今週の1枚(03.08.18)
ESSAY118/B地点という魔法
写真はNewtwon
日本がお盆だということで、こちらもヒマです。お盆は航空料金が高くなるからです。このときしか仕事を休めない人は観光でオーストラリアにこられますが、僕がメインにお世話しているワーホリ、学生、永住等でやってこられる人は、最初から仕事を辞めたり休学したりしてやってくるわけで、なにもわざわざこんな航空運賃の高い時期にやってくる必要はサラサラなく、結果として僕も比較的ヒマになるわけです。
SARSの影響も一段落して、僕の仕事も、また街の語学学校等にも、空港にも人が戻り始めました。いっときは人の減り方が凄かったですけどね。僕ごときの零細は全体規模が大したことないので、影響も比例してそこそこですが、30−40%まで学生数が落ちた学校も多かったように思います。「やっと一段落したみたいですね」というのが皆の合言葉のようになってます。
というわけで、おかげさまで6,7,8月と前年並みになって忙しかったわけですが、ここでほっと一息になりました。何週間か連続して「常に家に(自分ら以外に)誰かいる」状態が続いていたので、久しぶりにガランとした家にいますと、「やれやれ」という感じで一息ついてます。結果として「ちょっとお盆休み」になってます。
しかし、結果論ですが、それだったらちょっとだけでも日本に帰省したら良かったかも、、と思ったけど後の祭りです。今からチケットも取りにくいし、7月末までだったら直行往復990ドルという破格のキャンペーンもやってたのですが、SARSの影響がおさまるにつれ、8月になったら1500ドル前後とか普通の値段に戻ってます。だったら、SARSのときに帰ればよかったじゃんということになるのですが、これも結果論で、商売ボチボチのときになかなかそんなことやってる余裕がないです。
なあんだ、結局、昔と同じく、金があるときはヒマがなく、ヒマがあるときは金がないということですな。自営業者の悲哀というか、ほぼ確実に収入(サラリー)があるというものではなく、常に一寸先は闇ですので、仕事があったらつい優先してしまうという。来月も客がくるという保証はどこにもないですからね。そういえば、昔、先輩の弁護士がシミジミ言ってました。自分の限界を超えて事件を抱えて四苦八苦して、過労状態になっていても、依頼がくるとつい受けてしまうという。別にそんなにお金に困っているわけでもないし、少し仕事を減らすようにしないと健康を害するということは百も承知なんだけど、つい「稼げるときに稼いでおかねば」と思ってしまうという。
それにですね、お客さんの流れというのは、不思議なパターンを描いていて、「ああ、これなら大丈夫だあ」って調子に乗ったり、図に乗ったりしてナメると、ぱたっと来なくなるのですね。で、かなり真剣に「これって、ヤバいかも」と思い始めたらまた来るのですよ。魚屋さんや八百屋さん、あるいは飲食店業のように、同じお客さん達が毎日やってくるような業種はまた違うのかもしれませんが、今僕がやってる仕事も、弁護士業と似ていて、同じお客さんが何度も来るということはほとんどありえない業種です。裁判沙汰も留学/ワーホリも一生に一度レベルの出来事ですからね。だから幾ら今いるカスタマーに誠意を尽くそうが、それがダイレクトに明日の保証にはつながるわけではない。明日来る人はまったく知らない新しい人です。そりゃ、いい評判が回り廻って商売繁盛ということもありますが、やってる身になってみれば、それはいかにも迂遠に感じられるものです。
ですので、先が読めない。ほんとに読めないです。先が読めないと、人間、第六感みたいなものが発達するのかもしれません。そんなこんなで、不思議なパターンを感じたりするのかもしれません。でも、自営やってる人で、同じように感じてる人はよく聞きますから、なんかそういうことって普遍的にあるのかもしれません。一種のギャンブルと同じ、パチンコやマージャンと同じく、よくわからないんだけど、不思議な法則性があるという。マーフィーの法則のように。ツイてるときは何をやってもうまくいくけど、ひとつコケたらあとは何をやってもダメになるとか、その種の話ですね。
