今週の1枚(03.08.04)
ESSAY116/どうして不況になるのか?
写真は、Neutral Bay 土曜日の夕方、ショッピングセンター前のバス停にて。遠くにバスが見えます。
経済というのは不思議なものだと思います。
日本は「デフレ日本」とか言われて久しく、深刻な不況に苦しんでいると伝えられているのに、オーストラリアは10年以上連続の好景気。バブルも膨れ上がり、不動産価格も上がりつづけ、 このままでは"out of reach"、すなわち「普通の市民の手の届かない値段になってしまう」という危機感を背景に、連邦政府も特別調査委員会を設置する運びになったとか。
オーストラリアって、OECD(先進国)の仲間には入れてもらってるものの、G7(+1)にも入れてもらってないし、サミットにも当然入ってないし、オーストラリアの動きが世界の経済に与える影響なんか微々たるものです。総人口もせいぜい日本の首都圏の半分強しかいないし、国家予算が東京都の予算といい勝負という、図体はデカいけど、経済的にいえば日本なんかとは比較にならないくらい”小国”です。
それが、ドッカンドッカンこんなに景気が良くていいのか?というくらい景気が良いのに、日本ではシーンと沈滞ムード。「失われた10年」とか言ってるちに、10年が11年に、12年に延びてます。失業率は高水準のまま改善の兆しがないし、デフレは進行して、ミクロ単位の薄利で商売をして、税収は伸び悩み、年金や社会保障は底が見えてきているという。
「なんでなんだよ?」と思いませんか?
なんでこんなオーストラリアが景気が良くて、日本が悪いのか。オーストラリアなんかさ、ある意味では恒常的に景気悪くなければ嘘だと思いますよ。世界に冠たる工業製品を排出してるわけでもないでしょ。純粋に国産でクルマも作れてないですよ(唯一のホールデンもGM傘下だったと思います)。オーストラリア製のラジカセも、パソコンも、携帯電話も聞いたことがないでしょ。主要な輸出品目は結局は、農水産物と鉱物という一次二次産品でしょ。こんなの価格が安定しないし、そもそもがそんなに儲かる分野でもないです。また、中東やブルネイのように石油だけで万事食っていけるほど出るわけでもない。
消費者の生活習慣にしても、オーストラリア人というのはモノを売りつけにくい連中です。国全体がキャンプやってるようなオーストラリアは(僕は「キャンプ国家」と呼んでます)、伝統的な料理はバーベキューというアウトドア派で、無料同然で遊ぶ方法に関しては天才的。開拓民の子供達だから家でもクルマでもなんでも自分で修理改善できるレベルが高い。日本人のように横並び意識もないし、流行なんてあってなきが如しだし。中古品の流通は徹底していて、ゴミ同然、いやゴミそのもののようなものすら流通している。だって、廃車すらも売っていますからね(シャーシーベースだけ残して後は自分で組み立てて遊ぶための人に)。だからクルマも20年もの、30年ものでも余裕で走ってるし、エンジンぶっ壊れたらまた中古エンジン積み替えて(意外とそんなに高くない、20-30万くらい)走りつづけるという人達です。
インターネットが盛ん、、といっても、そんなウチに閉じこもってパコパコやってるような暗い奴はやはり少数派で、海に山にいきます。このクソ寒い、日本でいえば2月くらいの海でも、まだウェットスーツなしに泳いでいる奴がいるという。まあ、いくらインターネットが面白いといっても、自分でヨットで青い海を走らせている方が面白いもんね。いくらエッチ画像がダウンロードできるとかいっても、自分でセックスしてる方が面白いですもんね。ケータイの普及率はかなり広がってきてますが、日本のように「小物フェチ」にならない。喋れればそれでいいやってのが殆どでしょう。
見栄もあんまり張らないから、平気で「一番安いのでいいや」「これで十分」っていって買っていくし、そもそも日本人みたいにやたら世間に対して恥ずかがったりしないから、女の子でもそのへんのカーテンみたいな布を腰に巻きつけて安全ピンでとめて終わりみたいなファッションでもOK。かなり豊満な女の子が関取みたなお腹でヘソ出しTシャツを着てて、日本だったら「お前が着るな」と周囲から白い目で見られそうなところでも、誰も気にしないし、もちろん本人も気にしない。
だから、これだけお金使わなくても楽しく暮らしていける方法がたくさんあって、人目を気にせず、マイペースで実行してる連中に、「今、これがブーム。このくらい持ってないと恥ずかしいよ」なんて言ってモノを売りつけようとしても、「なんで恥ずかしいの?」と問い返されて終わりでしょう。今でこそオーストラリアはバブルだから、結構みなさん無駄遣いしてますけど、一旦不況になったら「こんなの要らない」ってまたドンドン削るでしょう。開拓民の子供達は、質実剛健な耐乏生活に強そうだし。
というわけで、本来的に海外に対して売りつけるものも乏しく、国内的には実質重視のアウトドア派で、マイペースで、非常に「乗せにくい」連中がいる社会というのは、経済的に言えばやりにくいと思いますよ。「猫も杓子も」ってならないですからね。だから、万年不況になってても不思議ではないです。
でも、そのオーストラリアの方が不況知らずでガンガンやってるという。なんでなんだ?
