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今週の1枚(03.10.20)
ESSAY 127/ 二番目に立ちましょう
写真はギリシャ系とベトナム系が多いといわれるMarrickville。
最初に日本を離れたのが94年の4月ですから、それから9年半経過しています。途中7か月くらい日本で永住権の発行待ちをしてましたから(ちなみにその間に神戸地震とサリン事件があった)、アバウト9年日本を留守にしています。当初の予定は、「とりあえず10年」でした。とりあえず10年経てば、オーストラリアでの生計の目処のたっているだろうし、英語力を含め生活力もついているだろうし、それなりに自分もパワーアップもしてるだろうと。同時に、日本の方も、10年経てば、”いくら何でも”バブルの処理も終わっているだろうし、一新して再生した日本社会が新しい骨太の枠組みでガンガン復興してきて、今よりもずっと面白くなっているだろうと思ってました。10年経過して、オーストラリアも日本もどちらも自分のホームタウン同然に自由に動き回れるパワーと法的権利をゲットして、「さて、それからどうするか」を考えましょう、、、、というのが、当初の予定だったわけです。
ああ、しかし、この9年半の間、日本から聞こえてくるニュースは、あまり芳(かんば)しいものではなかったです。「いくらなんでも10年経てば」と思ってたバブルの後始末は、未だに道半ばですし、正直いってこのままだと半永久的に出来ないのではないか?という気もします。後始末をキチンとしないまま、なし崩し的にグチャグチャになってしまうという”最悪のシナリオ”も、考えていたのですが、「ないわけではないけど、”いくらなんでも”、それはないだろう」と否定してたのですけど、甘かったんでしょうかね。
一番大事なことは、社会の空気です。皆がなんとなく思ってる時代の雰囲気。本当は、「おーっし、新しい世の中が来るぞう、面白くなってきたぞー、よっしゃああ!」という感じになってくれているかなと期待してたのですね、10年前は。いくらなんでも10年あれば何とかなるでしょうと。
ところがぎっちょん(死語やね)、むしろ10年前よりも盛り下がってるかもしれません。
経済は、まあいいです。良くはないけど、ポジティブな意味での調整的停滞もあろうし、水物という部分もあるし、そうそう一直線に景気回復なんていくわけもなかろうし、まあ、スパイラルを描きながら、あるいはヨタヨタしながらもとりあえず前に向かってたら、それでいいです。問題は経済以上の社会のありようです。もっと言えば皆の”気分”です。たとえ経済がイマイチでも、「稼ぐに追いつく貧乏なしってね、はっはー」とか皆が陽気にやっててくれたら状況は明るいです。でもそうじゃない。
ニュースだけをピックアップしていけば、犯罪は年々増え、治安維持能力は年々衰え、人々は疲れ、心を病み=「癒し」なんて言葉が流行ってる社会なんかロクなもんじゃないです、自慢の品質管理も疑問符がつくようになり、頼みの綱の若い世代は引きこもったり、大学生はアホになったり、子供達は学級崩壊してたりします。それも年々ヒドくなってるようです。「今が底、これから良くなる」という感じじゃあない。まあ、これはニュースだけの話ですし、再三ここでも述べてるようにニュースだけで描くと大ハズレになるから今ひとつ本当かどうか分かりません。ただし、火のないところに煙は立たずという面もあり、全面展開ではないにせよ、一部憂慮すべき事態が各方面で広がってるくらいのことは言えると思います。
大学生がアホというのは、昔も書きましたけど、それを一概に批判するのは良くないと思いますし、実際に日々20代の人と接してる実感で言えばしっかりしてる人、全然問題なく、頼もしい人々は沢山居ます。それを見る限り、日本社会はまだまだ健全だと、これは確信持てます。ただし、僕のところに来る人は、最初からある程度しっかりしてる人たちですから(そうでないとこのHPは読みこなせないし)、そうではない人々も大量にいるのでしょう。そして、そのマトモな人々であっても、物は知らなくなってきてるかなって気はします。「そのくらい知っとけ」というのを全然知らんとか。
