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今週の1枚(03.09.15)
ESSAY122/大平原のなかの小さなシミ
シドニーはもうすっかり春であります。この一週間で特に温かくなりました。朝晩はなおも多少は冷えますが、昼間に太陽に照らされていると汗ばむくらいです。そしてまた、日本も急速に秋に移りつつあるのでしょう。
さて、唐突に話に入りますが、僕の人生設計は40歳で終わっていました。これはずーっと昔の雑記帳で書きましたが、なんだか知らんけど「俺の寿命は40歳」と思ったわけです、高校生のときに。当時は、大地震が起きるとか、まだまだ健在だったノストラダムスとか、汚染が激しくてもうダメだとか言われてました。ノストラダムスは別として、30年前から言ってることは似たようなものですね。その時点(70年代後半)では、21世紀なんかずっと先の話であり、このペシミスティックな情勢がそのまま行き着くところまで行って、いよいよダメになりそうな”近くもないが遠くもない未来”という”手ごろな未来”として21世紀が観念されていたのですね。そして60年生まれの僕は2001年になるときは40歳。だから40歳終焉説。
いや、いくら僕が馬鹿でもそんなに簡単に信じ込んだわけじゃないですよ。十代の青少年にとって、人生70年、80年というのは途方もない長さで、将来を考えるには手に余ったので、適当なところで端折ったわけです。「とりあえず40歳」と。まあ、「太く短く」と。大雑把な計画では、30歳までに司法試験に合格し、30代は実務フィールドで暴れる。そのハードな道のりの折々に、色々と悲喜こもごもがあるだろうし。というわけで、「ま、こんなもんでしょ」「よし、これでいこ」という感じで決めました。とりあえずは「40歳になるまでにやるべきことは全部やっておこう、40歳で死んでも後悔しないように」と。
ところがフタを開けてみたら、やっぱり日本人はセルフエスティームが低いのでしょうかね、自分を過小評価してたというか、30代に入る頃には当時考えていたこと全部やっちゃったわけです。それは僕がすごいのではなく、高校生の自分がアホだったから、やるべきことをそんなに沢山思いつけなかっただけのことに過ぎません。25歳で司法試験に受かって、結婚して、27歳で実務について、、、30歳くらいになると、もう「いかん、40歳まで間が持たないぞ、、」と薄々気になりはじめ、「うーん、えい!」と思って34歳にオーストラリアに。当初斬新だった異国の生活も37-8歳くらいになると一段落し、まったりしてきて、いよいよもって間が持たないぞという頃、「どうも40歳くらいでは死にそうにないなー」という当たり前のことを今更ながら自覚し、「じゃあ70歳かよ」と思い直し、それなら今がちょうど折り返し地点だなという気分で書いたのが、雑記帳の「僕の心を取り戻すために」の長いシリーズです。
さてさて、それでも時は流れゆき、既に厄も終わった43歳。「どうしたもんかね?」という気分でいつつも、結構どーでもよくなっています。折り返し地点で「ゲームみたいな人生は止め!」と思い、それに代わるものを漠然と考えていたわけですが、とりあえずその”計画”ってのはやめようと思ってますし、統合的なテーマらしきものを考える気分も薄らぎ、同時に「−ねばならない」という強迫観念みたいなものも無くなってきてます。かなり透明になってきてますね。
とはいっても、ひたすら枯れて無欲になって、好々爺街道を突き進むのかというと、そうではないです。これまでは別の欲が出てきました。その前提として、これまでよりもクリアにものが見えてきました。思春期の頃に暑苦しいまでに濃密だった自意識は、時とともに薄れてきますが、自意識という面倒くさい霧が晴れてくると、周囲も自分も前よりはよく見えるようになってきます。どう見えるようになったのかというと、「あまりにも広い世界と、あまりにもイケてない自分」という風景ですね。それまでは3分間証明写真で自分がいかに映っているかということが大事だったのですが、今見えてるのは、航空写真で撮った広大な原野とか大海原の風景です。圧倒的に広い風景の中央にキズみたいな小さなシミのごとき黒点があって、「これが俺ね」という感じ。でもって、これが悔しいとか情けないとか、そういう感情は湧いてこないです。わはは、これが俺かよ、ま、そんなもんだろなー、笑うっきゃないよねって感じ。
