今週の1枚(03.06.16)
ESSAY109/黄金のルート、適度なデコボコ
写真は、最近めっきり”冬”の風情のシドニー。信号の向こうの建物のシルエットは州図書館
今、僕が大学卒業時の22歳くらいで、日本にいたとしたら、いったいどういう将来を展望するでしょうか?
「これさえやっておけばOK」というような黄金のルートのようなものはあるのでしょうか。明治以降の近代日本でずっと語られてきた「一中→一高→東大へ。末は博士か大臣か」みたいな、出世と人生の王道のようなルートはあるのか?しかし、残念ながら、そんなものは「無い」と言わざるを得ないでしょう。
就職難とか、フリーターが多いとか、将来に夢を抱けない若者たちがどーしたこーしたという話がよく聞こえてきますが、さもありなんという気もします。「そりゃあ、なかなか夢なんか抱けないよね」と思います。
だけど、視点をちょっと変えればそう悲観したもんでもないでしょうという気もします。
なぜなら、過去においても、そんなに夢を抱いて生きていた人なんかそうそう居なかったと思うからです。「末は博士か」なんてルートだって、そんなルートに乗れるのはごくごく一握りの人でした。小学校もろくすっぽ卒業できるかどうかという時代に、旧制中学、高校に進学できる奴なんか、村はじまって以来の秀才クラスだったでしょう。兄弟のうちに一人出来るヤツを進学させるために、その姉妹達は女郎宿に叩き売られたりしたともいいます。一族郎党の熱すぎてマグマのようにドロドロした「期待」を一身に背負って、「男子志を立てて郷関を出づ、志立たずば生きて帰らず」という悲壮な覚悟で東京に出て行ったのでしょう。
だから、そんな黄金のルートなんてのがあったとしても、僕らのような圧倒的大多数を構成する庶民は、無縁だったはずです。庶民はどうしていたかというと、小学校卒業するかどうかという年で丁稚奉公にやられて毎日ブン殴られてたり、紡績工場で女工哀史やってたり、召集令状を受けて、朝鮮半島に行かされ、二〇三高地で無駄に殺されたり、八甲田山で疲労凍死したり、パプアニューギニアあたりで腹からハミ出た腸を押さえつつヒルに生き血を吸われながら死んでいったわけでしょ。そういう時代の方が良かったかというと、そうは思いません。「将来はこの娘と世帯をもって、ノレンわけしてもらって、立派な店を持ちたいんだ」という「夢」があったとしても、それを国家がセッセと邪魔してた時代ともいえるわけです。
別に戦争という巨大な悲劇が無かったとしても、そんなに将来を見通して、「これで一生安泰だあ」なんてことは無かったと思います。だって「末は博士か」の人だって、本人にしてみれば物凄いプレッシャーだったと思いますし、故郷では無敵の秀才でも東京に出てきたらバケモノみたいな連中がゴロゴロいたでしょうし、安泰どころか日々決戦だったと思います。心安まる暇などない。「寧日なき日々」ってやつですね。「帝国大学教授職を拝命」とかいうところくらいまでいって、ようやくホッと一息でしょうが、そんなもの人生の半分も過ぎてからのことでしょう。
だから、これで一生安泰だみたいなルートって、過去においてもそんなに無かったように思います。今だかつて一度も存在したことがないといってもいいかもしれない。勿論、その時どきに、花形といわれる人気業種はありました。戦時中は士官学校にいって軍人になるのが黄金のルートだったし、炭鉱とか、鉄道とか沢山ありました。でも、30年後もそのまま景気良くやってた業種なんか皆無に等しいというのはよく言われますよね。逆に就職当時は、「なんでまたそんな所に」と言われるようなエリアが、あとになってバケたというケースもよくあります。テレビ業界なんかそうですね。よく田原総一郎氏が思い出話で語ってるけど。
あのー、完璧な人生設計なんかこの世にあるわけ無いので、ある程度ソコソコに留めておいた方がいいんじゃないかと思います。だいたいですね、「ワタシの人生こうなって欲しい」ということの内容を考えてみると、「そんなの絶対無理!」ってのが多いのですね。いや、「無理」というのは、能力的にとか家柄的にとかいうのではなく、「理論的に」無理、つまり状態として同時に存在しえないようなものです。「ぐっすり眠りながら起きていたい」というような、「泥酔しながらシラフでいたい」とか、「濡れながら乾いていたい」みたいな、ありえないことを同時に望んだりするのですね、僕ら人間は。
