるかのように誤解して調子に乗ってもらわれたら困るわけです。召使のくせに、主人面されたら立場を思い知らせてやらねばなりません。オーストラリアの野党、デモクラッツは数年前の選挙のスローガンで、”Keep the basterds honest!"というコピーを出してましたが、まさにそのとおりだと思います。このフレーズは、なにもデモクラッツの専売特許ではないらしく、政治の世界ではけっこう有名なフレーズのようですが、いいですよね。特に”バスターズ”という下品な言葉=野郎とかろくでなしとか畜生とかいう意味の罵倒用語を敢えて使う荒っぽい感じがいい。「あの馬鹿どもを正直にさせろ」「アホンダラ連中にマジメにやらせろ」くらいの感じ。でも、ほんと、国民の役割というのは、ただ一点、"the bastards"を思い通りに"keep" し続けることだと思います。
建築するときだって複数の業者さんから合い見積もりをとるように、健全な競争をさせておくのが施主としては一番良いのでしょう。政治集団同士が牽制しあって、結局国民は漁夫の利を得る、と。というわけで、まずは最終的な決定権限、最高権限が誰にあるか、国民に側にあるのだと、この日本の主人は誰なのか、誰がクライアントなのかをハッキリさせること、「調子に乗ったらお灸をすえる」というシステムを構築するのが第一の課題だと思います。戦後60年、日本はまだこんな初歩的な段階すら出来ていないのかもしれません。民主主義がインストールされていないというか、一応インストールらしきものはしたのだけど、不正終了のまま終わってる感じ。
そんなわけで、僕の投票は一貫して同じ。「政権の座を脅かすための第二集団」に入れてます。地方区であれ、全国区であれ、比例代表であれ、よほど「よし、このままこの政策でいけ!」と確信持てるときでない限り(そんなこと一度も無かったけど)、トップを脅かすために最も近い距離にある人物ないし政党に入れます。ひとえにパワーバランスとそれに伴う緊張感の回復が第一義だと思うからです。
政策だとか、政権担当能力なんてのは、その次のステップの話です。今はそんな高尚なレベルで話ができる段階ではないんじゃないですか。そんなものは政権が拮抗してくれば、自ずと努力するんじゃないでしょうか。それに極論すれば、政策なんかまったく同じだって構わないんです。同じモノを依頼するにせよ、「どっちがマジメにやるか」です。それこそ合い見積もりと一緒です。
しかし、話はそんなことよりもさらに初歩的なレベル。選挙という制度を皆が利用するか、利用できているかどうかです。つまりは投票率が7,8割くらいあるかどうか。理想を言えば義務投票制にしちゃえばいいのですけどね(オーストラリアでは当たり前に実施されているから、別に”理想”というほど遥か彼方の話ではないんだけど)。常に投票率が99%とかそんなくらいにしておく(1%欠けるのは、植物人間の人とか、意識不明の重態、行方不明などの投票不能の人が常に一定数いるだろうから)。現在のように投票率が50%とかそんなくらいだったら、殆ど機能してないですし、極論すれば、本当の意味では選挙なんかやってないに等しいのかもしれません。
投票をしない人の気分、言い分というのは、「何をやっても変わるわけがないから」とか、「魅力的な候補者/政党がいないから」とか、そもそも無関心だからとか色々あります。それなりに気分的にはよく分かります。でも、選挙というのはそれで直ちに何かを変えるためにやるというものでもないし(それはレファレンダム=国民投票でしょう)、魅力的な候補者に投票するオールスターのファン投票でもない。無関心というのも、これだけ政治の世界が日常的な生活感覚と切り離されてしまえば、どっか遠くの惑星の出来事みたいに思えるでしょう。それも分からんでもないけど、その意識それ自体がそもそも問題なのでしょう。これ、選挙は何のためにやるのかって学校で教えないのかしらね、教えないんだろうな。先生も知らないんじゃないかしら。「国民の義務だから」では説明になってないと思います。問題は、何故義務になっているのかという実質的理由であり、義務なんだったら義務投票にしちゃえばいいからです。