だからもう自分が全然イケてないことなど、当然過ぎるほど当然でもあります。この世のことも殆ど何も知らないし、人間的完成度でいってもお話にもならないくらい低い。それに引き換え、世界はあまりにも広いし、物事の奥行きも信じられないくらい深いし、そのなかで人間が上れる高みというのは想像を絶して高いし、だから、間が持たないどころか、「まだ何も始まってないじゃん」という気分です。「やっと始まるかな」という。
証明写真レベルのフレームワークから航空写真のフレームワークになると、ずいぶんと考え方も変わってきます。まず思うのは圧倒的な有限性です。「しょせん、自分のやることには限界があるんだ」という認識です。もっとも、有限とか限界とかいっても、「身のほどを知れ」みたいな抑圧的な限界ではないです。「どうせ俺なんか」というイジケたものでもない。そういうのはすごく嫌いでしたし、それは今でも同じですが、ここでいう限界というのは、そういう種類のものではないです。もっと平明で物理的な、あっけらかんとしたものです。誰だってそうだと思うけど、巨大な海を指差して、この海水を全部飲み干してみろと言われたら、そんなもん出来るわけないですよね。百億分の1すら飲み干せない。だから限界はあると、そういうことです。あるいは数十万冊という蔵書を誇る大きな図書館があって、ここにある本を全部読めと言われたら生きてるうちにそれを果たすのは絶対無理でしょ。
ここまで「出来るわきゃねーだろ」という明々白々とした限界があると、かえってサッパリしますね。この世には素晴らしい人も沢山いるだろうけど、その全員と知り合うのは無理。この世の美味しい料理を全て食べ尽くすのも無理。本も音楽も全部というのは絶対無理。地球上の全ての場所を訪ねることなんか無理。圧倒的というのも愚かしいほどに膨大なリソースがあるわけですが、そのリソースの海のなかに頼りなげに漂っているのが自分なのだと。
そして、それは観光名所とか、有名な芸術作品とか、美味しい料理とか、わかりやすく”鑑賞”できるリソースだけではありません。それは、例えば”生き方”においてもそうです。真っ正直に、実直に生きていく生き方も、ジゴロのようにニヒルに崩れたような生き方も、何かに燃えて殉じていく生き方も、ありとあらゆる生き方がありえるけど、それを一人で全部やるのは無理。さらに、もっと断片化された、風景や瞬間。”カンナが真っ赤に咲いているJRのローカル線のホーム、眠ったような夏の昼下がり、ひとりで電車を待っている瞬間”のように、過ぎてみれば宝物のような瞬間、シーンなんかもそうです。
ともあれ自分を取り巻く可能性というのは「無限」と表現することすら無意味なくらい膨大です。一生掛かってもそのごく一部しか体験できない。ほんとに360度どこを向いても、気が遠くなるような奥行きにあらゆるものがあるわけです。それをこれまで、そしてこれからもエンジョイしていくわけですけど、とてもじゃないけど時間が足りない。時間だけではなく、もう自分というキャパシティが圧倒的に小さすぎます。海の水をスプーンですくってるようなものです。
これだけ自他の間に埋めがたい懸隔がありますと、 なんと言うのか、野心とか、計画とか、自意識とか、そんなもん全部ぶっ飛んでしまいますよね。屁みたなもんですね。スプーン握り締めて「計画!」とか言ってるようなものです。野心とか計画とか、そういうことって、ある程度世界を狭く狭く限定して、それしかないくらいに視野狭窄に陥らないと、なかなか燃えられるもんじゃないですよ。
「目指せ!一流大学合格!」と今も受験生の皆さんは頑張ってらっしゃると思いますし、就職活動に励んでいる皆さんもいるでしょう。僕もその昔は、司法試験に合格するかしからずんば死か、みたいなギリギリのことをやってました。合格できなかった後の人生なんか不毛も不毛、無いも同然、もう考えるだに恐ろしいと思ってました。でも、言うまでもなく、そんな数千数万とある人間社会の職業スキルの試験の一つや二つコケようとも、生き方なんか無限にあります。受かろうが落ちようが、何一つ変わらないと言ってもいい。普通にサラリーマンになってたって、やってる主体が他ならぬ自分なんだから、どの道行こうが同じくらいの充実と喜びを得られたでしょう。何処で何をしようが、自分は自分、それなりにやってた筈です。今ならそれを確信できます。それを、「普通に卒業して就職するか」VS「留年して司法試験をやるか」という、信じられないような稚拙な二者択一に置き換えて、この広い世界にあたかも二つしか道がないかのように思い込んでたわけです。おお、なんという証明写真的な視界。まったく何も見えてない。全盲同然。