たとえばですね、もう少し具体的に言うと、「一人の人と一生固く結ばれ、幸せな家族を育てていきたい」という意向が一方でありながら、他方では「背徳的で、炎のような恋に身を焦がしてみたい」とか夢想したりするわけですね、僕らは。
それがもう諸悪の根源というか、人間の原罪というか、全てのパワーの源というか、正反対のものを欲しがったりするわけです。
こんなジミな生活、平凡でウダツの上がらない毎日なんかうんざりだ!と思ったりするのですが、じゃあエキサイティングでスリリングな人生がいいかというと、実際にやってみたら大変だったりするわけです。誰一人信じられない、いつ殺されるかわからない、電話もメールも常に盗聴されていることを予想し、自宅に帰ったとたんクロロホルムを嗅がされて拉致されるかもしれない、、そんな「エキサイティング」な人生がいいかというと、それも考えものだったりします。
有名人になりたい、ステージのあっち側にいきたい!とか思っても、いざ実際にそうなったら、鬱陶しい人間関係に囲まれ、自宅には「死ね死ねFAX」や嫌がらせ留守電が毎日山盛り届くわけですね。分刻みのスケジュール、体調が悪かろうが、生理痛がひどかろうが、朝の4時からやってきたお迎えのクルマに乗り込み、吐きそうなのに無理やり喉に詰め込んで、笑顔で「これ、美味しいですねー」とカメラに向かって言うわけですね。
これはもうエロス(生の本能)とタナトス(死の本能)のようなもので、変化したい、動き回りたいという欲求と、じっと静かにしていたいという欲求、それぞれにあるわけです。でもって、変化には疲労が伴い、静寂には退屈が伴う、と。
ですので、大事なのはレシピーだろうと思うわけです。動と静のブレンド比率ですね。それがもっとも適切な状態が、おそらく最良の状態なのでしょう。ただし、最良の状態が最も強い幸福感を抱かせてくれるわけではありません。多分、「そう不愉快ではない」という程度だと思います。瞬間最大風速での幸福感は、右から一気に左に振れたときの、デコボコの変わり目に最も感じられるでしょう。ただ、行っちゃったらまた帰ってこないとならないので、その過程でどっと不幸になったりしますから、トータルでは「まあまあ」の最適状態が最も良いのでありましょう。
だから、自分にあったブレンド比率を見つけるのも難しい、それを実行するのも難しいのでしょう。「このへんでやめとけ」というポイントを見極めて実行するのは難しいです。ジジ臭くいえば、「足るを知る」ってやつですね。別の言い方をすると、パチンコのやめどきみたいなものですね。適当なところで切り上げておかないと、結局負けるまでやめなくなっちゃいますから。
あと、最適状態をずーっと続けていくと、やっぱり麻痺するものがありますよね。客観的には「幸福」であっても、主観的に幸福「感」を感じなかったら、意味がない、、ことはないけど、やっぱりうれしくないですから。だから、今ある状態が幸福であることを定期的に再認識させてやらんとならんのでしょう。また、気分転換もありますから、ときどき瞬間最大風速を吹かせてやって至福感を感じるのもいいのでしょう。適度にデコボコがないと、逆に危ないのかもしれません。雪の降ってる夜道をずっとクルマを走らせていると、段々催眠状態になって距離感もなくなって危ないですが、そんな感じなのかもしれません。まっすぐな道も作れるのだけど、わざと適当にカーブさせてドライバーの注意を喚起させるように道路設計するのと同じく。また、クルマの比喩でいえば、本当に事故っちゃダメですが、定期的にヒヤリとする目に遭うことは、安全運転志向がリセットされるから良いのと同じことです。ですので、適度に「破綻」は必要なのでしょう。
レシピー維持作業は難しいですね。これって、狙って計算し尽くしてやってしまったら、興味は半減しますし、「驚ろこうと思って驚く」ことが出来ないのと同じように、ある意味不可能でもあります。ということで、破滅しない程度に、適度に滑った転んだ、うれしい悲しいがあるのが、もっとも理想的な人生なのかもしれません。やってる最中はあんまりそうは思えないだろうけど、全て過ぎ去った後に振り返って、「ああ、いろいろあったなあ、いい人生だった」と思うということでしょう。
余談ですが、 映画や小説のストーリーで、ドラマチックに悲劇的なものを見聞きすると充足しますが、あれってもしかして「適当なデコボコ」を仮想体験して、「ああ、結局、今の俺は幸せなのかな」と再確認させてくれているからなのかもしれません。