いわゆる教養とかもそうですし、世界観とか、パースペクティブというか、その人がこの目の前の現実をどれだけしっかりした視力で見ているのか、見えているのかですが、そのあたりが段々薄くなってきてるように思います。これは彼らだけの責任ではなく、日本社会全体がそういったものに価値を置かなくなってきているのでしょう。なんつったって、”マニュアル世代”とか言われていた連中の、一番のハシリはもう40代とか50代ですもんね。見栄講座とかバブルのときに流行ってたもんね。そいつらが(つまり僕らだ)が、そのまんま年食ってきて、物を知らないことを恥ずかしいとする風潮が薄らいできたんじゃないかな。でも、はっきり言うけど、やっぱし恥ずかしいよ。今流行ってるらしいトリビアクイズ(これもまんま海外のパクリだけど)で、「日本はかつてアメリカと戦争したことがある」といって「へー、そうだったの?」という言う奴が居たらお笑いですし、恥ずかしいでしょ。でも冗談じゃなくて、本気でそう言ってる子供もおるとか。
これ、単に「若者よ、勉強せよ」とクラーク博士みたいな一般的なことで言ってるわけではないのですよ。あ、ここで、「クラーク博士」ってなんだ?って言う奴がいて、もしかして大学出てたら、それって恥ずかしいよ。バチャロー持ってる奴の言うせりふじゃないよ。ともあれ、一般的なお説教レベルで言ってるんじゃないんです。もっと差し迫った必要性として。だって、今の日本の若い世代がこれから生きていくにあたって、おそらく日本はこれまでのように、頑丈なプロテクターとして皆を優しく守ってはくれないでしょう。おそらくは日本以外で生きていくこと、日本人以外に囲まれて生きていくスチュエーションがこれまで以上に多くなっていくでしょう。要するに、ワールドカップ状態でやっていくわけです。今、海外にいる我々がそうしているようにね。でもって、日本人が海外に出た場合、何で勝負するの?というと、結構キビシイんですよ。だって、ルックスで負け、体力で劣り、明るく陽気なタフネスさで負け、ハングリーさで負けてたら、ほんといいとこ無しですよ。日本人がワールドカップで人がましくやってこうと思ったら、結局、アマタとココロと技術しかないんですよね。知性とか、人柄の良さ、そして仕事の正確さ優秀さとそれで培った信頼。
だから、頭で負けてたりしたら立つ瀬ないし、ましてや人柄的に良くなかったら誰にも相手にされないですよ。人間関係というのは、どっかしら対等にリスペクトし合う部分がなければ健やかに育たない。どっかしら「あいつはすごい」って思ってもらわないとならない。そうでないと、見てくれ悪いわ、すぐ疲れるわ、地味で暗いわ、根性ないわで、おまけに頭も悪いわ、モノを知らないわ、人柄も甘ったれてるわ、なんのスキルもないわ、、、、、こんな人間、あなただってリスペクトしないでしょ?だからゴミ同然の扱いになっても仕方ないですよ。でもってスキルと人間力修養はよく言われるし、頭の出来不出来はすぐにはどうともならないけど、モノを知ってるかどうかは日頃から気をつけていれば結構拾えます。もちろんこれも一朝一夕にはいかないけど、常日頃から、「知らなくたっていいもんねー、あはは」とかの与太郎状態でいるのと、「ふーん、なるほどねえ」ってモノ考える癖つけておくのとでは、それこそ10年たったら全然違いますよ。それに、大学出て学士号持ってたら、世界的に言えば立派なインテリだし、知的水準はそれなりに高いものだと期待されますよ。日本でいえば、医者とか弁護士くらいの知的水準(だから大したことないっちゃ大した事ないんだけど)を期待されると思っていいでしょう。
