今週の1枚(03.06.02)
ESSAY107/「馬鹿」論 視野について
写真は、小春日和のチャイナタウン
「平和は馬鹿しか作らない」。
このセリフ、どこで聞いたんだったっけ?そうだ、ビートたけしが主演していた三億円強奪のTVドラマでたけしがボソッと吐いた言葉でした。聞いて「なるほど」と、クスッとシニカルな笑いが漏れる、たけしらしい一言です。あなた、どう思いますか?
戦後日本の一億大ボケ化に対する痛烈な批判として語られる限りにおいて、なるほどという側面もあります。しかし、だったら戦前が賢かったの?というと、もっと疑問ではあります。平和は馬鹿しか作らないかもしれないけど、war too. 戦争もまた馬鹿しか作らない。いや、戦時中の方が自立思考をシステマティックに否定するから、もっと馬鹿を量産しそうな気もします。じゃあ、結局、いつだって馬鹿しか作らないのか。思うに、その世の中が平和であるか戦争であるかは、その社会に住む人々の馬鹿度を決定する主要な要因ではないのでしょう。
じゃあ、何が決めるのか。それは色々あるでしょう。社会の慣習、因習、親のしつけ、教育システム、文化環境、本人の生来的素質等々。それはもう、その時々によって違うでしょうし、人により時代により様々でしょう。また、影響を与える要素も無数にあり、それらが複雑に組み合わさっていくだろうから、とてもじゃないけど一口には言えないでしょう。
それよりも、何をもって「馬鹿」というのか、その内容を考えてみる方がとっかかりとしてはやり易いと思います。「馬鹿」とはいったいどういう知的精神状態のことをいうのか。
ここで、気楽に「馬鹿、馬鹿」と言ってますが、聞いててあんまり愉快な言葉じゃないし、その言葉に込められる意味も場合によって様々ですから、混乱を避けるために最初にちょっと定義しておきましょう。僕がここで使っている「馬鹿」とは、一般的には知的能力が劣る場合を言いますが、純粋に脳の機械的メカニズムとしての知能だけではなく、倫理的価値的判断をも包含する、総合的な人間力としてのそれを言っています。だから、ものすごく知能指数は高く、計算処理能力が優れていても、他人の痛みが分からない奴は基本的に「馬鹿」です。
これまで僕がよく引用してきた名言で、「頭のいい馬鹿は、頭の悪い馬鹿よりももっと馬鹿だ」「知識のある馬鹿は、知識のない馬鹿よりももっと馬鹿だ」というものがあります。出典はどこだったか忘れましたが、ラ・ロシュフコー箴言集に「頭のいい馬鹿ほどはた迷惑な馬鹿はいない」という一節がありますので、そのあたりかと思います。でも、このあたりのことはもっと多くの人が言ってそうではありますな。大体、これで感じがつかめると思います。逆にいえば、知能指数は低くとも、あるいは知識は少なくとも、本質的に賢い人、聡明な人はいくらでもいます。
さて、そういう意味の「馬鹿」であるとして、「馬鹿とはなにか、馬鹿の成立条件」を考えてみたいと思います。
これもいろんな考え方があると思いますが、今ざっと考えてみたところ、@自分で考えるという本人の姿勢(知的自立性)、A視野の広さ、B展開能力(未来推理)能力の組み合わせじゃないかと思います。Aの視野の広さが平面的ヨコ的広がりだとしたら、Bは「こーなればあーなる」という未来の展開を読みきっていくタテ方向への広がりです。
@は言い出すとキリがなさそうなので、まずは手っ取り早く済みそうなAから。
Aの視野の広さは、は非常によく語られるところですね。とにかくも、視野が狭くて賢いやつは少ないですから。
