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今週の1枚(03.10.27)
ESSAY 127/ ドリブル
まず最初に簡単なニュース。シドニーでは、昨日(10月26日)からサマータイムがはじまりました。日本との時差は1時間から2時間になります。シドニーの方が2時間進んでおり、日本が夜の7時だったら、シドニーでは9時になります。
それに加えて、何度か書いたことがありますが、生活時間の”時差”のようなものもあります。一般にオーストラリア人の方が早寝早起きです。オーストラリア人の家庭に電話するにしても、夜は9時までというのが一般的な常識で、9時過ぎに電話するのはよほどの緊急事態の場合であるといわれたりします。勿論家によっても違いますけど、あくまで一般的に。丁度、日本でいえば夜の11時くらいの感じだと思います。日本でも他人の家に夜の11時過ぎに電話するのは、よほどの場合でないと失礼ですし、かけたとしても「夜分遅くに大変失礼します」と丁重にお詫びをします。そんな感じですね、それが9時。それにさきほどの2時間時差が加わりますから、シドニーのホームステイ先の子供さんや知人に電話しようと思ったら、事実上日本時間の午後7時くらいが限界になります。それを知らずに、(日本時間で)夜の9時くらいに電話しようものなら、安眠を妨害されて不機嫌なホストファミリーから受話器を受け取った息子さんなりから、押し殺した声で、「なんだよ?今何時だと思ってるの?!皆寝てるんだよ!!」と怒られるから気をつけましょう。
オーストラリア人が早寝早起きだというのは、例えば郊外のマクドナルドの看板を見ても分かります。日本の場合、「深夜○時まで営業」といかに遅くまで営業しているかがウリになりますが、こちらでは「早朝5時から営業」ということで、いかに朝早くからやってる
かが売りになるという。実際、朝の7時頃になったら、もう近所の改築工事現場で作業が開始されたりしています。それだけに夜も早寝です。若い人などは、夜通しパブで飲んでたりしますが、一般的には早寝ですよね。
ただ、一般的には早寝でもパーティとか飲み会になると遅かったりします。夜8時集合なんて感じですし、ホームステイでも夜8時や9時から晩御飯というところもあります。コンサートも8時始まりというのが多いですね。ただし、終わったらチャッチャと帰って、すぐに寝るのでしょうけど。
それと、サマータイムですが、これは州によってやってたりやらなかったりします。やってる方がむしろ少ない。シドニーのあるNSW州と、あとタスマニア?だっけな。ブリスベンやケアンズのあるクィーンズランド州やメルボルンのあるビクトリア州ではやらないです。さらにややこしいのは、国土がデカいので時差が3つあります。シドニー=アデレード=パースで時間が違います。これにサマータイムをやったりやらなかったりしますから、昨日からオーストラリアでは違う時間が4つあることになります。よくESTとかいいますが、イースタン・スタンダードタイム(東部標準時間)でもあるし、イースタン・サマータイム(東部夏時間)のときもあります。
オーストラリアではラグビーカップがたけなわです。なんとなくオリンピックのときと同じで、始まるまでは「ふーん」と無関心だったんだけど、連日TVでやってたりすると、つい見ちゃったりします。見てるうちに段々目も肥えてきて、「お、すげー」とか感動したりするようになってきて結構ハマったりしています。48試合を一ヶ月半にわたってのんびり消化していきますから、けっこうゆとりを持って見られるのもハマる原因になってます。ウィークデーなんか1日に1試合しかやらなかったりするし。
日本戦に限らず、他の国の試合も見ます。こないだの、ジョージア(グルジア)と南アフリカなんか、ジョージアが念願の大会初トライを挙げたりして、感動してしまいました。ところで、ジョージアってどこだ?アメリカのジョージア州?でもUSA出てるしなー、あ、でもイギリスなんかイングランド、スコットランド、ウェールズと3チーム出てるしなー、と謎の国ジョージアだったのですが、調べてみたらジョージアではなく「グルジア」だったのですね。旧ソ連から独立したグルジア共和国。英語圏では英語読みで「ジョージア」と発音しちゃうし、誰も「グルジア」って呼んでくれないから不思議でありました。もっともグルジアと聞いたところで、「どこ?それ?」って感じですけど。
しかし、なんですね、強い国と弱い国がはっきり分かれますよね。オーストラリアとナミビアなんか142対0でしたもんね。もっとも、これまで最大に差がついた試合の記録は、日本がニュージーランドに145対17で負けたときだったらしく、今回オーストラリア・ナミビア
戦で日本の不名誉なワースト記録は塗り替えられたのですけど。それでもまだ日本には大会ワースト記録があって、最短ハットトリック記録というのがあって、試合開始後わずか12分で、一人に3回トライされてしまったという記録があるそうです。
目下のところ、日本は3戦3敗。しかし、まあ、責める気にもなりません。それどころか、強豪スコットランド、フランス相手によく善戦したと思います。3戦目のフィジーくらいには勝てるかなと思ったら、ボロ負けしちゃったけど、最初の2戦は良かったです。だって、ガタイが違うもん。日本人も背が大きくなってきて、平均身長では決して負けてないのですが、横幅が違う。もう人種的に骨格が違うからどうしようもないって感じです。大体日本人男性の平均骨格は、オーストラリア人の女性と同じくらいですからね。出場している日本選手は日本人平均からしたらかなり大きくガッシリしているのでしょうが、相手の選手は普通に、自然に大きい。