結局、国民も舐めてるんでしょうね。どうせ変わらないよとか、「どうせ」と思っているのは、何がどう転ぼうとも自分の周囲の生活圏内はさほど違わないだろうし、別にやっていけるだろうとタカを括っているんでしょう。つまりはナメてるのでしょう。確かにこれまではそんなに変わらなかったですよね。この現状でよければ、これから先も、いきなり急に何かがドカンと変わることはないから、このままが続くでしょう。そりゃジリ貧になったり、袋小路になったりはするだろうけど、いきなり今日明日に死ぬとか家を追われるとかいうことはないでしょう。だから、それで良ければ、それも一つの選択肢だとは思います。
でも、僕はその選択肢を取らない。なぜかというと、一つには、僕はそういった慎ましい方々よりも、もっと欲張りだし、傲慢だからです。「もっと、なんかできる筈だろう」「こんなのがベストだなんて冗談じゃないぜ」と思ってるからです。「ま、こんなもんでしょ、これでいいんじゃない?」とは思わない。折角生まれてきたのに、そんなところで無欲にはなりたくないです。地位も名誉も財産も、そんなに執着が強い方ではないですが、「可能性」に関してだけは人一倍執着心が強いのかもしれません。「一生このまま」ってのは許せないですね。「何が起こるか分からない」「未来において滅茶苦茶良くなる」という要素がゼロ%になっちゃったら、もう生きてたってしょうがないじゃんとすら思います。でも、こんなの僕だけじゃないと思うのですけどね。人間というのは、精神的には希望を食って生きてるものなんじゃないんですか。
それはもっぱら自分の人生に関しての話ですが、自分の人生というのは周囲の環境から切り離して存在するものではなく、環境に左右されます。というか滅茶苦茶左右されるし、環境によってあらかた決まってしまうと言ってもいい。極端な話、戦争するとか徴兵だとかやられたら、どっかの誰かの意向で自分の死ぬ時間や死ぬ場所まで決めらちゃうわけだし。そこまで極端じゃなくても、もっと日常的に些細なことでも、例えば保育所の認可基準を変えるとか、補助金の割り当て方法を変えるとかによって、育児と仕事が両立できる範囲がビビットに狭くなったり広くなったりするでしょう。そのあたりの相関関係を普通に見てれば、自分が「やりたいようにやる」為には、どうしたって環境という存在は無視できなくなってきます。雪がなければスキーは出来ない。波がなければサーフィンできない。電気がなければインターネットできない。だから、その環境決定、コントロールする場面では、少しでもコンソールパネルをいじっていたいです。明日の遠足、晴れなのか雨なのか、カミナリ様の天気会議みたいなのがあったら、やっぱり参加したいし、それがダメでも誰か代表者を送り込みたいですよ。「明日は晴れにしましょう」って意見言わせます。
僕は金魚鉢に飼われている金魚じゃないし、植木鉢に植えられている植物じゃあない。金魚だったら、自分の周囲の世界が全てだから、その外がどうなろうが知ったことではないし、考えもしないでしょう。でも、僕はその外の世界を知りたいし、なぜ自分がこうなっているのか知りたい。どうして朝と晩しか餌がないのか理由を知りたい。そして、餌の決定権限をも握りたいし、それが無理なら最大限の影響力を行使したい。例えそれが1ミクロンみたいに微小なものであろうがなんだろうが、それをするというのが、自分自身の生きざまの自己証明、自己確認になると思いますからね。とにかく、自分の人生の決定権限は、1ミリだって他人から奪回したいですよ。そして、なんで自分の周囲がこうなっているのか、こういった「所与の前提」である日本のシステム、文化、歴史、経済、政治、なんでもかんでも知りたいですね。より広い世界のシステムも知りたいですね。「好き勝手生きる」という自分の意向を通すために必要ならば何でも修得したいですし、その必要があります。オーストラリアの永住権を希望しているならば、オーストラリア移民局や政府の方針にいやでも敏感にならざるを得ないです。そして願わくばその決定の場には少しでも立ち会いたい。
僕だって、自分が投票したからこれで一気に世の中変わるなんか思っちゃいないです。そんなわけないもん。ただ、一ついえるのは、そういって皆が投票しなかったら、「しめしめ」とほくそ笑んでる奴らがいることです。投票率下がれば組織票の天下だもんね。自分たちの好きなようにできるもんね。そもそも議員定数不均衡を放置して、今や有権者の数でいえば、地方の人々の数が都会の人々の5倍もいることになってますからね(格差1対5だったら)。そうやってなんだかんだズルいシステムを巧妙に作っておいて、あとは皆がシラけるように、シラけるように話をもっていって、投票率を下げさせて、自分らは安泰、さあまた当選だ好き勝手やろうか、、、みたいな連中です。まあ、多分に漫画的に書いてますけど、大筋ではそうです。一気に世の中変わるわきゃないけど、それを期待なんかしてないけど、そういった連中の思いのままになるのだけはケッタクソ悪いですからね。とりあえずそれだけはシメとこうということです。
