今週の1枚(03.06.09)
ESSAY108/「お選びください」-”消費者”という単純人格
前回は、「馬鹿」の構成要素、@自立的思考、A視野、B推論のうちのAだけ書きました。今回は@について書きます。ただ、イチから説き起こすのではなく、最近ふとよく思う、「消費者人格」ということに関連して書きます。
僕の問題意識はこうです。人間には、いろいろな社会的な立場があり、その立場と視点の多様性がその人の深い人間性を育んでいきます。たとえば、同じ人間が、あるときは上司であり、先輩であり、部下であり、後輩であり、子であり、親であり、ドライバーであり、料理人であり、納税者であり、市民であり、県民であり、日本国民であり、アジア人であり、恋人であり、昔の恋人であり、妻であり、夫であり、受験者であり、審査員であり、たまたま同じベンチに腰掛けた隣人であり、マンションの隣人であり、迷える子羊であり、旅人であり、、、という具合に無数のポジションがあり、そのポジションでしか見られない風景を見て、モノを考え、そのポジションで要求されるペルソナ(人格)を形成する。これら有線放送のチャンネル以上の無数の経験とペルソナが、その人の統合人格=他の何者でもない自分自身=の奥行きを造っていくと思われます。ところが、ここのところ数あるポジションを押しのけて、ひときわ「消費者」というペルソナ・人格がメインになって、その他の多様な人格がだんだん後ろに下がっていって、人間が薄っぺらくなってきてるのではないか、ということです。
また、悪いことに「消費者」といっても、大衆&大量のスーパー型消費になってきて、それが浅薄化に拍車をかけているんじゃないかと。
たとえば旅行について考えてみましょう。
物事の発想の順序としては、どこかに行きたいと思い立ち、どういう旅をしたいか考え、それなりに調べて計画を立て、おもむろにチケットを購入したり宿を取ったりします。それが、まあ、通常のパターンだと思うのです。
ところが、資本主義も高度になっていくと、そこまでお客にやらせません。もう最初から旅行会社が行き先を決めて、バスや電車などの移動手段も確保して、見物する場所も滞在時間も、宿も、部屋も、さらには晩ゴハンの内容すらも全て決めたうえで、パッケージして商品として出します。便利ですよねー。僕らは綺麗にラッピングされたパック商品を棚から選べばよいのですからね。
ただ、ちょっと待てよと思うのですね。それって「旅をしてる」ことになるのかいな?と。それって、単に「商品を購入」しているだけじゃないの?と。昔の松尾芭蕉までさかのぼらなくても、お伊勢参りも、お遍路さんも、学生の気ままな貧乏旅行などでは、人々は「旅人」でありえました。見知らぬところに移動している軽い緊張と開放感、全てのダンドリをたてて実行するマネージメント的責任感、それを遂行していく中で得られる旅先ならでの知見と感慨(事前にあれこれ調べて想像して、そして実際に見てみたときのギャップとか)、そういった色々な知的・情緒的な興奮があったと思うのですね。でも、パックツアーでぼーっとバスに乗ってるだけだったら、そのあたりはまるで得られません。簡単になった分、なにかを代償として失っているのでしょう。そこには「旅人」という、なにやら人生そのものとオーバーラップするような高揚も憂いもありません。単なる「消費者」です。床屋の椅子に座ってるのと同じ。
事柄は旅行に限りません。見渡せば周囲のありとあらゆるものが「商品」化され、我々はただ商品を選んで購入するだけの「消費者」でしかなくなってきているのではないか。
「便利な世の中になったもんだ」。人々はそう言います。たしかに------。
僕らのニーズに合わせて、さまざまな商品が、サービスが開発され、発売され、店の棚に並び、お金さえ出せば大抵のことは手に入りますし、今まで出来なかったことも出来るようになりました。高度な技術開発とあいまって、便利度は加速度的に上昇しているでしょう。それはそれで素晴らしいのでしょう。
