今週の1枚(03.07.28)
ESSAY115/雅量・tolerance
写真は、Glebeの路地裏から眺めるシティ
なにか不愉快な出来事に接したとき、いたずらに感情的になるのではなく、より大局的・長期的な視点から、多少の不快さは我慢してやり過ごすこと、またその我慢について理性的な洞察と納得が伴うこと-------
tolerance, patience という、いい英語の言葉があります。トレランス、ペイシェンス。寛容、許容、忍耐、根気という意味です。日常生活でもよく使う言葉で、長いことお客さんを待たせたときなど、"thanks for your patience"などと言ったりします(辛抱強く待っていただいてありがとう)。”Be patient ! "(焦るんじゃないよ、じっとしてろ!)とか。
tolerance(トレランス、名詞形、許容性), tolerant(トレラント、形容詞形、許容性のある), torelate(トレレイト、動詞形、寛大に扱う)という言葉は、ペイシェンスよりももうちょっと格調高いというか、硬いというか、「異物に対して許容性の高い社会」のような論説文などによく使われたりします。
もう少し語義をコウビルド英英辞典で精密に調べてみると、"Tolerance is the quality of allowing other people to say and do as they like, even if you do not agree or approve of it." "Tolerance is the ability to bear something painful or unpleasant" 等と書かれています。「トレランスというのは、たとえ自分の気に食わなかったり賛成できなかったとしても、他の人々が好むままにものを言ったり行動したりすることを許容する性質」であり「なにかしんどいことや不快なことを我慢する能力」ですね。
ちなみに、patience は、”If you have patience, you are able to stay calm and not get annoyed, for example when something takes long time, or when someone is not doing what you want them to do"となっており、「もしあなたにペイシャンスがあったら、例えば何事かが非常に時間をとったり、あるいは他人があなたの思うとおりに動いてくれなくても、平静を保ち、心乱されることはない」となってます。
英語の授業ではないのでこのくらいにしておきますが、大体の意味はおわかりになったと思います。僕個人の私的な語感でいえば、patienceというのは、もっぱら人間の「ガマンする」「ガマン強さ」という精神的でエモーショナルな状態や特性を言い、toleranceは人に限らず物でも社会でもなんでもよく、異なるものに接しても乱されないという「耐性」「許容性」という「性質」をいい、人間においてはガマンするという感情的努力というよりは、知性的な理解力に重きがおかれているように思います。つまりペイシェンスは頑張って我慢しているその頑張りがポイントで、トレランスは、どちらかというとそういう一時的な頑張りではなく、もともとそういうタチ、本来的性質であるようなニュアンスがあります。またペイシェンスは、無色透明に純粋に我慢するだけのことなのですが、トレランスはより高度な哲学に基づいて理知的な確信をもって「許す」という感じがします。つまり許すこと、我慢することがイイコトだということを知っているからそうするという。
ここで、僕が興味を惹かれるのは、我慢強さのペイシェンスではなく、トレランスの方です。トレランスについて、いまから僕が言う内容にもっともフィットした日本語としては、ちょっと聞きなれないかもしれないけど、「雅量」という言葉があり、これが一番近いと思います。雅量。聞いたことありますか?広辞苑によると、「ひろく、おおらかな度量。例文"敵の健闘をたたえる雅量が欲しい”」となってます。いい言葉ですね。「雅(みやび)やかな度量」。なお「度量」というのも、東洋的な概念ですね。単に心が広いというだけではなく、人間的なスケールの大きさ、深さまでも意味していて、なかなか英語にしにくい概念です。
さて、その雅量なりトレランスがどうしたかというと、最近その雅量が乏しくなったなと感じることがよくあるからです。乏しくなったのは日本社会もそうですし、また省みれば自分自身もそうです。
なにか不愉快な事件、とりわけ残虐な犯罪事件が起こったとき、「そんな奴は死刑にしてしまえ!」と思ったりします。でもってそういう乱暴な意見があちこちで聞かれたりします。犯罪者に人権はないとか言ってみたり、少年だからといって特別扱いするべきではないという声もあがったりします。
