今週の1枚(03.10.06)
ESSAY125/本気で説得しようと思ってますか?
写真は夕暮れのGeoges Heights (=Mosmanの隣)のoval(運動場)
今回のエッセイを書こうと思ってから既に数時間、無意味に経過してしまいました。いつも書き出す取っ掛かりをつかむまでが長いのですね。ネタを探しに、インターネットをあちこちさまよったりしますが、なかなかこれといった題材に出くわしません。いや、題材は限りなくあるのですが、僕が非力で書きこなすことが出来ないでいます。
この世に書くべきことは無尽蔵にあります。こと日本に限っても論じられている問題は山ほどあります。だけど論じられていればいるほど、議論が錯綜していてよく分からないです。一回、数ヶ月くらいかけてとことん勉強して、現場も何度も見に行って、関係者から話を聞いて、自分の見解というものを出してみたいという衝動に駆られたりもします。
どんな問題でもそうですが、ごく限られた視点だけから、ごく限られた事実関係だけをもとに語るんだったらとっても楽な作業です。それが偏っていればいるほど書くのも語るのも楽です。インターネットに流布している論説類、いやインターネットに限らないけど、かなり部分がこの「楽」な論説だったりして、「こういう視点から、自分に都合のいい事実だけ抜き出して見れば、こう言えるのか」ということは分かっても、総合的には分からない。そして、総合的にやろうと思えば思うほど、事実関係の確認だけでも膨大な資料を精査する必要が生じ、泥沼のようになってしまいます。そんなこと考えると、結局この世のことなんか何ひとつ分からないんだろうなーという、安易な不可知論に走ってしまいたくもなります。
ところで、いろんな論文・論考を見てると、「なんでそんなに?」というくらい口汚かったりして閉口させられることがよくあります。もうちょっと紳士的に、論理的に、建設的に出来ないものか?と思うのだけど、そうなってる例は珍しく、作家も、評論家も、学者先生も、殆ど子供の喧嘩みたいに言う傾向があります。特に、○○論争という形で相手の顔が見えるようになると益々その傾向は顕著になり、なんかプロレスじみたエンターティメント性すら感じるという。「朝まで生テレビ」なんかそのエンターティメント性だけに着目した企画なんでしょうけどね。
まあ、行きがかり上「そこまで言うならこちらも言わせて貰うが」という売り言葉に買い言葉的な要素がどうしても入ってきてしまうのでしょう。それはわからないでもない。満天下のもと、「○○と言っている馬鹿がいるが」などと名指しで書かれた日には、腹が立って仕方がないでしょう。夜も眠れないでしょう。「おのれ、このガキ、八つ裂きにしてくれる!」という感情が湧いても不思議ではないし、その怨念が筆の先にこもったとしても無理はないです。僕だってそうするでしょうね。
でも、困るんですよ。僕はその問題の全体的な、出来るだけ正しい構造を知りたいのです。そんなに感情的に書かれたら、何が本当で何が誤りなのか分からなくなる。もう、その時点では、「問題の正しい理解と好ましい解決指針」という初期のテーマはぶっとんでしまって、「いかにして相手をヘコますか」がメインになってますから、相手をやっつけるネタだったら、誤字脱字でもあげつらうという勢いだったりします。論争というよりも、ただの罵倒大会に終始しているのもあるから、参考にも勉強にもならない。でも、そういうのがあまりにも多すぎると思いませんか?
最近の「キレやすい青少年」とかいうテーマで、そんな喧嘩口論みたいな論争をやってられると、「キレやすいのは青少年ではなくてキミでしょう」と言いたくもなります。
ある問題について、あまりにも簡単に理解できたら、それは何かが間違ってるんじゃないかと疑った方がいいと思います。少なくとも僕はそうしようとしています。実践できているかどうかは心もとないのですけど、あくまで姿勢としては、です。「あまりにも簡単に理解できる」というのはどのような状態をいうかというと、基本的に自分に理解できたら「簡単」だと思ってます。僕ごときの知性と知識と人生経験の持ち主が、そんなに簡単に物事を理解なんか出来るはずがないだろうと。ほとんど何ひとつ理解できないといってもいいし、一生かかっても無理だと思う。だから、単純に言えば、自分が理解できたと思ってる物事は必ずやどっか間違ってるのだと。
そうかといって、「どうせ理解なんかできっこないよ」と諦観を語ってるわけでも、敗北主義になびいているわけでもないです。そう簡単に分からせてもらえないからこそ、ファイトが湧くというか、「どこまで肉薄できるか」というチャレンジングでスリリングな営みなのだと言いたいわけです。また、「自分ごときに分かるはずがない」というのは、なにも謙譲の美徳を発揮して言ってるわけではなく、本当はもう少し自惚れたいのだけど、客観的にどう考えてみても困難だから、悔しいけどそう言わざるえないということです。
このエッセイの最初の方、というか雑記帳の初期にも書きましたけど(「そんなに簡単にわかってたまるか」とか)、オーストラリアやオーストラリア人についても、沢山の事例に出くわせば出くわすほど一口では言えなくなって来ますし、統一的な理解もできなくなってきます。語学学校をどう選ぶかとか、ホームステイでの過ごし方など、実際に現場で見聞する事例が400例、500例と増えてくるにしたがって、「うーん、もう、法則性なんかなーし!」と叫びたくなります。本当に、「人による」とか「ケースバイケース」としか言いようがなくなってくるのです。「ケースバイケース」という回答やアドバイスを貰っても、質問者にとってみれば殆ど無意味だってことは百も承知なのですが、、、、、でもさ、事実がそうなんだもん、そうとしか言えないですよ。もっともらしいアドバイスをデッチ上げるために嘘つくわけにもいかないでしょう?
