今週の1枚(2003.07.07)
ESSAY112/GID(gender identity disorder)
性同一性障害
写真は、Ashifieldのディープな「コンビニ」(本当に"covenience store"と看板に出てるでしょ)。
憂鬱な日曜日がやってまいりました(^_^)。日曜日はこのエッセイの締め切りの日なのですね。「もう書くこなんかとないよ!」と言いたくなる日であります。窓の外は小春日和のbeuatiful dayだというのに。
だったら別に止めたら良いのですけどね。誰に強制されてやってるわけでも、義理で書いてるわけでもなく、純粋に自分の意志でやってるんだから、やめたってノープロブレムなんですけどね。でも、こんな具合に完全自由になると却ってやめられないもんです。また、手を抜いて「やっつけ仕事」ってわけにもいかない。他人に雇われて、仕事で書いてるんだったら、むしろまだ言い訳の余地があり、手の抜きようもあります。しかし、自分で決めたことって、自分が人質になってるようなもので、途中でメゲたら「ふーん、そんなことも出来ないのね」という非難がダイレクトに自分に返ってきますもんね。ここで、教訓。他人に何かをやらせたかったら、出来るだけその他人に決めさせるべし。
というわけで、今日も今日とてネタさがしに新聞のサイトをパラパラと見てたら、こんな記事がありました。毎日新聞2003年7月2日の記事です。
性同一性障害者特例法案、成立へ−−与野党とも異論なし
参院法務委員会は1日、心と体の性が一致しない性同一性障害を持つ人が、家裁の審判で戸籍の性別を変えられるようにする「性同一性障害者性別特例法案」を委員会提案とし、2日の参院本会議に提出することを全会一致で決めた。与野党とも異論がなく、同法案は参院を通過して衆院に送付され、今国会で成立の見通しとなった
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「ほう」と思ってしまいました。日本でも性転換が戸籍で認められるようになったのですね。そんなことが法律で正式に認められるようになろうとは、日本もサバけた国になったものです。もっとも、家裁の審判あっての話ですから、誰でも気軽にってわけにはいかないでしょうけど。
シドニーにはホモの人が多いです。あ、ここでいう「ホモ」というのは、同性愛者・ホモセクシャルというマジメな意味で、異性愛者へテロ・セクシャルに対する概念です。だから男性女性を問いません。男性の同性愛者はゲイで、女性はレズビアンですね。
ここで定義というほど大げさなものでもありませんが、簡単にモノの考え方を確かめておきましょう。基準というか、局面は二つ。@自分は男性なのか女性なのかという性同一性の問題、A性愛の対象として異性を求めるのか同性を求めるのかという問題です。
まず肉体的(セックス)に男性(女性)であっても、自分の意識(ジェンダー)としては女性(男性)であり、女性(男性)として扱われたいと思っている人は、ココロとカラダで性のミスマッチが起きています。こういうケースは医学的にそれほど珍しいことでもないそうです。これは、自分自身の問題として、どちらの性がより自然に自覚できるかということであり、いわゆる女装・男装趣味とは違います。女装男装(あわせて異装)は、自分は本当は男なんだけど、そこを女性のフリをすることによって、セクシャルに興奮するという、いわゆる「趣味」の問題です。つまり違っているのは重々承知で、違っているからこそ、そこに倒錯した快感があるということですよね。
ところが性同一性障害の人の場合、興奮も快感もないです。あるわけないです。最初からココロでは自分は女性だと思ってる人が女性の格好をしても別になんてことないわけです。むしろもって生まれた身体的特徴で周囲から男性として扱われ、男性の格好をさせられるのがイヤでイヤでたまらないのでしょう。これは、あなたが今日から異性の格好と振る舞いを強制されたときのイヤさ度と同じことだと思います。よく小学校のときなんかでちょっと太ってる男の子なんかが、「お前胸でてるからブラジャーしろよ」とか冷やかされたりするわけですが、本当にブラジャーをさせられるようなもので、その苦痛はかなりのもんだと思います。