それにさ、投票したって世の中変わらないっていうけど、なにをどうしたって自分一人の意向だけで世の中なんか変わってたまるもんですか。ヒットラーにでもなったつもりか?って。誰か一人の意向で世の中が変わるんだったら、それはもう「選挙」じゃないですよ。あなたの影響力は、構成人数分の1、日本だったら1億2000万人分のうち、有権者人口はもっと少ないけど、それでも数千万から1億弱はいるでしょうから1億分の1です。そんなもん数学的にそうなんだから仕方ないですわ。「投票したって世の中変わらないから」というのは、ミクロにアナタの行為だけを見てればそのとおりだけど、そんなことは言われるまでもなくクソ当たり前のことです。今更言うようなことでもない。ただし、マクロでみたら話は違います。はっきり言って投票率が10%、20%あがるだけで、日本の政治地図はガラリと変わります。そりゃ政治地図が変わっても結果として日々の生活は何も変わらないかもしれないですよ。それでも朝晩の新聞やニュースが多少なりとも面白くなったら、それだけもメッケもんでしょうが。
それにですね、日曜の朝にサンダルつっかけて10分くらい歩いて、小さな紙になんか書いて箱に入れるというだけの行為でしょ。それも毎日じゃなくて、数年に一回くらいでしょ。屁みたいなものです。こんな些細な行為一発で、あら不思議、アナタの思い通りに世の中が変わるんだったら世話要らないですよ。魔法使いだって、もっと準備に手間ヒマかけますよ。妙な薬草とかイモリの死体とか捜してきますよ。
世の中変えるのは--というかその最終目的である「自分が本当にやりたいことを出来るようになる」ためには、まず99%は本人自身の努力ですわね。サッカー選手になってワールドカップでヒーローになりたかったら、まず練習しろ、ですよ。で、残りの1%くらいの精力で環境整備をするわけで、それは例えば日本でもっとスポーツ振興をするように働きかけたり、いくら金メダルをとっても全然生活は楽にならない、なんだかんだ言ってお金を稼がなければ社会人として認められないという拝金主義日本の風潮を是正することであったり、引退したあと少年たちにサッカー教室を開いて教えることであったり、、、、いろいろあるわけで、その中のさらにごく微細な一部として、少しでも望ましい全体的な外部環境を調整するために投票をするのだと思います。「日曜の朝にサンダルつっかけて、、」くらいの”労働量”ってのは、いいとこそんなもんでしょう。
総じて言えば、選挙というのは、いきなり何かを変えるためのものでもないし、何かを過大に期待してやることでもないです。だって、たいした仕事量してないじゃん。サンダル突っかけ、、、でしょ?個人的に言えば、自分の生きかたを確認する大事な「儀式」みたいな
ものですし、社会的に言えば、政治家連中に「てめー、手抜くんじゃねーぞ」とクライアントしてギロッと「睨みをきかす」行為なのだと思います。Keep the bastards honest です。
ところで今回は、公約のことを「マニフェスト」とか言ってるようですね。でも、普通、英語で選挙公約のことをマニフェストとは言わないように思いますので、こっちにきて選挙公約のことを言おうとしてマニフェストといっても通じないんじゃなかろか。「公約」という意味を通じさせようと思ったら、”election promise”とかもっと普通の表現で言ってるように思います。ちなみに、”manifest” と”manifesto”という二つのスペルがあり、ここではもっぱら後者でしょう。前者だと、もっぱら「明らかな」という形容詞ないし、「明らかにする」という動詞、名詞の場合には「商品の積荷目録」みたいな意味になっちゃいます。manifestoと最後に”O”がつくと、政党などの政治宣言/声明などの意味になり、こっちの意味でしょうね。
ただ、最後にOがつくのは、いかにも英語っぽくなく、英語における外来語みたいな違和感のある響きになりますな。それだけに独特な意味がこめられ、同じ政党宣言とかいう意味でも、どっちかというと普通の選挙で使われるというよりは、革命政権やクーデター政権が占拠した放送局で「我々は〜」と声明を発表するようなニュアンスがあります。だから、なんかまたケッタイな英語を使ってるわって感じがしますね。