あ、ところで、能天気なパーソナリティを「与太郎」って言ったのは元ネタが何だかなんだか知ってます?江戸落語の典型キャラですよね。じゃあ、「よさぶろう」って言ったら何の意味だかしってますか?日本の昔のスラングですけど。身体に傷跡があることですよね。歌舞伎の「切られ与三郎」が元ネタです。「死んだ筈だよお富さん」の与三郎。正確に言えば、与話情浮名横櫛(よわなさけうきよのよこぐし)、「御新造さんえ、おかみさんえ、----お富さんえ、イヤサお富、久しぶりだなあ」という名セリフの出てくるところが有名ですね。え、知らん?そのくらい知っとけ、、、って、僕もうろ覚えだったので、この機会に覚えます、はい。
ともあれ、日本国内にひきこもったまま一生を終えられる幸福な人など段々少なくなっていくでしょう。また、ゆりかごから墓場まで日本国内で一手に引き受けられるものでもないでしょう。部分的に、例えばより良い仕事を求めて海外に出るとか、よりよい教育を求めて留学するとか、よりよい子育て環境を求めるとか、老後環境を求めるとか、自分の人生の組み立てにおいて、純国産品ばっかで全部済ませるよりは、いいものがあれば”輸入品”であってもどんどん取り込んでいくような、立体的な生き方になっていくと思いますし。そうなってきたら、自分自身も”海外対応仕様”にしていった方がいいということです。
ところで、治安の悪化ですが、これは最近つとに思うのですが、犯罪というのは一種の社会の病気のようなものですから、対症療法的にやってても限界があるんじゃないかと。つまり、警察力を増強したり、刑罰を厳罰化したりとかいうだけではイタチごっこに終わるだろう。もっと身体全体を健康にして、身体の抵抗力そのものを増強させていくという、いわば漢方的な処方の方がいいんじゃないかと。
「最良の刑事政策は最良の社会政策である」 と喝破したのは、ドイツのフランツ・フォン・リストという学者さんですが、それを言ったのは今からもう100年以上も昔の話です。刑事政策というのは、捜査や裁判システムをどうするかとか、刑務所内での処遇をどうするかということですが、そんな末端をいくらいじくっても限界がある、「なんで犯罪が発生するのか」という根本にアプローチしないと効果が薄い。じゃあ、根本って何よ?というと、社会における貧困層であるとか差別であるとか、そういった社会の歪みであり、その歪みを矯正したり、消滅させたりすることであり、つまりは福祉であったり教育であったりする社会政策である、と。
このリスト先生のご意見は、格調高く言うと「けだし箴言というべき」であり、カジュアルに言うと「なかなか鋭いじゃん」と思われるのですが、もっともこれは犯罪の原因が主として貧困であった古きシンプルな時代での話で、直ちに現代に通用するものではないです。
でも、犯罪というのは、エイリアンみたいに最初から「そーゆー悪い奴」がいるのではなく、同じ人間が環境によって良いこともすれば悪いこともするのであり、環境変数をいじくってやることにより最終的なプロダクツを変えていこうというアプローチは今尚健在ですし、健在どころかむしろ常識化しているでしょう。ぶっちゃけた話、ハッピーな人はそんなに犯罪を犯さず、「つまんないなー」と思ってる人間の方がグレて悪いことをする率が高いというのは変わりないでしょう。
ただ現在のように景気が悪い悪いといっても、かなりのレベルで経済的に豊かな日本において、なにが犯罪の原因なのか?というと、複雑すぎてよく分からん部分もあります。経済的にも社会的にも恵まれている人が、なぜかトチ狂ったかのような犯罪を犯したりしますからね。これをどっかの小論文試験の結論のように、「社会構造の複雑化に伴い、犯罪原因も多様化し、その解決は困難になっており、さらなる分析検討が望まれるところである」と言ってしまえばそれまでですけど、やっぱ「さらなる分析検討」でしょう、望まれるのは。