というわけで、そんなに簡単に「黄金のルート」があるわけでもないでしょう、という話です。黄金のルートも、乗ったら乗ったでそれなりにツライでしょうし、乗ってる連中も心の底では「もう辞めたい」と思ってたりもするのでしょう。そんなねー、ルート一発でどうにかなるほど、僕らの心は単純じゃあないのでしょう。もっと複雑怪奇なのでしょう。
就職も、今の時代、ここに入れば安泰だなんて所はないでしょう。大企業だってどうなるか分かりませんしね。企業は安泰でも、それを安泰にするためのシワ寄せが自分に降りかかってきたら意味ないし。結局公務員が一番安泰よねーといっても、これから先どうなるか分からんですよね。中央省庁だって再編され、地方自治体が破産寸前とか言われている昨今、そしてグローバリゼーションが徐々に押し寄せてくるなら、「公務員くらい不安定な職業はない」といわれる西欧的な(少なくともオーストラリアはそうです)風潮もやってくるでしょう。今日明日どうにかなることなないにしても、30年後は全くわからんでしょう。
こうなったら、よし、資格だ!ということで、沢山の資格取得ルートが花盛りです。でも、医者や公認会計士と並んで資格の王様的な弁護士からしてみれば、情況は甘くないです。ともあれ、ちゃんと食える資格なんか、昔っから認知されているほんの数種類の最難関に限られていることに変わりはないでしょうし、医師も過剰ですしね。弁護士もやってる側からしたら過剰でしょう。
ところで、世間では弁護士数が足りないと意図的に宣伝されてますし、そういう局面もあるのですが、医療行為以上に生産効率の悪い、全部オーダーメイド&手作業の弁護士実務を、ペイするだけの料金設定にしようと思ったら途方もなく高くなります。実際、そこまで高く出来ないから手弁当。僕もやってた事件の半分以上はペイしてないです。
あのー、1000万円以下の規模の揉め事だったらまずペイしないですよね。億単位の話でないと美味しくならない。だから普通の人の事件だったらペイしにくいですし、それをやってるのはひとえに使命感でしょう。これをペイするようにするには、これは十数年来の持論ですが、健康保険のように、リーガル保険を半強制的に広めないと無理だろう。だって、医者でいえば全部自由診療なんですもんね。風邪でちょっと検査しただけで10万円とか取られたら、誰も医者に行かないように、そしてそれは医者の数を増やしたって根本的に解決しないように、1割とか3割負担で弁護士を利用できるようにしないと、なかなか普及はせんだろうなと思ってます。一回の相談料が1000円、訴訟を依頼して3万円くらいだったら頼もうかしらとか思うでしょうし。
これって、そもそもこの国に司法なんてあるのか?というくらい、三権分立の柱とは思えないくらい官民挙げて司法がシカトされている現状にそもそも問題があると思います。2003年度の日本の裁判所の概算要求は、3287億2900万円だそうです。たった3000億?これって、日本の国家予算の0.4%です。1%も貰ってない。たった3000億で上は最高裁長官から日本中の全ての裁判官、書記官、職員さんの給料を払い、全ての裁判所を建設し、維持してるわけです。以前ちょっと紹介した小説「司法戦争」にも出てきますが、日本の裁判官はおしなべて過労死寸前ですし、実際に昔の話ですが最高裁裁判官も過労死してたと記憶してます。一人あたり200-350件の手持ち事件を持ってて、ろくに審理なんか出来ないですよ。350件と聞いてもぴんとこないと思うけど、350冊の推理小説を同時並行的に読んで、全部オチは自分で書かないとならないと思ったら大体のことはわかると思います。しかもその全てが傑作というか、万に一つも誤審がないなんてことは、およそ人間には不可能です。さらに、裁判官には令状当番があり、深夜2時でも3時でも、逮捕状や勾留状の発布のために刑事さんに起こされるわけですね。
これが皆さんにどう跳ね返ってくるかというと、要するに法廷にいっても自分の主張を十分に殆ど聞いてくれないということなりますし、形式的に不利な証拠があったら(勝手にハンコを押されてしまったとか)、その「勝手に」という部分の立証をする時間的余裕を与えられずにまず負けるということでもあります。だから、医療過誤とか病院側に全ての証拠があったり、銀行や大企業相手の訴訟は、もう屍累々です。