そこで、理解はより一段進み、それに伴ってアドバイスも進化し、「おそらく○○になる」という未来予測を前提に対策をたてるのではなく、一定のレンジで予想される状況に幅広く対応できるようにしようという具合に変わっていかざるをえないです。つまり、「オーストラリアのホームステイは○○だから、○○しなさい」というように一概に言えなくなってきてるから、「どういうステイ先であっても対応できるように」という具合に変わります。
例えば、「オーストラリアの家ではシャワーは3分までと限定されているから早くシャワーを使うように心がけよう」などと紋切型で言っていても、必ずしも全ての家がそうであるわけではない。実際にはマンションなどの中央給湯システムやガス瞬間湯沸器を取り付けている家もあるし、僕の家のように給湯タンクが馬鹿デカいところもあります。だから、より正確を期するならば、「シャワー3分の家も全然珍しくないから、そういう家庭でも対応できるようにしよう」ということであり、同時に、最初はシャワー制限に激しい難色を示している日本人も、その殆どが「やれば出来るもんですねー」としっかり適応できている事実を伝える方が良いだろうという具合に変化します。そして、問題はシャワーだけではなく、家々によってそれぞれに奇妙な風習の一つやふたつあるから(それは僕の家にも、あなたの家にもある筈。本人だけが気がつかないだけで)、何が飛び出してきても驚かず冷静に対処せよということであり、戸惑ったり困惑したりしたら、まずホストとじっくり話しあってみようという、よりゼネラルなアドバイスになっていき、さらにどういう具合に英語でそういう会話なり交渉をするかという実戦的な話に移行していきます。同時に、「自分が潜在的に持っている、人間の適応能力の凄まじさをもっと信じよう」「実は自分はタフであることに気づこう」ということが問題の核心にあることわかってきます。
これは学校選びでも同じです。各学校の特徴論を精密に分析しようとすれば、その大前提としていったい英語を勉強するということはどういうことか?ということから始めなければなりません。さらにその前提として、人間の社会生活において「言語」とはなにか、さらにコミュニケーションとは何か?という部分から積み上げていかないとならなくなります。その全体構造のなかで、今の自分はどの地点にいるのかを正確に理解し、さらに足りない部分を補強するためにはどういう方法がベストかを考え、さらにその方法が自分に合っているかどうかを検証しなくてはならない。このように学校選びでも、学校を選んでる筈がいつしか、「自分とはどういう人間なのか」という”自分探し”に力点が移動します。これは誰でもそうなると思います。
例えば、ある学校は学生サービスが非常にキメ細かく、フレンドリーで温かい雰囲気をもっていて、 ゆったりのびのび楽しく勉強できそうだとします。しかし、それが故に、ピーンと張り詰めた緊張感に欠け、学生達ものびのびしてるのはいいのだけど、時としてチャラついてたり、たるんでたりしてるように見えることもあるとします。一方別の学校では、学生サービスはそれほど手厚くないのだけど、それゆえ学生はひとりひとり自立していて、全体に雰囲気としては大人びているとします。さて、どちらがいいですか?どちらも優秀な学校ですが、タイプの違いというものは歴然としてあり、その異なるタイプのうち、あなたが外国で生活し、英語を勉強するためにはどちらの雰囲気の方がより好ましいでしょうか?ここに至って、問題は学校ではなく、あなた自身に移ります。あなたが物事を習得するに際して、ゆったり楽しくやっていった方がより伸びる性格なのか、それとも多少ビシバシやってもらって背伸びするくらいの方がファイトが湧いて効率が良い性格なのか、です。だから、自分探しになるのであり、現地で学校を見学した人は、ほとんど例外なく自己プロデュースの問題に直面し、「むむむ」と呻吟することになります。
このように自分自身を正確に把握することが、モノ選びの大前提になります。これも繰り返し述べてますが、「日本人の少ない学校がいいです」とか言う人は多いのですが、「本当にそうか?」ということでもあります。その人は、日本人の少ない環境でイヤでも英語を喋らないといけない方が頑張って英語を喋るから上達すると考えておられるわけですが(その気持はよくわかります)、いざ実際にそういう環境になったときに本当に頑張って英語を喋れるわけ?という疑問もあるわけです。「イヤでも英語を喋るから」というけど、喋れないものはイヤでも喋れないですよ。知らない単語は百万年考えたって思いつかない。だから未来予想図としては「英語が喋れないからクラスで孤立し自閉症になり、ひきこもる」という暗い方向もありうるわけです。それに、「追い詰められて喋る」ような英語が本当に上達に役に立つのだろうか?というツッコミもあるのですね。ひたすらブロークンに、ぶっ壊れた英語になっていくだけじゃないの?と。