視野というのは、まずベーシックに「世の中どーなってんの」という一般知識があります。それは政治経済、土地風土歴史についての教養的知識があります。さらに個別に、「31歳、女性、派遣社員、3年前に購入した吉祥寺の一人暮らしのマンション、木曜日の午後7時半帰宅して、さて何を思うか?」であり、「54歳、男性、半年前にリストラされ職安通いをするも展望なし、火曜日の午前10時半、池袋の公園のベンチでタバコを吹かしながら、さて何を思うか?」であり、「37歳、男性、独身、システムエンジニア、転職歴3回、職場ではかなり年長の方なので管理職を任されるが未だに馴染めず。給料はいいが多忙すぎて使う暇がなかったので貯金は多い。深夜11時半、まだ職場。ディスプレイをニラみながらコンビニ弁当をつつきながら、さて彼は何を思うか?」というリアルな社会への視界があります。
今、この現在、この世の中に何が起きているのか、この社会のあらゆる立場のあらゆる人々の個人個人のミクロ世界を、できるだけリアルに、出来るだけ本当のことを知りたいと思うこと。そして、それが人類数千年の歴史的展開において、どう位置付けられるのか、それを考えること。それが第一歩だと思います。
これがさらに広がると、「オーストラリア、シドニーのイースタンサバーブで高い不動産を無理して購入した子供一人の共働き夫婦が、ローン返済の一助とすべくホームステイをやり、ボンダイジャンクションの2校の英語学校と契約し、コンスタントに1−2名の留学生を受け入れている。最近のSARS騒ぎでアジアの留学生が減ってきて、ちょっと家計はピンチかも。先月発表された連邦予算と新税制をニラみながら、年度末の6月までに節税対策としての経費支出としてなにをなすべきか。日曜の朝。年度末の節税対策ショッピングをあてこんだ郵便受けに投げ込まれた大量のチラシを取り出し、朝の食卓の上にバサリと載せ、コーヒーをすすりながら眺めている。さて、この夫婦は今何を考えているか」という具合に広がっていきます。
さらには、「平安時代の四国の農家の次男は何を考えていたのか」とか、「ゲルマン民族大移動の際、無人で憂鬱な黒い森を進みながら、人々は何を思っていたのか」と、時空を越えて視野は広がっていきます。
どれだけ遠くまで見えるか。
どれだけクリアに見えるか。
これが視野なんだと思います。
まあ、そこまで遥か時空間の地平をSF的に越えていかなくても、今、目の前に座っている恋人が何を考えているか?すら、永遠の謎だったりします。完璧に理解するのは不可能。自分のことすら把握しかねるのに、ましてや他人が分かるはずもないのですが、そこは程度問題で、「こういうときに女性は概してこう感じるもの」という視野の広域化、さらに「一般的にはそうだけど、こういう例外もある」という精密化、さらに「でも、こと彼女に限ってはこう」という個別化を、ある程度進ませることは可能です。でもって、これが出来ないヤツはモテません。あるいはとっかかりとしてモテたとしても、長続きしません。だって、人って、自分のことを理解しようとしない人間に対しては不快感を持つものですから。
視野の広がりを獲得するための方法は、これはもう無限にあります。今まで見なかったものを見ればいいんだから。
しかし、社会が高度になって、分業や棲み分けをすればするほど、人々の視野は反比例して狭くなっていくのでしょう。成長していく過程でも、最初は幼稚園とか公立小学校とか、「単に同じ地区に住み合わせた、同じ年齢」というフィルターしかかかっていませんから、同じクラスに将来総理大臣になるヤツも、暴力団組長になるヤツも、アーティストになるヤツも机を並べています。ところが、高校大学と進むにつれ、「大体自分と同じくらいの偏差値、勉強進度のヤツ」という具合に細かく輪切りにされていきますから、この時点でかなり視野は狭くなります。これが私立とかになると、もっとフィルターがかかるから、剥き出しの荒々しい社会実体からは遠ざかり、知らず知らずバイアスがかかる。