ただし、そこには大きな落とし穴があると思います。僕ら人間の生活・活動というのは、本来無限のバリエーションを持っています。何をしたいか、何をするかは、十人十色、百人百様、千差万別であったはずです。それら全てを「商品」にするのは不可能です。それが商品として出回るためには、商品に仕立てやすく、販売しやすく、そして、most importantly- なにより一番大事なのは、それで利潤が出ることです。この条件を満たさないものは商品として成立しないから、販売されません。だから、それは自分でやるしかない。
しかし周囲にあまりに商品が満ち溢れていると、それで十分のような気がしてきます。というか次々に繰り出される商品を追いかけていくので精一杯になってしまう。そして、商品になりえなかったものについては見落としてしまいがちです。そんなものがあること自体気づかないし、仮に気づいてもそんなのは売ってないから無理だとすぐ諦めてしまう。
これがモンダイだと思うわけです。
「いかがですか?いかがですか?」と新幹線の車内販売のように次から次へと商品が目の前を流れていくうちに、自分の生き方そのものがその商品レパートリーのなかにおさまってしまうし、さらにモンダイなのは、「商品から選ぶ」ということ以外に生き方がないかのように発想が狭まってしまうことです。お中元のご贈答もデパートのカタログからばかり選んでたら、それ以外の品物やいわゆる「心づくし」という贈答本来の発想と選び方が出来なくなってしまうように。そうなったとき、人は一個の奥行きもあり個性も豊かな人間から、ただの匿名的で薄っぺらな消費者になってしまうのでしょう。
今の日本人(に限らず、高度資本主義の先進国は似たようなものだと思うけど)、大なり小なりその影響を被っていると思います。つまりあまりに消費者モノカルチャーに染まってしまったがゆえに、奥行きのあるべき人格がだんだん薄っぺらくなっていっているという。
以下の質問に5秒以内に即答してください。「あなたの夢はなんですか?」「あなたが本当にやりたいことはなんですか?」 即答できますか?「お金で買えないことで、あなたの自分の人生で一番欲しいもの(やりたいこと)はなんですか?」。
つまり、どれだけ「絶対的な自分」というものがありますか?という質問です。「与えられた選択肢のなかから選ぶワタシ」ではなく、「純粋に意欲するワタシ」です。
「オレは海賊になりたい」という奴がいたとします。彼の頭の中にはこんな情景が生き生きと上映されているのかもしれません。
「七つの海をまたにかけ、仲間は飲んだくれの荒くれ男ばっかり。だけど根はいい奴ばかり。俺たちは毎日生死をともにしてるから、兄弟以上。血よりも濃いってやつだ。ボスは、これがまたデカい野郎で、俺たちが束になってもかなわない。気が短くておっかなくて、ドジをこいたらいきなり思いっきりブン殴られるけど、実は俺たちのなかで一番優しいのはボスなんだ。お、うわさをすればボスが甲板におでましだ。毛むくじゃらの分厚い胸板にでっかいドクロの刺青をしてる。テキーラの瓶をラッパ飲みしながら、「け、今日は獲物ゼロかよ、シケてやがらあ」とブツクサいって、「おおーい、けえるぞ」と銅鑼が鳴ったようなダミ声で怒鳴る。」
いまどき海賊なんかいるかというと、実はいるところには居るのですが、それにしても、かなりレトロで子供っぽい空想のような夢です。だけど、今の日本、そんなこと誰も考えないんじゃないの?「海賊になりたい」とかさ。夢というより、ワイルドファンシー、妄想なんだけど、頭真っ白にしてダイレクトに自分のやりたいことを「これ!」といえるというのはイイコトだと僕は思います。どこで売ってるとか、幾らかかるとか、雑誌に載ってるとか、それで生計は立つかとか、年金がどうしたとか、チマチマしゃらくさいこと抜きにして、「俺は、コレがしたいんだぜ!」って言えるかどうかってのは、結構大事なことだと思います。
でもって、海賊なんて荒唐無稽な話だって、これが何かの拍子で皆が注目して、雑誌で特集され、売れるようになってきたら、まず「海賊本(パクリの意味じゃなくて)」という”商品”が続々と発刊されるでしょうね。そして旅行会社で「海賊ツアー/カリブ海のロマン」なんてのが商品が発売されてさ、当然ファッション業界も海賊ルックをバンバン売り出し、それをアテこんだ海賊映画が作られて、そんでもってどっかで「海賊養成コース、一期生募集」という商品が出されるわけでしょ?そうなったら、そのへんの喫茶店で、「オレさ、海賊やってみたいんだけどさ」「いいじゃん、でも、難しいんだろう?」なんて会話が交わされるわけですな。だって、実際アフガンゲリラ風ファッションだって一部で流行ったんでしょうが。