日本人だって、大きいだけだったら、相撲取りやプロレスラー、柔道選手など決して世界にヒケを取るものではないですが、あれは平均骨格からして特に大きい人です。特に大きい人というのは、やっぱりどうしても動きが遅くなるし、走るのも遅くなる。ナチュラルに大きいと、体重こそ100キロを超えてるけど結構スリムだったり、均整が取れてるから、やっぱり早い。体重100キロ超えてる奴に、100メートル10秒台で走られてしまったら処置なしですよね。そんなのがゴロゴロいるのが世界の舞台。そのなかで特に大きい選手にもなると、普通に身長2メートルを超えますし、南アフリカにも2メートル7センチというジャイアント馬場くらいの選手が、特に大きくも見えないまま、軽々と走り回ってました。そういった世界の舞台で、そのなかでも特に強豪といわれるフランス、スコットランドに善戦したのですから、ほんと良くやってると思います。
もっとも、よく見ると、活躍しているのは日本チームの中でも外人選手だったりします。特に、ニュージーランドから神戸製鋼に入ったアンディ・ミラー選手の活躍が光ります。まったく何の予備知識もなく、かつ英語の実況中継を聞くともなく聞いていただけだけど、この人だけは顔と名前を自然に覚えてしまったくらいです。特にフィジー戦では、「この人、いったい何人いるんだ?」というくらい、どこにでも登場してきて、ここ一番というところでキメてくれてます。実際、フィジー線では、大会4人目の”フルハウス”(一人で、トライ、ドロップゴール、コンバージョン、ペナルティキック全部キメること)記録を達成したそうです。このミラー選手が、またけっこうスラッとしていて普通の体型だったりするのですが、それでいてパワーはあるという。
しかし、こうしてみてると、オーストラリアもニュージーも化け物か?というくらい強いですよね。今年は、イングランドがえらい強いらしいし、フランスや南アフリカも強いのですが、見てると「どうして人間があんな風に走ることができるの?」というくらい強い。しかも、オーストラリアって、良くは知らないけど、ラグビー系の選手の全戦力を結集しているわけじゃないんでしょ?ラグビーリーグ、オージールールというまたルールもリーグも違う集団があるけど、今回出てるのはラグビー・ユニオンの選手だけじゃないんでしょうか?だとしたら大雑把にいって全戦力の3分の1しか出てないわけで、それにも関わらず、アホみたいに強いという。ニュージランドのオールブラックスもケタ違いに強いですよね。なんで?って思いますよね。ニュージーなんか、人口わずか400万人でしょ?日本でいえば、静岡県くらいでしょ。母集団がそれだけしかいないのに、なんでそんなに強いのか?という。
ただ、出場国を見てて思ったのは、どの国がどのスポーツが強いとかというのは、結局本国でどれだけそのスポーツが人気があるか、どれだけ優秀な人材が集まるかなんでしょうねー。オリンピックのときもそう思いましたが。アメリカなんかラグビーでは全然弱いけど、バスケットボールや野球、さらにアメフトなんかやらせたらどうしようもなく強いのでしょう。オーストラリアもラグビーは強いけど、サッカーでは予選通過も出来ない。ブラジルなんか、サッカーは世界の帝王クラスに強いけど、ラグビーになると出場すらしていないという。おそらく世界キックボクシング大会をやったら、タイがダントツに強いでしょうし。柔道だったら日本が強いとか。
あと思ったのは、やっぱりラグビーというのは富裕層のスポーツなのかな、と。ラグビーユニオンは特にアマチュアで、プロが無いから、スポーツで活躍して巨万の富を築くという感じのスポーツではないようです。ですので発展途上国では、どうしてもやったからといって生計が立つわけでもないラグビー(スポーツ一般と言い換えてもいいが)なんかやってられるゆとりのある層が少ないのでしょうね。実際、南アフリカやナミビアというアフリカの出場国を見てても、フィールドにいるのは、ほとんどが白人です。USAも黒人選手は非常に少ない。結局、ゆとりのある貴族階級のスポーツなのでしょうかね。本家のイギリスでも、いわゆるハイソな名門校が強かったりするのでしょうし、日本のラグビーだって、伝統的に強いのは、早稲田や慶応などアイビーリーグみたいな名門大学だったりしますからね。まずそういうところに入ってから、つまり労働せずに進学できるという恵まれた階層のスポーツなんかなあって気がします。
これに引き換え、一般的に庶民も参加できるスポーツは様相が違います。野球も、バスケも、サッカーも、貧しい子供が路地裏で遊んでたりすることができるから、庶民出身の選手が多いのでしょうね。アメリカでも、バスケや野球は黒人選手が多いですよね。あとボクシングなんかもそうですね。同じようなことは、音楽の世界でも言えるのかもしれません。ポップスやロック、ダンス系の音楽は黒人勢が非常に強いのですが、クラシックの世界ではあまり黒人勢は参加してません。やっぱりクラシックというのは、子供の頃からピアノやバイオリンを習ってきたという一定の富裕さが条件になっているのでしょうね。
----と、日々テレビで熱戦をみながら、とりとめなくいろいろなことを思うのでした。
さて、前回のエッセイについて、何通かメールをいただきました。感じる個所は人それぞれではあるのですが、総じて言えるのは、日本について常日頃から思ってる問題点、それも漠然と「なんだかなー」と思ってた部分を明瞭に言葉にして表されたので「そうそう!そうなんだよ」ということについてお書きでした。