僕自身、公立学校ばっかりだったので、自分の経験で言えば、子供の視野を広げたいんだったら、公立学校に入れて、適当に転校させるのがいいと思ってます。もっとも、今の日本の教育現場はそんな楽天的な言ってられないくらい荒れているのかもしれません。が、荒れていないのかもしれず、僕にはよく分かりません。というのは、職業柄若い人に年中接してますけど、別に公立出身だからなにかがおかしいってことはないです。どっちかというと、公立出身の人の方がバランスがいいように思いますよ。これはまあ、数十、数百のサンプルケースでしかないですけどね。それから、学校がどうだったかよりも、卒業した後どうしてるかによって決定される部分が大きいようにも思います。実社会でどれだけ学んできたか、ですね。これは学校以上にデカい要因じゃないかというのが僕の印象です。
さて、大学の専門学部という最高に細分化が進んだところで、普通は就職ですよね。ここで一気に世界が広がるはずです。基本的に同年齢の人間としかつきあってこなかったのが、これからは同い年の方が珍しい社会に入りますから。また社内はそれでも同じバイアスがかかってますけど、営業廻りをすれば、広い世間に入っていきますから、議員センセイにもヤクザにも会うかもしれません。ただ、皆がみな、そうなるわけではありません。外の世界との接点が少ない同質社会にこもってしまうケースも多いでしょうし、外部と接触頻度は多いのだけど何も学ばないというケースもあるでしょう。そこは一概に言えませんが。
ちなみに、僕の場合は、大学の法学部から、法職課程という司法試験受験母体に入り、受験生活数年を経て司法修習を2年やるという、セレクトに次ぐセレクトを経て、最高に純粋培養的な同質集団化したところで、大阪の弁護士実務という一気に世間のど真ん中に放り出されました。大変といえば大変ですが、でも金魚鉢にいたのが海原に放されたようなものですので、開放感もひとしおで、日々ボコボコにされつつも、過ぎてみれば面白かったですよ。
もともと、ダーティな部分も含めて世の中を見てみたいというジャーナリスティックな興味が法曹志望動機の一つだっただけに、朝から晩までいろんな人、いろんな場面に立ち会うのは本望でありました。相手方の資産隠しを暴くために鹿児島の山奥のラブホテルを調査に行ったり、拘置所に接見にいったり、能登半島の先端の地すべり指定地域に設定された担保土地を検分にいったり、息子が殺人を犯してしまったお母さんと一緒に菓子折り下げて先方さんの家まで謝りに行ったり、倒産案件を仕切って修羅場の中でモミクチャにされてネクタイ引っ張られたり、深夜に起きた交通事故を調べるために夜中の農道にいって懐中電灯振って距離を確認したり、阪大の医学部図書館にこもって医学文献探し回ったり、まあ、大変だったけどどれもいい経験でした。視野もおかげで、少しは広がったように思います。
それでも「まだまだだなー」という思いも強く、仕事以外に積極的に異業種交流で旗振ってみたりしましたが、結局自分が安全な立場で見てたって本当のところは分からんだろうなって気もするし、一方ではそういえば日本自体が巨大な同質集団じゃないかと思い始めて、そんな具合に思い始めたらもう終わりで(^_^)、「ああ、外はどうなってるんかなあ、見たいなあ」ということで、こっちまで来てしまいました。好奇心だけで生きてるようなものなのかも。ちょっと余談でした。
あと、自分の視野の狭さを思い知ったり、視野の広さを獲得しようと思ったら、自分で小説書いてみたらいいです。ジャンルはなんでもいけど、出来るだけ私小説ではなく、展開する場面が広く、多様な小説。これ、書けないですよ。よく「私は文章が苦手で」という人がいますけど、文章能力以前に知識として、いかに自分が世間を知らないかが面白いほど情けなく露呈しますから。