おそらく数学的確率論でいえば、別に不思議でも異常でもなんでもないのでしょう。たとえば、丁半バクチでも、丁丁丁半半丁半丁、、、と続く偶然性と確率において、丁が連続6回続いたと思ったら、次に半が5回連続で続くということもありうるのでしょう。あっても全然不思議じゃないですよね。その丁ばっかり続く過程でだんだんニコニコしてきて「よーし」と思った瞬間、半ばっかり続くようになるということなのでしょう。現象としてはあたりまえでも、その時々の段階での心理としては、「図に乗ったらダメになる」という具合に感じられるのかもしれませんな。昔から「取らぬ狸の皮算用」と言いますが、本当だわとつくづく思ったりします。
そうだ、それで関連して思い出したのですが、日本にいる時点で永住権を取って直接こちらにやってこられる人がチラホラおられます。つい数日前まで、そういう方がウチに泊まっておられました。
永住権は、取るのがどんどん難しくなってきてますから、日本にいる段階から取れてしまうなら申し分ないです。コングラッチュレーション!ものなのですが、何人かそういう方と間近に接していると、ある種のパターンを感じるようになりました。うーむ、コングラッチュレーション!って言ってりゃいいほど、話はそんなに簡単ではないな、と。何が問題なのかというと、当たり前ですけど、そういう方って感覚が日本のままなんですね。まあ、無理もないですけど。
自分自身が外国人になって外国で暮らすこと、それも企業駐在とかではなく、ひとり(ないし家族だけ)で来た場合。また、ワーホリのように年限が決まってるわけでもなく、学生ビザのように学校にいってればいいというものでもない場合。まったくの自由であると同時に、まったくなんの保証もなく、しかもそれが半永久的に続くような場合。このあまりの無重力状態に、「宇宙病」みたいになりかねないなと。特にそれまでが日本でしょう。世界であそこだけ重力が1Gではなく3Gくらいあるんじゃないかと思われる日本。すべてが地面にびたっと足をつけている社会、片足上げるだけでも結構勇気のいる社会で過ごしてきてから、いきなり無重力でしょ。バランス崩して三半規管をおかしくしまいかねないなーと。
口で説明したり、情報をお渡しはできるんですよね。「住む社会が変われば生活のパラダイムも変えないと」と。オーストラリアは、はっきりいって仕事しにくる国じゃないです。人生をよりエンジョイするための国です。言葉ではおそらく皆さんわかっているし、まさにそれを望んでこちらに来られるのでしょうが、皮膚感覚でそのあたりのことが分かっているわけではないので(当然ですけど)、ついついブルーになってしまいかねない。
なんせいい加減な国でもありますから、生活回りもそんなに一気に整備されたりしてくれませんし、それを望むべきでもないです。新居にスムースに電話が開通したら、シャンペン開けて祝うくらいの気持ちでいたらいいです。実際、テレストラ、ドン臭いですからね。「明日には話せるようになります」とかいっても待てど暮らせど通話OK状態にならなくて、イライラしながら待ちつづけ、ついにはテレストラの事務所に足を運んだなんてことはよく聞く話です。僕も最初のときそうでした。家具を買っても、デリバリーが来ない。「午前中に来るって言ってたじゃねーかよ!」と思うのだけど、電話で英語を喋るのが億劫だから督促もできず、ひたすらイライラ待ちつづけるとか。
だから、こんなのもう「ゲーム」感覚にして遊びにしちゃった方がいいです。