ただし、良いとか悪いとかいうことではなく、そのくらい視界を狭めないと、なかなか燃えたりは出来ないものなのでしょうね。また、一時期、そのくらい視野を狭めて燃えまくるのも、いい体験ではあるでしょう。だが、その程度のことに過ぎない。
余談ですけど、子供にプレッシャー掛けて一つのことを習得させるのは、ある意味では巧みな方法ですよね。技芸やスキルを習得するのは、まずものすごく沢山のデーターとプログラムを身体にインストールさせなければなりません。それも、チンタラのんびりインストールしてたらどんどん忘却していきますから効率が悪い。もう一気にインストールさせるのが一番効率がいい。でも、生身の人間には心というものがありますから、そんなに一つのことばっかりやって思いつめていたら気が狂いそうになる。だからそこが難しいところなのですが、そのメンタルコントロールとして、視界が狭い子供のアホさに乗じて、「これがダメなら死ぬしかない」と焚きつけて、尻に火をつけて必死にさせるわけですね。
そのくらい視野が狭くならないと、受験なんか馬鹿馬鹿しくてやってられないでしょう。でも、一定期間、一途に修行することなくして、何も習得できないのだとしたら、まだあまり世間が見えてない頃に、「これしかないんだ」でやってるほうがいいんだろうなと思います。あれこれ色々なものが見えてしまったら、「別にそんなことせんでも」と思ってしまって、必死さに欠けます。だからインストールが不正終了しちゃったりして、なにをやっても中途半端になります。全てがクリアに見えていながら、でもハードにやり続けることって、かなり精神的に成熟しないと出来ないですよ。普通のガキには無理でしょ。
その意味では、何ら理由を説得的に告げることなく、「勉強しなさい」と口喧しく言うのは、今思うにそれほど悪いことではないのかもしれないなー、一種の”鬼手仏心”なのかもね、という気もします。ただ、喧しく言うオトナ側はちゃんと見えてないとダメですよ。一緒になって盛り上がっちゃったらダメですよ。一番教えるべきことは、「一生懸命やる」「燃える」という身体の作動性であり、「俺はやった」という作動成功記憶なんですから。思うに、人間には二種類いて、自分自身のアイデンティティとして「何事かを成し遂げたワタシ」と思えている人間と、そう思えていない人間です。前者はそんなに心配いらないです。例え対象がなんであれ、「俺は出来る」という自画像を持ってる人間は、そうそうコケたりはしないでしょうからね。
そうそう、思い出した。司法試験をやってるとき、最終段階にはいってきた1年くらいは、もう大概アホらしくもなってましたね。別に法律家だけが人生じゃなし、というのは見えてましたし、もしダメだったら当時の婚約者と二人で、どっか富士山の見えるような地方のガソリンスタンドかどこか、夫婦で住み込みで働けるところを探して、そこで二人でゼロからやってこうじゃんとか言ってました。しまいには、普通にこのまま”平凡に”合格しちゃうより、そっちの方がロマンがあっていいなあとか心ひそかに思うくらいでした。この”富士山が見える”というのがなんか知らんけどツボだったのですね。一生懸命働いて、夕暮れになって、ふと振り向くと富士山のシルエットが見えているというのが、「いいなあ」とかと思ったのですね。でも、試験はあと一年続けました。そのときは、もう合格して夢を果たすという意識よりも、一応やりかけた以上は合格する、「人生に勝ち癖をつけておく」ということが大事だと思ったからです。とにかく、ここで一発勝ち癖さえつけておけば、あとはどうでもいいと。そのときつけた”勝ち癖”は、後日オーストラリアに行くときにすごく生きました。
さて、話を戻して、航空写真的風景が見えるようになってくると、かなり呪縛からは解放されるようになります。別に何をやってもいいし、何もやらなくてもいい。いいもの悪いものの選球眼も多少はついてきたので、良いものの凄さが昔よりもよくわかるようになってきた。同時に、良いと思える視点も増えたから、昔みたいに「○○以外は全部クソだ!」みたいな見方もしなくなります。