犯罪と一口にいっても、殺人から、汚職、交通事故まであり一括りに出来ません。まず、経済や社会がどうであれ、絶対これは無くならないだろうなと思われるパーソナルな原因に基づく犯罪があります。つまりは男女間の痴話喧嘩や家族内部での諍い(いさかい)とか、いわゆる人間関係のもつれですね。これはもう、ビンボーだろうが金持ちだろうがあんまり関係なく発生します。むしろ金持ちになった方が、遺産争いとか人間関係がややこしくなったりもします。あとは強欲系の犯罪。はたから見てたら「それだけ金持ってたらもういいじゃん」と思えるくらいにお金持ちでも、なおも人間は欲にかられて、アコギな悪徳商法に走ったり、政治家や暴力団とツルんでもっと儲けようとしたり、それを告発しようとする人々を不法手段で黙らせたりしようとします。まあ、痴情系にせよ強欲系にせよ、これは人間の煩悩から発してるもので、煩悩そのものは政策的にどうこうなるような根の浅いものではないので、社会がどうなっても存在しつづけるでしょう。
犯罪統計をみる場合、いわゆる「統計のマジック」があるから、非常に注意深く見なければならないし、官公庁の出す統計は一種の世論調査的なバイアスがかかってたり、マスコミの出す報道は「売れるための面白い情報」というマーケティング的バイアスがかかってるから益々難しいです。だから、純粋に実数を、その算出方法と突き合わせて見ていかないと本当の実態は把握しにくいのですが、これが中々やらせてくれない。今、ネットをあれこれ横断して数字を検索してきましたけど、納得のいく基礎数字が簡単には得られなかったです。それぞれの論者が自説を補強するための統計をランダムに抜き出してるから単純に比較できないんですね。
例えば現在の日本の犯罪状況は危機的であり、それはもっぱら少年非行と外国人犯罪の増加によるものであるという論説はアチコチに多いのですが、それを裏付けるだけのもっともらしい数字は挙げられているものの、詳しく見ていくと結構いい加減だったりするのでよう分からんのです。「日本社会の敵はコドモとガイジンだ!」と石原慎太郎的にわかりやすく言うことも出来るのだろうけど、石原慎太郎的なだけに嘘臭いんですよね。ちょっと前にも言ったけど、そんなに簡単に分かった気になったときは大概間違ってますから。
いろいろ数値を見てきて、確実にいえるのは、平成13年度の刑法犯認知件数が358万件で、うち窃盗が234万件、交通事故(業務上過失致死傷)が85万件、両者あわせて全犯罪件数の90%を占めることです。そして、犯罪が増えたという内実は、この二つの犯罪の増加によるものです。どちらも昭和49年→平成12年の推移でいうとアバウト2倍増で、全体の9割を占める犯罪が倍に増えればそりゃ全体数も増えますよね。
ところで、全体の0.1%しか占めない犯罪が3倍に増えて0.3%になったところで、大勢に影響ないです。ただ、ここで「3倍」という増加率だけに着目すれば「300%に急増!」「極めて憂慮すべき深刻な増加率」といえなくも無いし、そう言ってる人も多いし、それでコロッとだまされる人も多いのだろうけど、0.1が0.3になってるだけなんだから「微々たるもの」「そんなこたあ枝葉末節」ということも可能なんですね。
例えば、平成13年度版犯罪白書の概要には、「過去6年間において,暴力的9罪種の認知件数は増加の一途をたどるのみならず,窃盗と交通関係業過を除く刑法犯の認知件数の増加部分のほとんどは,暴力的9罪種の増加分で占められるに至っており」とか書いてあって、「わあ、暴力的な傾向が強まってるんだ」といかにも日本社会が暴力的に犯罪に覆われている”暴力列島”的な感じですけど、”窃盗と交通関係業過を除く刑法犯の認知件数”というのがそもそも全体の10%でしかないわけです。全体の1割部分にだけスポットを当てて論じてるんだけど、論じてる個所では「といっても、これは全体の1割の話でしかないんですけどね」という注釈は無い。だから全面的にそうなってるかのような錯覚を覚えるという。それに「増加している殆どがこの暴力9種」とかいってるけど、最初からリストアップしてる犯罪類型が20数種しかなく、この9種(ちなみに、強盗,傷害,暴行,脅迫,恐喝,強姦,強制わいせつ,住居侵入及び器物損壊)以外の犯罪って何よ?というと詐欺、横領、背任の経済事犯、放火、失火、贈収賄、さらには年間検挙人数7人という凶器準備集合とかそんなもんで、最初からこれらが9種がメインだったりするわけです。もちろん増えてる事実は軽視するつもりはないし、貴重な指摘だとは思うけど、それが実際のどの程度のものとして受け止めるべきか、それは読み手がかなりクレバーに見抜いていかないと、夕陽に照らされた長い影法師のように、実態は小さいけど影だけ巨大みたいな印象ばっかりが一人歩きします。