東北の寒村の農閑期の風景や、証券ディーリングルームの活気とか、描写できますか?ミステリーを書こうと思って、私鉄沿線のホームの線路脇に死体が放置されていて駅員がそれを発見するという出だしだとしても、駅員さんってどのくらいの頻度でホームを巡回するのか、そのときに懐中電灯を手にもっているのか、巡回するのは駅長クラスなのか、どういう服を着ているのか、どういう勤務日程になっているのか、そもそもホームから線路脇の死体なんか見えるものなのか、死体を発見したときになすべき段取りはどうなっているのか、警察や本部に連絡するのか、運行ダイヤの変更をどう決定するのか、その基準はどうなのか、保安要員への配備の処理はどうするのか、、、、もうそれだけでアウトです。「何も知らんじゃん、俺」ということになります。「駅員が死体を発見しました」だけ書いたら、ただのアラスジだし、子供の作文だし、小説になってない。
ところで最近、高村薫氏の小説にハマってまして、いつかこれだけで一章もうけて書きたいな思ってるくらいですが、彼女の小説は凄いです。「どうしてこんなに知ってるの?」というくらい、周到な取材とそれを消化しきって自家薬籠中のものとし(ところで「自家薬籠中」ってイディオム知ってますか?自分の家の薬箱の中のように知識を完全にマスターし、消化しきっている状態を指します)、執拗なまでに淡々と書き込んでいく描写は、すさまじいものがあります。
「リヴィエラを撃て」での北アイルランドやロンドンのイーストエンドの描写、「レディ・ジョーカー」での歯科医の手術の様子、競馬場の風景、「李歐」での旋盤工の仕事の細かな進み具合、「神の火」の原子力発電所の操作手順や、科学技術系書店での勤務風景などなど、各職業世界が非常なリアリティでもって描かれてます。また、そこに登場する人物の喋り言葉の自然さ。例えば立場や時代、方言などを考慮して正確に再現していく努力。戦後の大阪の町工場での会話と、イギリス貴族同士の会話、言葉遣い、レトリック。いったいどれだけの前提知識が必要なのか、どれだけ細かな取材が必要なのか、気が遠くなるような思いがします。
というわけで、視野を広げたかったら自分でなにか書いてみたらいいと思います。
このことは、実は僕も小学校高学年のときの思い知らされました。その頃は漫画描くのが流行ってて、僕もいろいろ描いたものですが、登場人物のアップばっかりで話が進むわけもなく、背景を描きいれたりします。戦争マンガだったらねー、まだ空にゼロ戦描いてればいいから、プラモデルのゼロ戦を片手で持っていろんな角度に動かし、もう片手でスケッチするくらいで済みます。しかし、子供で馬鹿だったから、その頃読んでた松本清張や司馬遼太郎を漫画化するなんて途方も無い野望を抱いてしまって、いきなり挫折してました。1頁も描けなかった。まず時代劇は時代考証で挫折。着ている服がわからない。だから描けない。現代モノは時代考証はいらないけど、駅のシーンで挫折。駅、描けないですよ。日常いつも見てるくせに、描けとなったら、架線はどうあって、ホームのベンチはどんな形で、白色と黄色線の破線の大きさ、電車本体やパンタグラフの形状。いかに、モノを知らんか打ちのめされましたね。
下手でもいいから、一回やってみることをオススメします。小説でもマンガでも、音楽でも、なんでも。自分でやってみるといかに難しいかわかりますし、それが分かるとプロの作家の力量の凄さがよく理解できるようになりますし、それだけ深く楽しめるようにもなります。
なんか、Aの視野ですが、全然手っ取り早くないですね。これだけでもう今回は終わってしまいそうですな。
なんで視野が広くないと馬鹿になりやすいかといいますと、モノが良く見えないと判断を誤るし、その誤った判断で他人に迷惑をかけるから、「馬鹿」呼ばわりされるのでしょう。