「全部予定どおりいって当たり前」というのは日本の常識であって、世界の非常識でもあるのでしょう。全部予定通りいくことを最低の要求水準にしてたら、そりゃ大変ですよ。「全教科100点満点で当たり前」といってるのと同じです。だから、のんびり気楽に構えていたらいいと思います。また、そうやって悪戦苦闘を繰り返している間に、多くのオージーと直接接触します。楽しい人、優しい人にも沢山会うでしょう。このように現場経験を重ねて現地に皮膚感覚で馴染んでいくことが、電話や電気なんかよりもはるかに重要なステップだと僕は思います。あまり他人に頼らず、ダメ元で自分たちでトライしていくプロセスを大事にされたらいいと思います。もう1−2ヶ月くらいかかるもんだと腰を据えて、それまでの過程は、「オーストラリア入門講座その1」というプログラムなんだと思うことですね。それを日本の感覚丸出しで、「とにかく生活できるようにならなきゃどうにもならない」とばかり緊張してたらやっていけないし、大事な基礎講座をすっ飛ばしてしまう恐れもあります。イライラするだけイライラして、結局何も学ばない、、これが最悪のケースだと思うわけですね。
永住権ではなく、最初は学生ビザやワーホリで来た人は、そのあたりのプロセスがむしろ無理がないんですね。最初はホームステイとかシェアとかから始まりますから、いきなり「電話の契約」とかいう難易度の高いことはやりませんから。また、気分的には仮住まいでしかないですから、気楽に試みることができるし、一つ一つを味わっていける。そうやって何年か現地で過ごして、すっかり現地のことが分かった上で、「もっと住みたいな、永住権とれたらいいな」とステップアップしていく人は、どうしてここに住みたいのかの理由がはっきりしてますし、身体で理解してます。だから迷いも計算違いもない。一方、あまりオーストラリアに滞在したことなく、いきなり永住権とってやってくる人の場合、どうしても頭だけの理解できてますから、「あれ、こんなハズでは」ということが多いと思いますよ。写真だけで結婚を決めるようなもんですからね。
あと、仕事もそうですが、「とにかく食っていかねばならない、生計が立つようにしなければ」と思ったりもするでしょう。それは当然なんでしょうけど、そんなに強迫観念的に思う必要はないし、思ってたら苦しいですよ。生計なんて適当に帳尻が合えばいいし、それも3年以内に収支トントンまで持っていけたら御の字です。就職も、とくに最初の一件は非常に苦労しますし、半年くらい決まらないのはザラです。それが普通。でも、なんでもいいから一件決まって仕事をすれば、現地でのキャリアがとりあえず一つ出来ますから、あとは比較的楽です。自営でなにかをおやりになるのでしたら、これは日本でもそうですが、3年間は赤字で当たり前でしょう。
むしろ最初の3年は、英語を実地で勉強したり、現地での生活全般に慣れていったり、「現地での遊び方」を研究したり、そうこうするなかで「仕事をキチンとやってるキチンとした人生」という日本的パラダイムから、「仕事なんかより大事なものは人生にいくらでもある。いかに生活を豊かにエンジョイするか」という現地のパラダイムにシフトしていくことに専心された方がいいです。僕らのこのホームページでも、メインになるコンテンツは(生活体験マニュアルとか、現地の食材とか)、最初の頃、ぜーんぜん生計が立ってない頃に、いろいろ遊びまわってたときの集積です。
永住権よりも現地生活が先行している人の場合、このあたりのことは釈迦に説法だと思います。皆さんよーく身体で理解しておられるでしょう。ところが現地生活経験がほとんどないまま、いきなり来られる場合には、まずこの”基礎”からやっていった方が無理がないですし、日本のパラダイムを持ちこんだって百害あって一利なしです。ですので、いきなり永住権とってやってこられる方、パートナーがオージーだったりして水先案内人がいるようなケースは別として、日本人同士でやってくる場合、3年間は無収入でもやっていける程度のお金を用意されたらいいと思います。なーに、思ったほど大してお金はかかりません。一人1年100万くらいでいいです。まずはその予算で暮らせるように工夫されたらいい。最初の1年はなんだかんだで200万くらいぶっとぶでしょうし、それも最初の1−2ヶ月にまとめてドカンと出て行くでしょうが、段々と支出も減ります。3年目になったらその半分で済むくらい生活のノウハウがわかるようになるでしょう。例えば最初は、治安治安と必要以上にビビってますから、セキュリティー重視でクソ高いマンションかなんかに住むんですけど、徐々に頃合というものが分かっていくでしょう。