実際、シドニー空港に着くまでの間、トランジットや入国審査のとき、なにかトラブッたりして別室に連れられ、図体のデカい係官に囲まれて早口で英語でまくしたてられ、何がなんだかさっぱりわからず非常に心細い体験をしたりすると、「やっぱり多少日本人がいた方がいいかな」と意見が変わる人も多いです。要するにこれまで体感したことがなかったのですね。本当に100%日本語が通じず、100%ヘルプがなく、英語だけやっていかねばならない状況で、何一つ理解できないときの、あの絶望的な無力感を。背の立たない深い海で、ひとり孤独に溺れてるような状況どれだけキツイのかということを。もちろん、そういう状況でも頑張って切り抜け、貴重な体験として肥やしにする人もいます。係官に尋ねられながら、「ふーん、こういうときはこういう表現を使うのか」としっかりフレーズをパクれる人もいます。そういう人は、厳しい環境でもやっていけるでしょう。だから、自分を良く知ることが、学校選びの第一歩でもあるわけです。
同時に、英語が全然ダメでも皆に愛され、現地にどんどん溶け込んでいける人も居ますし、英語がかなりできるのにも関わらず今ひとつ思うようにならない人もいます。それは、言語力ではなく、コミュニケーション能力の問題だと思います。言語は、コミュニケーションの一環に過ぎません。これも至るところで書いてますが、コミュニケーション全体からしたら言語の占める割合なんか微々たるものです。20%もないといいます。じゃあ、コミュニケーション能力って何よ?というと、他人を恐がらなかったり、自分を晒けだせるオープンマインド性であり、豊かな表情であり、巧まずしてあふれ出る人間的魅力だったりするのでしょう。この話は長くなるからこのくらいにしますが、コミュニケーションのなんたるかを身体で(頭でではなく)理解し、言語はあくまでその一環だと正しく位置付けていくこと、常に考えつづけていくことが、語学という「コミュニケーションスキルの一種」をやる場合において重要だと思います。英語の勉強に熱心なのはいいのですが、ときとして熱心になればなるほど英語の上にくるコミュニケーションをないがしろにしてしまう傾向もなきにしもあらずで、結構陥りがちなワナですので心しておかれるといいと思います。さて、では、あなたのコミュニケーション能力はどうでしょうか?これも結局は自分探しだったりしますよね。
長くなりましたが、学校を選びましょうという比較的単純な作業においても、掘り下げて真剣に考えれば考えるほど、底なし沼のように広がっていくのですね。「本当のこと」を理解しようと思ったら、どんなことでも容易なことではない、ということです。
あともう一点、より正確に考えたかったら、個別的な断片情報をかき集めるように、より全体を総合的に考えた方がいいと思います。そして、全体像を把握するためには、何も多くの情報は要りません。今手持ちの知識で掘り下げて、自分の頭で考えていけばいいと思います。現場に着いて予想と違ったとしても、「考えてみれば、そりゃそうだよなー」ということが多いでしょう。「そりゃそうだ」と思えることというのは、事前に詰めて考えたら予測可能だったということでもあります。だから、情報も大事だけど、もっと大事なのはそれを組み立てる自分自身の洞察力や想像力だと思います。
上記の例は、僕自身が通った過程でもあるし、また毎日毎日繰り返し見続けている現場でもあるから第一次情報は豊富にあるわけで、比較的考えやすい分野です。でも、それですら、そんなに確信は持てないです。「多分こうじゃないのかなあ」という漠然としたところが、おおよそ七割くらいの人に多少なりとも当てはまる、、という程度です。本当のところは---、もう一人一人の背後霊みたいになって逐一見届けないと分からないんじゃないかな、と思います。
したがいまして僕が出来ることは、現実はこうだと確定的に提示するというよりは、「こういう物の見方や考え方もあるんじゃないかな」という一種のヒントとして提案する程度だと思いますし、またそれで良いと思ってます。最終的に決めるのは個々人なんだし、僕の役割は判断のための参考資料をお届けすることなんだと。そして、それはこと僕の仕事やHPだけではなく、およそこの世の論説について言えることだと思います。