なお、暴力犯罪の増加→おちおち町も歩けないくらい治安の悪化とストレートにつながるかどうかも疑問なんです。というのは、同じく犯罪白書に、「被害者と被疑者とが面識を有する比率を見ると,殺人は85%から90%の間を推移しており,各年に大きな変化は認められない。これに対し,暴力的9罪種では,強盗を除き,おおむね平成7,8年ころから,面識率が上昇する傾向にある。そのうち,傷害や暴行等では,被害者が親族である割合も同様に上昇している。これらを総合すると,面識を有する者や身近な親族を対象とした暴力的事犯が増加していることが認められる」ということで、最初から知り合い同士の犯行が増えてるということですし、見知らぬ人同士の通り魔的な犯罪は相対比率でいえば少なくなっていることになります。通常「おちおち町も歩けない」という「治安」に関連するのは、後者の赤の他人の犯行でしょうから、その意味でもストレートには治安につながらないともいえるでしょう。どっちかというと、「知り合い同士の喧嘩が暴力化している」といった方がいいのかもしれない。そういうのって「治安」の問題か?という気もしますね。
話は戻って、窃盗と交通事故という90%を占める犯罪類型が倍増というと、これは全体に対する影響力はデカいでしょう。ここらあたりまではどうも確実に言えそうです。問題はそこからです。
まず交通事故の増加ですが、これが犯罪世相とリンクされて語られることは少ないです。あれも業務上過失致死傷という立派な刑法犯なんだけど、あれは「事故」であって「事件」ではないというのが僕らの平均的な意識じゃないかな。交通事故が増えるのは確かに憂慮すべき問題なんだけど、だからといって「治安が悪くなった」とはあまり思わない。でも全刑法犯の増加率には交通事故の増加がしっかり寄与してる、というか絶対数で殺人や強盗の数十倍のボリュームがあるんだからメチャクチャ影響力高いし、殺人件数が10倍になるよりも、交通事故が10%増えた方が全体数に与える影響ははるかにデカいです。だから、全体数を見る場合「交通関係業過を除く全刑法犯」という計算をしていかないとならず、多くの統計はそれをやってるのだけど、それをやらないものもあります。
じゃあ窃盗はどうよ?といいますと、これがよく分からんのですよ。ピッキングなどの外国人犯罪組織の職業的犯罪の増加が指摘されてますが、それは事実なのでしょうが、実際にその割合がどのくらいなのか、そこのところがよく分からない。分からない理由は、窃盗の検挙率が非常に低いことです。平成12年の窃盗犯検挙率は20%弱だから、5件に4件は誰がやったか分からないから分析のしようがないって部分もあるんですね。
ただ、例えば”ピッキング”なる”新しい現代用語”が出てきて、外国人とリンクして語られてますが、実際それがどのくらいあるのかという、なかなか分からないです。ただ、「犯罪の増加と刑事司法の変質−平成13年版犯罪白書を読む− 」という前田雅英氏の論考によると、「最近の窃盗の増加にとって重要なのは,ひったくり,自動販売機荒らし,車上ねらいの増加率が著しいという点であり,ピッキング用具を用いた事務所荒らし,空き巣ねらい,金庫破り等の増加も目立つことである。特に,ここ数年,侵入盗では,ピッキング用具の使用事実が激増し,平成12年では,11万7,725件の空き巣ねらいのうち2万1,532件(18.3%),5万4,483件の事務所荒らしのうち3,981件(7.3%)についてピッキング器具の使用事実があったと報告されている。