そうなんですよね。「商品」になったら誰も変だとなんとも思わない、そんでもって慣れてるからすぐに対応できるんですよね。だから、人生なんか「商品」によって作られているっていっても良いくらいなんですよね。やれ資格をとりましょうとか、○○コースとか、○○対策講座とか、自分では選べない、思いつかない、考えようとすらしなくなった薄っぺらな消費者が、「はい、次はこっちですよ」という号令にしたがって、人生を決めて、日々を生きてるわけじゃないですか。進学も、就職も、結婚も、ホリデーも、子育ても、ペットも、趣味も、老後も、ぜーんぶ商品の中から選んでるだけじゃないですか。商品になってないモノは、人生の選択肢にも入ってこない、視界に入ってこない。それでいいんかい?って思いもあるわけです。
商品になってるということは、絶対どっかで「他人と同じ」なんですね。ひとりひとり100%完全オーダーメイドでやってるとコストが掛って仕方ないから、需要パターンが一定量まとまってくれないと、サプライサイドも供給しにくい。コストダウンするためには、ニーズそのものがきれいなパターンに整っていて欲しいわけです。同じ時期に同じモノを欲しがって欲しいわけです。だから「商品」から選ぶたびに、自分の絶対的なオリジナリティを妥協して潰しているわけですが、次第にそんなことも分からなくなってくる。
ところで、僕の夢、というか妄想ですが、いろいろありますよ。でも、一番面白そうなのは、国家建設ですね。もう自分で国を作っちゃう。何が面白いかというと、この世の全てのことを知っていて、全てのことが出来ないといけないから。この世で最高に難しいことの一つだからです。まず同志を集める人間的魅力が必要でしょ。そして集団内部のゴタゴタを解決しなきゃいけないでしょ。資金調達も兆円単位で必要です。重要産業の発見と育成、製造から輸出ルートの確立。法制度や警察消防機能の整備、電気ガス水道のインフラ整備。さらに独立宣言をしたあと世界各国に承認を求める国際交渉、国連加入。独立国だったら、アメリカ大統領と一応形の上ではタメ口きけます。国家建設途上で、日本国の自衛隊に即攻撃されて鎮圧されちゃうかもしれない。そこらへんがまず最高にエキサイティングな駆け引きですよね。あと、細かな楽しいキメゴトもあるでしょ?国歌作曲したり、国旗つくったり、国民の祝日を適当に決めたりするのも面白そうですよね。切手の図案とかさ。全部自分で作るというのが楽しいんですよね。究極の手作り。面白そうでしょ。特定のエリアに関しては世界最高水準のスキルと知識を持っている人をあらゆる分野で1万人くらい集めたら出来るかも。
それか、やっぱりアーティスティックな夢もありますよね。例えば、未だかつて地球上で流れたことのない、全く新しいメロディと音を自分で発見してみたい。自分のメロディで、世界中のリスナーの心臓をワシづかみして、魂かっさらってやりたい。あまりに凄すぎてしまって、言葉で説明することが全く不可能な音楽を作ってみたいとか。1000年先まで語り継がれる物語を作ってみたいとか。
ただし、現実に生きていく段において、別にそれを実行しなくてもいいんですよね。胸のうちにそれくらいの広がりを持ち、またそれに見合うだけ自分を高めたり研ぎ澄ませたりもするんだけど、日常生活は、どっかの地方都市の地方公務員でいいんです。古めかしい言い方をすれば”肚に大海をしのばせる”というか、人格や器量はドーンとスケールがでっかいんだけど、日常はいたって地味。職場から歩いて10分の○○ハイツという2LDKのマンションで待っている5歳の娘のために、ケーキを買って帰ったりしてるわけです。娘の喜ぶ顔を想像して、歩きながら思わず顔もほころんでしまうという。でっかいスケールの器量の持ち主なんだけど、でもそういった日常の幸せが一番大事だってことを良く知ってるわけです。そういうのって、超カッコいいよなって思います。