仕事よりも生活を楽しむパラダイムというのは、例えば、衣食住によりこだわることです。日本の生活では、ともすれば衣食住は仕事をするための「補給基地」というロジスティクスみたいな感じで考えたりするのですが、そういう衣食住が仕事の「従」になるようなパラダイムはやめる、と。「美味しいものを食べたい」という自然の欲求を最大限満たすように頑張る。だから意欲的に新しい味の発見に努めたり、日本の味をいかに再現するか腐心するとか。食材を求めて知らない町にもどんどん出て行って探検する、知らない店にもどんどん入っていく。あるいはどういうスチュエーションで食べると一番美味しいか研究する。ひいては家選びでも、「もっとも美味しくゴハンが食べられそうな家」という基準を作ってみるとか。「気持ちよく眠りたい」という面を重視して、ベッド選びには徹底的にこだわるとか。
美味しいものを沢山食べて、ぐっすり気持ちよく眠るというのは、人生の超基礎ですからね、まずはそこから基礎固めをしていく。「生活を楽しむ」というのはそういうことだと思います。そして、そこは日本における仕事の真剣度と同じくらい真剣に考えることです。だから、もう「仕事」だと思ったらいいんですよね。仕事と同じくらい全力で「生活」してみる、と。そうしたら、忙しくって仕事なんかしてるヒマなくなりますよ。
バクチにも通じる自営業の第六感的カンドコロも、永住権を取得して住み始めた”無重力空間”で自分なりに天地を作ってバランスをとっていくカンドコロも、僕からしたら、どこかしら通底している部分があるように思えます。なにをやるのも自由というのは、逆にいえばお手本もマニュアルもなく、何をしていいのか分からないということでもありますし、何の保証もないという不安でもあります。「こうならなきゃダメ」「こうなってると安心」という鋳型みたいなものを叩き壊すのは勇気のいることですが、そんな鋳型を後生大事に持ってきて当てはめても前述のとおり何の役にも立ちません。霧の中、薄闇のなか、すべてが明確に見えないなかで、「よし、こっちだ」でカンを頼りに進まないとならないわけですが、でもそれをやっていかないと学べないものもありますし、そこで学んだものが一番大事な財産になるのでしょう。
そして、その財産は、なにもオーストラリアにやってこなくたって日本ででも十分に学べますし、学んできてからこちらにやってくる人も沢山おられます。こういう人に関してはほとんど心配いらないですよね。着いた途端、遊び場を見つけた子供のように、「ひゃっほー!」と走り出して、適当に機嫌よく暮らしはじめるのでしょう。
この差はなんなんだ?というと、結局はそれまでどういう生き方をしてきたのかという部分に関わってくるのでしょう。皆と一緒に大通りだけ歩いてきただけだったら、いきなり一人ぼっちでガソゴソ雑木林のなかを入っていくことに躊躇いを覚えるでしょうし、道に迷ってしまうことへの不安を抱いて当然でしょう。でも、他人と違う雑木林に入っていくのが生業になってる人、生来的にそういうタチの人は、そもそも最初から「道がない」という環境で燃えるでしょう。生来的にそういう性質の人ってのはいますよね。例えば、小学校の遠足で山道歩いていて、ちょっと目を離すと姿が見えなくなっていて、ケモノ道みたいな近道を一人でどんどん進んで、しばらくすると皆の行列の前に、擦り傷だらけの顔を輝かせて「ジャーン」とかいって登場するお調子者が、クラスに一人か二人くらい必ずいますが、そういうタイプの人です。
でも、まあ、そういう人は少数派で、多くの場合はやっぱり迷ったり、途方にくれたりするでしょう。
ところで、「迷う」ってなんなんでしょうね?どういう状態を「迷う」というのか、何をどう迷っているのか?