ここには,外国人犯罪の影響を読みとることもできよう。」となっています。所論はそのとおりだと思うのですが、ここで全窃盗犯の数はどのくらいかというと、168万件です。168万件のうち空き巣は12万件(7%)、事務所荒らし5万5000件(3%)であり両者あわせて10%、さらにピッキング使用ケースはそれらのうちの18%と7%だから概算で12、3%くらいでしょうか。だから全体数からしたら10%のまた10%ちょいだから、全体の1%そこそこでしかないです。ピッキングの全てを外国人がやってると仮定しても(日本人が一人もピッキングをやってないとは思えないが、そうだとしても)、1%。もちろん外国人でもピッキングではなく窃盗をする人もいるでしょうから一概には言えませんが、ピッキング=外国人盗賊団のチョーリョーバッコ(跳梁跋扈)=窃盗犯の激増→治安に世紀末的な不安という、「分かりやすい」図式の安易さ、嘘っぽさというのは読みとれると思います。
「おや?」と思う傾向は、検挙人員の中での年齢別変化をみると、50歳代、60歳台の増加が著しいのです。ここ8-10年をとってみても、50歳台人口比63から86へ、60歳台38から64に増えてます。増加率でいえば60歳台の増加率なんか60%ですよね。ちなみに20-40代はほぼ横ばいないし減少です。少年非行ならぬ「中高年非行」です。この点について論じているものは少ないですし、おそらく初耳だと言う人も多いでしょう。なんなんですかね、これ?50代、60代の泥棒さんってどんな人達でしょうか。年季の入ったスリや空き巣などの、「ベテラン勢の健闘が目立つ」ってことなんでしょうか?でも、高齢だからって「ベテラン」とは限りませんよね。65歳にして初めて万引きなるものをやってみて、ヘタクソだからすぐに捕まったってケースもあるかもしれませんしね。
これってリストラされて生活苦になって、仕方なしに他人様の物に手を出したってことなんでしょうか?中国人あたりの稚拙なピッキングなどを見せ付けられて、「ガキどもが、ホンモノの技術を見せてやるわ」と一念発起して頑張ったのでしょうか?このあたりに関する記述は妙に少なくてよく分からないのですね。でも、「なんなんだ?」という興味はあります。
長々書きましたけど、別に犯罪傾向の正確な実態について論じるのが目的ではありません。考えれば考えるほど実態がよく見えない、ということです。「印象」としては分かりやすいですよ。日々のニュースを無批判に読み流していけば、「ああ、そうなんだ」って漠然と蓄積されるものはありますから。でも、印象くらいアテにならないものもないです。ちょっと角度を変えただけで、がらっと印象なんか変わりますからね。
しかし、僕らが日常に感じているものは、真実がどうあれ、この印象とか雰囲気という部分です。治安についても、まさにそうで、夜道を歩くとき、どのくらいビビッて歩くかという心理的なビビリ度が大きな役割を果たしますし、それが全てであるといってもいい。そして、そのビビリ度というのは、なんのことない、自分が社会をどう見るかという、自分の世界観の反映でしかないです。主観が客観に投影されているだけでしかない。治安が悪い、恐い、恐いと思っていたら、人をみたら悪者に見えます。夜道を向こうから歩いてくる人、後ろから歩いてくる人が、真実は悪い人なんだか善良な市民なんだか分からないんだけど、その分からない部分、グレーゾーンを塗りつぶすのはその人の想像力であり、その想像力は日頃から蓄積された印象です。
だから、日本社会が治安がいいか悪いかは、他ならぬアナタ自身が日本社会を治安がいいと思っているか/思っていないか、だと思います。そして、「どうしてそう思うの?」という部分が、非常に大事なのでしょう。新聞とか週刊誌に凶悪事件が毎日のように載ってるからそう思うのですか。言葉をかえれば、「それだけ」の理由でそう思っているのですか?