話は戻りますが、言葉過激に罵倒大会になってしまっている一部の(いわゆる)「論壇」などは、なんというのか、皆の為に益するところがあるのかな?という根本的な疑問もあるのです。皆が、いや皆はどうだか知らないけど、僕が知りたいのは、出来るだけ客観的な事実であり、それは神のみぞ知ることだろうから、具体的な証拠に基づく合理的に推論できる(だから限界もキッチリある)事実らしきものであり、それに対する各論者のアプローチの仕方であり、なぜそう考えるにいたったのかの理由です。こういった論説は、非常に参考になりますし、またきちんと調べれば沢山あります。
そうではなく、「○○などとホザいてる○○は阿呆だ」というような文章というのは、あまり役に立たない、、、というかはっきりいって無用です。僕が知りたいのは、○○という個人が阿呆かどうかではないです。また、罵倒された本人が腹が立って罵倒し返す心情は理解できないでもないですが、それって「私闘」です。どっちが勝とうが本筋に関係ないです。「朝まで生テレビ」のように、いい年をしておっちゃんおばちゃんが子供のように喧嘩する、見苦しい姿そのものがひとつのバトル・エンターティメントになのだと割り切って見ているんだったらいいです。アメリカのオプラショー(オーストラリアでも延々やってる)と同じ路線でやっている「もっともらしい偽善的言い訳付きの単なる喧嘩見物」だったら、最初から皆も「そういうもんだ」で見ますから。ところで、朝生、まだやってるんですよね?10年以上続いてますよね。あんなの面白いですか?僕は1、2回見てアホらしくてやめたし、面白さだけならキッチュ松尾のやってる完全形態模写パロディの「朝までナメてれば」の方がずっと芸として見ごたえあって面白いのでオススメです(古いビデオだからもうレンタルビデオ屋にも置いてないかもしれませんな)。
ここで、こういう個人名を出して云々するのはどうかなーと思いつつも、わりと誰でも知ってるだろうという意味で小林よしのり氏に登場願いますが、彼の論説も「マジ?」というくらいひどいと思います。小林氏は、彼の初期のマンガ「東大一直線」の連載当初からしってますし、SPA誌上に連載された「ゴーマニズム宣言」も連載当初から知ってます。いわゆる”ゴー宣”も、最初の1年間くらいは良かったと思います。それまで特に言論活動などやってなかった普通のイチ市民の視点で、一生懸命考えている姿勢が窺えるし、それは純粋にその問題だけを考えているだけに好感が持てるものでもあり、なかには鋭い意見も多かったです。だから、僕も好きでしたし、評価もしてました。
ところが売れ出して、いわゆる”論壇”とやらに引っ張り出されてくるにつれて、どんどん方向性が怪しくなっていきます。言ってることも「そうか?」と思えることが多くなったし、初期のように時間をかけてゆっくり考えてきた結果を述べるというよりは、反射的に書いてるだけじゃないか?一つのネタをテクニックでふくらませているだけじゃないかという気になり、さらには論壇の一員として”コップの中の嵐”に巻き込まれていき、一つの立場を形成するや、その立場の維持強化が第一目的にすり替ってしまったように思います。
以後、殆ど読む気も失せてしまったのですが、皮肉なことにその頃から爆発的に売れ出してきたりして(なんで売れるの?と思った)、売れて有名になる→批判に晒される→反批判→再反批判→ほとんど喧嘩→党派性を帯びてきて論説というよりは檄文的プロパガンダになる、、、という悪循環に陥ってるように思います。
なんというのか、市井のマジメな考究の徒だった普通の人が、思想界という魔界に足を踏み込んでしまうと、「うう、こんなになっちゃうのね」という具合に変貌していくのを目の当たりに見させられたという。僕にとっては、彼の言ってる内容よりもなによりも、彼自身の変化が一番考えさせられました。まだ、初期の頃は、そのあたりの戸惑いが(こういう表現は敬意を欠くかもしれませんが)「かわいく」表現されてました。思想界に知り合い一人いない初期は、例えば西部邁氏あたりが「現実を知らない頭デッカチの知識人」の代表のように描かれてたのですが、TVの楽屋で出会ったときには、実はとってもいい人だったことに感動してしまうこととか、以後西部氏はお友達というか仲間になってしまって批判しなくなるとか。それってものすごく普通の人っぽいし、ものすごく日本人っぽいし、ものすごく良く分かるんだけど、「そういうもんなの?」という気はしますね。
同時に、気に食わない相手については、これがマンガのズルさだと思うけど、いかにも陰険そうな似顔絵を描いて(この人は最初からあまり絵が上手ではなかったけど、こういう似顔絵はどんどん上手になってきてる)、論の中身に入る前にいかにも悪いそうなイメージを与えるとか。以下10年、この人の論説は、ただのこの人個人の交遊録であり、「こいつが好き、こいつは嫌い」という個人的な好き嫌いを、どっかで仕入れてきたもっともらしい断片情報とレトリックをキナコのようにまぶして書いているだけ、、、、と言っては厳しすぎるのかもしれませんが、そんな印象を受けています。ゴーマンかましますけど、それは論説でも意見でもなく、ただの井戸端会議の悪口大会でしょう。少なくとも僕はそういうものを求めているのではない。