別に好況不況といったって、客観的な要素でいえば何も変わってないでしょう?日本だって、バブルの頃に比べて、国土の広さが減ったわけでもないし、人間がドカンと増えたり減ったりしたわけでもなく、人々のカロリー摂取量が半分に減ったわけでもなく、戦争やってるわけでもないでしょう。10年以上前のバブルの頃に比べて、一定の広さの場所に、同じくらいの数の人間が、同じような生活をしているにも関わらず、この差はなんなんだ?と思いませんか。
そりゃ戦争やって負けましたとか、天変地異があって大損害を被りましたとか、イナゴが大発生して農産物が壊滅状態ですとか、国内が二分して内戦状態で殺し合いをやっていて生産や経済どころではありません、インフレ率2000%ですとかいうなら、経済がダメになるのは分かりますよ。世界的にはそういう国って珍しくないですから。でも、そうじゃないでしょう。ずっと平和で、似たような枠組みで暮らしていながら、浮き沈みがあるというのが、それもこんなにヒドイ浮き沈みがあるというのが、僕にはよくわかりません。
それが経済というものなんだよ、経済というのは生き物なんだよと物の本には書いてありますし、僕も理屈の上では納得できないわけではない。でも、「ほんまかいな?」という気も抜けなかったりします。
好況不況というのは、結局はお金がガンガン廻るか、ボチボチ廻るかの回転率の問題で、皆がガンガン使えば消費も増大し景気も良くなる。皆がチビチビ貯め出して、お金を使わなくなると不況になる。
商売というのは損益分岐点があって、目論見どおり一定量売れないと自動的に損するようになってます。経費は固定のものが多く(家賃とか人件費とか)、売れようが売れまいが一定支出はかかる。だから、ある程度のボリュームの客が来てくれないことには赤字になります。でもって、その分岐点は業態にもよりますが結構高く、100人客が来たとしても90人くらいが分岐点だったりします。9時から5時まで働いたとしても、昼過ぎの3時4時くらいまでの儲けは経費で消えていくようなもので、最後の上積み部分が儲けになる、と。だから、「また今度にしましょ」と買わないお客さんがほんのちょっと増えただけでもかなりの打撃なんだと思います。皆が節制しだして、売上が10%20%落ち込んだだけで、もうぶっ潰れる構造になってるのでしょう。そりゃ蓄えもあるからいきなりは潰れないけど、それが続けば潰れる。なんとなく思う以上に微妙なラインで経営というのは成り立っているのだと思います。
でもって、お金を使うか使わないかの決定は、これは個々人の問題だから自分の心理を分析すればわかるのだけど、結局、お金を使うときというのは、「将来またお金が入ってくるだろう」という見込みがあるときですよね。いくらドカーンとボーナス貰っても、来月にはクビになるというのが分かってたらお金なんか怖くて使えないですよね。平たく言えば、自分の生活、「この先もなんとかなりそうだな」という明るく楽天的な気分のときは、財布の紐も緩み、「いや、先々厳しいかも」と思い始めたら紐も固くなるということですよね。だから、経済の根っこは、皆が「どう思うか」という、個々人の心の中にあるのでしょう。特に、こんな客観的変動(天災とか)がない平常時ではそうです。
その意味では、日本は不況だ不況だ、もうお先真っ暗だ、将来はゼロだなんて言ってるのが一番良くないんですよね。ジョークでいえば、水道局に命じて、皆が飲む水に鬱病患者に投与する向精神剤というか、気分が明るくなる薬でも混入させておくのがいいのかもしれません。その水を飲んだ日本国民が、多少ラテン系になって、「明日は明日の風が吹く〜」となってくれたら、景気も良くなると思います(^_^)。いや、ほんとに。