さて、今回のエッセイで僕はここで何が言いたいのか?-----------主観を変えたら客観も変わるんじゃないかということです。
日本も治安が悪くなったとかいいますが、それは比較の問題で、まだまだ諸外国からみたら遥かに治安はいいです。絶対的な統計数値で言えば、オーストラリアの方がずっと悪いと思う。しかし、そのずっと悪いはずのオーストラリアの方が、実際に住んで生活するレベルでいえば、むしろ安全そうに思えてしまったりもします。これは人によって違うでしょうから、一概に言いませんが、少なくとも僕にとっては、オーストラリアの方が楽です。
もちろん、そう思う僕は間違っているのかもしれないし、おそらくは間違っているのでしょう。しかし、間違っているかどうかはこの際問題ではない。治安の問題とは、畢竟、その人が「どう思うか」が全てだったりするのですから。そして、なぜ僕はオーストラリアの方が安全そうに思えてしまうのか?です。
先ほど、「漢方的処方」と書きましたけど、身体の全体状況では、オーストラリア社会の方が健康だからです。だから恐さが少ないのだと思います。社会が「健康」というのは何かというと、煎じ詰めれば、社会を構成する一人一人が、つまり僕らひとりひとりが、この社会に対して諦めていないからです。この社会は「良い社会」だと信じている、その強度が高い。もちろん問題は山積みで、とても「良い」と手放しで誉められるようなものではないけど、「基本的には良い社会」であり、「良くあるべきだ」という思いが、オーストラリアに住んでいる人達の方が強く、良くない事態に直面したときに、「俺がなんとかしなきゃ」と思う。
最良の刑事政策は最良の社会政策だといいました。社会政策には、貧困対策や福祉、教育、さらに差別解消やらがありますし、さらにその全てのベースとなる経済政策など複雑に入り組んでいくでしょう。それらの対策は対策で非常に重要ですから、倦まずたゆまずやるしかないです。また、日々そのために奔走しておられる方も、日本にはゴマンとおられるでしょう。頭が下がりますし、ココロから声援を送りたいと思います。
ただ、それらのさらに根本には、僕らひとりひとりの心の奥底というものがあり、日本を諦めるか/諦めないかというメンタルな健康性というものがあり、それが社会トータルでの健康性を維持するキモのような気がするのです。
オーストラリアの方が安全な気がするのは、一つには他人をアテに出来る度合が高いからです。電車の中で誰かに絡まれたり、脅迫されたりしたとしても、居合わせた他の乗客が助けてくれるだろうという気がするからです。日本のように「触らぬ神に祟りなし」と狸寝入りを決め込んだりしないだろうと。実際に絡まれたことなんか一度もないから、いざそうなったときに本当に助けてくれるかどうかなんか分からんですよ。でも、そう思わせてくれる部分はあります。それは、例えば、バスで車椅子の人が載ってきたら、当たり前のように周囲の人たちが助力をし、しかも「何の衒(てら)いもなく」当然のようにやる自然な雰囲気です。自意識過剰な日本人である僕には、あそこまで自然に出来ないです。あるいは、当たり前のように誰もがボランティアをやることであったり、コミュニティにおかしなことがあったら自分でビラを周囲に配って民主的手続きで解決していこうと言う姿勢と慣習であったりします(ウチの近所でも、つい最近道路規制について住人の一人からビラが配られ、市議会がすぐにこれに反応し、簡易な住民投票のようなアンケート用紙が配られ、陸運局、警察を交えた議論の座が設けられ、半年以内に規制が実現してます)。
そこに垣間見られるのは、この社会は良い社会なのであり、それについてプライドをもっていることであり、良くしていくのは自分の義務だと自然に思っていることであり、躊躇わず実行できる行動力であり、自分が社会の一員であるのだという自覚だと思います。
