ESSAY120/小松左京について
いなりずし屋はふり返った。 ---豆絞りの手ぬぐいを頭にのせ、桟留(さんとめ)縞の法被(はっぴ)の襟もとから紺のにおうような腹がけがのぞいていた。豆絞りの下の顔は、ぬめっとした、青みがかった白さで、眼にちょっと険があり、苦み走った、役者のようないい男だった。--- 一文字に生えそろった濃い眉の下から、涼しい眼でまっすぐ見つめられると、お糸の動悸は急にはやまり、顔にぱっと血がのぼった。 「おいくつさし上げやす?」 すし屋は、眼もとでニコッと笑って、さびたいい声で聞いた。---笑うと目の険が消えて、何ともいえない愛嬌がうかんだ。 「ええ、あの、、、」お糸は、汗が顔ににじむのを感じながら、かすれた声でやっと言った。「六つ、、、、いえ、八つ」 「へい、毎度、、、、」 すし屋は、肩にかついだ小ぶりの餅箱の蓋をとり、中身をおおった布巾を半分めくると、黄金色の薄揚に包まれたいなりずしを、長いぬりの箸で、お糸の持ってきた皿にとりわけた。 お糸は皿の上に小ぎれいにならべられて行くいなりずしを、遠いものでも見るようにぼんやりと見つめていた。-----すし屋は、最後に筆生姜をそえ、酢づけの山椒をちんまりと傍にもりつけると、つい、と差し出した。 皿を受け取り、夢の中にいるような気分で、機械的に代金をわたすと、手を出しながら、すし屋はまたにっこりと笑った。 「お嬢さん、きれいだね、、、」 とすし屋はあやすように言った。「いいお嫁さんになんなさいよ」 はっとしたとたん、指先が男の掌にふれて、電気にかかったように手をひっこめると、胸もとにすしを持った皿をかかえこむようにして、お糸とは一息二息あえいだ。 「おっとっと、、、」すし屋は、道化た身ぶりで手を泳がせた。「すしをおっことさないようしておくんなせえよ。もうそちらに渡しちまったんだからね」 そう言いすてるなり、肩にひょいと餅箱を担ぎ上げたかと思うと、もうニ、三間も先をとっとと歩きながら、 「おいなーりさん!」 と呼び声をあたりにひびかせていた。 遠ざかっていくいなりずし屋の後姿を、お糸は憎いものでも見すえるように、しばらくあえぎあえぎにらみつけていた。それから、くるっと踵(きびす)をかえすと、門内にかけこんだ。 |
ひろい入口をはいると、広土間は、見送り、出迎え、乗船を待つ人々でごったがえしていた。 土間の一方は、乗船の手続きをする帳場になり、客は帳場格子の前に並んだり、上がり框(かまち)に腰掛けたりしながら、金をはらい、切符を買っている。帳場の向こうでは、鼠唐桟に角帯をきりりとかけ、前垂れをつけた汎米屋の手代小番頭や、空色地矢絣(がすり)に椎茸髱(たば)、黒繻子帯を立て矢の字に結んだ、御殿女中風の女たちが、客の行く先を聞き、便を説明し、手荷物を受け取り、乗客名簿に記載し、切符を渡し、きりきり立ち働いている。 |
「ここからは一人でいくのだ」と宇宙植民集団の長老は言った。「コンパスと、小型ラジオをあげる。食料は宇宙食が三日分、花婿はここから真西に三日行程の所へやってくる。彼も一週間かかって、一人で会合点までやってくるのだ」 娘は荷物を受け取って、真紅の太陽のかたむきかける茫漠とした地平の森と山脈に眼を投げかけた。こんな無人の大荒野が、地球の上に残されているとは、たとえ、宇宙植民者達の訓練地域として、文明の侵略から人為的に保護されていたとしても-- 都会育ちの彼女が、想像したこともなかったことだった。 --- 草原の雄大なスロープのおちるあたりに深い森があり、そのむこうに河があり、河のむこうには岩石が散らばる荒野だった。彼女は、これからその荒れ果てた土地を、たった一人で、三日もかけてわたっていくのだ。なんという奇妙な結婚式か!(中略) はてしなくひろがる荒野の中に、娘はたった一人だった。日はすぐにかたむき、草原に霧がはい、夜がきた。娘はポケットの中から寝袋を出し、はいって寝た。森はざわめき、大地は冷え、明け方まで娘は寝つかれなかった。翌日は、胸までつかって河をわたり、さらに進んだ。死の世界のような岩場を越え、胸までの草原を抜け、、、草原のはてに、いつのものとも知れぬ、古い墓場があった。そこでまた日が暮れ、暗い森の中で夜を過ごした。風がたけり、森はごうごうとなり、亡霊の叫びのような鋭い音が、暗黒の夜空をかけめぐった。夜半、嵐がきて、娘は体の芯までぬれ、恐れがひしひしと彼女をおしつつみ、自分が死ぬかと思った。嵐の後のぬれた岩根を踏みしめて、霧たちこめる山をこえた。体のふしぶしは痛み、足ははれ上がり、頬や手にすり傷ができて、血が流れた。 三日目の夜、彼女はゆるやかな丘の上にいた。風が雲を吹き払い、満天の降るような星の光にぬれ、たった一人で --- すると黒々と広がる大地のはてに、この星のまるい形が感じられ、星辰のまたたく暗黒の宇宙空間に浮かぶ、このまるい、かたい孤独の惑星の丘の上に、自分がたった一人、ひざをかかえてうずくまっているような気がした。風はおさまり、そこでは星たちではなく、無限の星を浮かべる、広大な暗黒の虚無の空間が、彼女にむかってささやきかけるような気がした。-- 彼女は自分が、かたい、たしかな、一個の目ざめている存在であることを感じ取った。自分が、夜の闇も、恐れの森も、ほえたける嵐の中も、こごしき岩根をこえ、この地球の歴史をこえ、さらに暗黒の虚無をもこえて、たった一人でつきすすんで行かなければならない存在であること、、、----。 「いるのか?、、、、どこにいる?」その時、小型ラジオが、かすかに青年のさけびを伝えてきた。 --- 娘は、送話ボタンを押し、一言だけ、情感をこめてささやいた。「ここよ、丘の上、、、、」 丘の下から、長身の黒い影が、ゆっくり近づいてくるのを娘は丘の頂きで、すっくとたって身じろぎもせず待ちつづけた。 遠い惑星へ旅立つ娘夫婦を、宇宙空港に送りに来た夫人は、娘がわずかな間に、内面的におどろくほどかわったことを感じ取った。もう自分の娘というよりは、自分からかけはなれた一個の独立の人格をもった「女」になってしまった彼女を、夫人はまぶしげに見つめた。 |