今週の1枚(03.05.19)
ESSAY105/壺の中で握った手
写真は、最近の雨模様のCity, York st, 前方に見えるのが Town Hall
先週一週間のシドニーは雨、雨、ひたすら雨でありました。もう、いい加減にしてくれ!という。
ここ1ヶ月だけシドニーに滞在した人でしたら、「なんて雨の多い国なんだ!」と思ったことでしょう。しかし、去年の年末から今年の初頭にかけては、あまりに雨が降らないので大規模な山火事がガンガン発生して、キャンベラの住宅地も悪夢のように焼けてしまったくらい雨が少なかったです。未だに内陸部の方は旱魃の危機をひきずっていたりします。シドニーのような海岸沿いは旱魃ということはなかったのですが、それでも取水制限(ガーデニングなど)は施行されていたりしました。それが一転して、ここ1−2ヶ月はやたら雨が多いです。もう少しバランスよく降ってくれないか、と思いますが、それがすわなち大陸型気候ってやつなのでしょうか。
さて、話は変わって日本ですが、いかがお過ごしでしょうか?
最近はそれほど熱心に日本のニュースも見ていませんし、こちらのメディアにも日本の出来事が登場するのはマレになってしまっています。大きな出来事は伝わってくるのですが、「現場の雰囲気」はわかりません。僕の仕事であるごがく学校選びのサポートでも、「現場を見て決めたほうがいいよ」と年がら年中同じことを強調してますが、僕はその日本の現場を見ていませんから、なんともよく分かりません。「学校のパンフレットだけ取り寄せて調べている人」レベルのことしか分かってないとしたら、要するにまるで何も分かってないということでもあります。
で、どうなんでしょうか?そっちは。
日本に一時帰国して戻ってきた人たちの話を総合すると、相変わらず経済は良くなく、閉塞がよりいっそう進行している、と。「あー、もー、日本、ダメですね、全然っ!」とか言い切る人もちらほらおられます。そうなの?「全然っ!」って「っ!」がつくくらいなんですか?実際、「久しぶりに帰ったら、家の近所の○○が潰れてた」とか「○○に変わってた」とか、そういう状況証拠をだしてくれる人もいまして、聞いていると「おー、そうかー」とか思ったりしますけど。
8000キロ×3年半のブランクを経て、ただの直感で想像するに、やっぱり皆さん結構ショボンとなってるかもなあって気もします。だって、未来に対して明るい材料があんまりないでしょう?まだ、2年前に小泉さんが出てきたときは、「よーし、これで」という期待が、「まあ、そう簡単にはいかんだろう」というクールな眼差しに混じりつつも、まだあったと思います。およそ総理大臣になりそうもなかった小泉さんが総理になっちゃうくらいだから、いよいよ日本も本腰入れて構造改革に取り組み、本格的再生へ、、、という、「明るい異常事態」みたいな空気はあったと思うのです。
しかし、あれから2年。未だに根強く期待している人は多いとは思いますが(僕もだけど)、「やっぱり、そうは簡単にいかんのね」という感じになりつつあるのではないでしょうか。最初は抵抗勢力のジジー達に腹を立てたりしてるわけですが、怒りとか期待とか、そういう感情というのはゴムみたいなもので、長い期間がたつと段々弾力性がなくなって、伸びきってしまう。期待して、怒って、それも通り過ぎて、、という。
かといって、「小泉、ダメ。あいつ仕事しないから、クビッ!」と引導渡してみても、じゃあ次に誰がいるの?というと、もう誰もいない(かのように思える)。「あいつにやらせろ」ってヤツがいないというのは、要するに選択肢がないということで、かなり寒いですよね。英語で言えば ”bleak”です。これがまた、先行きの心細さ、「本当に、もうどうなっちゃうんだろうね」という心理につながっていくのでありましょう。
でも、僕としては、まだまだ日本に人材はいると思います。政財官界掃いて捨てるほど居る、もう一山幾らで唸りをあげるくらい居るのだと思ってます。日本人、馬鹿じゃないもん、居ますよ、絶対。ただ、今すぐこの場に「完成品」としてはいないかもしれません。有能な人々は常に一定量いるのだと思うのですが、単に有能なだけではリーダーにはなりえず、本物のリーダーになるためには、それなりの地位に就き、大きな舞台をまかされて、場数を踏んで、修羅場をくぐってくる必要があるのでしょう。昔から言うじゃないですか、「地位が人を造る」って。
戦後日本に神様のように絶対的な存在として君臨したアメリカ軍GHQは、「善意のおせっかい」に基づく大改革を、「他人の国だからこそ自国では出来ないくらい思い切ったことが出来る」ということで断行しました。「農地解放」なんか「解放」という綺麗な言葉で言うからピンと来ないですが、やってることは物凄いですよね。だって、日本中の他人の土地を勝手に取り上げてしまうんだもん。道路一本つくる土地収用に延々時間がかかってる現在からしたら、「おい、土地、手離せ」という一方的命令で済ませてしまうんですからね。国家による不動産窃盗みたいなものです。他にも、財閥解体にせよ、パージ(公職追放)にせよ、同じ社会集団内部だったら絶対出来ないようなことをしてます。