今、手元に、その昔誰かが置いていってくれた彼の著書”「個と公」論” がありますが、内容は殆ど無いです。読み進むのすら苦痛なくらいというか、3行読んだら不愉快になる他者罵倒と自画自賛の連続で、あれは一種のファンのための「経典」みたいなものなのでしょう。先ほどの「いかにも悪そうな似顔絵」は多くの人に指摘され、本人もこの著書で弁明してます。でもその弁明内容は、「そんなの誰でも知ってるし、お馴染みの冗談と挨拶になっちゃってるよ(中略)。絵で印象操作できるなんて、そんなことが簡単に出来るくらいならやってみればいいよ。読者はお前ほど馬鹿じゃないよ」というもので(42頁)、全然弁明になってないし、弁明する気もないのでしょう。「誰でも知ってる」とか「お馴染み」というは小林教の信者さんの間だけの話であり、論説というのはまだ知らない人に伝えてこそ意味がある。何を言ってもYEAH!と返す外タレのコンサートの盲目的聴衆のような連中ではなく、他者に伝えるためにあるわけでしょ。もし内輪以外の他者に伝える気がないなら、それはもうただのファンクラブの会報でしかない。そしてその他者に伝える場合に、「お馴染みの冗談」なんて内輪カルチャーぶつけたってしょうがないでしょ。そして「絵で印象操作なんかできない」というけど、出来ますよ。ビジュアルインパクトというものは物凄くある。出来るからこそ画家やらイラストレーターやらカメラマンやら、そして漫画家というビジュアルの専門職がいるわけでしょ。
それにこれらを全て認めるにしても、相手をいやらしく描写することが、フェアな論説のフェアな態度としてまっとーなものかどうか。それを「お馴染みの冗談」とか言って逃れようとするのは、他人の頭を殴っておいて「冗談、冗談」って言ってるようなものであり、他人の心を傷つけるようなことを言いつつ「洒落だよ、シャレ」と言うようなものでしょ。そんな小学生の言い訳にも劣るような稚拙な言い逃れでなんとかなると思ってたとするなら、読者はそれこそあなたほど馬鹿ではないです。そして、馬鹿ではないからこそ、僕はあなたに愛想が尽きました。尚も「愛想を付かされるリスクを背負いながらワシはやってる」というのかもしれないけど、そこまでしてまで他人の顔をイヤらしく歪曲して描かねばならないわけですか?あなたはいったい何をやりたいのでしょうか?
さらに彼の論説は、絵だけではなく言葉にも及び、例えば島田雅彦氏を批判するについても、「島田雅彦なんかにしたってさー、あんなに足が短くって、顔だけがいいと自分で思い込んでいて(笑)、上半身だけのポーズ作って、いつもいつもモデルかなにかになったうような錯覚して出てきよるけどさー」(56頁)などと書いてます。なんか書き写していて胸糞が悪くなるようなこと、よく言うよなー、と思います。というか、こんな本良く出版するよなー、そして皆買うよなー、でもってなんでこんな本が僕の家にあるのだ?(^_^)。
別に小林氏ひとりを槍玉に上げるつもりはないし、彼に個人的な恨みはないです。この種の罵倒的な論述というのは、そこに篭められた強烈な悪意が、ウィルスのように読み手に感染し、読んでる方にも自然と悪意と攻撃欲求が生じさせ、罵倒攻撃したくなってくるという、”アドレナリンの連鎖反応”みたいな厄介な性質を持っています。なんかこの種の”感染”を体感すると、「悪魔って本当にいるのかも?」という気分にもなってしまいますな(^_^)。
彼を取り巻く評論も、別に彼個人がどうとか、彼の論説がどうとかいうことに興味や危機感を覚えているのではなく、この程度の、ちょっと考えたらメチャクチャなのが丸分かりの論説が日本で受けて売れている(いた?過去形にしていいのかな)という現実だと思います。だけど、本当に売れてる(た)のかしらね。初期の頃はともかく、後期になってからの論説は大体が上記のようなものでしょ。詳しくは読んでませんけど、いつどこを読んでも似たようなものだから、「ランダム抜き取り検査」でいつも同じ結果が出たなら全体も同じだろうと推測します。既にエンターティメントにシフトした彼の論説など、悪いけど殆ど全てにわたって反論可能だと思います。僕が読んでてすぐ思いつくくらいだから、皆さんだって容易にわかるでしょう。それがわからんのかしら?僕は日本人の知性を買いかぶっているのでしょうか?本当は、僕が思うよりもアホなのでしょうか?