たとえば視野が狭いと、他人の行動や真情が分からない。だから、平気で他人の気持を傷つけるような言動に出てしまう。立場も環境も違う他人の状況というのは、普通わかりません。わからないけど、ある程度視野が広く、「こういう立場の人は今こういう問題に直面している」ということを知っていれば、多少なりとも推測が出来るはずで、それをベースに相手の立場を慮ったりすることも出来ます。
話は変わりますが、英語ネィティブには二通りの人間類型があって、英語以外何も喋れず、また英語の通じない国に暮らしたことがない人と、言葉の通じない国で苦労した経験があり、また英語以外の外国語を習ったことのある人です。前者は後者よりも馬鹿である確率が高いです。自分が言葉で苦労したことない奴は、「英語なんか出来て当たり前」という態度で僕ら非ネィティブに接する傾向が多少強いのですが、自分で苦労したことのある人は英語の出来ない人に概して親切です。前者の類型の人の視野には、「言葉で不自由するハードな状況や気持」というものがすっぽり抜け落ちてる。視野が狭いがゆえに、他人に迷惑をかける馬鹿の一例です。
大体なんでもそうですが、無能で努力しない奴に限って、態度がデカく、人を傷つける傾向がありますな。昔の日本では、「苦労人」という言葉をレスペクトをこめて使ってました。いろいろ苦労してきたから、視野が広く、ゆえに配慮が行き届き、いろいろな人に細やかな気遣いが出来るということです。「若いときの苦労は買ってでもしろ」とよく言うのは、視野が広くなり、物事のを考える奥行きが深くなり、だから生き方も深くなるからです。子供から苦労を奪ってしまったら、馬鹿になるだけです。もっとも苦労しすぎて性格がイジケてしまったりしたら問題ではありますが、だから質のいい苦労を選別してやるのが大人の役割なのでしょう。しかし、僕もそんなにエラそうに言ってられません。自分でも反省することしきりですし、「俺もまだまだコドモだな」と思うこともよくあります。おー、恥ずかし。
また、視野が広く、気遣いに満ちているのはいいのですが、だからといって他人の目ばかり気にして迎合する必要はないのですね。ここが難しいところですが、他人の目は気にしなくていいが、他人のココロは気にしなくてはならない。ともすれば、その逆、他人の目ばかり気にして、他人の気持は無視ということになりかねないです。自戒すべし、ですね。
一見視野がメチャクチャ広そうなんだけど、ある面では全く無知同然であり、そのアンバランスがひどい場合も、やっぱり馬鹿と呼ばれてしまうでしょう。これは男性に多いのですが、「力と知能と技術でこの世界は成り立ってる」と思い込んでしまう、それさえあれば世界は制覇できる、と。これはいわゆる男性原理ですが、男性原理の端的な一例としてアメリカが挙げられると思います。アメリカは、CIAやら偵察衛星、企業や軍隊の海外進出などで、情報や経験に関して言えばおそらく世界のことについては一番良く知ってる国でしょう。だから、その意味では視野は広いでしょう。また、力も技術も持っていますし、行動力もあります。だからこの世界を物的に支配するだけの力があり、彼ら自身それを当然だと思っているでしょう。
しかし、「この世は別に力と知能と技術だけで成り立っているわけでもないよ」ということを知らない、あるいは軽視してるという意味では「馬鹿」です。アメリカみたいな男性(男性的な女性も)ってよくいるんですよね。正々堂々と公平な条件で競争して、誠実に努力を重ねた者が勝利を得て、豊かな人生を得るという価値観。それは、一見非常にマトモです。どこにも欠陥はないようですし、事実おおむね世の中はそのように廻ってます。しかし、この不可思議な人生と人のココロを、そんな具合に割り切れると思っているあたりで既に視野が狭く、「馬鹿」です。自分は、有名大学を出て、一流企業や官庁に入り、ルックスもよく、収入も良いから、女は俺に惹かれる筈だ、俺と結婚した女は幸せな筈だと思ってる奴と同じです。結婚生活も、浮気をせず、順調に出世を遂げ、家計にも負担をかけなければそれでハッピーに成り立つ筈だと思う。それでなにが違うんだ?と思ってる奴が、あっさり奥さんから離婚されちゃったりするのは良くある話です。「なぜだ!?」って言いたいでしょうね。