この部分を、もうちょっと突っ込んで分析すると、「おっかしーなー、別にそうでなくたっていいのに、何でそうなっちゃうのかなー」ということです。つまり上記のラグビーのように、所与の前提として、もうどーしよーもなく遺伝子レベルで違いがあるから仕方がないってことではなく、やろうと思ったら幾らでも可能ではあるし、皆も心ではそうしたいと思っているのに、何故かそうならない。もっと良くなっていて当然なんだけど、なんだか知らないけどそうなってない、そのもどかしさのような部分です。例えば、バスや電車で乗り合わせた赤の他人同士でも、もう少しコミュニケーション豊かに、フレンドリーになっても良さそうなものなのに、日本人って本来もっと親切な人々だった筈なのに、なぜこうもよそよそしくなっちゃったのだ?という点などです。
オーストラリアにワーホリなどで来られて大体皆さん言うのが、「こっちの人って優しいですよねー」というホッとしたような感想です。「海外恐い」という刷り込みをされ、その恐いはずの異郷に一人ぼっちでやってきて「わたる世間は鬼ばかり」とばかりに緊張していたら、ストリートでもバスの座席でも、知らない人から親しげに話し掛けられる。重い荷物もって階段を歩いてたら、すぐに誰かに助けられる。街角で地図を見てたら、「どうしたんだ、迷ったのか?」とばかりに周囲の人から話し掛けられる。「地図もって30秒以上立ってられないですよね、必ず誰か話し掛けてくる」と言った人もいましたし、「もう、絶対日本に帰ったら他人に親切になろうと思った」と言った人もいました。もちろん100%そういう感想を抱くわけでもないし、そこは人それぞれですが、大体の傾向としてはそうです。
僕も一番最初に日本に帰国したとき、逆カルチャーショックが大きかったです。これだけ見渡す限り同じ民族ばっかりという光景自体強烈な違和感がありましたし、これだけ多く同じ格好をしてる(スーツ着てる)人を見たのも久しぶりだったですが、町歩いても、コンビニ入っても、「お前ら、ロボットか?」と愕然とするくらい、他人とコミュニケートする気が全然ない様子にショックを抱きました。考えてみれば、今の日本で見知らぬ他人に話し掛けるのは、キャッチセールスかナンパくらいなのかもしれないですよね。だとすれば、他人から話し掛けられるという事態は、多くの場合ネガティブな場合であり、だからこそ他人に話し掛けるという行為それ自体、他人に困惑と警戒心を与えるからむしろ「迷惑」な行為なのかもしれません。礼儀正しい日本人としては、むやみに人様を困らせたりしたくないので、だから知らん振りをしてるのかもしれません。それに、いろいろストレス抱えて疲れているときは、あれこれ話し掛けられるのが鬱陶しいという面もありますし、かく言う僕だって昔日本にいるときは別に誰にも話し掛けなかったですし、そういうもんだと思ってました。
そういう僕でも、あるいはアナタでも、いざこちらであれこれ話し掛けられるようになると、最初は戸惑いますが(英語的にシンドイということもあるが)、慣れると「いいもんだな」という気分になっていきます。4年前に帰ったときでも、もうこっちは半分以上オージー化してますから、スーパーのレジでも平気で話し掛けたりしちゃうのですね。自分の番がきたら、まずは「こんちわー」みたいに(^_^)。他人に話し掛けるのはむしろ一種の「礼儀」みたいなものですからね。でもって話し掛けてみたら、日本人って結構愛想いいんですよね。レジのオバちゃんとか。「なんだ、一皮むいたらいい人達ばっかじゃん」って印象はいまだにありますし、それは確信として今尚あります。大阪のオバちゃんとか、うるさいくらいに人懐こかったりしますしね。
ただ、まあ、これだけ赤の他人と接触する機会がありそうで無かったら、そりゃ出会いにも事欠くでしょうから、テレクラや出会系サイトも繁盛するでしょうよ。これだけ他人と没交渉で過ごしてたら、周囲は全部敵に見えたりもするでしょう。でも、それ、虚像だと思いますよ。
前回、社会が真実どうあるかどうかよりも、自分が社会をどう見るかで決まると書きました。日本社会が治安が悪いとか、恐いとかいうのも、ぜーんぶ自分がそう思ってるかどうかでしょう。今は日本の方が治安が悪く、恐いんじゃないかとか僕も書いたりしてますが、いざ本当に自分が日本に戻ったら、そうたいして恐いとは思ってないです。恐いところ、恐いスチュエーションは確かにあるだろうけど、そんなモンどの社会行ってもそうだし、自然にだって毒蛇やスズメ蜂やクラゲはいます。外国人が増えて恐いっつっても、こっちの感覚でいえば居ないも同然だし、仮に周囲を外国人に埋め尽くされようとも、それってこっちの日常風景だし。それに、どこいっても日本語通じるし(こんな楽なことはない)、日本人の心理や行動パターンも知ってるし、コミュニケートの仕方も知ってるし、ビザ的にも法的にも最強の市民権持ってるし、恐いわけがないともいえます。比較の対象を持ってると結構心丈夫になるのかもしれません。
「ワケわかんない奴が増えた」と言いますけど、別に過半数には達してないでしょ?過半数以上はまだまだマトモな人でしょ。そりゃ能面のように冷たい仮面をかぶってるかもしれないけど、ちょっとくすぐったら仮面を外してくれるし、仮面の下からは、善良で常識的な「いい人」が現われるでしょう。仮面のはずし方は、別にそう難しいものじゃないです。その人をごく自然にレスペクトしたり、好きになればいいだけのことでしょ。それって意外と難しくないですよ。
その昔、家族でドライブしてたとき、親父がよく言ってました。車の列に割り込むときには、窓を開けて、手を出して、他の車の人を見ながら挨拶しちゃえばいいいんだって。一回顔を見て挨拶しちゃえば、もう他人じゃないから、相手もそうそうジャケンなことはできなくなる。顔も見えぬ赤の他人だからこそ人は意地悪なこともできるのですが、自分の顔をにっこり見つめて挨拶してくる人を、人はそう冷たくあしらえない。これ、多分、心理学的にもなんか説明理論があると思うのですけど、そういうことってありますよね。