これは結構微妙な問題ですけど、おそらく正解は賢い人もいるし、アホな人もいるということでしょう。そしてアホに見える人でも、アホだからアホやってるのではなく、他の理由でそうなってるだけじゃないかと思います。つまり、天下国家を語ることは一種のお酒みたいなもので、気が大きくなり、多幸感をもたらしハッピーになれます。「悲壮感ハッピー」とでもいいますか、昔は尊皇攘夷だったり、マルクス主義革命とかね。これまであまりこういうことに馴染みの無かった人が、いきなりこんな分かりやすい酒を飲んでしまったら、そりゃ酔っ払ってアホにもなるわなということです。実際、小林氏の作品はどれもわかりやすいです。だから、強力なウォッカの入った口当たりのいいカクテルみたいなものなのでしょう。ついつい飲みすぎて酔っ払っちゃったと。ご本人も酔ってしまわれたのでしょうね。でも、こういうのって時間がたったら醒めると思います。
こういう言い方は語弊がありますが、天下国家は、職業的にそれをやってる人はともかく、一般的にはヒマな人が論じるものです。忙しい人は論じるよりもまず行動しなければなりませんから。小林氏の「戦争論」あたりを読んで盛り上がってた当時大学生の世代も、今では30歳前後、結婚もし、子供も出来、住宅ローンの支払いをし、リストラを憂いているでしょう。だから天下国家どころではないでしょう。そんな60年前の虐殺事件の有無よりも、この冬のボーナスの帰趨と、ボーナス一括支払いをクリアできるかどうかが大事でしょう。そんでもって、また生活に行き詰まって、「なんだかなあ」が続いて、「行き詰まってるんだけど妙にヒマ」になると、また”酒”を飲みだすのでしょう。多分、現実って、そのあたりじゃないかなあ?って気が僕にはしますけど。
それと、彼は例えば太平洋戦争全面擁護派らしいです。ただ、これも最初はそうではなかったのが、どんどん押し流されてエスカレートして引っ込みがつかなくなったんだと思うのだけど、例えば南京大虐殺は無かったとか、従軍慰安婦がどうしたこうしたという論点なんかがあります。確かに考えなければいけないポイントはあると僕も思うのですが、ただね、彼のようなレトリックや言い方や論証レベルで「虐殺は無かった」とか声高に叫ばれれば叫ばれるほど、逆に「やっぱりあったんだろうなー」と思っちゃいますよね。逆効果なんじゃないの?と。これは彼だけに限らず、この種の”陣営”の人々に共通するのだけど、どれもこれも説得的ではない。どこがイマイチなのかというと、「戦争で日本は間違っていた」とする人々を偽善的去勢的売国的サヨクだと批判するという他者批判は思いっきりやるのだけど、また他のアジア政府の批判を政治的陰謀だとか切り返すのは一生懸命なんだけど、それ以上に積極的に自説の論証は非常に心もとないというか、「それだけなの?」「無いの?」という貧弱さだったりすることです。結局のところ、「日本民族は堂々と毅然とせよ」という心情的精神的なモノしかない。
何度も言いますが、僕はそんなあなた方の精神のありようなんかに興味はないし、僕自身の精神のありようをあなた方にとやかく言われたくはない。That's not your business. 余計なお世話というものです。 僕が知りたいのは、本当はどうだったのかということであり、タイムマシンでもなければ所詮分かりようがない史実を、いかに歴史的・科学的なアプローチで(それこそ邪馬台国論争のように)肉薄していくかであり、この問題を世界史的に、あるいは人類史的にどう考えたらいいのか、そのヒントが欲しいのです。でも、あんまり呉れないですよね。
ところで今回なんでこんな話を書いているかというと、話は冒頭に戻ってインターネットでネタ探しをやってるところ、「父性」がどうしたこうしたという論議があることを知って、リンクをたどって、林道義氏のホームページにたどり着いたのが発端です。この人はユングのお弟子さんらしく心理学者なのですが、HPではあまりユングのことは触れてくれてません。もっぱら時事エッセイがメインでありました。内容的に僕は賛同できない、というか殆ど全てにわたって異論がありますし、賛否以前に立論の仕方が「本当に学者さんなんだろうか」と思うくらい飛躍が一面的な決め付けが多いし、言ってはなんですがよくある保守派のオヤジの床屋政談の域を出ないという印象です。
ただ、これはオーストラリアのアラン・ジョーンズなんかでも同じですが、親父的立論の仕方というのはどこも一緒なのねというのが分かったのが収穫なくらいです。例えば、アメリカのイラク攻撃でも支持派で、「時には毅然として武力を行使しなくてはならないときがある」とし、その理由も煎じ詰めたら「相手は悪い奴なんだから当然じゃないか」でしかなく、他の選択肢を緻密に模索する姿勢は乏しい。また反戦的立場をサヨク的小児的軟弱メルヘン主義であるかのように断じて片付ける発想など、オーストラリアのオヤジも、おそらくはアメリカのオヤジも一緒なのねという。要するに”男性=マッチョ論”からあんまり出ていないという。つまり、国際問題をどう解決するか、どう実現するか、どのように一人でも多くの人を幸福にするかという真摯な方法論の模索がメインなのではなく、「スカッとした力強い男性像をバーンと提示すること」に本来の目的があるとしか思えない。メチャクチャ要約してしまえば、イラクを攻撃するのは「男らしいから」OKで、反戦を唱えるのは「男らしくない」、ということでしょう。それは詰まるところ個々人の趣味の私的な宣言でしかないと思う。