すごく不愉快な奴がいた場合、とりあえずそいつを目の前から排除したくなるのは、ある種動物的な本能でもあるのでしょう。ただ、そんなことばかりやってたらこの世には完璧な人間しか生き残れない。というか完璧な人間がいたらいたで、「イヤミな奴」に見えたりするだろうから、結局誰も生き残れない。誰かにとって不愉快な存在だからという理由だけで、その人を抹殺することが許されるならば、平和も秩序もへったくれもないです。ムシャクシャしてるときに目の前を歩いていたというだけでも、十分「こいつムカつく奴だ」ということになり、殺されることになる。どうなるかというと、結局は北斗の拳的な世界になって、強いか弱いかだけで話が決まっていくでしょう。
結局、誰もが感情の赴くままにやってたら世の中メチャクチャになっちゃうということです。だから、感情のままに動いてはいけない、少なくとも他者を物理的に傷つけてはいけないというルールができます。ルールを破った者には皆の合意によるシステム的制裁、つまりは国家権力、ありていにいえば「暴力」が加えられ、処罰されます。なお、精神的に傷つけるのも勿論いけないのですが、これは具体的に行為や被害がよく見えないのでモラル的には良くないけど、直ちに国家暴力の発動までには直結しないようになってます。
秩序とはなにか、社会とは何か?というと、とりあえずは「ガマン」なのでしょう。ムカつく奴を目の前にして自分がガマンするのも苦しいだろうけど、同時に他人がガマンしてくれてるからこれまで殴られたり殺されたりせずに生きてこれたという面もあります。それはもうお互い様です。そのシステムで腹の立つこともあろうけど、そのシステムで知らないところで得をしてることもその何倍もあるのでしょう。もし、誰を殺してもOKという社会だったとしたら、あなた今まで誰にも殺されずに生きてこれたと思いますか?恋人と楽しく町を歩いているだけでも、どこかの誰かから「くっそー、イチャイチャしやがって」という嫉妬とムカつきの視線を浴びたりもするでしょうし、志望校に合格して万歳してる姿を落ちた人から恨みがましく見られていたかもしれませんよね。酔っ払って羽目をはずしていたときなんか、もしかしたら「うるせーぞ、この酔っ払い」といって、駅のホームにいきなり突き落とされていたかもしれない。
なぜそんなことが起こらずに今まで生きながらえてこれたかというと、「それをやったら身の破滅」という国家的システムが働いているからです。なお、もう少しうがった見方をすれば、僕らの周囲の日本人というのはそれだけ失っては困るものを多く持っていたから、ともいえるでしょう。刑務所に行くくらいならガマンした方がマシというレベルの生活をしていたのでしょう。これが、皆が餓死寸前で前途の希望ゼロで、刑務所の方がまだマシだったら、そんなの歯止めにならないでしょうからね。
次に、ルールを破った人にはどういう処分をしたらいいのか、です。これまた感情的にやることは許されず、ありとあらゆることを考慮に入れて、もっとも妥当と思われる処分をすることが求められます。当たり前の話ですが。
そして、そこで、その社会における雅量、トレランスというのが試されるのだと思います。気に食わない奴に対して、どれだけ冷静に、深く、公正に対処できるか。
少年犯罪について、「人を傷つけておきながら、自分だけ教育更生の機会を与えられるというのは不公平だ。悪いことをした奴は、大人も子供も関係なく平等に罰するべきだ」という意見がありますし、だから刑事処分可能年齢を引き下げましょうという動きにもつながっているのでしょう。
こういう意見を言う人というのは、そもそも少年犯罪について大人と違った「ゆるい」扱いをすること自体に納得がいかないのでしょう。「なんでコドモだけ、甘やかすんだよ?」という。そこには、太古の昔からどの人間の部族にもあった大前提、「コドモは一族の宝だから、大切に守り、育てなければならない」「コドモは、未熟がゆえに多くの過ちを犯すであろうが、それを厳しく躾るのは当然としても、それを理由に処刑するのは論外である」という原理はあまり見られない。
また、精神病者の犯罪が責任能力がなくなるのというシステムに納得がいかない人は、やはりこれまた人間の部族に伝統的にある、「一族の中にはどうしても何かにハンデを負う人間が生じるし、その負担は他の一族の者が平等に分担しなければならない」発想が欠落しているのでしょう。
いずれにせよ弱者の負担を、強者が平等に背負い、仮に弱者が弱者ゆえに迷惑をかけることがあっても怒ってはならないのだという昔ながらの人間的なモラル、それがすなわち部族の雅量であり、トレランスだと思うのですが、そういったものが薄らいできているんだろうなと感じます。雅量の乏しさと反比例するように、日本では「キレる」という、まさに雅量の対極にあるような言葉がここ十数年来定着してきています。度量が浅くなってきているから、すぐにキレてしまうのでしょう。
ただ、どうでしょう、実際本音の話として、子供やハンデを負った人に対する人間的理解と優しさ、そういった温かい気持、それがあるからこそ多少の迷惑はガマンできるという自然の情愛みたいなものが減ったりしてませんか?だから、少年犯罪の理念も、責任能力の理念も、ただのキレイゴトにしか映らないんじゃないですか?どっかのエラそうな世間知らずのインテリ達が、高尚だけど、屁みたいなタワゴトを振りかざしているだけにしか見えないんじゃないんですか?