こちらのスーパーで買い物をしていて感心する事があります。それは日本に比べて馬鹿みたいに巨大なショッピングカートをゴロゴロ押して歩くのですが、時折前方にカートを置いて熱心に商品の検討をしている人がいるのですが、近づいていよいよぶつかるな、困ったなと思うと、殆ど例外なくすっとカートをよけてくれることです。「よく周囲が見えてるなー」と感心するのですね。ラグビーが上手なわけよね(^_^)とか冗談で思うのですが、僕もズボラな方ですので人のこと言えませんが、日本人の方がこの点ズボラだと思います。自分の今のポジションが、社会の他の誰かに迷惑をかけてないかどうか常に配慮する度合は、もちろん人によってまちまちだけど、やっぱり低い。「おばはん、どいたらんかい」ってイライラする場面は日本では結構ありましたけど、こちらではあんまりないです。
そういった日常的な細々した場面が積もり積もって、先ほどの所感に行き着くわけですが、治安一つをとっても、あるいはその他全体的な社会のポジティブな雰囲気をとっても、やっぱり僕らひとりひとりが社会と言うものに対して、もっと積極的なコミットメントを保っていったほうがいいんだろうなと思います。それは、別に大上段に構えて天下国家を論じることや、統計数値を駆使して緻密な理論を構築することでもなく、もっと自然な形で、日常的に社会の他の人たちと関わっていくことなんだろうと。
それは、例えば、電車内で絡まれてる人がいたら助けることであろうし、それは中々勇気のいることであったりしますから、とりあえずは相手が弱そうな場合にだけ立ち上がるとか(^_^)、誰だかわからんようにちょっと声をかけるだけであったりしてもいいです。もっとも大事なのは、誰かが立ち上がったときに、「二番目に立ち上がること」だと思うのです。二番目ってのは非常に重要で、二番目が出たら三番目は出やすいです。二番目が出ないと、最初のひとりが孤立してしまう。二番目が出ると、やってる側からは全員に言われているような圧迫感を覚えるから、成功率も高いでしょう。そして、それをイヤミなく、自然にやれたらいいんでしょうけど、それにはまだまだ修練が必要ですよね。でも、必要だったら修練すればいいんです。
なんというか、そのあたり声をかけあって、「良くしていこうぜ」って雰囲気が出てきたら、治安に関する印象なんかまたがらっと変わると思うのですよ。車内やホームで、イヤな目にあっても、誰かがほぼ確実に助けてくれるというのが信じられるようになったら、安心感というのは随分変わるでしょう。また、そういうムードになったら、悪さする奴も迂闊に動けなくなります。その場の「気」みたいなものが満ちてたら、やりにくくなると思いますよ。
「いくらなんでも10年経てば」と思いましたが、10年経過してむしろ思うのは、「日本は良い社会だ」という素朴な確信、プライドがグラついてきたということです。グラついてきたなら、薄らいできたなら、なすべことは一つ。グラつきをしっかり補強しなおすことであり、薄らいだものをまたくっきり濃く描くことです。
だからまずは主観から始めましょう。日本は良い社会なんだと、思いましょう。本当は思ってるでしょ?口で幾ら「もうダメだ、終わりだ」とか言ってたって、内心では見捨ててはいないでしょ。だって心底絶望してたら、そこに居ないでしょ。難民として海外に逃げるでしょう。といっても直ちに「そうだよなー、良い社会だよなー」と自然には思えないかもしれないけど、意地でもそう思いましょう。そんでもって、それでも良いと思えなかったら、「俺が良くしたる」と思いましょう。もちろんそんな全てを変える力は、アナタにも僕にもないけど、「自分の半径1メートルだけは良くしたる」と、ね。でもって、とりあえず二番目に立ちましょう。一番なのが望ましいけど、いきなり無理して挫折するのもナンだから、とりあえずは二番目。そのくらいやろうじゃん。
文責:田村
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