社会がどう見えるかというのは、その人が社会をどう見てるかということの反映だし、突き詰めていけば、その人が人間というものをどう思ってるかどうか、人間観の集積だと思います。僕の人間観は、最初から悪い人、良い人がいるのではなく、たまたまそのときにその人が持っている良い面が出るのか、悪い面が出るのか、だと思います。同じ人間が時によっては他人を傷つけ殺すこともあるし、逆に自分を犠牲にして他人を救うこともありうると思ってます。もちろん、病的なサディストとか、器質的に障害があるとか、精神をひどく病んでいたりとかすることはあるでしょうけど、圧倒的大多数は、普通の人間、いいところも悪いところも持ち合わせて、自分でもその処理に困ってる、僕と同じイジらしい人間だと思ってます。
それにそう思ってないと刑事弁護なんか出来ないですし、破産や遺産分割や交通事故や離婚や手形パクリや、、、人々のトラブルの渦中に飛び込んでいけないです。人間が好きでないとやってられないし、人間が好きでない人はやってはいけないとも思う。そして、そういった修羅場みたいなところに居ればいるほど、人間なんかみな一緒だなと思うし、だからこそ好きにもなります。もちろんイヤなところはイヤですよ。ただ、「イヤなところもあって当然」と割り切れるようになるということです。また、そう思ってないと、年間100人も見知らぬ人を自分の家に泊めたり出来ないでしょ。
日本人が恐くなったとおっしゃる人にお聞きしますが、あなたがこちらで誰かシェアメイトを募集して自分の家に住まわせるとして、日本人だけは恐いから住まわせたくないですか?治安の面から考えても、絶対に日本人だけは避けたいですか?他の国の人の方がいいですか?そう思わないでしょ。日本人の方がまだ安心じゃないですか?そう思ってるのは日本人だけではなく、世界の人も似たように思っているように思います。客観的に見たって、日本人、いい人多いですもん。部屋は綺麗に使うし、シェア代の払いもいいし、メチャクチャする人も少ないし。部屋で友達集めてドラッグパーティやったり、いきなり大掛かりな宗教儀式を始めたり、実は潜伏しているテロリストだったり、偽造パスポートを作ってたり、ちょっとカッとなっただけで部屋の壁を叩き壊したりする日本人って、そうそう居ないですよね。世界は広いですからね、そういう人だっていないとは限らない。だから、あなたがシェア探しするときに、日本人であるということは大きなメリットになると思います。「英語はあんまりうまくないけど、いつも気弱げに微笑んでる、おとなしい人たち」だと思われているんじゃないかしらね。
もちろん、平均的な日本人よりも、人間的にも出来ていて、優しくて、知的で、紳士的な人はいっくらでもいます。ゴロゴロいます。だから外国の人が日本人よりも危ないなんてことはないです。ただ、世界は広いからダイナミックレンジもメチャクチャ広い。いろんな奴が居る。それからしたら、日本人のレンジなんか知れたものですから、予想も対処もやりやすいということですよね。こんな羊みたいな日本人が多く住む、日本社会がそんなに恐いとは思わない。ワケわからん奴が増えたというのも、生まれついての破壊の帝王みたいな凶悪な奴というよりは、「羊が発狂した」程度でしょ。だからそんなもんでイチイチ恐がってたら、この地球上で住む場所なんか無くなっちゃいますよ。これも結局は比較の問題なんだろうけど、ある程度「足るを知る」ことも必要なのではないかと思います。
ただ、こうも言えると思います。僕が日本社会にいるとしても、それは所詮トラベラーとして1、2週間滞在するだけですから、ある種陽性な破壊活動的なリスクだけ気をつけていればいいのでしょう。でも、今、日本を覆っているのは、そういった陽性の恐怖ではなく、もっと陰性の恐怖なのでしょう。映画で言えば、ギャングが出てきて派手にドンパチやるのではなく、サイコホラー系の恐怖。日常のちょっとした歪みがやがて静かに広がっていくホラー。例えば、いつも見かける温厚な紳士然とした近所の人から、いつもと変わらぬにこやかな笑みを投げ掛けられ、擦れ違う瞬間、ニコやかな笑顔を顔に貼り付けたまま「てめえ、殺すぞ」と耳元で囁かれるような恐怖、みたいな。
明らかに悪いことしそうな人が悪いことしてても、そんなに恐くはないってのはありますよね。どっから見てもヤクザ丸出しの人間が粗野な言動をしていても、それは”予定調和”だからそんなに恐くない。荒野のならず者がピストルをバンバンぶっ放すのは、もはや「お約束」ですらあります。そうじゃなくて、とても悪いことをしそうにない人が、顔色ひとつ変えずに残虐なことをするというのは、これは恐いです。そして、この種の恐怖は、トラベラーには関係ないです。実際に腰を落ち着けて住み始めてはじめてジワジワと出てくるような質の恐怖なのでしょう。
なにがそんなに恐いのかというと、うーん、なんなんでしょうね。心理的な恐怖なだけに、歯止めがないんでしょうね。「こうすれば大丈夫」というのがない。物理的、フィジカルな恐怖は、例えば戦争なんか一番分かりやすいけど、戦場に巻き込まれたらとりあえず爆撃されて死んでしまうというリスク値極大で非常に恐いのですが、同時に超わかりやすい恐怖であって、それだけに対処も簡単で、「戦場から逃げる」という対抗策があります。「疎開すりゃいいじゃん」って。陽性で客観的な恐怖は、わかりやすく対処しやすいからそんなに恐怖感がない。でも、隣りの住人がいきなり発狂して、、、というのは、対処のしようがないですよ。発狂してるのかもしれないし、してないかもしれない。そもそも恐怖があるのか無いのかすらわからない。だから、自分の頭の中でどんどん恐怖が自己増殖するのですね。これは恐いと思います。