もし、多少なりとも思い当たるフシがあるならば、この際自覚しておいた方がいいと思います。あなたもまた「弱者」なんだ、と。とてもイヤらしい、トレランス皆無の言い方をすれば、この社会の足を引っ張る、できれば消えてもらった方がいいような、使えない弱者になりかけてはいないか。強者だったら当然持ちうる心の余裕も、健やかに育った者が持つすこやかな優しさも薄らいできて、自分のことだけで精一杯という貧しい能力と器量しか持ちあわせていない弱者なのだと。
そして、また、そのことは僕自身にも当てはまるのです。
僕もまた、俺ってこんなに弱かったのか?と当惑しています。
僕自身、こういった文章を書いてるくらいだから、理念的な内容は理屈ではわかってますし、納得もしてます。しかし、それは理性的な納得であり、なんかこう温かい泉が湧き出てくるような慈愛に満ちたものではないです。慈愛の乏しさを理性的な働きで補っているというか。どうも、なんか、他者に対する愛情が乏しい人間になってきてるのかな、それってサイテーじゃんとか思うわけです。
なんかもっと、雅量が欲しいですねえ。足を踏まれても、ヘラヘラ笑ってられるくらいの。「何すんだ、この野郎」でその気になったら3秒で相手をノックダウンさせられるだけの腕っ節をもちながら、いや持っているからこそ、そんな小さなことではイチイチ腹が立ったりしないという具合にいきたいものです。さらにその上のレベル、自分が全然強くなくても、そんなの気にしないで心からヘラヘラしてられるくらい強くなりたいですね。裏切られても、裏切られても、「いやあ、彼も大変なんだよ」と笑ってられるくらい、もう無限にお人よしになれるくらい強くなりたいです。
そのような平素の希望とは裏腹に、「あー、もー、こんな阿呆、早よ死ね!」とかイライラ、気軽に思ってしまう自分が情けない。そうそう、年をとると気が短くなるとか、狷介(また難しい字を使ってしまった、心が小さく固いこと)になるとかいいますが、あれって年を取って自分が弱くなるからかもしれませんね。弱い犬ほどよく吠えるで、弱くなればなるほど攻撃的になりますから。
ところで、オーストラリアは他者や、弱者に対するトレランスが高い社会だと思います。英語ヘタクソでも、驚くほど辛抱強く、ニコニコ接してくれます。日本でこれだけ日本語がヘタクソな外国人がいたら、あの忙しい日本の人はもっと冷たいと思う。
あとクルマの運転などもそうですね。大体こちらにきて皆びっくりするのは、横断歩道でクルマが停まってくれることです。別に信号でもなんでもないのに、人がいたら、それまで快適に走っていた車が急にスピードを落として、あるいは停車までして歩行者を渡らせてくれます。もちろん全部が全部ってことはないですが、その確率は「ちょっとびっくりする」くらい高いと思います。
また、運転のヘタクソな人に辛く当たらないですね。これはこちらでゼロから免許を取ったカミさんがシミジミ言ってましたが、いくらトロトロ頼りなげに走っていても、みな辛抱強く後ろからついてきてくれるし、クラクションを鳴らしたりもしないと。最近、シドニーは世知辛くなってクラクションを鳴らしてる車を結構見かけるようになりましたが、それでも5時間走って一回聞くかどうかくらいです。昔はもっとのんびりしてて、1年に一回きくかどうかだったような気もしますが。
駐車場でも、辛抱強く前の人が車庫入れするのを待つのが当たり前ですし(平気で数分くらい待ってる)、一番感銘をうけるのが、車線合流などで他から入ってくる車をどんどん入れてあげることですね。日本だと、もう意地みたいになって「絶対入れたらへん」!と頑張ってブロックするのですが、あれ愚劣な習慣だから即刻改めたらいいです。だって、一生の間に、自分が列に入れてもらう場合と、誰かを入れてあげる場合とで、平均すれば誰でも同じくらいでしょ。誰だって同じ立場に同じくらいの確率でなるんだから、気持ちよく譲り合ったらいいじゃないの、結果的にはトータルで一緒でしょ、結果が一緒だったら気持ちよくやればいいのに、イガイガやりあってるのって愚の骨頂じゃん。