アメリカだって「なぜだ?」って言いたいでしょうな。独裁者の圧制を除去し、民主主義を広めるため、パワーと技術で世界の正義を実現したのに、一生懸命に血と汗を流してきたのに、なんでこんなに世界の観客はシラーッとしてるの?なぜ皆拍手してくれないのか?と。
まず「力と努力の公正な競争」なんてこの世に存在しないのだ。人は生まれながらに個体差があり、いかんともしがたい才能の差がある。「公正な競争による、幸福の公正な配分」なぞ、最初から力に恵まれた、やれば勝つ確率が高い人達の共同幻想でしかない。共同幻想に浸っている人は、一生懸命勉強をして、必死に努力をして難関を突破したんだから、社会のエリートになってもいいじゃないかと思うかもしれないし、確かに一生懸命、必死にやったのでしょう。それは否定しないですし、エラいと思います。でも「一生懸命努力出来る」という環境それ自体が既に不公平に恵まれているのだし、同じ努力をしても結果は個人差によっても違う。
それに、そもそもそんな競争をやりましょうなんて世間全体で合意されてるわけでもないです。そんな競争、最初っからやりたくない奴だっています。むしろ過半数の人はやりたくないんじゃないか。そんなに一元的な価値や、ルールで世の中廻っているわけではない。大体ちょっと考えてみれば分かるように、どれだけ勉強が出来るか、どれだけ答案用紙により多くの正解を書き込めるか等という愚にもつかない競争が、なんでこの世界を統合するユニバーサルなルールになりうるものか?まだしも、単純に腕っぷしが強いか弱いかで序列を決めるサル山的競争の方が普遍性があります。あるいは、学識、教養から、バクチやケンカに至るまで全てにおいて一流であることを求められる英国貴族のあり方のほうが、あるいは文武両道に秀で、高度な倫理観とプライドのためにはいつでも笑って死ねるだけの魂を高潔さを求めた日本の武士道の方が、エリートのあり方としては、まだしも納得しえます。
勉強がよく出来た方がなにかと人生で得をする場面が多いというのは、たまたま今の社会が高度資本主義社会であり、文官社会であり、その仕組みにおいては、より中枢にいけばいくほど高度の事務処理能力がある人間が求められているという結果に過ぎないです。社会の原理が変わればまた話も変わる。そして、また、その高度な事務処理だけではどうにもならないところまで来ちゃっているのが現実でしょう。今求められているのは、事務処理能力ではなく、基本的な価値観を決定する哲学であり、ビジョンであり、それを断行する決断であり、勇気なのだと思います。
ところで、いずれにせよ、なにをもって秀でているとするかという優勝劣敗の男性原理のもとでの話です。しかし、この世の半分の人間は(つまり全女性の数から男性的な女性を引いて、女性的な男性を加えて大体トントンという意味ですが)、そんな原理には親しまない。「強きゃいいんだ、強きゃ」とは思ってない。強靭で、鋭利で、精密で、巨大で、明瞭で、直線的なものよりも、優しくて、美しくて、温かくて、可愛くて、丸みを帯びて、淡いパステルで、ちょっと神秘的なものの方が好きだという人も沢山います。
ただ、この世の政治経済というシステムは、一種のメカニカルな機械ですから、曖昧な余地の少ない男性原理で回した方がやりやすい。だから、政治経済の中枢にいくためには、男性原理的に優れた人材が相応しいと思われており、そこだけの世界で生きていくと、なまじその世界が自己完結してるがゆえに、「世界はこうやって成り立ってるんだ」とわかった気になりがちなんでしょう。だから、本人的には視野は凄く広いように思いがちなんだけど、世界は政治経済だけで廻っているわけではないから、ハズすんですよね。足元をすくわれるという。