でも、あんまり自分の将来、つまりは日本の将来が明るく輝いているような感じがしない。客観的に、冷静に考えれば考えるほど、「アカンのと違うやろか?」という不安がわいてきます。とてもじゃないけど、「なんとかなるさ、わーい!」という気分にはなれそうもない、というのも分からないわけではないです。
ただ、ここで思うことが幾つかあります。
一つは、日本経済は「水ぶくれ経済」というように、ブランド品買いあさったり、よく考えたら全然必要がないけど流行ってるからなんとなく買ってるという期間限定の付加価値を買ったりして、壮大な無駄使いを皆がすることによって廻ってる部分があるということです。
オーストラリアも景気良くて、皆さん無駄遣いしてるけど、でもこっちの感覚に慣れたら、日本人の生活って物凄い無駄遣いが多い。まあ、無駄か必要かなんてのも主観的な感覚に過ぎず、一義的に決められるものではないし、その生活に慣れたらそれが当たり前だと思うのですが、ちょっと視点を変えたら全然必要なかったりするものってあるでしょう?だって、クルマだって10年、20年と乗ってないじゃん。ケータイだって、別に写真なんか撮れなくなっていいでしょ。メールなんかマジにどれだけ必要なの?インターネットも、僕は仕事だからやりますが、仕事以外においてはあんまりやらないようにしてます。服だって、装身具だって、そんなに立派なものが要るの?別に風呂敷だっていいんじゃないの?
余談ですが、風呂敷は弁護士必須アイテムでよく使ってただけに、僕には愛着があります。だって、訴訟資料ってすごい量が多いんです。積み上げて高さ50センチの資料の山を法廷に持っていくような日々なんですね。でもって、これだけ膨大な資料をカバンで運ぶくらい無駄はないんです。資料の量は千差万別だけどカバンの大きさは常に一定。だから収納できないときもあるし、収納できるときは必ず無駄なスペースと重量を背負い込みます。その点、風呂敷はキッチリ中身の大きさだけの容積しかとらないし、カラのときは折りたためるから原被告席のテーブルの上も整理しやすい。つまり、およそデッドスペースというのモノがない最高に合理的な運搬アイテムです。安いし。幾らでも数をそろえられるし。ところで、こちらの弁護士は下に車のついた運搬用カートで法廷に臨むようですが。余談でした。
”無駄遣い”の話ですが、住環境にしても、清潔、安全、便利を極めるし、服装や身だしなみでもそういう部分あると思います。確かに生活水準は向上したかのように見えます。でも、本質的な意味で向上したのかな?本当の贅沢をしてないんじゃないかな。世界の一流品や痒いところに手が届く優秀な製品に囲まれ、ホンモノのエレガンスさを身に付けたり、エレガントな生活をしてますか?思うに、「本物」というのは、たとえ質素なあばら家でも、日本の茶室がそうであるように、主の生き方を反映して、部屋そのものが独特の気品と風格を備えているものなのでしょう。部屋に入っただけで、思わず背筋がシャンとなるような。そういうことがホンモノだと思うのですが、そういう意味では別にイッコも変わってないのではないですか。言葉悪く言えば、むしろなにか本質的な貧しさを誤魔化すために、ベタベタ厚化粧しているというか、まあ、もっと言葉悪くいえば、成金趣味じゃないの?いくら世界の高級品を身につけても、歩き方に気品のない奴が着てたらしょうがないでしょ。そういえばヤクザってブランド品大好きだしね。
まあ、そんなの個人の趣味だからどうだっていいのですが、言いたいのは、「別になくなっていいんじゃない?」というモノやサービス、さらにいえば(本人の本当の希望や目的からしたら) 「むしろ無い方がいいんじゃない?」というモノゴトを購入し、消費し、それを維持するためにお金がかかってるようにも思えるんです。