だから性同一性障害の人は、俗に言うヘンタイさんではないです。ヘンタイってのもイヤな言い方ですが、要するに「性的な快感を得る方法が一般的な方法とちょっと違うこと」なのでしょう。もっとポジティブな言い方をすれば、「性的喜びの追求にあたって、固定観念や旧弊に囚われず、自由奔放且つ積極的にオリジナルな方法を模索する人」と言い換えてもいいでしょう。これ、「性的喜び」を「人生の喜び」とか「仕事」や「勉強」に置き換えてみれば、賞賛されるべき人格像なんですよね。なぜかこと性行為になったとたん、変態呼ばわりされるという。これも考えてみればヘンな話です。
別に変態さんの弁護をするつもりはないですが、個人的な好みで言えば、性行為に限らず、どっかしらオリジナリティや積極性が感じられないヤツは、なんか人間として面白味がないなあって思ったりもします。どっかしら「ヘン」なヤツって、まあ時と場合によりますが、魅力的だったりします。360度どこをとっても「ノーマル」な人って、なんか詰まらなそうです。性行為に関して大いなるオリジナリティを発揮する人もいるでしょうし、それで他人に迷惑をかけるならともかく(ストーキングしたりとか)、迷惑をかけない限度であれば、別に僕はどうでもいいです。他人が寝室でなにをどうしようとも、僕の知ったことではない。だいたい、セックスなんて、どんなにノーマルにやってても「ヘン」ですよね、あれ。48手とかさ、あんなの考えて名前つけてるだけでも、十分変態だといえなくもないです(^_^)。
話は横道にそれましたが、性的アクティビティの一環として女装男装するのとは違って、性同一障害の人が女装男装するのは、それはハタからどう見えようとも、本人のココロにおいては女性が女装し、男性が男装するだけのことですから、本来的には全然ノーマルだったりします。
次にパートナーは同性がいいか、異性がいいかという問題があります。いわゆるホモセクシャル、同性愛者は、性愛のパートナーとして異性ではなく、同性を求めるという好みを有しているということですね。性同一性障害は、男の身体に女の脳があるようなもので、一般人とズレがあるとしたら、ただその一点だけです。あとは、まったく普通。そのあと、彼/彼女が同性に恋するか、異性に恋するかはまた別の話。
したがいまして、性同一性障害者とホモセクシャルとは、ぜーんぜんレベルの違う概念です。肉体的に男性であるけど、心や脳は女性であるという性同一性障害者がいますが、彼(彼女)が男性とセックスしたいと思ったとしても、それは非常にノーマルな異性愛でしかないです。だって、女性が男性を求めているだけなんだから。むしろ、彼(彼女)が、女性を求めたら、そちらの方がホモなんですね。女性が女性を求めているから、ホモセクシュアルたるレズビアンなのですから。
ただ、ややこしいことに性転換手術などを受けていないと、主観的には女でも客観的には男ですから、ものすごく(本人からしたら)「誤解」を受けることです。見た目はバリバリ男性が、スカートはいて歩いてたら、「その趣味の人」だと、まあ普通は思ってしまいますよね。まして、男性と手をつないで歩いてたら、本人的には極めてノーマルな異性愛をしてるつもりでも、周囲はホモだのゲイだと思ってしまうでしょう。
むしろ本人に、「男装趣味」があって、同性(女性)が好きというレズビアンという、二重のツイストがかかってくれた方が、傍目からはノーマルに見えるというややこしいことになります。なんだかアタマがこんがらがってきますね。
僕らは、勝手に想像して「あー、こんがらがる」と気楽に言ってればいいですけど、本人にとっては深刻な問題でしょう。毎日したくもない女装(男装)をさせられ、異性と付き合おうとするとホモ呼ばわりされるという。これは、非常に生活しにくいわけで、だから周囲との無用な摩擦を避けるためにも、見た目も主観にあわせましょう、性転換なりの施術をしましょうということになるのでしょう。さらに戸籍上も見た目と違ったら就職その他でメチャクチャ不利でしょうから、本人の主観と一致させましょうというのが、今回の新法の趣旨なのでしょう。