「この社会はこうなっている」という世界観そのものが壊されていく恐怖といいますか、世界観さえキッチリ確立してたら、そうそう恐いことはないです。「夕方にこのあたりの水辺にいくと毒蛇がよくいる」とか、「焚き火をしていればまず大丈夫」とか、安心できるところと恐いところの区別があって傾向と対策がはっきりしてたら、安心するときは安心していられる。ところが、それが曖昧になってくると、いつ安心したらいいのか良く分からなくなってきて、四六時中キンチョーしてないとならなくなる。これはツライと思います。多分そんな感じなんでしょうね。
さらに、こういう状態が続くと、こっちの神経まで病んできてしまう。寝る前に恐い映画を見てしまうと、夜中にトイレにいけなくなるのと一緒で、「そう思ってたらそう見える」ということですね。でもって、「恐い映画」のように、週刊誌を広げたら、あなたの世界観を揺さぶるかのように「理解し難い凶悪事件」が事細かなに大袈裟にかかれているわけですから、あなたはますますトイレにいけなくなってしまうという。いまや、日本のマスコミって、一種のホラー産業なのかもしれませんな。
そう思うと今の日本の現状に関する日本人が書いた論説は、この種の「世界観の揺らぎ」がメインテーマになってるような気がします。それまで日本というのはこういうものだと思っていたのが、実はどうもそうではないんじゃないか?という。「え、そうなの?わからなくなっちゃったな」という、いかに理解できなくなってきてるかというのがメインテーマ。「ほら、こんなヒドイことが起きてるんですよ、信じられますか?恐いですねー、あなたが思ってる日本はもう過去のものなんですよ、今はもう、ワケのわからない化け物みたいな社会になっちゃってるんですよー」ってな調子で。
でもね、なんかそういう風に持っていくこと自体、どっかしら歪みを感じるのですね。「恐がって楽しんでる」というか、お化け屋敷的に刺激を求めてるかのような。今、「日本人の書いた」と限定を付しましたが、外国人が書いた日本の論説は、この種のケッタイな倒錯したトレンドがないですから、非常に平明です。「景気が悪くてなかなか大変らしいよ」という、それだけ。平明で明快なもんです。外国人の不法移民が増えて社会不安が増したとかいうのも、ヨーロッパとかアメリカとかそのあたりの社会からみたら、屁みたいなレベルに過ぎないから、「多少増えてるみたいね、微々たるものだけど」と、それだけ。だって客観的に言えば失業率にしたって屁みたいレベルでしょ。所得水準は相変らず高いし、識字率も就学率も高いし、インファントモタリティ(新生児死亡率)は低いし、世界一の長寿国だし、内戦はないし、テロの標的にされてるわけでもないし、「何が問題なのよ?」という。キミは天国にでも住んでるつもりなのか?って。
だから、今の日本を知ろうと思ったら、もう日本語の文献じゃダメかもしれんですよね。「日本が病んでる」とかいうけど、それって書いてる人間が病んでるだけかもしれんし、そのキライは結構感じたりします。結論に至るプロセスが飛躍してたり、過度に単純化してたりして、あんまり冷静な知的思考とは言いにくいかもと感じるものもママああります。外国の日本研究家あたりの論文なんかで、「最近の日本では、社会のネガティブな部分をあれこれあげつらって、ペシミスティックに語り合って、もうダメだと言い合うのが流行っています。ま、これはいつものことですけどね」なんて書かれているかもしれませんな。ハタから見てたらそう見えるんじゃないですか。
ただ、だからこそ敢えて思うのですが、自分の世界観が歪んできたな、妙に世間が恐く見えてきたなーと思ってきたら、まずはイチにもニにも確認作業でしょう。「ほんとに、そうなのかねえ?」って。大体、実態の裏づけのない情報だけ、頭だけで考えた世界観というのは、滅茶苦茶にデフォルメされてたりしますからね。田舎から東京の大学に出てきたお兄ちゃんが、「よーし、東京さ行ったら、テニスやってスノボやって、ナンパしまくって、ヤリまくって、、、」と妄想を逞しくしてるようなものです。頭で考えてると歯止めがないから、ボケまくったまま宇宙の彼方に飛んでいってしまうという。それに似てる部分ってあると思います。
そっそ、オーストラリアに留学・ワーホリでいくから情報を、、、というのも、似たようなもんですね。日本でひっかきあつめる現地情報なんか微々たるものだし、田舎のお兄ちゃんが大学生活を夢想してるのと変わりません。ひとことアドバイスするとしたら、「とにかく来なはれ」ですよね。どうせ準備なんか出きっこないんですから、ヘタな考え休むに似たり。とっとと諦めて「世界の荒波」にボコボコにされに来なさいなって。
世間が恐く思えてきたら、隣りの人に話し掛けてみて、「ああ、こいつ本当にイってるわ」と思えるかどうか確認してみたら、どうですか?賭けてもいいけど、10人中9人はマトモだと思いますよ。そのとき、10%もマトモじゃないのがいるから恐いと思うか、90%もマトモだったら全然OKじゃんって思えるかどうかですよね。90%もマトモだったら全然恐くないって、僕は思いますけどね。
先日の日本のAERAという雑誌に、「自分以外はバカという時代」という特集記事が載ってました。今の日本で、他人に対して共感や同情するよりは、攻撃的に、頭ごなしに否定するような言い方をする人が多くなってきた、と。「あんなの全然ダメ!」「こいつ馬鹿」とかね。もっともそれこそ10%もないくらい一部の人々のことだという前提付きですが、でもそういう人が増えているそうです。カスタマーサポートでもなんでも、かなり居丈高で非を認めない人が多くなったと。記事では、分析として、こういった攻撃的な人といのは不安を抱えていて、なんとか弱みを見せまいとして過敏に、必死になってるケースが多いとか書いてありました。どうですか?そういう人、あなたの周囲で増えてますか?