あなたがもし弁護士になったとして、これぞ弁護士になった甲斐があったというような「可哀想だけど難しい事件(かわいそうな事件は大体難しいけど)」を担当して、直面するのは、忙しげに訴訟終結を急ぐ裁判官であり、とにかく和解を勧める裁判官であり、難しい立証をしようと証人申請をしても全部却下されたり、挙句の果てに「訴訟引きのばし」というレッテルを貼られます。なにも出来ないまま敗訴して、夜の8時の事務所で、蛍光灯の白々とした光の下、お通夜のように敗訴判決の説明をして、依頼者に「弱いものは泣き寝入りしろってことですか!」と泣かれるわけです。もちろん負けちゃったから報酬はゼロ(着手金はあるけど)。法廷ドラマで、どんどん証人申請が認められてるのを見てると、「ああ、うらやましい」と思っちゃいますね。証人尋問やったら法廷を占拠する時間を食っちゃうし、もう草野球の場所取りと一緒。
ほんと、日本の司法は超が何個もつくくらい貧乏です。なんで24時間コンビニ法廷にしないの?裁判官も増やして3シフト制にするなり、ゆとりを持たせてもっと本人の主張に耳を傾けて欲しいです。必要があれば、時間はかかるけど、現場検証もどんどんやってほしいです。敗訴した依頼者が一番不満に思うのは、負けた事じゃないんです。真剣に取り合ってもらえなかったということが不満なんですよね。日本の裁判が遅延するのは、誰かが手を抜いているからではなく、圧倒的な人員資源不足が原因です。法律改正して審理促進とかいっても、先立つものがなかったら意味ないです。
あとですね、カンの鋭い人はわかったかもしれないけど、審理促進とか弁護士人口の増大とか民間レベルでいってるのは、いわゆる財界という大企業ですよね。チャッチャと形式審理で進めてもらった方が企業側はトクな場合が多いですからね。ハンコさえあればチャッチャと勝たせて貰いたいのですね。虎の子の年金を失ったおばあちゃんの「ワタシはそんな話は聞いて無かったです」なんて主張に、いちいち時間掛けて付き合って欲しくは無いという部分もあると思いますよ。それに、司法試験合格者増とか法曹人口増大とかいっても、もっぱら言われているのは弁護士数の増加です。裁判官数の増大は、弁護士会は主張するけど、裁判所や法務省はあんまりハッキリ言ってません。企業の論理としては、社内弁護士が欲しいんでしょう。自分の業務に精通して、自分の意のままに動く弁護士が。日本の弁護士は気風として野武士的に自主独立だから、企業の中に入りたい人なんか極めてマレです。
最高裁とか法務省が裁判官増で口篭もってるのは、これはもう官庁界では三流官庁で、権力ないからでしょう。大蔵省(いまは財務省ですね)に相手にしてもらえない。だいたい0.4%しか予算ぶんどってこれないところからも明らかですけど。政府、もっとハッキリ言えば与党自民党が司法に対して望むのは、法務大臣や検事総長に対しては汚職疑惑で政治家が訴追されるのを、指揮権発動とか伝家の宝刀を抜くまでもなくスマートに握りつぶしてくれることであり、最高裁に望むのは、自衛隊は憲法違反とかあんまり政治に口出しをしない司法消極主義ですよね。アメリカみたいに議会で成立した法案をわずか数ヶ月で違憲判決を出して葬り去るような「戦う司法」ではないです。要するに何もしないことを望まれているわけですから、予算なんか最低限でいいでしょ、てなもんじゃないかと思います。
ということで、わかりましたね。弁護士志望のあなたは、日本の国家予算のわずか1%弱のマーケットしかない、経済的には非常に「痩せ地」を耕すハメになるということですね。だから、「いい生活」するために弁護士になんかならないでくださいね。無駄ですから(^_^)。日本の弁護士の平均年収は700万かそこら。これってもうかなり昔から上がってません。イソ弁の初任給も、もう20年?くらい上がってないんじゃないかしら。でも普通の生活をする程度には恵まれてますから、それでヨシとしてください。その代わり、「可哀想だけど難しい事件」は日本でいたるところにあります。弁護士までたどり着かないで泣き寝入りしている人も沢山沢山います。あなたの助けを待ってます。行ってください。夜の8時にアナタの事務所で、蛍光灯の下で敗訴判決の説明をするときだって、それまでの戦い方ってのがあるんです。依頼者と二人三脚で一緒に苦労して一緒にやってきたら、「いや、敗訴はもう最初からわかってたからいいんです。それより、先生、本当によくこれまで戦ってくれました。もう、あれだけ力いっぱい戦えたら、私はもう思い残すところはないです」と言って貰えたりもしますよ。そして、「今日は飲みましょう」で繰り出したりもします。そういう夜もあります。