なお、にわか勉強で、どうして性同一性障害は起こるか?ということで、あれこれインターネットで検索してみましたが、「http://www.geocities.co.jp/PowderRoom-Lavender/8402/shiryo0.html」あたりに参考文献が上げられており、そのなかに山梨医科大学保健学T実習H班の医学最前線というページがリンクされ、内容が転載されていました(www.geocities.com/Baja/Canyon/6479/index.htm)が、いずれも今となってはリンク切れです。
まず、そもそも自分が男であるとか、女であるとかいう自己認識はどうやって発生するかですが、この文献によると、「性の分化は様々な段階を経て起こる。まず、精子と卵子が受精した瞬間に染色体的な性(XX、XY)が決まる。また、胎生8週目には身体の性別の、および5〜8ヶ月には脳の性別の、それぞれホルモンの働きによる性分化の臨界期がある。それが滞りなくプロセスした時、身体の性別と脳/心の性別が一致する」ということです。
生物学的な雌雄は、中学校の理科で習ったX、Y染色体によって決まるのでしょうが、客観的な雌雄性に適合するように胎内にいるときに徐々に男性脳・女性脳が作られていくようです。
そしてどうして性同一障害が起こるのかというと、同じ文献によると、これだ!という医学的説明は確立していないそうですが、「ホルモンシャワー説」というのが有力だそうです。受精して母親の胎内で徐々に細胞分裂が進んでいく段階、それもまだ男女の区別が生じる前の段階(胚子期というそうです)あるいは胎児期に、外部からの流産防止のステロイドなどのホルモン剤を投与することによりホルモンバランスがくずれ、身体と脳の性の不一致が起こるという説です。事実、流産防止目的で用いられるホルモンを妊婦に投与すると、その胎児がXX染色体をもつ女児であるとき外性器が男性化してしまう、という報告や、女性の身体をもって生まれたが自分は男である、と感じる性別違和が生じる場合があるらしいです。
これはもう本人の気の持ちようとか、育った環境がどうかとかそういうレベルの話ではなく、生まれながらにして決定されてしまった、本人にもどうしようもないことなのだというのが分かります。
臨床医学的にさらに進めば、まずもって「診断」が行われ、次に「治療」ということになるのでしょう。「治療」といっても、ココロとカラダがズレているのですから、ココロに合わせるのか、カラダに合わせるのかという問題があるでしょう。これは本人がどちらを選択するかによりますし、さらに「治療」を希望する場合に治療に移るようです。ただ、一回形成されてしまった人間の脳を後から変更させるのは殆ど不可能に近いので、身体を心に合わせるのがメインのようですね。治療は3ステップあって、最初は精神療法、次にホルモン療法、最後に手術療法があるようです。
この問題は、もっともっと深く広く展開しているようです。今回、ネタに詰まってパラパラと見ていたのですが、いや勉強になります。性同一性障害の人の苦しみひとつとっても僕らは余りにも知らないです。例えば、心は男なのに身体は女に生まれてしまった人の場合、「声変わりしない自分の高い声が嫌で、金串を突っ込んで声帯を傷つけてハスキーな声を獲得することも行った」などの記述を読みますと、その苦しみと痛々しさに言葉を失います。
性転換手術は、1969年というはるか昔に「ブルーボーイ事件」というのがありまして、性転換手術を行った医師が優生保護法等で有罪判決を受けており、それ以来医学界ではタブー視されていたようです。ですので、性転換手術を受けようとするならば、海外にいくというパターンになっていた。しかし、この問題を真正面から見据えた埼玉医大が、1996年に『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申を出し、翌年には日本精神神経学会で初めてのガイドラインが作られたそうです。これによってようやく性再指定手術が日本でも正当な医療行為として認められるようになっていったとのことで、本当にごく最近のことです。