僕も性格的に男性原理を濃厚に持ってる方ですから、特に自戒するのですが、「強ければそれでいいんだ」というのは、世の中の半分しか見えていないことだし、生き方の半分、人生の楽しみ方・組み立て方の半分しか見えてことだと思ってます。
結局、Aを述べてるうちに時間切れになってしまいました。また、後日。
最後に、男性特有の視野の狭さで思い出しましたが、僕の商売の一番の敵(?)は、日本の男性、それも日本のお父さんじゃないかって思うことがあります。彼らの娘さん・息子さんがワーホリや留学でオーストラリアにやってくるのを現地で学校見学や生活イロハを叩き込んでサポートするのが僕の仕事ですが、大体日本のお父さんはこう言うんですよね。「海外は危険だから、日本で全てを決めていった方が安心だからそうしなさい」とかさ、「そんなメールだけで一度も会ったことない人に任せるなんて危ない。世間は悪い人がいっぱいいるから」とかさ、「大体、無料でやってるというのが胡散臭い。そういうのは絶対危ないからやめなさい」とかさ、今だったら「SARSが危ないから渡豪は見合わせなさい」とかさ。大体僕の仕事を潰すのは日本のお父さんです。お母さんも潰すけど、いざとなると女の人の方が性根が座ってる部分があり、「大丈夫ですよ、このコはいざとなったら腹も据わってるから」と送り出す人が多い傾向があるから、結局「お父さんの反対」というのが大きいですね。
ねえ、お父さん。中にはほとんど僕と同じくらいの年齢の人もいるだろうから、もうタメ口で言いますが、アナタ海外で暮らしたことある?海外で暮らすためには何が本当に必要なのか知ってる?海外と一口にいっても国によって全然違うの知ってる?英語喋れる?あなたの海外=怖い=知識って、落合信彦の本とか、週刊ポストあたりに載ってる駐在員の危険話武勇談とか、そこらへんのレベルで終わってませんか?あなたよりも、若いときから一人でどんどん海外旅行にいってる娘さんの方がずっと肌身で海外を理解してると思いませんか?
でもねー、同じ男としてわかるでんすよね、お父さんがそういう気持も。たしかに、社会に一線に出てずっと仕事してるから、家族の中では、社会の荒波的な陰影を一番よく知っているんですよね。家族に話しても中々通じないであろう、社会の理不尽さも身に沁みてよく知っておられる。悪い奴が沢山いることもよく知ってる。そして、ファミリーのリスク管理は男の役目だから、責任感と愛情で、コントロールしたくなる気持も良く分かる。僕だってそうだもんね。まず、未知なるものに対しては甘い幻想を抱かず、身構える、これは基本ですもんね。
それらがよく分かっていて言うのですが、それでも未だ自分の視野が狭いのだとは思いませんか。もっと広げてみようとは思いませんか。そんなエピソード的な断片話をパッチワークでつないでみても、何も見えてこないと思いませんか。コンピューターは苦手で、、、なんてクソ情けないこと言ってないでさ、こんなもん車の運転なんかよりもずっと楽ですよ。若い人の気持はわからないなんて悲しいこといってないでさ、そんな人間がウィルスみたいにいきなり突然変異なんかしませんよ。同じ人間ですよ。嬉しそうに「わー、味噌汁だ!」で啜ってる全然同じ日本人ですよ。おお、アナタの頭の配線をつなぎ合わせて、あなたの世界観を手術してあげたい。そして、ねえ、お互いトシばっかり食っちゃったけど、僕もアナタもまだまだ世間知らずの阿呆だから、もっともっと勉強して視野を広げないとアカンのと違いますか。頑張ろうじゃん。
(文責・田村)
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