オーストラリアにやってくるワーホリや留学も、すっかり「商品」になってる部分があります。
留学だって、「そこに学校があるからだ」みたいな留学って本末転倒だと思うし、ワーホリだって「そこにそういうビザがあるからだ」ということではないと思います。ワーホリさん産業は色々ありますし、僕自身その一翼をなしているのだと思うのですが、「消費者としてのワーホリ」さんは、僕はいらないです。ワーホリ関連のサービスはいろいろあるのですが、本来はアレでしょ、もともとワーホリさんが自発的に何かやりたいと思って行動する、そこにニーズが生じ、供給が出てきてビジネスになってると思うのだけど、なんか話が逆になってる部分もあります。供給があるから需要があるというか、それに引っ張られてしまうという。
ワーホリさんも(それは留学でも永住権でも本質は同じだと思うけど)、何のために来てるのかというと、究極的にはボコボコにされに来てるんじゃないんですか?ボコボコにされるというと表現は悪いけど、楽チンな観光旅行の大名旅行をしにきたわけじゃないでしょ。全てが予定調和で終わってしまうのが嘘臭いから、ガビーンという現実に触れて、自分の世界観なり人間性の”次元”を上げたいor 変えたいと思ってきてるのだと思うのです。どうやったら一番ガビーンに触れられるかというと、それはもう「手加減抜きのホンマモンの現実」でしょ。甘っちょろい自分が、世界の現実にボコボコにされるから、目も開かれるし、成長もする。だからボコられに来てるんだと思うのです。結局のところ。
それなのに、観光旅行のオプショナルツアーの延長みたいに、「ファームステイもしてみませんか」「ボランティアやってみませんか」と、いろいろな「商品」が開発されているわけですね。だから、だんだんそういった商品を適当に選んで買ってるだけで終わってしまうという。なんのオリジナリティもない1年で終わってしまうという。別に新人マンガ家の選考会議やってるわけじゃないから、オリジナリティが無ければダメってもんでもないのですが、それって本当にアナタなの?という部分はあります。
それが悪いとまではいいませんが、勿体無いなとは思います。せっかく本物の宝石に出会うチャンスなのに見逃してしまわないかと。大体ですね、ボランティアをお金払って誰かに斡旋してもらうとかさ、普通に考えたら、それってヘンじゃないですか?そりゃ、ボランティア現場を取材したいので旅行会社に頼んでダンドリつけてもらうというのなら分かりますよ。取材なんだし、仕事なんだから、効率よく済ませたいでしょう。でも自分がボランティアやるのに、それはないだろうと思いませんか。それって、要するに「思い出つくり」とか観光じゃん?ツアーじゃん?ボランティアというのは、そもそもが「自発的にやること」という意味でしょう。やりたかったら近所の公園の空き缶拾いだって立派なボランティアでしょ。それに、自分で英語使ってボランテティア組織を探して、連絡とって、ダンドリつける程度のことも出来ないような無能な奴が、地元民のオージーが忙しい中時間をやりくりして頑張ってる現場に、遊び半分にウロウロされてたって邪魔なだけでしょ。
あと、消費者人格どっぷりになると、人間が馬鹿になりますね。世の中何にも見えてない、人のことも何もわからない、カン違い人間になるリスクがあります。
消費者がやることって、要するに出来るだけ安く、出来るだけ良い商品を購入するという、クレバーな購買活動になるわけですよね。でも、そればっかりやってると、どんな人間関係も「売買関係」でしかなくなってくるのですよ。でも、人間関係そればっかりじゃないですよ。というか、そうでない方がはるかに多いです。ゼニカネじゃなく、商売じゃなく、単純に可哀想だからとか、好きだからとか、気に入ったからとか、そういう人間的な理由で他人をヘルプすることはよくあります。だけど、「消費者」にはそれが分からない、理解できない。
せっかくマトモな人と人と関係、対等で温かい関係が築かれそうになっているというのに、目の前に手を差し伸べられているのに、受けた好意を「オマケしてもらっちゃった」「トクしちゃった」としか理解できないというのは不幸です。人の心の温度感知器がぶっ壊れてるのでしょう。