しかし医療的に進んでも、日常生活における「世間の目」という問題が残ります。幾ら性転換して、心も身体も女性(男性)になったとしても、戸籍が昔の性のままだと、就職はおろか、アパート一つ借りるのも大変だったりします。なにかひとつやるたびに、「え、あなた女性(男性)なの?」という好奇の視線に晒されるわけで、その苦痛は想像するに余りあります。それは、例えば、男性更衣室や男湯に女性が一人で入らされることでもあります。同じように、生まれついての身体の特異性の問題でも、まだしも盲目であるとか車椅子生活を強いられるとかいうのは、大変ではありますが、性同一性障害ほど好奇の視線に晒されることはないでしょうし、周囲の理解もあります。足が不自由な人が、マラソン大会に強制的に出場させられることもないでしょう。しかし、性同一性障害の人は、24時間常にそれを強制されているようなものなのでしょう。
そこで、戸籍上の性も変更できるようにして欲しいというのがこういった人々の悲願となるわけですが、かつて行われた戸籍訂正に関する裁判は、ほぼ全戦全敗という惨状を呈しています。判決理由は、例えば97年3月28日の東京高裁決定が述べるように、「我が国においては、生物学的、生理学的な性と異なる性を戸籍に記載することを容認する社会的環境にはまだないといわざるを得ない」ということで、「世間の皆がそう思ってないから」ということに尽きるでしょう。
いまさら言うまでも無いですが、こういうことになると日本の司法は保守的です。保守的というよりも、事なかれというか、弱腰というか、原理原則に従って骨太にドンと結論を出すことができない。これはもう、そういう人間が裁判官になり、裁判所の雰囲気がそういう人間に仕向けるからだと僕は思います。ある意味、とても日本人的です。
というわけで、より広く世間が、つまりは僕らが、この問題を理解しなければ、そういった人々の苦痛は除去されない。僕らは知らないうちに多くの人を深く傷つけ続けてきたわけだし、これからも傷つけ続けることになるでしょう。2001年5月に、埼玉医大で性転換手術(性再指定手術といった方がより正確か)を受けた6名が集団で戸籍訂正を求めて、広く世間に訴えることになり、また去年から今年にかけて多くの地方自治体や各種団体から改善を求める意見書が提出されています。今回の法律は、これらのムーブメントを受けて制定されるに至ったものなのでしょう。
さて、長々述べましたが、なおも問題は残っています。今回の新法では、性同一性障害を理由に戸籍の訂正が認めれるために以下の4つの条件が付されています。@20歳以上、A結婚していない、B子供がいない、C性別適合手術で生殖能力がないことです。@は自立的判断能力が十分にあるかどうかですが、A−Cに関しては、家族との関連性の問題だと思われます。
すなわち、結婚している状態で性変更を認めてしまうと、男性と男性、あるいは女性と女性の結婚になってしまうし、子供がいる場合には、母親(父親)が二人いることになってしまって、あまりにも「行き過ぎ」だと考えられたのでしょう。
しかし、例えば、
家族と共に生きるGIDの会(TransFamilyNet)が訴えるように、子供がいたとしても性変更を認めて欲しいという切実な声もあります。性同一性障害が社会的に純粋の医学上の問題として認知されたのはここ数年の話です。それまではほとんど単なる「ワガママ」や「変人」として片付けられていたため、症状を自覚しつつも無理やり押し殺して、頑張って「普通に」暮らしてきた人たちは沢山いるはずですし、実際にいます。そういった人々は、心の中の大きな違和感を潰しつつ、結婚し、子供を育ててきたわけです。自分のジェンダーに関する違和感があったとしても、人生を共にしてきた家族に対する愛着が薄れるというものでもないでしょう。そして子供も立派に育て上げ、一人立ちするにようになりました。さて、これからの余生、一生つきまとってきた違和感を取り除いて、本当の自分に戻って過ごしたいという人達も少なからずおられるようです。だから、せめて子供が成人して同意があるならば、子供がいたって性転換を認めてくれてもいいじゃないかということのようです。
なるほど、と思いますよね。この種の制度の問題は、本当に難しいです。どこに線をひくか、です。あなたはどう思いますか?