ところで、「最後にO」ですが、水着メーカーの”Speedo”みたいに、Oをつけて「ちょっとヒネってるよ」というニュアンスをつけるのはよくありますよね。マイケルジャクソンのことも、ちょっとヒネって”Jacko”って言ったりもします。一般にオーストラリア人って最後にOをつけるのが好きみたいですね。なお、O抜きマニフェストのアクセントは"マ”に、O付きの場合はフェにくるようですが、最後は「おう」って伸ばして言うのがキモですね。「まにふぇすとう」って。
自民党、民主党のマニフェストを見比べてみたけど、そんなに違いがないです。というか、自民党の方は雰囲気だけのキャッチコピーの羅列で殆ど無内容なのに対し、民主党は一応マジメに詰めて考えた形跡が見られます。でも、今の日本でそんなに基本的な政策に違いがあるわけもなかろうし、あったらむしろマズイでしょう。自民党が無内容なのは、そもそも小泉さん自体が「公約違反はそんなに大した問題じゃないっしょ」と自分でミもフタもないこと言っちゃってるから、正直に首尾一貫してるっちゃそうなんでしょうけどね。
今の日本の問題は、そりゃ沢山あります。年収の10倍以上の借金(赤字国債)を抱えて経済主体としては殆ど破産していること、そのくせ高齢化が進んで年金負担が厳しくなること、経済が全然ぱっとせずこの先も急に視界が開けそうな感じもしないこと、、、、などなど。誰が政権をとっても、この問題は処理しなきゃいけないでしょうし、そうなるとそんなに選択肢に違いがあるようにも思えないです。また、それでいいと思います。要は、政策の違いというよりは、どこまで本気でやれそうかということでしょうね。どれだけ仕事が大胆で細心で丁寧か、ということです。
ただ、色々書いてあるのを見ますと、「うーん、そんなことより、もっと本当は別のこと思ってるでしょ?」とか思う部分はあります。一国を預かる政治家として、腹の底の底で考えるようなレベルでの話ですが、ホンネで言ってくれたら面白いのになあって思います。ただ、まあ、言うわけないですよね。選挙における公約という形で、選挙民を相手にしてるからには、砂糖でまぶしたような甘いこと言わないと選挙で勝てないしね。
「ホンネの部分」というのは、政治家としてどこまで腹を括っているのかということで、例えば僕が政権を担えるくらいの立場にいたら、多分こんな具合に考えると思いますよ。「生きていく力のない国民は切り捨てなきゃしょうがないだろうな」とかね。政治家というのは、自分らの決断ひとつで、何百万人が路頭に迷ったり、死んだりする因果な仕事なわけで、その意味では魔王みたいなもんだと思います。というかリーダーというのはそういう非情さが要求されるのでしょう。
難破した5人乗りボートに10人乗っててこのままだと全員が溺れてしまうような場合、5人を無理やり海に叩き込んで殺すのがリーダーというものの非情な本質だと思います。可哀想とかいって全員仲良く死んじゃうのも一つの人間精神のありようですが、「リーダー」としての職責は、一人でも多くの人間を1分でも長く生かすことでしょう。だから、全員が死ぬよりは少しでも生き残る可能性を選択しなきゃいけない。その場合、女、子供、老人、怪我人(順不同)から先に叩き落します。使えないからです。生き残るためには、もっとも生き残る可能性の高い、壮健で役に立つ連中を残さないとならないからです。めちゃくちゃ鬼畜ですけど、それが政治というものだと思います。もっとも、そう一直線に物事が決められるわけではなく、体力のある男連中はまずボートにつかまって泳ぎ、限界になったら誰かに交代してギリギリまで助けを待ってみるという方法もあるでしょうし、それが実現可能なのかもシビアに検討されねばならないでしょう。でも、いよいよ切羽詰ってきたらどうするか?ですよね。どう考えてもそれがベストだとなったときに、仲間達を海に叩き落せるかどうか。
まあそこまで極端ではなくても、野球部のキャプテンになれば、誰をレギュラーにするかで悩みます。皆に愛されていて、誰もが認めるくらい一生懸命やってる奴でも、例えそいつが親友でも、そいつの能力が劣ったらやはりレギュラーにすることは出来ない。バンドでも、完全プロ志向だったら、ヘタな奴はやはりクビにするしかないです。いや、ほんと、ツライと思いますよ。でも、子供の頃からそれやってないと、リーダーシップの厳しさというのは身体に染み込まないでしょう。ひとりひとりにそれを経験させてやらないと、社会全体にリーダーというもの、政治というものが身につかないでしょう。