あとですね、それと、「食べる」ということに関して言えば、資格ではなく「営業力」です。これはもう何度も言ってますが、資格だけもってても実戦力がないと意味が無い、実戦力があっても営業力がなければ客はきません。だから、資格だけとっても安泰ではないです。仮に食えるところまでいったとしても、「安泰」という意味が「楽して高収入」という意味だったら違います。「より能力の限界ギリギリまで働かされる場が与えられる」ということであります。それをもってヨシとしてくださいね。二〇三高地よりもマシでしょ(^_^)。
でも、振り返って考えるに自分がハタチかそこらの頃を考えると、そんなに先の経済的見通しなんか考えなかったですよ。「大きな方針」は立てましたけど、それは「なにかのプロになりたいな」「できるだけ朝無理に起きなくていい仕事がいいな」「人生の操縦桿は最後まで自分が握っていたいな」という、基本方針の確立みたいな感じでした。それ以上はね、あんまり考えられなかったです。
大体、バイトはしてたとは言え、親の脛カジリの身としては、経済的に独立したいってのはありましたし、自分の甲斐性で暮らすというのは、それだけも大きなことでしたよ。時給500円かそこらで働いてましたからねえ、天引きされて月給10万そこそこの司法修習生の給料でも大金に思えたし、2DKのアパートでも「俺の家!」ってうれしかったです。結婚するのも面白いし、世間に出て行くのも知らないことだらけで面白かったです。
弁護士として一生安泰ですねとかよく言われたけど、あんまりピンときませんでした。なるまではそれが憧れだったのかもしれないけど、なってしまってから「一生」とか言われると、今度は一生拘束されるような、そういった不自由な感じが逆にイヤだったですね。今思うと、なった当初から、心の底では薄々と「そう遠くない将来に辞めるだろうな、俺」と思ってたんでしょうね。
安泰とか見通しとか、そんなに要るの?って気がします。
実際にやりもせんと、評論家的に考えていたら、そりゃ八方塞りの閉塞日本って気がするのかもしれないですし、ネガティブな情報を集めたらいくらでも集まりますけど、実際に「生きる」ってことは、そんな統計や平均値の世界ではないと思いますよ。
どんな局面でも、よほど悲惨でない限り、現実というのはやっぱり面白いですし、どんな仕事についても「現実」はあるわけだし、それって結構感動しますよ。楽しい人、いい人、面白い奴、いっぱいいますし、そいつらとチーム組んで、夜中の事務所でシャツの腕を捲り上げて、缶ビール空けながら、仕事の議論をしてるのって、なかなかいいもんですよ。そういった日々の現実の面白さ、確かさ、厄介さで、人々は日々を生きているんじゃないかしら。
閉塞日本の将来の、、、とか難しく考えないで、「とりあえずやってみ」というのが、僕の意見だったりします。やってみたら、けっこう楽しいと思うんだけどなあ。とりあえず、それでヨシとしたらどうですか。後々いくらでも修正はききますし、そんなあるわけもない「安泰の道」を探してても仕方ないでしょう。安泰じゃないたって、いいんじゃないんですか、別に。
そうそう、「最適状況で感覚麻痺」「適当にデコボコが必要」の話をしましたが、鉛筆くわえて腕くんで「うーん」という状況になったら、半年くらいこっちにおいでませ。僕も来るときは、清水の舞台から飛び降りるというか、それ以上にスカイダイビングするくらいに思いきった感じでこっちにやってきたのですけどね、でもね、今にして思うと(また時代も進んだと思うのだけど)、ちょっとばかり海外に行ってくるというのは、そんな大それたことではなく、「適当なデコボコ」なんだなあってことがよく分かります。
よくオーストラリアに留学される人、最初は「キャリア・プランの一環」として来られる人も多いのですが、実際にこちらで生活するにつれて、そんなキャリア云々なんかよりも、もっともっと大事な人間的充足&リチャージをされます。というか、これだけデコボコ体験してリチャージしなかったらその方が嘘なんですけどね。
雪道運転状態で催眠にかかってるんじゃないか?と思う人は、一遍青空を見て目をリセットするのもいいと思いますよ。
(文責・田村)
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