結局、総じて言えば、オーストラリア社会というのはトレランスが高いんでしょう。これだけ自分の国に移民がやってきて、自分の知らない言葉をしゃべりまくって、どうかしたら町全体がその民族に乗っ取られそうになったとしても(実際、「乗っ取られてるのも同然」みたいなサバーブは結構あります)、こんなの日本だったらオウムの排斥運動みたいに、住民の排斥運動が起こって当然と思うのですが、そういう動きも特にないです。あなたの町の住民の7割がイラク人になったとしても、結構ヘラヘラしてて気にしないという。勿論、これも気にする人もいますし、それがイヤで出て行く人もいますよ。でも、改まっての排斥運動みたいな感じにはならない。ポーリンハンソンのように移民制限を訴える人はいても、だから今いる移民をイジめましょうという話にはならない。
なんで、こいつらこんなにトレランスが高いのかな?そんな、高僧のように修行を極めて高潔な人間になっているようにも見えないのに。
いろいろな仮説を考えました。一つは、もう時間感覚それ自体がのんびりしているんだ、と。生体時計みたいなものの感覚が違う。日本人の3秒が、彼らの1秒くらいにしか相当しないという。 こちらのエレベーターの半数くらいは、「閉」というボタンがなかったりします。これは何度も書いてますが、日本人だったら(僕もだけど)、乗り込んだらいかに素早く「閉」ボタンを押すか、その手際の鮮やかさが大事だったりしますし、時にはファミコンのAボタンのように何度も何度も連続して押したりします。でも、こちらではそもそも「閉」ボタンがないエレベーターが結構あるという。どうするかというと(階数ボタンをもう一度押すと閉まる場合もありますが)、大概は自然に閉まるまでボーっと待ってます。だから、閉ボタンによって節約される2−3秒程度の時間なんか、別にどうということもないということですね。気にしてない。
逆に僕ら日本人は、どうしてそんなことが気になるのだろうか?ねえ、閉ボタンを押したからといってわずか数秒も違わないでしょう、そんなに一刻一秒を争うような出来事が階上で待ってることなんかマレでしょう。のんびり骨休みにリゾートや温泉ホテルに泊まってるときでさえ、閉ボタンを押さないではいられない民族。既にそこで「のんびり」してないじゃん、という。
このような体内時計の刻みや目盛りが違うということもあるのだけど、ただもうちょっと詰めて考えてみると、僕ら日本人の中には「空白恐怖症」とでも呼ぶような、手持ち無沙汰な時間を忌み嫌うような遺伝子があるんじゃないの?という気もしてきます。
これは何か、高度なチームプレーをやっていて、水も漏らさずそれが進行していくことに快感を覚えるという性癖にも連なっているように思います。なんというか、時計の秒針は一秒ごとにカチカチ進んでいくわけですが、まあ当たり前なのですが、それが途中で秒針がひっかかって進まなかったり、なぜか空転したりすると、「当然なされるべきことがなされない」ということで、すごーくイヤな不安定な気持がしますが、あれに似てるのかもしれません。野球の6−4−3のダブルプレーで、ショートが打球をつかんで振り向きざま二塁に送球しようと思ったら、セカンドがまだベースカバーに入っていないと、すごーく腹が立つという。そんな感じ。
僕ら日本人は絶え間なくチームプレーをやっていて、そこでは一秒の空白も許されず(というよりキモチ悪く)、決められたとおりに他者が動いて、その連携で鮮やかに物事が進んでいくことに、生理的な快感を覚える人々なのかもしれません。それが単なるゲームや仕事のときだけではなく、生活全般にわたって、生まれてから死ぬまでほぼ全面その繰り返しをしているのでしょうか。
トレランスの話に戻りますが、こういう性癖のままではトレランスは低くならざるを得ないと思われます。セカンドにベースカバーが入ってなくても、秒針がときどきシャックリしても、あるべきものが無くても、来るべき人が来なくても、泰然自若とヘラヘラしていられるって具合にはなりにくいですよね。やっぱりイライラしちゃいますし、カリカリします。腹も立ちます。俺は、この難しいプレーを鮮やかにキメるために、いったいどれだけのものを犠牲にしていると思ってるんだ、それを台無しにしやがって、この野郎って思っちゃったりもする。そういう精神傾向にあるとしたら、いきおい失敗した人間、出来ない人間、弱い人に対して冷淡になっていくのかもしれません。