思うに昔は必死だったのでしょう。自分が頼りない存在であることを常に意識していて、世界を自分の理解できるように矮小化して、手に余るものはバサバサと切っていって、とにかくも自分というものを、自分の城、居場所というものを築き上げるのに必死だったのだと思います。知識も、技術も、経験も、容姿も、センスも、なにもかも、目を離せばすぐに崩壊しちゃうかのようなか細い自分を作るための、世界から攻められずに大事な自分を守るための”武器”でした。「○○が出来る俺はなかなか大したもんだろう?」という形で、世間に誇示し、自分に言い聞かし、それで束の間の安心を得るけど、もとが自信がないから、いつも「これでいいんか?」と不安に思うし、自分より凄そうな奴が出てくると牙を剥くし、必要以上に攻撃的になるという。
今は”武器”じゃないです。”道具”です。別に守らんでもいいもん、もう。だってさ、巨大な風景写真のなかのシミみたいな点なんだよ?こんなもん、別に必死にならんでいいよ。自分を築くためにそれまでバサバサ切り落としてきたものが見えてきて、そのあまりの広大さに呆然としてるわけだし、こんな巨大なものが俺は今まで見えてなかったわけね、このシミみたいなものを守るために周囲を全部塗りつぶしてたわけねと笑い出したくなっているのですから。ピラミッドの前にいるアリが、「ピラミッドなんか無い!」と言い張ってたようなものです。そんな、あるんだか無いんだかわからんくらいの微細なシミなんぞよりも、やっぱり興味関心はこのドデカい世界に向かいます。そして、この圧倒的に広大な原野だか、海原だかを好き勝手に転げまわったり、泳いだり、遊んだりするためにこそ、今まで習得してきた知識も、技術も、経験もあるのだと。だから”道具”なのだと。
そんなことをツラツラと思うと、ほう、年をとるというのは、案外と面白いもの、エキサイティングなことなのかもしれないなと思うようになってます。若いときは、自分の世界の中心において、「自分さえ良ければ」で単線的・直線的にやりゃよかったから、難易度は案外低いんですよね。年食うと、今度は色々なものが見えるから、難易度は格段に上がっていきます。
「老い」というのは、それまでひたすらネガティブなものでしたけど、意外とそうでもないなとも思います。というか、客観的に存在しているのは経時性の変化、つまり時とともに生じていく一切の変化だけです。それをポジティブに捉えれば「成長」「成熟」と呼び、ネガティブに捉えれば「老化」と呼ぶだけのことで、そんなものは見方ひとつ。あるのは、ただ、人は体験したことを記憶することができるということ、つまり学習能力があるということ、反面では代謝効率は徐々に悪化ししまいには土に帰ること、というシンプルな事実だけです。このシンプルな原則のうえで、最終的に「はい、ここまで」というところまで、後半戦をどうもっていって、どう仕上げるか、これは中々難しい。イケイケでやってりゃ良かった前半戦に比べて、後半戦は結構頭を使います。
例えば、健康にせよ、身体能力にせよ、知的能力にせよ、ほっておいたら落ちていくから、特別な配慮が必要です。力まかせにやってると後でヘバって却って効率が悪い。特に、鍛えようのないところ、頑張りようのないところから落ちていきます。例えば、酒飲んですぐに眠くなるとか。筋力とか持久力などのアクティブな部分はそう落ちないんですけど、疲労回復までの時間とか”後始末”に時間がかかる。それに、ガンとかそういう「結局、運次第」という”地雷”みたいなものも埋まってるしね。
村上春樹の「プールサイド」という小説に、僕と同じようなことを考えている主人公が出てきてびっくりしたのですが、彼も人生の折り返し点通過を強烈に意識し、そしてまず自分の身体を徹底的にチェックします。贅肉のつきかたを上から下まで恐るべき細やかさでチェックし、まるで商品の棚卸チェックをしているように検査していきます。つまり、「後半戦の配給原点」みたいなものなのですね。この身体は、いずれぶっ壊れ、機能することを停止する。いかにその劣化衰弱を遅延させていくか、という、これは一種のゲームなのですね。なにをするにせよ、自分のメンテナンスを怠るわけにはいかない。老化を遅延させるためだけでも、かなりの意思力と自制心と不断の緊張が必要です。若いときはそんな配慮は無縁でしたから、楽だったです。今はそういった余計なメンテを背負いこんでるから、それがハンデといえばハンデですが、逆にゲームとしてみれば難易度があがって面白いともいえます。