ちょっと前のエッセイ(説得する気があるのか?)でも書きましたけど、僕も、ネットや日本の刊行物などを読むにつれ、よくもそんなに他人を一刀両断にボロクソ書けるもんだなと感心することが多いです。でも、最近増えたのかどうかといわれると、昔っからそんなもんじゃないの?って気もしますから、よく分からないのです。大体、評論家とか文芸とかモノなんか書いてる人間ってのは、どっちかというと女性的というか、あんまりラグビーやってそうなタフガイなタイプではなく、頭の中でこねくり回しているうちに、頭の中が肥大化し、ついでに自我も肥大化し、だから些細なことですぐに傷ついて、ネチネチ悪口言い合うようなタイプが多いんじゃないの?って気もします。あんまり深いこと考えないで、ステーキ食って、ビールがぶ飲みして、ガハハと笑って、すぐ寝ちゃうようなタイプじゃないかも。こうやって文章書いてる僕も、自戒してるのですが、頭の中が勝手に暴走したらカッコ悪いなと思ってます。
カスタマーサービスにネチネチ電話する人とかいますし、訴訟マニアみたいな人もいます。ほんと、とんでもないこと言う人いますからねー。でも、こういう人って、敢えて僕も馬鹿にした類型化をしちゃいますが、「友達のいない寂しい人」だと思いますから、文句をネチネチいうことだけがその人の唯一の社会への接点なんだろうから、カスタマーサービス担当の方はストレスをためないで、「これはカウンセリングのボランティアなんだ」と思っておられたらいいと思います。こういう人は昔からいます。ただ、増えてるかどうかは、わからんですねー。
ところで、これも昔から書いてますけど、いい加減、お客様は神様という発想をやめたらいいと思います。馬鹿なクレーマーには、「それはアンタが馬鹿だからでしょ」と(言うかどうかはともかく)、相手にしないでガチャンと切ってしまっていいと思います。でもって、訴訟でもなんでもさせたらいいです。どうせ訴訟なんかしないだろうし(弁護士としては一番やりたくない事件ですもん、勝てるわけないし、どんなに頑張っても今度は自分が文句言われるに決まってるし)、したところで負けるに決まってる。逆に不当提訴で不法行為による損害賠償請求訴訟を反訴としてブツけて逆に金とってやったらいいかもしれん。「ご指導ご鞭撻」とか、とかくお客様の意見は正しく異議を言うのはもってのほかという文化がありますが、それは精神の涵養という意味ではいい試練だろうし、謙虚であることは悪いことではないし、マーケティング的にも貴重な機会だから一概に悪いとは言いませんが、金科玉条にせんでもいいでしょう?って気もします。
横車を押しに学校に怒鳴り込んでくる馬鹿親もそうですが、とにかくこの種の困った人達を甘やかすことはないでしょう。こっちみたいに、agree to disagree で、意見が違うことはそんなに珍しいことでも、悪いことでもないって思ったらいいんじゃないかな。ちょっと今回の趣旨からは逸れますけど、そういった”阿呆な”カスタマー対策が、結局は価格に転嫁されてるわけでしょう。それでカスタマーサービスの人が精神をおかしくして家庭が崩壊して、子供がグレて犯罪を犯したら、廻りまわってどっかのだれかが被害者になるわけでしょう。そういった”阿呆”が僕らの社会コストを押し上げて、生活しにくい社会にしてるのは事実だと思うのですね。結果として、日本の商品は、カップラーメンを一つとっても「火傷に注意しましょう」なんて子供に言って聞かせるような注意書きがテンコ盛になっているという。多分、こういう部分でクレームをつける人がいるから、事前にあれこれ注意書きを書きましょうということなんでしょう。なんとかしようぜ、という。
なんというのか、何を題材にしても結局いつも同じ所に戻ってきて、自分でも書いててウンザリなんですが、根っこは一緒だと思います。世の中にはいろんな人がいるわけだし、必ずしも平穏無事な事態ばかりとは限らない。10回のうち1回くらいは変な人や出来事に遭遇するものだと、10回に一回くらいは争いやゴタゴタがあっても当然だと。そう割り切ってしまえばいいのに、それを、10回が10回、100回が100回完全無欠で当たり前だと思うから、話はしんどくなってくるんだと思います。
サイコホラー的な恐怖も、100回完璧で当たり前だと思ってるから、わずか一回でもそれに反する出来事があると、”100回完璧な世界観”が崩壊してしまって恐くなるのでしょう。最初から、「100日歩けば、1日くらいひったくりにあって当然」と腹括ってれば、そんなに恐くはないと思います。もちろん一回でも犯罪被害にあうのは恐いことですし、それがOKだとは言いませんよ。でも、一回なら一回分の恐怖というのがあるわけで、一回分のそれが全体の世界観を揺るがすまでに波及して、結局100回全部恐くなることはないでしょうって言ってるんです。それって単純にレディキュラス(馬鹿馬鹿しい)だし、そしてまたセルフ・ディストラクト、心理学でいう自己崩壊につながっていくかもしれないから、危なくさえある。