ただ、しかし、なんで俺達はそんなことやってんだよ?気が付いたらチームプレーをやっていたという感じですが、それをやってることの自覚もないし、何故やってるかという疑問も忘れ、当然のこととしてやっているんじゃないか。まるで閉ボタンみたいに。
ここで、ひとつ確認しておくベきなのは、なるほど僕達はチームプレーゲームをやってるのかもしれないのだけど、なぜそれをやるかというと、やりたいから、キマると気持いいからなのだ、要するに趣味でやってるじゃないかということです。このセカセカ性癖が日本の生産性を押し上げているとは、僕は思いません。そんな後天性チームゲーム性空白恐怖症候群みたいな病気によって日本の労働生産性が高くなってるわけではないでしょう。日本のビジネスの強みは、むしろその逆、まさに「雅量」的なところにあると思ってます。つまり長期的視点にたって、目先の多少の損は問わず、信義を重んじて、助け合っていくということ、古い言葉でいえば商道徳、新しい言葉で言えばニュー・ビジネス・ステラテジーの部分が強いからだと思います。だから、多くの場合、セカセカやってるのは、あまり実益と関係なく、「そういうのが好きだから」やってるだけなんじゃないのか、ということです。
もし本当にサッカーのように水も漏らさぬフォーメーションなど本当のチームプレーになったとしたら、これはもうイライラとかそういうアマチュアな感情が入る余地はないと思います。イライラさせるようなメンバーは最初から入れない。完璧に割り切って、勝つために最大限効率的な動きをするでしょう。でもって、そこまでドラスティックに血も涙も無くやっていくのは、逆に日本人的には馴染みにくかったりするのですよね。「ヘタなんだけど、根性を買って」とかいうのが好きだしね。
逆に、趣味でセカセカとゲームプレーをやってるとするならば、いっそのこと趣味性をさらに推し進めて、「カバーに入らない二塁手」「時々とまる時計」のように、予測不能の妨害キャラが登場するのは当然だと割り切ることです。ジョーカーやワイルドカードみたいなものが登場する方が、ゲームとしてはいっそう難易度が高くなり、それだけに面白くなるはずです。「うわー、ここでこうなっちゃうかー」と思えば、そんなに腹も立たないし、イライラもしないでしょう。
なんか妙な与太話をしてますが、そう考えると日本人のセカセカ好きというのは、実は中途半端なアマチュアレベルの趣味的なものだと思います。それはもう、閉ボタンを押して一刻も早く目指すフロアに着いたとしても、だからといって息もつかずにバリバリ仕事をするかというと、同僚としょーもない雑談をしてたりするわけですからね。実戦的意味は限りなくゼロなんですよね。だから、もう、「しょせんその程度のセカセカ好きなんだ」と割り切ってしまったらいいんじゃないかと思います。
ただ、所詮はその程度の趣味のために、社会の一番大事な要素であるトレランス、雅量を貧しくし、弱者に対する人間的共感を乏しくしているのだとしたら、これはかなり愚かなことだと思います。ひとことでいえば、大した仕事をしてるわけでもないのに、カッコつけて意味なく忙しがってたら、それで本当に余裕がなくなって疲れてしまって、挙句の果てには自分も弱者になって、さらに弱い人を助けるのではなく蹴落としているという、救いのない状態になってしまいかねないです。
しかしですね、話はそんなセカセカとか体内時計とかそういった浅いレベルのものに尽きるのではないような気もします。もっと深いところで他者に対する博愛エネルギーが希薄になっている。あんまり、「人間っていいな!」って思えなくなってるんじゃないか。今時ヒューマニズムとか言ったら、死語だといって笑われるのだろうけど、でも、死語にしちゃって本当にいいのか?という。死語とか、そういう問題じゃないんじゃないのか。
これはかなり根深い問題なので、今ここでペラペラっと書けるようなものでもないです。
書き始めは、「なんか、自分も含めて雅量が乏しくなってきてない?」という素朴な感想からだったのですが、書きあぐねてます。いろんなヒントが断片的に散らばっているのですが、あまりに大きすぎて形にならない。でも、最後に、これらの断片を素描しておきます。