ろくな文章も書けない奴がモンブラン持つな、車庫入れも満足に出来ない奴がフェラーリ乗るな、Fも押さえられない奴がギブソン買うなみたいなもんです(^_^)。そんなの個人の自由なんだろうけど、でも、その本人は要するにカッコよくなりたいんでしょ。「カッコよくありたい」という最終目的のためには、むしろ逆効果なんじゃないかって。そこらへんの商店街の福引の景品のボールペンで書いた作品でノーベル文学賞を取る、というのが、僕の価値観では最高にカッコいいです。何にせよ、モノに本人が負けてたら、その時点でももう致命的にカッコ悪い。世界の一流品を身につけるなら、自分がまず世界で一流の人物になること。本人のダメさをモノでカバーしようとしはじめたら、「終わりのはじまり」というか、ヤバいと思いますよ。また、それがもてはやされたり、周囲で評判高かったりしたりしたら、その周囲も良くない。なんというのか、「なにか大事なものを早々と諦めてしまった人たち」のような気がする。そういう人生、本意じゃないでしょ?カッコよくなりたいでしょ。カッコよくなろうじゃん。でも、まあ、これは僕の価値観に過ぎませんけどね。
そういう意味では、日本はデフレになっていいと思います。まだまだ全然手温いくらいです。もっともっとブヨブヨしたた生活から贅肉を削ぎ落として、ソリッドになっていいと思う。
ただ、そうすると益々経済は悪くなりますよね。皆どんどんモノを買わなくなっていきますからね。
でも、本当にそうかな?というのが次のくだりです。
先ほど、将来「何とかなるさ」と思えたら、景気も良くなるという、本質的に心理的・マインドの問題だと書きました。まさにそこにリンクするのですが、生き方や生活をソリッドに鍛え上げていけば、「なんとかなる」と思える範囲が広がるんじゃないかということです。
ワーホリで来られて、ラウンドに出て2−3ヶ月もすると、それまでいい旅をしてきた人は一定の境地に達します。「大地と空気と太陽があれば、それで十分。それで充分俺は幸福になれるんだ」という境地です。だって、ほんとのことなんだもん。動物はみなそれでやってるんだし、人間だって基本的にはいっしょでしょ。他に何が要りますか?生きてさえいえればOK、生きてるだけで丸儲けという。
そんなにあれこれ心配することないですよ。大地も、空気も、太陽も、全部ありますよ。少なくとも自分が死ぬまで、自分の子供が死ぬまでは尽きてしまうことはないでしょう。だから、基本的にはOKなんですよね。なんか、こんなこと言ってると宗教の教義みたいだけどさ(^_^)、でも、そうとしか言えないよなってのはあります。
これって結局は自信の問題だと思います。どんな環境でも逞しくやっていけるという自信があったら、今の日本で沈滞する必要なんか何もないです。自信がないから他人の目が常に気になるし、自信がないからあれこれ備えておかないと不安なのでしょう。ワーホリでも、留学でも、日本では何かが得られないからこちらに来るのだと思いますが、何が得られるかというと、一番大きなものはこの自信なんだろうと思います。
今も、将来の渡豪に備えて、いろいろ準備しておられる方がいると思いますが、不安を増大させるようなことを言って悪いですけど、日本でやる準備なんか現地にきたら、殆ど何の役に立たないと思ってください。絶無とは言いませんけど、ほとんどが、無駄でしょう。だってさ、オーストラリアの空港で検疫のところでひっかかるとしますね。あの検査ってどうもランダムにやってるみたいだから、まったくのフリーパスで出てくる人と、徹底的に全て調べられる人とが出ます。常にどちらかだから、誰の体験談を読んでもどっちか一方しか書いてないんですよね。だから読むほどに混乱するでしょう。そして正しく全体を理解したら「要するにランダム、運次第」という事実に行き当たり、こうすればOKという対策はほぼゼロになって、準備のしようがないですよね。