そうそう「ゲームみたいな生き方はやめた」と書きましたが、ゲーム的な要素を局所的に織り込んで、面白みを増すことまでは止めなくてもいいと思うようになってます。全面ゲームになっちゃうと視野が狭くなってダメだけど、局所的に、それもゲームだと自覚してる分には問題ないだろうと。そうそうゲームでいえば、落ちているのに落ちてないように”見せるだけ”というのは結局誤魔化しだから”反則”ですね。
あと、チェックポイントも昔に比べて格段に厳しくなってます。それまでは、自分を鼓舞するために甘い点をつけたり、あるいは自棄になってメチャクチャ辛い点をつけて、その辛さにまた自分で絶望するなんて面倒なことやってましたけど、今はもう突き放して、「あー、ここがダメね」「まだまだね」「あと10年ねー」「こりゃ、一生無理ね」とかクールに見えます。やっぱりこれまでに凄い人とか沢山見てきちゃいましたからね、基準も広範にわたるし、採点も辛くはなりますよね。自分の立居振舞いとか、全てにわたって。
技術も知識も、何もないところから習得していく段階はまだ、「つかみ取りセール」みたいに楽だったのですが、今度は両手一杯に既に抱えてたりするから、これ以上取ろうとすると、今まで手に持ってた物を落としてしまったりもします。それどころか、何もしてなくてもポロポロと落ちていきます。つまり、「昔できていたことが出来なくなっている」という現象ですね。これ、結構、腹が立つのですね。昔できていたこと、それはもう腕立て伏せの回数からギターの早弾きまで、過去最高水準を覚えてますから、それはキープしたいと思います。だからといって回復しようと無理をすると、上記のメンテ原則に反しますから、無理も出来ない。クールにやらんとならんです。
このように自分を成り立たせるために、周囲を見なかったことにして、しかもほっておいてもメンテフリーで、チェックポイントも甘いという若い頃に比べれば、なすべきタスクは段違いに難しくなってきています。
ところで、年食ってから、何をそんなに頑張るの?というと、いや、これだけ広大なものが見えちゃったらワクワクするじゃないですか?基本的にはそれだけのことです。「しなきゃ」と思ってしてるわけでもないし、やって結果的にどういう地点に行きたいとかいうのもないです。”自己実現”ということも、今ではそんなに興味もないです。ある意味ではもう実現しちゃったとも思えるし、それに実現したって、このシミのような点でしょう?こんな小さなもの、実現させるのは簡単だし、実現したところで黒ゴマが白ゴマになるくらいのことでしょう。もうそれほどワクワクするようなことでもない。「そんなことより」ですよ、なんなんだ、この世界の異様なデカさはって。
けっこうクリアにその広大な風景が見えるわけです。クリアといっても一つ一つが手にとるようにわかるわけじゃないですよ。大体の感じが分かるという。ちょうど風景写真をみながら、「この3センチくらい影のついてる部分だけでも1000キロくらいはあるだろうな」という物事の奥行きがなんとなく感じられるということです。「ああ、この世界を極めようと思ったら30年くらいはかかるだろうなー」みたいに。例えば、食べ物でも、それまでは腹が一杯になればいいんだ系だったのですが、段々とモノがわかってくると、「むむ、この味を出すのは最低十年くらいの修行が必要なんだろうな」という気持になるし、「今、とんでもなくスゴイものを食ってるんだな」というのがわかるようになります。
それに、若い頃に比べてアドバンテージもあります。それは、精神的にはタフにしたたかになってるから、自分をあやしたり、おだてたり、叱ったりという面倒臭い事務からは解放されています。自分を立たせなくてもいいっていうのは、これはかなり楽です。というか、後半戦は、遅かれ早かれ自分は滅亡していくという動かしがたい事実を当然の前提に据えて、真正面から見つめつつ、それでも気楽に「おー、すげー」とかいってエンジョイするわけですから、精神的に甘っちょろかった前半戦の自分には無理でしょう。
総じて言えば、若いときよりも、もっと遠くにいけるし、もっと深くにもいける、もっと上手に行けるというのが分ってきたということですね。同時に、「行かねば」という強迫観念もない。だから楽だし、面白いです。
(文責・田村)
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