この問題に関連して、思いつくことを幾つか述べます。
日本では「戸籍の訂正が認められるか」ということで問題がたてられてますが、オーストラリアの場合、そもそもその戸籍がありません。これは事あるごとにいってますが、オーストラリアでは、戸籍はありませんし、住民票もありません。あるのは、出生証明書、結婚証明書くらいです。これに、いくつかの身分証明や住所証明資料を積み上げて、パスポートや運転免許証をとったり、銀行口座を開設したりします。
戸籍や住民票がなくて社会が廻っていくのだろうか?というと、これが廻っているのですね。戸籍や住民票が無くても、特に支障はありません。それどころか日本と違って、投票率はほぼ100%の義務投票だわ、税金は原則的に国民全員確定申告をしなくてはならないわ、時々リファレンダム(ある議題についての国民投票)はあるわで、国民全員がせーのでやる事柄が多いです。だから余計に国民/住民を把握するシステムが必要そうに思えるのですが、別に戸籍/住民票がなくても支障なく廻っています。
こういう社会で慣れてしまうと、なんで戸籍とか住民票とかいう制度が必要なのか、逆にわからなくなります。本当にいるのでしょうかね?なんとなく必要って思い込んでるだけじゃないですか?
戸籍っつっても、本籍なんて実際に住んで無くても何処でもいいんだから、実質上意味ないです。戸籍に記載される内容、例えば過去の結婚歴離婚歴だって、本籍を動かしたらあっさり消えてしまいます(除籍謄本や改製原戸籍などには載ってきますが)。そもそも結婚歴・離婚歴なんか別にわからなくたって、よほど特殊な状況でもない限り、問題ないでしょう。住民票だって、選挙違反でよく問題になるように、選挙のときだけ住民票を移したりするわけだし、子供の学区のことで住民票を移すこともあります。また、実際に引っ越しても住民票を移動させないこともありますし、ほったらかしというケースもあります。
弁護士時代、事件処理のためによく他人の戸籍や住民票をとったりしましたが、結局戸籍が本当に必要なのは、遺産分割や不動産登記のときくらいですよ。これだって、国が国民のデーターを全部持ってるんだから、遺産と被相続人だけインプットしたら相続権の及ぶ範囲を一覧で出してくれたらいいんですよね。そのくらいのプログラミングくらい簡単に出来るでしょうし、ほんとサービスして欲しいですよ。なんで申立人がイチイチ他人の戸籍まで取得して証明しなくちゃならないのか。明治生まれのおじいちゃんの頃から相続手続をほったらかしていたケースなんか、相続人だけで数十人出てきて、戸籍謄本を積み上げて10センチくらに及ぶこともあります。でもってカレンダーの裏なんかに巨大な相続関係図を書いたりして。戸籍謄本だって取るの高いですからね。何十通もとってたら数万円くらいすぐにいってしまうという。
住民票だって、本当にそこに住んでるかどうかわかったもんじゃないです。住民票記載の住所にいってみたら、とうの昔に建物は取り壊され、月極駐車場になってたなんてこともザラです。
国民総背番号だとか、住民ネットワークとか、とかく日本という国の政府は、国民を、まるで農場の家畜みたいに、自分の所有物と思ってるキライがあって、なんでもかんでも知りたがる。オーストラリア人は日本人よりもアバウトでいい加減だといいますが、こういうことに関してはしっかりしてます。自分の個人情報を書き込んで提出する書面には、大体においてプライベート法の要旨が記載され、警察の捜査など限定的な場合にこの情報が流用されることがあると明記され、それに同意する人だけが記載してくださいと注意してあります。
一方、警察の捜査とか、公安関係だったら、戸籍や住民票なんか原始的なデーターではなくもっと詳細なデーターを独自に持ってるでしょうから、そういう意味でも別に戸籍や住民票なんか要らないでしょう。
だから、ほんと戸籍や住民票制度って、どれだけ意味があるのかなって気もします。なんというか、戸籍や住民票程度のセキュリティレベルのデーターなんか、本気で必要になったら大してアテにもなるものでもないし、本気で誤魔化そうと思ったらいくらでも誤魔化せる。闇ルートで他人の戸籍とか買って来れたり、偽造だって、そのスジの人間だったら簡単に出来ちゃうわけでしょ。そう意味のあるものでもない。そのかわり、事柄の必要以上にプライバシーが漏洩するというデメリットの方が大きいんじゃないんですか?