僕が政治家だったら、景気回復を政治に期待してるような甘い国民は切り捨てるでしょうね。景気の良し悪しなんか、かなりメンタルなもので、そういったメンタル的な盛り上がりを政治に演出して欲しいというのなら話はわかります。潰れて当然の銀行がなおも政治の力で延命して、自分が延命するために貸し渋りをし景気を悪くしてるから、そこを何とかして欲しいというのならわかります。でも、漠然と「政治が悪いから景気が悪い」みたいに言ってたって仕方がないです。本気で構造改革をやれば効果が出るまで10年くらいかかるでしょう。だからまっとうに改革をすればするほど、はっきり言って2013年まで景気は良くならんでしょう。なったらイケナイくらいです(^_^)。「痛みを伴う改革」ってのはそういうことでしょう。
それを自分がクビになったり、失業したり、売上が落ちるのを政治に何とかしてもらおうというのは、それもただ漠然と何とかしてもらうというのは、甘いと思います。もちろん人それぞれにやんごとなき事情はおありでしょうけど、でも資本主義というのは弱肉強食であり「弱い奴は死ね」という主義です。それがイヤなら共産主義や社会主義にすべきでしょう。そのあたりがあんまり国民レベルで徹底してないから、日本が「世界で唯一成功した共産主義国」と言われたりするのでしょう。皆さん口では共産主義はイヤだと言いながら、心情的には共産主義を求めているという。自分が食えるかどうかは、基本的にはひとえに自分の甲斐性であり、力なきものは死すべし。そして、それはあんまりだというので、修整資本主義なり福祉国家論が出てきて、リングの中は完全実力主義でやるけど、リングから退場した人は全力でこれをケアするということでしょう。日本も一応この主義の筈です。だから、世論調査で景気回復が第一になるようでは、「うーん」と思ってしまいますねえ。リングに外には出たくないけど、リングのなかで手加減して欲しいって感じですか。
僕個人のしょーもない私見ですけど、日本って今はまだいいけど、これから50年とか100年とか考えたら結構ヤバいと思ってます。今のうちから対策を打っておかないと、ほんと、国や社会というのは落ちるところまで落ちますからね。本気で食えなくなったらメチャクチャになります。治安も今とはケタ違いに悪くなるでしょうし、道端で人が死んでても誰も気にしないという社会は、この地球に沢山あります。警察官も食うためには賄賂という副業をやりますから、110番しても賄賂を弾まないと来てくれない。それどころか、ヤクザの因縁と同じで、濡れ衣容疑を着せられて賄賂を贈らないと刑務所に送られるとか。そこまでいっちゃったら、かなり手遅れだと思います。ここ当分はいいですよ。でも、50年後どうなってるか、です。
日本の競争力は、10年前はナンバー1とか言ってたのに、今や世界29位ですか。計算の仕方はいろいろあるのでしょうけど、29位ともなるともはや先進国と呼んでいいのかどうかも怪しいです。繰り返すけど、今はいいですよ。過去の遺産で食ってるから。問題はこれからですよね。だから、僕としては、ここ数年〜10年スパンくらいのことはどうでもいいです。その先が心配です。国を強くしないとマズいんじゃないかと。
じゃあどうするの?というと、ひとえに人材でしょう。今、まだ生まれていないような連中をどう育てるかです。でも、100人が100人均等に育てて均一化させても仕方がないと思ってます。規格大量生産にはそれでいいでしょうが、これからよりレベルの高い次元での国際競争になったら、そういった人材では間に合わない。従順なサラリーマン1000人創るよりも、1000人を雇用できるズバ抜けた起業家を創るべきでしょう。だから、数千人から1万人に一人くらいの、本当に優秀な人材、言葉の本当の意味での「エリート」を育てた方がいいんじゃないかと思います。日本の各分野に1万人、いや1000人でもいいですから、真に優秀な人材、世界のどこに出しても恥ずかしくなくトップを争えるくらいの人材、彼らに働いてもらいます。