でも、不安でいいです。いや、不安の方がいいです。不安のまま来てください。変に誤魔化さないで。「日本でホームステイ先を決めておいたほうが安心」とか、何が安心なのか論理的にも現実的にも説明できない妙な気休めにしがみつかないで、不安は不安のままきて下さい。そんな必死こいて準備しなきゃならないほど、オーストラリアはカントリーリスクが高くないですから。
そして、不安のままやってきて、現実にやっていくなかで、不安が安心に変わっていきます。そのときに、心のなかで大きな化学変化が生じます。つまりは、自信というものが芽生えるんですね。逆にいえば、自信というのはそういう過程を経ないと生じないです。酸素と水素が結合しないと水にならないみたいに。最初から安心なことだけやってても自信なんか生まれない。あなたの不安は、あなたの将来の自信のモトです。種子みたいなものです。だから、妙に不安を誤魔化したり潰したりしないで、大事にしておかれたらいいと思います。
それから転じて思うのは、今の日本だって、将来不安でしょうけど、不安を大事にしたらいいんじゃないかと。「なんとかなる」というのは、こちらで生活してきた人が口をそろえて言う言葉ですが、これって実体験でなんとかなった人でないと実感できないと思います。「へーえ、結構なんとかなるもんだな」と。実際に何とかなったりすると、そこで不安が減少します。そして、「ふーん、じゃあこんなことも出来るかもな」と、将来への希望が灯ります。
でも、本当は「なんとかなる」というよりは、「なんとかする」んですよね。皆さん、「なんとかなる」というけど、実は何とかしてるんですよね。その過程を細かく見てると、例えばこういうことです。おっかなびっくり英文FAXで宿を予約したけど、行ってみたら予約が全然入ってなかった→トボトボとスーツケースをひきずって他の宿を探す→親切なオージーが「どうしたんだ?」と聞いてくれたけど何を言ってるんだか聞き取れなかった→暗くなってきて不安になるし、疲れてくるし泣きたくなる→それでも歩いていると安宿みたいなところがあって思い切って入ってみる→今日は満室だと言われてガックリくる→気落ちした姿を見た受付のオージーが、他の宿に問い合わせて空いているのを確認してくれる→やっとのことで宿にありつける、、、、とまあ、こんな感じだと思うのです。
で、ひとつひとつの行程をみてると、全然「なんともなってない」んですよね。最後の最後で宿が見つかるだけで、途中は挫折の連続です。でも、最後でうまくいったら、「なんとかなった」と思えるんですよね。そんなこんなの連続で日々が過ぎていくうちに、「なんとかなるもんだな」という気持になるのでしょう。だから、正確に言えば、何ともなってない挫折的状況で、諦めるわけにはいかないから何とかしようとトライしてるわけで、それの集積の上に何とかなってるんですね。
そして大事なことは、世界の弾力性というか、このくらい押したらこのくらい返ってくるという頃合がなんとなく身体でわかってくることです。好結果が返ってくるまで、どのくらい努力しなきゃいけないのかというのが分かるし、何度もやってると慣れてくるから努力が努力とも思えなくなる。このカンドコロが大事であり、これこそが最大の財産だと思います。でも、これは実際にやった人でないと得ることは出来ない。
というわけで、「なんとかなる」というのは、なんともならないことの連続でありながら諦めないで何とかしようとトライしてるから、最終的に何とかなってるわけであり、その繰り返しによって物事の動かし方、自分の動き方を身体で覚え、「自分はこのくらいのことは出来るハズ」という確信になり、それが「自信」になるのだと思います。
「なんとかなる」という語感から連想されるように、適当なところで天からラッキーが降ってくるというようなものではありません。そしてまた、「誰かが何とかしてくれる」という受身なものでもありません。もっともっと積極的なものです。