こういう要約の仕方は氏に対して失礼なのかもしれないが、本当にもう一歩も二歩も突っ込んで貰いたかったです。おっしゃってる意味はそれなりにわかるし、問題意識も解決の方向性も共感する部分もあります。だけど、その帰結がこれか?え、これで終わり?という感じで、知的作業として僕には全然物足りなかったです。そんな宣言的に「〜せよ!」と言い放ったところで、魔法使いじゃあるまいし世の中変わりません。だから、どうやって変えていけばいいのか、そこでしょう問題は。知性と知識に恵まれた人だと思うだけに惜しい気はしますけど、どうも「〜せよ!」と宣言することがモチベーションのメインのようです。情念的にそういう部分に固執してしまったら、それ以上に話は進みにくいでしょうね。
だから、失礼ながら、正直に感じたところを言わせてもらえば、「世の中が自分の思うとおりになってくれない、中高年男性のイライラと無力感」が原点にあり、そのフラストレーション解消のために発言しているかのように見えてしまうのですよ。少年犯罪にせよ、父性復権にせよ、少年院での処遇を見学したり調べたりしてマジメに刑事政策や教育問題として取り組んでいるわけではなく、たまたま乗り合わせた電車にお行儀の悪い高校生達がいて不愉快だったとかいう個人的体験に端を発し、それで終わってる。教師の当然とも思える叱責に逆ギレする馬鹿親も確かにいるけど、逆に踏みつけて生徒の肋骨数本へし折るような本当にヒドい教師もいるわけですよ。問題は、親、子供、教師の3グループあるとしたら、どこかのグループにのみ「問題的な人」が固まっているのではなく、どのグループにも少量づつ、おそらくは均等に散らばってるから、話がややこしいのです。塩と砂糖がごちゃ混ぜになってしまって、さてどうやって分離させたものか?というのが今日の難問なのだと思うのです。そこを一面的な事例だけ取り出して、それを機軸に全体論を構築しても意味がない。少なくとも、僕には魅力的な論説だとは思えない。
しかし、そうはいっても小林氏の悪口大会に比べれば、まだしも冷静に筆を運んでいるし、一つの意見として読むのは十分に可能でした。
ところが、それでも、エッセイの中での"父性”欄での「○○氏への反論」というくだりになると、やっぱりなんと言うのか口汚くなっちゃうのですね。言ってることの当否はともかく、もう少し他人の感情ではなく理性に訴えるような論じ方をキープしてほしかったです。「このくらいの人でもこうなっちゃうのかー」ということで、それが一番考えさせられた点だったりします。もう今回のネタは父性云々ではなく、どうしてこんなに喧嘩っぽくなっちゃうんだろう、それにどうしてそんなに自信満々に自説を展開できるのだろう?他者を切り捨てることができるのだろう?ということを考えてみようと思ったのです。
で、考えたけど、やっぱりそんなに自信満々にはなれません。それに、他人を真剣に説得しようと思えば思うほど、激烈な言葉遣いは避けようとするんじゃないでしょうか?拗ねた恋人を説得するときとか、親友の誤解を解くときとか、そんな「お前は馬鹿だ、間違っちょる!」なんて言い方しますか?「バカヤロー!」って言って一発殴ればいいわけですか?言っちゃ悪いけど、そんなドラマみたいなファンタスティックな出来事なんか非常にマレですよ。説得しようと思うときは、相手の意見を、相手以上に理解し(すくなくとも理解する姿勢は示し)、相手がやるよりも上手に情熱的に表現できるくらいでないとダメでしょ。いわば、最初に完全な受容をして、「ああ、この人わかってくれているわ」と思ってもらって、それからでしょ、「でもね」と切り出すのは。
天下に発表する論文と、そのへんの恋人のご機嫌取りとをごっちゃにするなと言われそうだけど、でも、結局、押したら読み手は引くのですよ。読んでいて物足りないなー、「もっとハッキリ言えばいいのに」とフラストレーションを感じてもらうくらいが良いのだと思います。これは高等なレトリックのテクニックだと思うのですが、「ここまで言えばいいのに」と思わせるくらいの方が良いのは、足りない部分は読み手が自分でフォローして延長してくれるのです。その延長部分は読み手が自分で考えてやりますから、あたかも「自分で考えて得た結論」であるかのように錯覚するのですね。「自分の考え」と思ってくれたら説得完了です。
これはその昔、老練な弁護士の証人尋問テクニックとして聞いたことがあり(以前にも紹介したと思いますが)、証人尋問していて一番大事なキメドコロを敢えて外すのです。ハタで聞いていて、「そこまで尋問しながら、どうしてココを聞かないのだ?」とイライラするくらい。当然、裁判官も聞いていてイライラするので、最後に裁判官の補充尋問というのがありますが、そこで裁判官自らポイントを聞くのですね。で、人間というのは不思議なもので、自分自身が質問して得た答えというのは非常に記憶に焼きつくのですね。だから質問した裁判官は、いざ判決を書くときに、その質問が大きく影響するだろうという計算あっての話です。まあ、あざとい手法ですし、いつも巧くいくとは限らないし、裁判官も馬鹿じゃないですし、判決書くときは転勤して他の裁判官かもしれないから、絶妙な妙手というわけではないです。でも、ものの考え方としては参考になりますよね。