その人間のトレランス度を決定するのは、これまでどれだけ人間が持つ良い面を見てきたかに関わってくると思います。他人に親切にしてもらったり、無償の心づくしを受けたり、他人のために必死になってる人を見たり、信じる人が救われる場面に出くわしたり、、、、そういったことです。こういう、心が温かくなるような体験が多ければ多いほど、その人は他者に優しくなれるし、トレランスも高くなっていくと思います。だから、もし、トレランスが下がってきてるとしたら、「人間っていいな」とホノボノするような実体験が減ってきているのではないか、ということです。
最近ちょっと日本のドラマやら雑誌を見る機会があったのですが、なんだか昔に比べて登場人物に不愉快な人間が増えたような気がします。気のせいでしょうか?他人に対してああいうこと言ったらブン殴られても仕方ないでしょうみたいな無礼なことを言う登場人物が多い。だから見てて結構ムカムカするというか、カタルシスがない。もちろんそういう演出もアリだし、それが偽善性を切り裂く鋭利なナイフになることも十分に承知しているのですが、そんなイイモンではなく、ただ単純に「ヤな奴」だったりします。もし、そういうのが本当の人間のリアリティだと思ってるんだとしたら、それって、思春期のひねこびた少年レベルの人間観だろうって気もします。僕も思春期の頃は、そういうことがカッコいいと思ってるひねこびたヤなガキだったからよく分かるのですが、要するにアホなだけです。あと、マンガみたいなキャラクターが多い。「こんな奴、実際いねーよ」という。デフォルメし過ぎ。
ちなみに、僕が今この仕事をしてるのは、「人間っていいな」と思える機会が多いからです。仕事を選ぶ理由は何よりもそこが大事だと思います。オーストラリアにひとりぼっちで緊張しながらやってくる、ワーホリさんや、留学生さんの最初の一歩のお手伝いをしてるわけですが、空港で出迎えるとき、同じ日本人でもパックツアーでやってくる旅行客とは雰囲気が違うし、顔も違います。なんというのか、たった一人で立ち向かおうとしている人間だけが持ちうる緊張感が、その人を綺麗な顔にします。そしてまた、さらに「APLaC名物置き去りサービス」とかいって、帰り方だけ教えておいて、着いて二日目かそこらでシドニーのどっかにポンと置き去りにして帰ってきてしまいます。僕の役目は、背中を押すことです。「地面に激突する前に翼が生えて飛べるようになるからねー」とか言いながら崖から蹴り落としたりすることです。でもってまず間違いなく翼は生えます。生えない人は最初から落としません。それで生まれてはじめて自分に翼があったことを知る人も多く、またいい顔するんですよね(^_^)。だから、「いいな、人間」って思えたりします。また彼らの緊張感は、9年前の自分を常に思い出させてくれますし、襟を正さねばとも思います。
第二に、トレランスというのは、弱々しい無力な現実肯定ではありません。日本にいる外国人が多く指摘する、日本人独特の不思議な思想と表現である、”シカタガナイ”といって何もしないのがトレランスではない。ここが凄く難しいのですが、例えば無礼なことを言った人間には、もう言い終わるかどうかというタイミングで頬っぺたピシャッと叩いてやるべきだと思います。ダメなものはダメ、イケナイことはイケナイ、その是非弁別はきっちりするし、それを行動でも示す。ただし、叩いた相手を同時に許すのがトレランスだと思います。
しかし、そういってハッキリとコンフロントして(対決して)物事を言うのは、結構エネルギーもいるし、技術も必要です。しかし頑張って言わねばならないと思います。なぜなら言うべきときに言えなかった人間は、言えなかったネガティブエネルギーみたいなものが身体に溜まるから、ろくなことにならない。なにやら”分割弁済” みたいな形で、周囲に八つ当たりしたり、より弱い人に辛くあたったりして、ネガティブエネルギーの発散をしようとして、結局は公害みたいなもので、有毒ガスを周囲にばらまくようになるのだと思います。