日本では当たり前のように就職するときに戸籍謄本が必要だったりします。でも、従業員を採用するのに、なんでその親や親族関係まで知る必要があるのか?そんな必要ないでしょう?もし、必要がある、知らないと不安だというのなら、その企業の人事管理や人材活用方法のレベルが低いってことでしょう。アパートを貸すにしても、住民票とかないと貸さないし。本人の確認をしたいんだったら、運転免許証のコピーやパスポートで十分じゃないの?
これはホモジーニアス社会日本の決定的な弱点だと思うけど、とにかくストレンジャー(見知らぬ人)を怖がり過ぎ。だから、知りたがり過ぎ。なんでもかんでも他人のデーターを欲しがり過ぎ。データーを集めたって、本当のところでは大した意味もないし、気休めに過ぎないのだけど、それでも知らないと不安。なんで不安なのかというと、要するに何かあったときの現場対処能力が低いからでしょ。どうしていいか分からないからでしょ。修羅場慣れしてなくて、ヒヨワだからでしょ。
それに、皆同じの金太郎飴社会だから、致命的といっていいくらいの誤解・幻想があるように思います。それは、「他人のことがわかると思っている」ことです。こんなの幻想。でも、その幻想にしがみつきたいのでしょう。女子社員を採用するときに、親元から通ってる場合と、一人暮らしの場合とでは親元の方が有利とかいうのもそうです。なんで有利かというと、一人暮らしの女性は遊んでいて、生活が乱れている場合が多いからでしょ?本当にそうなの?いつの時代の話をしてるんですか。そんなことで他人のことが分かると本気で思っているわけですか?それに、そもそも遊んでいて、生活が乱れていようが、仕事さえキチンとやってくれたら、それでいいでしょう。
この際、オーストラリアみたいに、日本も就職やアパートの賃貸などで、性別、年齢、人種その他で差別することを禁じたらいいです。募集広告で、「女子社員募集」とか書いた時点で、もうその企業が即刻破産するくらいの、たとえば前年度総売上と同額の罰金を課しても良いのではないですか。「35歳まで」とか書こうものなら、社長は即逮捕とかね。アパートでも、「外国人お断り」とかしてたら、その賃貸物件は国庫に没収。僕が日本の独裁者になったらそうしますよ。それでやっていけないようでは、最初からやっていくだけの実力がないってことだと思います。
採用条件に年齢を加えるというのって、本当に合理性あるの?そりゃ儒教の国で、長幼の礼があるから年上の人は使いにくいかもしれないけど、だったら、国家公務員のキャリアとノンキャリという制度自体を改めるのが先なんじゃないんですか?息子のような若造から、「キミ、困るんだよね」とか下らない説教くらってる現場のノンキャリの悔しさはどうなるわけですか。
なんか、そういう面では日本というのは、信じられないくらい幼稚なメンタリティで社会が廻ってるような気がします。国家公務員のキャリア組だって、同期で一人事務次官が出たらそこで一斉に退職になるって変な慣行があるでしょ?入省年次が若い者が上司になると、「何かとやりにくいから」だというけど、なにガキみたいなこと言ってるんだろう?って思いますよ。さんざん年上のノンキャリの人々を顎でこき使っておきながら、自分がコキ使われるのだけはイヤだって。父っちゃん坊やか。
自分よりも年下で、親元から通っていて大人しそうで、言うこと聞きそうな人でないと採用しないっていうなら、要するにそういう羊のような従順な人間しか使えないという管理能力の貧しさを白状してるようなものでしょ。もっと言いますと、サービス残業とかの不当労働行為を押し付けるときに、気骨のありそうなヤツだとやりにくいからでしょ。はたまた、社内の飲み会でお酌して欲しいからってのもあるでしょう。