弁護士をやるときに、本当に説得しなければならないのは裁判官ではありません。裁判官はそんなに簡単に説得されないし、第一あんまりマジメに聞いてもいません。彼らが見てるのは一にも二にも証拠です。そしてそれは正しい姿勢だとも思います。ですから、法廷で提出する準備書面で声涙ともに下るかのような、あるいは精密極まりない弁論を書き込んだとしても、それはあくまで依頼者対策。「あなたの言い分は、ちゃんと主張してあげてますよ」というサービスです。だから法廷向けには激越な言葉使いをします。その方が依頼者さんには「よく言ってくれた!胸がすっとした」というカタルシスを与えますからね。最初から説得目的ではないからそういう言い方をするわけです。むしろ裁判官に対しては、「何を盛り上がってグダグダ書いてるんだこの無能な弁護士は、読むのが面倒くさいじゃないか」と印象を害する恐れの方が大きいくらいです。
弁護士が本気で説得しなければならない相手は自分の依頼者です。だから、そのときは法廷とは違って、ある意味ではもっと真剣にやります。どう考えても無理筋な主張を押し通し、しかも結果がどうなっても構わない、主張することに意義があるというのではなく、ちゃんと結果も欲しいというムチャな意向をお持ちの依頼者さんには、「そうそうこの世は思い通りにはなりませんよ」ということを噛んで含めるように伝え、一緒にじゃあどうしたらいいかを考えます。ここが一番神経使うところですし、一番大事なことでもあります。それは単に「言いくるめる」ことではないです。叱りつけることでもないです。そんな低レベルな仕事をしてたらプロではないと思う。その方が大事にもっておられる主観的な想念・情念を、この非情な現実世界にどのように接点をもたせ、どのように着陸させるか、とっても大事なプロセスだと思います。説得をすること、相手になにかを伝えることは本当に難しいと思います。
そういった観点でみますと、こういった論説をする方々というのは、本気で説得しようとしておられるのだろうか?と僕には不思議に思えます。こういう書き方をしたら、かえって説得力がないのではないか。広告でいえば、他社製品をボロカスに批判したら逆に胡散臭く思えたりするでしょう。だから広告戦略やマーケティング、メディアミックスに大の大人が知恵を振り絞って立ち向かうのだと思います。だって、広告やプレゼンに意味があるのではなく、結果として買ってくれなきゃ失敗なのがビジネスなんだから。そんな大掛かりな話ではなく、営業に出てるビジネスマン、店頭現場に立っている店員さんも、言いっぱなしでそれで終わりなんてことは許されない。お客さんを説得して、理解してもらって、それで結果を出してなんぼでしょうが。皮肉な言い方をしますけど、言いっぱなしでお金がもらえるんだから良い商売ですよね。
ちなみに僕は文筆を生業にするものでも、それでお金を稼いでいるものでもありません。文章書いてお金もらったことって、過去にあったかしら?契約書を起案するとかいうのを別にすれば、はるか昔に、司法試験の口述試験の再現問題を書いて、予備校からジュースとお寿司をいただいたことはありますが、そのくらいかもしれない。だから、殆どこのエッセイは趣味であり、成り行き上やめられなくなって今は最低限の生活規律を自分に課する修行みたいなものになってはいますが、いずれにせよそれが本業ではないです。そうであっても、書く以上は、結果なんか何もないけど、ある程度は説得的に、読んでいただいた人に「ふーん、なるほどね」と思われたいとは思います。
だから、疑問なんですね。日本の論壇、思想界というのが。読んでいて説得的だった文章って、ほんと数えるくらいしかないですから。経済論説の方は、シビアにお金が絡んでるからずっとマトモですけど、いわゆる一般思想的なものって、ほんと、「バカヤローといいたいからバカヤローと書いてる」だけのような、それをバカヤローと言いたい人が買って消費しているという。でも、あれが広告だったら、僕は買いませんよ。ああいうセールスの仕方をされたらお引取りいただきます。海外の論説が素晴らしいとは思わないし、それほど多くを読んだことはないけど、ただしプレゼンの仕方はやっぱり上手です。例も豊富だし、例を出してくる順番も計算してるし、出した事例が物語る以上に主張がオーバーランしてしまわないようにしている。それって基本でしょう。思想表明も論考も全てプレゼンじゃないんですか?それは意見の違う人、また意見を持ってない人に対して、自分の意見を理解してもらうこと、同意してもらう営みでしょう?意見の違う人に対して怒りを投げつけることでもなければ、既に意見を同じくする人たち内部でしか通用しない特殊な論理を共有することではない筈です。そうじゃないのだろうか?
文責:田村
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