僕も一括パックといって最初に来た人の学校選びのサポートをやってますけど、無料にしてます。空港までお迎えにいって、何時間も現地生活とか学校のレクチャーをして、1日使って学校案内して、手続きまでやって、ステイ先まで送ってあげて、本当だったら一人1500ドルくらい取ってもいいくらいの客観的な内容だと自負してます。むしろ営業的には、「タダほど高いものはない」という無用な警戒感を抱かれたり、「高いとなんとなくいいものような気がする」日本人の高級志向に合うかも知れないから、無料というのもどうなんだかね?多少取った方が信憑性が高まっていいんじゃない?と経営者としての僕は考えています。それでも無料でやってる理由は、業者=消費者という人間関係がイヤだからです。僕が提供しているのは、「消費者」には絶対理解できないような人間関係です。完全に無償の善意かというと、僕もビジネスでやってるからそういうわけでもない。でも、ビジネスとして考えたら明らかに逸脱してる部分もある。なんなんだ?という分かりにくいものです。
しかし、別に、言葉にして分かる必要も無いです。言葉にできないような人間関係は沢山あります。「腐れ縁」とか、ルパンと銭形警部のように、敵なんだか友達なんだかよく分からない関係もあります。というかそれが普通です。言葉にして理解したり、前例がないと不安になってしまうような人は、人間が本来もってる対人関係構築能力が低下してるのでしょう。あるがまま、そのまま素直に受け入れて、素直に返して、気持のいい関係になればいいだけなんだけど、それが出来ないのは、どっか壊れているんだと思いますよ。年齢がヘタに上になるほど、というか正しく年を取ってこなかった人ほど、僕のやってることが理解できないみたいですね。
このHPの体裁にしても、メールでのやりとりにしても、僕は意図的に業者という枠を完全に逸脱して振舞ってます。留学したいと言ってる、業者的にいえばカモネギみたいな人でも、それが本人にとって良くないと思えば、考え直すようにに説得したりします。ホームステイの斡旋にしても、ホームステイのなんたるかが分かってない人、根性が座ってない人には、まずホームステイ幻想をブチ壊すところから始めます。こういう僕の振る舞いは、日本的消費構造にどっぷり漬かった人には何者なんだか分からんでしょう。でも、そこから抜け出して、普通の一人の人間に戻ってくれたら、分かるでしょう。というか、別に分からなくてもいいって気がするでしょう。とっても簡単なことなんですけどね。
ある意味、僕は、日本からやってくる人が最初に出会う「オーストラリア人」なんだと考えてもらった方が早いと思います。そう、たまたまバスで隣り合わせに座ったというだけの縁で、「宿がないなら、ウチに泊まれば?」と気安く、ウラもオモテなく言ってくれるオーストラリア人の一人なのだと。あるいは、昔の、昭和30年代頃のナチュラルな日本人だと思ってもらってもいいです。マーケティングとやらに、自分の聖域に土足で踏み込んでこられるのが嫌いな、本来ごく普通の日本人。
もう一点、同じ「消費者」であるにしても、全然クレバーじゃないなと思うこともあります。消費者のなかのランクとしてもあんまり上等じゃないな、と。
これもずっと昔に雑記帳で書いたと思いますが、売買や取引という経済活動では、相互の信頼関係が重要です。同じように取引関係を続けるにしても、「いかに相手からむしり取ったろうか」と思うか、「いかに相手に良くしてあげようか」と思うかで随分違ってきます。長期的視野にたてば、後者の方がずっと実りが大きい。だって、気持いいですし、疲れないです。疲れないというのは大きなポイントで、騙し騙されやってるストレスは結局ツケになって後に溜まりますし、その経済的損害(ストレスでヤケ酒飲んで入院して治療費がかかるとか)を考えたら終局的には損です。こんなことは、ある程度きちんと会社で働いたり、ビジネスをやったり、商売をやったりした人だったら、日本人のビジネス水準の高さから考えて誰でも知ってることでしょう。