「迷う」というのは、例えば「希望するA地点に向かう行程において、自分の現在位置やA地点までの道筋について確信が持てなくなった状態」と定義するとします。普通にハイキングなどで道に迷った場合はこの定義のとおりでいいでしょうけど、自分で商売始めたり、外国にやってきて何をどうしていいのか分からない状態においては、そもそも「A地点って何なのさ?」ということが問い直されなければならないのだと思います。
A地点というのは、「かくありたい」という最終的な希望でしょう。理想の状態です。それは「収入に何の心配もなく、超豪邸に住んで、機嫌よくやってること」なのかもしれないですけど、より精密に突き詰めればすべては「機嫌よく」という部分に収斂されるのでしょう。いくら豪邸に住もうが、収入に心配がなかろうが、それで自分の機嫌が良くなかったら意味がないですよね。豪邸とか収入とかいうのは、お金に乏しいと不愉快なことが多いだろうという一般的な経験則をもとに、機嫌良く生きるための障害事由になりそうだから、まずはこれに対処しましょうってことだと思うのですね。お金があるというのは、機嫌よくなるための「有効な手段」として重視されているってことでしょう。だからとりあえず生計をたたせないと何も始まらないってことになるのでしょうが、カン違いしてはいけないのは、それはあくまで「手段」に過ぎないということです。そして唯一絶対の手段でもなんでもない。
よく言うじゃないですか。若い頃に商売を起こして、必死に働いて事業を大きくして、高齢になった今は大企業の会長として君臨してたとしても、毎日そんなに楽しくなくて、思い出すのは若い頃食うモノも食わずに頑張ってたあの頃。「ああ、あの頃は輝いていたな、毎日が充実してたな、あの頃は良かったなあ」と。これって、持てる者のないものねだりの贅沢でもないと思うのですよ。僕も何度も経験がありますし、皆さんもあると思うけど、求めているものは達成感であり、一番良かったなあと思えるのは、そのために必死になって準備したり練習したりしていた時だったりします。それはもう、文化祭のイベントでもそうですし、会社のプロジェクトでもそうです。何度も書いてますが、僕がこっちに来たのも、イチかバチかのバクチで司法試験挑戦したときのドキドキ、ヒリヒリした感覚を取り戻したかったからです。必死になってあれこれやってる時期が一番輝いている。
だから、思うのですが、皆から離れて雑木林や藪の中をガソゴソと進んでいるとき、あるいは霧の中で必死に考えながら手探りで進んでいるとき、不安で不安でたまらないだろうけど、実は既に「A地点」にいるんだよな、って。今迷ってるその地点が、A地点そのものなんだよって。
ただ、A地点をA地点たらしめるためには、「手段としてのB地点」が必要なんですよね。登山をする以上、一応頂上というのがないと目指すべき対象がないように、とりあえず試験なら合格、ビジネスなら大成功して大金持ちという「B地点」が必要なのでしょう。でも、こんなのは”便宜上”設置してるだけのことです。100メートル競争でも、ゴール地点に設定されている場所そのものに特別に深い意味はないですよね。100メートル懸命に走るということが大事なんだけど、どこで100メートルになるか分からないから、一応そういうポイントを設定しないと、どうも調子が出ない、燃えにくいということだと思います。
だから、そういう意味では「迷う」って何なんだろうね?って気がします。
「A地点に向かうルートを探している状態」っていっても、本質的な意味では既にA地点にいるんだもんね。だから客観的にいえば、「(A地点だと錯覚している)B地点へのルートを探している状況」であり、もっとも輝いている時期の”輝き方”の一つの形態、つまり”必死にやってる”という行為の一部として迷ってるだけなんじゃないかって。話がややこしいけど、言ってる意味わかりますか?Are you still with me?