言うべきことを、言うべき人に言うべき時に言わせてあげること。それが社会のありかたとして大事なことだと思います。ただ、中々そうもいきませんよね。ヘタなこと言ったらクビになるかもしれないご時勢ですから。でも、よく考えると経済的にシンドイときほど、優秀な経済活動が求められるわけで、そんな言われて悔しいから仕返しにクビにするみたいなコドモじみたことやってる余裕はないハズなんですよね。でも、そんなコドモじみたことがやられているとしたら、他人の生殺与奪の権限をもってる人間、つまりはお偉いさんがコドモじみてるってことでしょう。立派な人も沢山居るとは思うけど、立派でない人が不当にも甘い席にしがみついて、肥大した弱々しいエゴを守ってるというのが、今の社会の根源的な問題なのかもしれません。
トレランスの本質は強さだと思います。異物に接しても自分は揺るぎもしないという自信があるかどうかというのも、結構大きな問題のように思います。あと、「良くなっていく」という希望。少年犯罪について成人よりも「ゆるく」接するのは、ひとえに子供は大人よりも良くなっていく可能性が高い、これからどんどん変わっていくから、難しい言葉で言えば「可塑性(粘土のように形を変えていけるという意味)」なんて言葉を使いますが、可塑性があるからそれに希望を託するのでしょう。そしてまた、大人の側に、よりよく教育していける自信があるからだと思います。だから、オイタをしたら叱るけど、ちゃんと叱ればまっとうになっていくんだ、そう仕向けることができるんだという経験的な自信があるということでしょう。
ただ、しかし、この自信も希望も又損なわれているんだろうなと思ったりもします。こんなケッタイな子供、なにをどう教えても無駄だわ、どうせ良い方向に育つわけなんかないし、そう育てる自信もないという。そう思えてしまったら厳しいですよね。将来に希望を持てない子供に教育体配慮なんかいってもタテマエにしか感じられないかもしれません。
でも、一方ではこれって、僕ら大人側の自画像なんではないかって気もします。自分が後の世代に対して、胸張って、どうだカッコいい生き方だろう、俺のようにならなきゃダメだぜって言えるかどうかじゃないかな。世の大人たちが、我ながら結構いいセンいってるんじゃないか、人間的に間違ってないぜ、立派とまでは言えないけど、まあそんなに恥ずかしいことは無いぜって思えるかどうか。
なんかそんな具合に言える人って少ないような気もしますね。それどころか一億総イケてないかのように、ヘナチョコな雰囲気が漂っていたりします。「しょせん、しがない○○」とかさ、でも、そういう言い方やめたほうがいいと思います。ずっと前に雑記帳で書いた「カッコいい」と同じことだけど、リストラにあって、半年職安に通い詰めて、パソコン教室に出て、昼間の公園で紙パックの牛乳を飲んでるお父さんって、俺、メチャクチャ、カッコいいって思いますよ。リストラはしょうがないじゃん。時代の流れというか、そういう経済時期にそういう人口構成だったんだから、まあ雨天で遠足中止というのと、そんなに変わらないと思うよ。でもって、普通はメゲるところを半年も頑張って職安に通ってさ、しょーもない虚栄心とか公園のゴミ箱に叩き込んでさ、それでもまっとーにやってるわけでしょ。まっとーにやるってのが一番難しくて、一番カッコいいんじゃないのかな。家族のために頑張ってるわけでしょう。そんな他人のためにそこまでやれるなんて、僕はまずそこでレスペクトするし。それをカッコ悪いと思う人は、まだまだ美意識がケチャップ味のお子ちゃまレベルなんだと思います。ガキはすっこんでろって感じですよね。
だからもっと自信持って、うぬぼれていいんじゃないかって思います。本当の意味でイケてる人間なんかこの世に一人もいないし。自分のイケてなさを抱えて、でもそれで背中を丸めてしまうのではなく、ちゃんと受け止めて頑張ってる人は、やっぱカッコいいです。「今日も仕事見つからなかったなあ、でも頑張ってる俺、カッコいいなあ」って思ってください。そう思えれば、トレランス値も上昇すると思いますよ。
(文責・田村)
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