そう、一種の階級社会にしちゃった方が早いかもしれないなって思います。明治維新も、人口的にはごく一握りの、下層とはいえエリート武士階級が革命を起こしたわけですが、いい意味でのエリート意識と、それを裏付ける実力知力をもった人間の存在がまずレシピーとして必要なのではないかと。そしてこれが大事なのですが、一切私心を持たないように育てること。ノブリス・オブリージェを叩き込み、大義のためには命を捨てられるくらいの根性と精神が必要でしょう。だから彼らは過労で死ぬか、暗殺されるかで、長生きできないでしょう。幕末の志士達がそうであったように。政治家が本気で政治をすれば、必ずや軋みは生じ、反対勢力から圧力がかかり、少なからぬ場合暗殺されます。「いつか暗殺されるんだろうな」と思いながらも、「でも死ぬまでにこれだけはやっておかねば」と思って、各分野でリーダーシップを発揮してもらいたいです。それが本当の意味でのリーダーであり、エリートであると思います。
今の高級官僚や各界の人々の中にも、そのくらいの気魄でやってる人はいます。それも結構います。ただ、そうじゃない人ももっとたくさんいます。将来天下りにして安楽な老後を過ごしたいから、省庁間での縄張り争いに精を出しましょう、、とかいう連中は、「エリート」とは呼ばない。
本当にそんなマンガみたいな人材なんかいるんか?というと、これは全然いると思いますよ。人間心理の機微からいって、ありうる精神状態だと思うのですよ。なぜって、これは特に能力大好きメカ大好きの男の子的な心理傾向ですけど、他人よりも、日本で一番を争うくらいの能力に恵まれた人間が何よりも欲するのは、おそらく地位でも名誉でも金でもなく、その持って生まれた能力を全開にしてバリバリ走ってみたいという本能にも似た欲求だと思います。そこまで優秀ではなく、僕らのような凡才でも、多少なりとも腕に覚えがあったらそれを全開に発揮してみたいと思うでしょ。自転車買ったら思いっきり飛ばしてみたい、柔道覚えたてのころはやたら人を投げてみたい、ギターがうまくなったら人前で演奏してみたいです。その能力全開の快感というのは凄まじいもので、その絶頂感の凄さからしたらゼニカネで買える快感なんかたかが知れてます。ましてや自分の力で日本を作っていくというのは、もう想像できないくらいの超快感だと思います。自己実現の極致ですよね。だから命がけでやると思いますよ。そこは結構心配してません。
心配してるのは、そういった英才達が凡人教育で潰されてしまわないかどうかであり、各界に進んだとき、無能で凡庸な上の連中に押しつぶされてしまわないかです。優秀な人材は、特に教育なんかしなくたって自分でどんどん覚えていきます。自分よりも上をいきそうなバケモノみたいな同胞の存在を身近に感じさえすれば、オートマティックに非人間的なくらいの努力をするでしょう。必要なのはエリートになることの重責の自覚を呼び覚ますことであり、彼らの行く手を阻む連中の排除です。
じゃあ具体的にどうするの?というと、例えばオーストラリアにあるように公立のセレクティブ・スクールを作るとか。それもとんでもなくハイレベルな、一切の情実や縁故がきかない公平透明な入試で選ばれた連中だけの学校を作る。お受験くらいの付け焼刃だったら全然歯が立たないくらいの。まず知能指数を5回計って一回でも140以下だったら無条件で失格とか(知能指数が全てではないので、あくまで「例えば」ですよ)。入学金や寄宿舎は当然完全無料、というか中学校にあがったら一人頭100万円渡して、あとは株その他で運用させ、その運用利益を学費にあてさせます。授業は超自由だけど超厳しくするとか。小学校3年くらいになったら、冬休みの宿題に「銀行のオンラインシステムをハッキングしてこい」くらいの課題を与えます。おそらく日本人だけでは教えられないだろうから、世界のノーベル賞クラスの一流どころを呼びますし、高校の授業から全部英語でやります。別に日本でも昔の大学は日本語で教えてなかったんだから、優秀な奴だったらそのくらい屁でもないでしょう。また、若いうちからどんどん留学させますし、18歳になるまでに世界一周の貧乏旅行は義務付けます。世界で最低30カ国以上に親友がいるくらいでないと、これからの国際政治なんか切り回していけないでしょう。ああいうのは皮膚感覚とかカンがある程度良くないとダメだと思うし、それは身体で覚えないとダメでしょう。そして一番大事なのが徳目。「徳」がなければリーダーになれません。能力があるだけで、人をひきつけるカリスマ性を持たない奴はダメです。身分を隠して少年院に入れて、3ヶ月以内にそこでボスになってくるという課題を与えてもいいかもしれません。大学は東大なんかじゃ全然ダメだと思うから、世界各国と話をつけて、彼らが自由に世界各国の大学に行けるように(当然日本の大学も含まれるけど)特別学生ビザの条約的整備をします。そして、世界の各大学各教授に師事し、単位を集め、一定集まったら学位取得と。これはヨーロッパでは当たり前のことでしょうけど。