同じように、100人のお客がいたら10人とは言わないまでも、1人か2人は変なこという客がいるだろうし、彼らからはボロクソ言われるだろうし、あれこれ攻撃もされるだろうけど、ある程度の名の通った企業だったら、常時100件くらい消費者訴訟を抱えていて当然くらいに思って、それなりに予算も割き、対策も整えたら良いのでしょう。「企業イメージが、、」とか懸念するけど、ここが一番のキモなんだけど、日本人ってそんなに馬鹿じゃないと僕は思う。ちゃんと説明すれば世間の人はわかると思う。100%は分からないですよ、でも過半数の人だったら分かると思う。
どうも、日本人の通弊なんだかしらないけど、日本人は自分以外の世間の日本人を馬鹿だと思ってないか?「馬鹿なんだから、何するのかわからず、危険だ」と。情理を尽くして説明しても馬鹿なんだから分からないだろうと。テレビ番組や週刊誌の記事なんかを読んでも、「うわー、馬鹿にされてるなー」って思いますけど、なんか知能指数80くらいに思われるんじゃないかなと感じるくらいお馬鹿なつくりにしてますよね。そんな具合に馬鹿がウヨウヨいる社会に見えてて、しかも完全無欠な企業イメージを構築して当たり前とか思てったら、そらシンドイでしょう。無理に取り繕う必要が出てくるし、理不尽なことにも屈しなければならなくなるし、そしてその「無事これ名馬」的なトラブルを極端に避けたがるメンタリティが、暴力団や総会屋などに付け込まれる、彼らの絶大な資金源になってることも忘れてはならないと思います。これ、企業に限らず、個々人レベルでもまったく同じです。
まあ、でもこう書くと、「でも、実際馬鹿が多いですよー、最近」と言われるんでしょうねー(^_^)。まあ、そうなんでしょうねー。少なくとも、あなたがそう感じてることは事実なのでしょうねー。でも、少なくとも、そう言うあなたはその馬鹿じゃないんでしょ?それが僕にとっては救いですし、それだけでもいいですよ。
それに、これも比較の問題ですけど、ダイナミックレンジの広いこちらでは、馬鹿はすっごい馬鹿ですよ(^_^)。もう、何食ったらそんなに馬鹿になれるのか?というくらい、日本人の想像を越えて無能だったり、アホだったりします。例えば、皆に紙を配って記入させ、出来た人から前に提出してもらい順次チェックしていくという簡単なことが出来ない人がいます。順番に紙が積みあがっていくのだから、一番最初に出した人の用紙は一番下にあるはずで、だから一番下から順次チェックしていけばいいのに、それを上からチェックしていく。しかも途中で過ちに気づいてひっくり返すまではいいんだけど、今度はひっくり返した山の上にどんどん又積み上げていくから順番は致命的にメチャクチャになってしまうという。そんな例が沢山あります。ホームステイは要らないって再三言っているにも関わらずアレンジしてしまうとか、請求書送ってもすぐに紛失するから、同じ請求書を3回以上発行するのもザラです。銀行の窓口もアテにならないから、数枚の小切手を入金するときは予め合計額を自分で計算してメモっておいて、ちゃんとその額を入力しているかどうか、その場でチェックしてないと安心できないです。しかし、じゃあ全員がそんなに無能なのかというと、それは一部。同じくらいの比率で、とんでもなく切れる人はいます。「うわ、こんな仕事が速く、頭が良い人って、滅多にいないぞ」と感動するくらい有能で、同時にユーモア満点の素晴らしい人もいっぱいいます。だからそれが、ダイナミックレンジの広さなのでしょう。
しかし、それだけ有能で切れる人は、同じ社会にこれだけ無能でアホな人がいることをどう思っているのだろうか?と興味があるのですが、どうももう「諦めている」って感じですね。最初から期待してないみたいです。それがヨーロピアン文化の階級社会ってものなのでしょうか、多民族国家というものなのでしょうか、自分のスタンダードからしたら想像を絶するような人がウヨウヨいるのが当たり前なんでしょうね。でもって、そういうアホに当たって泣かされたときはどうするかというと、これはもう正しく「泣き寝入り」するようです。アホなんだからしょうがないよ、と。もちろん文句いうときは文句言いますよ。銀行の窓口で、"Give me your manager !"って騒いでいる紳士も見かけますし、おかしいと思ったら即アクション!コンプレインというのはこちらの常道です。でも、それは文句言って何か効果が期待できる場合で、期待できないときはすっぱり諦める。そのあたり合理的だなと思いますが、アホにかかわってるだけ時間の無駄だし、怒ったり論争したりしても、アホは益々拗ねるだけだから(どうも西洋人というのは自分に完全に非があると思ったら非を認めず”ふてくされる”という行動をとるのがスタンダードのようです)、一生懸命ニコやかに、「いやあ、大変ですねえ」とかフレンドリーに話し掛けて、おだてて、ヨイショして、やってもらうようですな。
僕も結構慣れましたけど、意味なく文句いってもしょうがないんですよね。文句いうのが最終目的ではないのだから。最終目的はこちらの要求をいかに実現するかだから、それに対して最も戦術的に優れた方法を取るべきであり、北風でいくときは北風、太陽でいくときは太陽でいけばいいです。そこで、「こんなことがあっていいのか」「結局、泣き寝入りですか」とかいう感情的、感傷的な要素はいらない。