それも突き詰めていくと、サービス残業という違法行為を強制しないかぎり利潤を出せないという、経営能力の貧しさに起因するのでしょう。そりゃ、ただ働きさせていれば、経費は安く済むし、その分値段も安く出来るから価格競争では勝てますよ。でも、それは経営でいえば「反則」でしょう。一種のダンピングみたいなものです。従業員を大事にして、ちゃんと残業代を払ってる企業が結局損するわけじゃないですか。サービス残業は厚生労働省だけの問題ではなく、公正取引委員会の問題でもあると思います。
まあ、それだけだったら管理能力的に無能であるというだけで済みますが、戸籍や住民票からわかるほんとに外形的な、データーと呼ぶことさえも躊躇われるくらいの荒い情報で、他人のことが分かると思っていることが、さらに情けない。キミには、そんな人間洞察力しかないのか?と。でも、本気でそんな馬鹿がそうそう転がってるとは思えないから、なんとなくの慣習でしかないと思います。だから、悪い慣行を正そうとしない知的・倫理的怠慢というのが本当のところでしょう。
このように、行政システムにおいても、民間経済活動においても大した実益があるとも思えない反面、デメリットは死ぬほどあります。例えば、部落差別がいつまでたっても無くならないのもそうです。結婚するときに興信所で調べたりさ、本人とは直接関係ない係累的データーで本人のことが分かった気になるという。
さらに個人データーが意味なく蓄積されていたら、それを漏洩したり、悪用したりする馬鹿が必ず出てくる。データーを業者で売ったりする犯罪的なものから、他人の噂話しか人生の喜びのないようなパパラッチ民族に格好の話題を提供したりとか。
そんな役も立たないデーターだけ後生大事にかき集めて、不安を誤魔化すくらいだったら、現場処理能力を鍛えて「何でも来い!」にした方が建設的でしょう。従業員を10人雇ったら、国籍が8つだったらという、シドニーの当たり前の状況になったらいいわけですよ。アパートに10部屋あったら、7か国の人が住んでいるとかさ。誰が来たってやっていけるようにすべきでしょう。でもって、これって意外と簡単に出来ますよ。だって、こっちに来たらそういう世の中になってるわけだし、皆さんワーホリできて、いろんな国の人と当たり前のように一緒に暮らしたりするわけで、それで別に問題もなく廻ってるわけですからね。一言でいえば、他人のことを詮索してるヒマがあったら、自分に自信をつけた方がマシだということです。
しかし、ここらへんになってくると、何の話題をしていても、いつも同じところに戻ってきますな。
経験が少ないから→不安→だから安心が欲しい→気休めでもなんでもいいからカタチだけの安心を求めて→不合理な制度がはびこる→罪もない人がとばっちりで苦しむ、という。なんか、こう見ていくと、日本人というのは、安心したくて安心したくてたまらない民族みたいですな。本当は、珍しいものが大好きで、何にでも手を出し、道で拾ったものでもとりあえず口に入れてみる、、という好奇心のカタマリみたいな民族だと思うのですが、どうしてこうなっているのだろう?
さて、GIDやホモセクシャルについて、まだまだ書くネタは出てきているのですが(シドニー&ゲイといえばマディ・グラでしょう、とか)、紙幅が尽きてしまいました。大体このくらい書くと頭の回転も温まってきて、「おお、あれも書きたい、これも書きたい」になるのですね。この勢いで来週もバーって書けば、ネタ探しで憂鬱な日曜日も何かと解消されるとは思うのですが、一週間するとまた冷え切ってしまい、またウンウン苦しむという。このまま数週分まとめて書いてしまうというテもあるのですが、さすがにもう眠いです。明日は早起きして、また空港まで行かねばなりませぬ。というわけで、今回はこのくらいで。
(文責・田村)
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