これを、受身でやってると厳しいです。「何とかしてくれる」のを待ってるだけだと、物凄い不安だと思いますよ。してくれないかもしれないのをじっと待ってるだけですから、神経が耐え切れないでしょう。自分から動けば、仮に不成功であったとしても、状況が変わり、景色が変わり、次へのヒントが出てきます。それをし続けることによって、コツをつかみ、自信をつかむのだと思います。
今の日本も、この不景気を誰かがなんとかしてくれると思って待っててもしょうがないって部分もあると思います。何とかすべき立場にある人への健全な批判や、積極的な働きかけは必要です。そうそう、思うのですけど、なんで自民党に皆さん投票するかな?と。野党はまだまだ力不足で安心できないからといいますけど、そりゃあ無理ですよ。やったことないんだもん。そんなこと言ってたら永遠に現職有利ですよね。二大政党制っていうのは、一定期間権力を持ってると腐る部分も慢心する部分もあるから、適当なところでチェンジさせましょうということです。仮にこれまで巧くやってたとしても、10年超えたら「そろそろ交代かな」ということでリセットをかけるところに意味があるのだと。だから、野党が無能でもある意味いいんですよね。政権党に、有権者の怖さと誰が主人なのかを教え込み、いい加減なことが出来ないようにするために、定期的にクビにしてやるんです。そこにポイントがあります。ガチガチの利権構造で身動き取れなくなってる日本の場合、その構造自体を解体することが何よりも優先的な治療法だと思います。
政府の景気対策が不十分とかさ、野党にはそれをやる実力がないとか、結局のところ他人任せでしょ。「なんとかしてくれるのを待ってる」からこそ、そういう発想になるのだと思う。「なんとかしてくれる」という意味では、自民党は一番何とかしてくれるかもしれない。というか、「なんとかしてくれるだろう」という日本人の政治に対する根本的な考え違いというか、甘えの上に立脚している政党みたいなもんですからね。皆がそう思ってる限り、未来永劫安泰でしょう。
ハッキリ割り切ったらいいんですよ。誰も何にもしてくれないよ、と。
お年寄りとか、福祉とか、そういった方々に対するサポートは、これは何とかすべきであり、これを何とかしないのは国の恥だと思います。でも、別にそう大きなハンデがない人達が、てめーの食い扶持の面倒なんか他人をアテにしてはならない。もっともっとデフレは進行するでしょうし、失業率も増えるでしょうし、年金はまずダメでしょうし、誰もあなたの生活の面倒なんか見てくれないです。
でも、それがどうした?ですよ。
そんなの当たり前じゃん。それが原点でしょう。野良犬だって、スズメだって、シマウマだって、ミジンコだって、それでやってるんでしょう。バブルの頃に比べて、人間が減ってるわけでも、国土がなくなってるわけでもないです。しかも、相手は「乗せやすい」日本人。客観ニーズはしっかり残ってるんだから、メシの種はまるまる残ってる勘定です。というか、皆が「ああ、これで満足だー、もうなにも欲しくないわー」という天国状態だったら、需要もヘチマも生じないから経済の成り立たせようもないけど、とてもじゃないけど天国状態ではない。皆、なにかに飢えている。なにかを欲している。だから、需要は必ずある。
さっき言ったデフレ賛成論じゃないですが、虚栄的、フェチ的、強迫的、誤魔化し的無駄遣いはデフレの斧で削ぎ落としたらいいけど、人々がそれを求める精神エネルギーというのは、エネルギー不滅の法則で残存してる筈で、それはどこかに必ずや向かう。その向かう先を予想して、そこで待ってりゃ客は来ると思います。
それが何なのか、それは思い思いに考えればいいのでしょう。
僕は、おそらくは「ソリッドな本物」が欲しくなるだろうと思ってますし、だからこうしてその一つの入口で待っているわけです。
(文責・田村)
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