よく友達だからマケてよとか、なんだかんだ理由をつけて値切ろうとしたりする人がいますが、こーゆーのはアホだと思います。いやいや、しっかり儲けてください、頑張ってくださいで気持ちよく払った方がいい場合が多い。嘘でもいいから、気持ちよくやれば相手も悪い気はしないですし、「ああ、礼儀を知ってる人だな」ということで、料金以上のサービスをいろいろやってくれます。自分でビジネスやってる人だったら常識だと思うのですが、本来料金表に載っているもの以外の無形サービスというのは、実はめちゃくちゃ広範にあります。どっちかといえば、そっちの方が大きいくらいです。目先のことに囚われて、ゴネて値切って、1000円単位で得をしても、長期的にいえばその数十倍損してることって沢山あります。25歳過ぎてそれが分からない奴は、アホと言われても仕方ないと思います。それなりの人間に対しては、世間はそれなりの対応しかしません。お金払った分しか何もしてあげない。でも、お金・対価部分を越えたところから、生きている醍醐味というか、人と付き合う極上に美味しい部分が始まるのですね。ああ、勿体無い。
商売といい、ビジネスといい、しょせんは人間がやってるんですから、ベースとなる人間関係がダメだったら、ダメです。でもって、最近の「消費者」というのは、消費購買行動において人間関係を築かないケースが多くなったせいか、そのあたりがますますダメになってるような気もします。スーパーマーケット的な購買活動ばっかりやってると、結局、特売に飛びつくとか、二回並んで卵パックを二度取るとか、そんなセコい行動パターンになっていくような気がします。
古くからの市場や商店街が寂れて、ダイエーやヨーカードーのような大規模小売店が登場し、商店街のありようも変わってきたと言われます。人情が廃れてどうのこうのという話もあります。恥ずかしながら、僕も最近になって、「ああ、そういうことだったのね」と思い至ったのですが、それって別に懐古趣味的な述懐だけで言ってるんじゃないんですよね。
たとえば昔からの市場からスーパー中心に、さらにコンビニ中心になることによって、日本人の平均的な料理の腕は確実に落ちたと思います。昔ながらの魚屋さんや八百屋さんというのは、単にモノを売ってるだけではないです。あの人たちはそのエリアの食材に関してはプロなんですね。だから、買物しながら、無料で貴重な食材知識、料理知識を教わっていたのですね。今のシュンは何か。どこを見て判別したらいいか。どうやって食べたらいいか。料理にあたっては何を留意すべきか、よく知ってるんですよ、プロだから。この知的財産って相当なものだと思いますよ。さらに、顔なじみになれば、それこそ「オマケ」もあるし、「ここだけの話だけど、コレは止めといたほうがいいよ」とかいう貴重な情報を得られたりもしますし。これらが数年、十数年累積したら、経済的価値というのは実は優にクルマ一台分くらいあると思いますよ。いや、マジで。
というわけで@自立的知的能力に関して、消費者的思考・人格類型について、ちょっと思ってたことを書いてました。総じて言えば、全てにわたて消費者的購買活動で済ませようとしていると、「自分」というものが薄らぎ、匿名的な「消費者A」になってしまう。消費者というのは、モノとカネだけバーターしてればいいから、人と付き合うことも自動販売機で買うこともミソもクソも一緒になってしまう。つまりは人間への関心も、洞察力も、愛情も薄れてくるから、対人関係能力が落ち、ひいては消費購買活動そのもののレベルも低下していく、と。
まあ、早い話が、段々ナチュラルな人間じゃなくなっていくわけですね。日本人がだんだん「金持ってるロボット」みたいになっていってるってことでしょうか。自動販売機でモノ買ってる「自動購入機」みたいな。それって、ヤバいんじゃなかろうか、と。
しかし、国民をして消費ロボットに調教するという、日本全体がSF・催眠商法の場というくらい究極のマーケティング努力を払い、あの手この手で売りまくっておきながら、なぜに日本の景気は良くないのでありましょうか?それもまた不思議です。
(文責・田村)
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