あと彼らが自由に能力を発揮できるだけの旧態依然とした頭の固い勢力を一掃させておきます。露払いですよね。その意味で大胆な構造改革をやって、日本中のあらゆる組織のボルトを緩めて、ガタガタにしておくといいのでしょうね。
それ以外の政策では、例えば高齢者なんか僕らの世代も含めて切り捨てていってもいいんじゃないですか。僕も含めて、どうせいずれいなくなる連中なんだしね。年金問題も、年金を全額税金から出すようにして、そのかわりオーストラリアでやってるようにアセットテスト(資産テスト)をして、一定以上資産のある人間には出さない。今の日本の高齢者は金持ちですからね、かなりの程度支出は抑制されるでしょう。年金費用を払い込むだけ払い込ませといていざとなったら出さないとなったら、それは恨まれるでしょうし、裁判もバンバン出されるでしょうけど、「金持ってるんだからいいじゃないか」で世論を味方に押し切るとか(^_^)。
赤字国債も、債権者が他ならぬ国民自身(中国ファンドとか買ってる人ね)なんだから、いわば自己債務みたいなもので、いよいよとなったら徳政令出すとか凍結しちゃってもいいかもしれない。これもアセットテストやって、お金沢山持ってる人からの償還請求には応じないとか(^_^)。
いずれにせよ福祉等、リングの外に出た人には手厚くしますけど、その財源捻出の為には一種の共産主義革命みたいなことしないとならないかもしれませんよね。年金受給権や国債償還請求権などの私的財産権の一部制限です。憲法29条に反するでしょうけど(^_^)。言わんとするのは、メリハリだけはハッキリつけて、本当の意味での弱者は徹底して救済するけど、弱者のふりをしてた方が得だからという怠け者には何もやらないということです、基本方針としては。
軍備とか有事とか北朝鮮がどうしたというのは極力触りません。理由は簡単。軍備は金が掛かりますから。憲法なんか改正したって一文の得にもならん。今国は滅茶苦茶ビンボーなんだから、見栄なんか張ってる場合じゃないっす。北朝鮮にしたって、ほっといたらいいです。血迷ってテポドン打ち込むかもしれないけど、それで日本が占領されて北朝鮮の植民地になるなんて気遣いは無いですからね。ミサイル打ち込まれてもいいのか?といえばイヤだけど、でもあれって今の科学技術じゃ迎撃する方法って無いんでしょ。近すぎて、例えアメリカ軍が全力を挙げても迎撃してる時間的余裕がないとか読んだことがあります。だったら考えるだけ無駄じゃん。それともこっちから出て行って戦争しかけて占領しますか?占領はできると思いますけど、その後どうするの?イラク状態になっちゃうよ。そういうのは、関西弁でいうところの「イッチョ噛み」しがたりで「エエカッコしい」のアメリカにやらせておけばいいです。それで頭下げる必要があるんだったらなんぼでも下げます。安いもんですわ。「韓信の股くぐり」とでも思っておけばいいです。
個々の細かい政策は、おそらく数え上げていけば日本全部で数千数万というオーダーであるでしょう。そんなの一人じゃ無理だから、各界に信頼できる優秀な人材にやってもらうしかないです。結局そうするしかない。問題は、それをいかに実現するかだと思うのですね。今現在だって、各界に優秀で真摯な人材は掃いて捨てるほどいるでしょう。ただ、上がつかえて、横から押されて、下から足を引っ張られてどうしようもないって感じじゃないんでしょうかね。だから、こと能力に関する限り(”人間としての価値”ではなく)、人間は全然平等ではないのだし、平等でない方がむしろいいのだし、ドラスティックにメリハリをつけていくだけでも大分違うと思います。
ああ、でも、こんなこと多分政治家の人々は(本当に有能な一部の連中)腹の底でいろいろ考えているのでしょうか。それをブッチャケで表明しあう、そういうホンネの選挙戦になったら面白いんですけどね。でも、そんなこと言ったら、間違いなく選挙に落ちるから誰も言わないでしょうけどね。
文責:田村
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