そう言えば日本人は「泣き寝入り」という言葉が好きで(英語にはこの概念に正確に対応する表現はないと思う)、弁護士やってるときなんか一日に一回は聞かされる言葉だったりします。でも、この言葉、使わないほうがいいですよ。厳しい言い方をすれば、甘ったれてる人ほどこの言葉をよく使う。強い人、しっかりしている人ほど、こういった表現をしない。この言葉の背景には、自分には現状を変革する力も意思もないくせに、誰かにやってもらおうという根性が透けて見える。そしてその誰かが自分の期待どおり100%やってくれなかったら、ブチブチ文句を言うという。自分では何もする気はないのだけど、何もしなくても自分が思うとおりに世間が廻ってくれると期待してるということで、要するに甘ったれてるんです。もちろん人には根性キメて喧嘩しなければならないときがありますよ。でも、そんなの一生の間に数回あるかないかです。戦争ともなれば軍資金も体力も必要です。良く言いましたが、100万円の軍資金と、3年の労力と、今の職場を棒に振ってもいいだけの根性があるなら戦争しましょうと。この世の中、自分の思うとおりに廻りなんかしない。それでも自分の思いを主張したかったら、それなりのコストは掛かるということです。
公共的な物事、例えば政治であるとか、制度であるとか、そういったことは皆が少しづつ戦っていくべきだと思います。ところが、たまたま店員の態度が悪いとか、隣家のオヤジがムカつくとか、そういったパーソナルことだったら、見切りが大事でしょう。アホとかかわってる時間が無駄ですし、対費用効率からいっても得策でもないし、公共の利害にも関係しないから、そういったときはチャッチャと忘れて次のステップにいけばいいです。それを「泣き寝入り」とか、愚につかない感傷的な表現で考えるから、腹も立つし、そこでいつまでも留まってしまうという。ドライブしていれば、土砂崩れその他で道が閉鎖されてることもあります。それを、閉鎖されてる鎖の前で佇んで、いつまでも「けしからん」とかわめいてたって意味ないです。チャッチャと他の回り道を探せばいいだけです。
その意味では、日本人の世界観、社会観は、ある意味では、多少修整を加えてもいいかと思います。100%完璧で当たり前という世界観は、そんなことこの世にありえないんだから、そして何よりこの日本においてすらかつて一度も現出したことがないんだから、もう「神話」というか単純に「嘘」なんだから、もういい加減に捨てたらいいです。常にどっかしらトラブっていて当たり前です。この社会に、ワケのわからん奴が一緒に住んでるのは、こんなものは当然の前提でしょう。”世界”というのはそういうものです。この不条理で恐怖に満ちた(かのように見えるかもしれない)この世界で、生きて行かねばならないのだし、忘れてはならないのは、もっともっと悲惨で残酷だった時代を生き抜いてきた、力も知恵も運もあるタフな連中の子孫が僕らだということです。弱い人たちはとっくの昔に淘汰されてしまってますからね。
いろんな奴がいて、いろんなことがあって当然と思うところから、冷静にそのパターンを分析し、法則性を抽出し、対抗策、予防策をクレバーにクールに編み出していかねばならないでしょう。サイコホラーやってる場合じゃないっす。「ワケがわからない奴」が増えたのなら、「ワケがわかる奴」同士、連絡取り合って、声をかけあって、セイフティな陣地を広げていくとかね。数ではこっちの方がまさってるんだから。
それに、西欧流のライフスタイルや食生活がこれだけ浸透していって、若い人は背も高く足も長くなってきてるわけですから、同じようにダイナミックレンジも広がっていって不思議ではないと思いますよ。また国際化が進めば進むほど予測不能性は高まるでしょう。でもそれは「社会不安」でもなんでもないです。人間の社会というのは本来がそうしたものだと思います。これまでが不自然なまでに異様に均一に固まってただけです。それがゆえに色々な弊害もあったし、独特のひとりよがりの甘えをも生んだし、それがゆえに妙な閉塞状況をも生んだのでしょう。ブチブチ文句は言ったり、嘆いたりするけど、自分では何もしない。誰かがしてくれると思ってる。そういう人間は、「生きていく力」が欠如してるわけですから、ある意味では淘汰されても当然なのかもしれない。
これまでは整然と皆で行進をしていれば、A地点から夢のB地点に行けたのかもしれません。そこでは他人を良く見て、手の振り上げ方、足の出し方を合わせるのが大事なことでした。ところが統一的なB地点らしきものものなくなり、また行進してるのかどうか分からなくなった時代では、皆がそれぞれサッカーのドリブルをやってるようなものだと思います。自分のボールに集中し、自分のゴールを探し、同時に周囲をよく見て、誰にパスを渡すのか、敵がどこにいるのか、臨機応変に判断して駆け抜いていく。大変ですけどね、でも、その方が人間らしいっちゃ人間らしいと思います。そして、remember, 「ワケのわからない敵」はいいとこ10人に1人でしょう。だから9対1でサッカーしてるようなものですから、よく考えたら楽勝っちゃ楽勝ですよ。それをまだ行進してると思うから混乱したり、悲観的になったりするんじゃないですか。でもねー、死ぬまで行進してても詰まらんでしょ。
文責:田村
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