もっといえば、本質的な意味で、別に「どっか」に行かなくてもいいんですよね。今この現場で気持ちよく頑張ることさえ出来れば、それがA地点になるんですよね。もう発想を転換すべきで、「A地点に行く」のではなく、この場を「A地点にする」のだと思います。
ただ、「A地点になあれ」といっても、そうそうなってくれないから、A地点にするための魔法をかけねばならない。魔法のかけかたとして、暫定的な目標地点としてのB地点を便宜上設置するのだと思います。何の変哲もない土地でも、向こうに「ゴール」と書かれた門を設置したとたん、そこは魅惑のフィールドになったりします。
ほんと、人間って単純だなあ、アホだなあって思います。「人間」と一般化していいのか分かりませんが、少なくとも僕に関しては、「なんて単純な、アホなヤツなんだ」って思います。どんなにしょーもなくても、目標らしきものが頭に浮かんだらミサイルみたいになってしまうという。例えば、です。例えば、お風呂にお湯を張ったりしますが、だんだんお湯が増えていくのを見ちゃったら、なんとなく最後まで見届けたいとか思って、じーっとその場に佇んでお湯が満ちるのを見つづけてしまうとか。パソコンでデフラグをやったら、画面がカチャカチャ動いて徐々に物事が進行していくと、ついつい終わるまで見続けしまう。阿呆かと思いますよね。そんなの見てたって何の意味もないし、まったくの時間の無駄です。別に見つづけていたら、機械が「あ、監督されているぞ」と緊張してサボらなくなるってもんでもないのに。
ですので、実践的な技法としては、いかに魅惑的なB地点を見つけ出すか、設置するかということだと思います。そうすれば万事うまくいく。絶対必ずうまくいくとは保証できないけど、考えうる最高の確率でうまくいくと思います。だって、一定量の仕事を集中して好ましい方向に積み上げていけば、人間なにほどかのことは成し遂げられます。要するにやりゃあいいんです、やりゃあ。でも、人間の心は弱いから、ちょっとやっちゃ不安になって別のことやったり、ウロウロするから、せっかくやってきた努力もうまいこと集積しない、全部中途半端になって、結実しないのでしょう。これまで生きていて思うのは、僕らの失敗や悲劇のほとんどのケースが「自滅」だということです。もちろん乗ってた飛行機が落ちるとか自分と関係ないところで生じる不幸もありますが、多くの場合は自滅でしょう。心が弱くて、やってることに求心力がなくなり、バラバラになってしまう。
だから、ともすれば散逸しがちな日々の努力を、大きなタガをはめて、求心性をもたせ、結実するようにもっていくためには、なにかの魔法が必要で、それが例えばB地点の設定なのだと思います。生計を立てるとかいうのも、一定量の努力を積み上げていけば、自然と出来ている筈です。物事というのは積み上げていくと、やがてとんでもない高さになりますからね。一芸に秀でている人は他の分野でも秀でているといいますが、一芸に秀でる過程、つまり何事かを成し遂げる過程で、B地点の設定の仕方というのを学んできてるのでしょう。心が弱くなってくじけそうなときは、「とにかくあの電柱まで走ろう」とB地点のレベルを下げて継続を重んじ、調子に乗ってるときはB地点のレベルをあげてより大局的にモノが見えるようにして、自戒すると。そういうことだと思います。
というわけで、まずこちらに着いたばかりの人は、日本並みにB地点のレベルをあげたりしないで、最初はB地点のレベルを下げて徐々にあっためていかれたらいいと思います。だから、新居に電話がついたらシャンペンあけなさい、と(^_^)。「俺はやりとげたんだ!」と思っていいです。でも、実際、あけたくなりますよ。
(文責・田村)
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