それによって、戦後日本は、国会議員が大量にクビになったのをはじめ、主立つ企業は「部長以上全員クビ」みたいな大きなダメージを受けました。当時、「三等重役」という言葉が流行り、同名の小説(源氏鶏太さんだっけ?)もあったりしますが、要するに会社内のピラミッドでは一等の社長重役連、二等の高級管理職が全員いなくなって、下士官クラスの管理職だけが残され、それがいきなり社長やったり専務やったりするハメになったのですね。三等レベルの人間が重役やるから「三等重役」。一方、戦時中の日本においては、有能なエリートであればあるほど軍人になったり、内務省にいったりしてますから、彼らの多くは戦死したり、追放されたり、巣鴨プリズンに入ったりしてます。要するに社会的に認知されていた「人材」はほとんど根こそぎ居なくなってしまったかのような状態だったのでしょう。
で、その三等重役は、三等だからダメだったか?というと、話は逆で、彼らが戦後の日本の経済復興、あまりにも凄過ぎて「世界史の謎」とすら言われるくらいことを成し遂げたわけです。新興企業も沢山出てきました。ソニーの創業は1946年(敗戦翌年)、ホンダ創立は1948年です。まだそこらへんの町工場だったわけです。で、当時三等重役として馬鹿にされてた人々は、後の世に巨大企業の会長室に収まったり、名誉会長とかなんとかになってるわけですな。ちなみに後に総理大臣になった池田勇人なんか、先輩議員が殆ど消滅したおかげて、国会議員一年生(当選一回)のときに既に大蔵大臣をやってたりします。
この歴史的事実から僕が思うのは、戦後の人々の優秀さや努力もそうですが、なによりも、「要するに誰でもいいわけね」という点です。「誰でもいい」とまでいったら言いすぎですが、10人に一人とかその程度に切れる人材、クラスに何人もいる程度、だから日本全体では1000万人くらいいる人でも、場が与えられたら花が開き、有能な人材、卓越したリーダーに「なっていく」のだと思います。乞食でも、立派な服を着せて廻りから社長社長と云われてたら3月もすれば立派な社長になるといいますが、そういう部分ってのは本当にありますからね。
今の日本でも、三等重役みたいに若くして重責を担わされたら楽しいと思いますよ。30歳でもう常務とかね。周囲から「絶対無理」と云われるくらいの状況がいいですよね。今これをお読みの貴方が幾つか知りませんが、例えば20代後半だとして、いきなり欧州方面の最高製造・販売責任者の辞令もらったら、発狂しそうなくらいの重責を感じるかもしれません。でも、燃えるんじゃないですか?「キミ、来週ちょっとアメリカ大統領に会って交渉してきてくれんか」とマジに言われたら、もう生きていく姿勢そのものが根本的に違ってくるでしょう。もう泥縄だろうが付け焼刃だろうが、急速に自分自身をパワーアップしなければいけないから、死に物狂いで頑張ると思いますよ。でも、楽しいと思う。
どうも自分がトシをとってきて思うのですが、別にキャリアを積んだからといってそーんなに凄くなるもんでもないんじゃないかと。確かに仕事の奥行きとか、完成度は高くなりますし、多少のことでオタオタしなくなりますから信頼感とか貫禄は出てきます。でも、同時に、ムチャが出来なくなる傾向がありますし、謙虚に真剣に世の中見ないようになる悪い癖もついてくると思います。片や若い人は経験不足ですから、物の見方も甘いし、見通しも浅い、やり方もスキだらけだったりしますが、でもそういうことって現場で恥かいて悲惨な思いをしないと克服できないと思います。また、未熟な分一生懸命やるから結果としてはそう大きな失敗にならず、恥をかいたとかその程度のことで案外済んでいったりしてしまうことも多いと思います。もし、それでダメだったら、それはその人がダメなのであって、そういう人はトシとってもやっぱりダメだと思います。残酷なこと言ってるようだけど、向き不向きの問題でしょう。
だから年取った人間が思うほどには、経験とかキャリアとかいうことがそれほど実践で役に立ってないのではないかな。それは確かに強力な武器ではあるだろうけど、それって「オタオタしないで済む」程度の実効性しかないのかもしれないです。反面、キャリアがある分固定観念や成功体験にとらわれて目の前の現実をおろそかにする悪い癖もあるわけで、「あんな若造にはまだ無理だ」なんて言わないで、「無理だ」なんて言ってたら一生無理なんだから、どんどんやらせたらいいと思うし、そうすれば人材は幾らでも出てくる(というか造れる)のではないか、そんなに人材不足を嘆くこともないだろうと僕は思います。
だってさ、小泉さんを総理に祭り上げて何を皆で期待してたのかというと、あの人の経験でもキャリアでもなかったと思うのですよ。あの人の、自民党でありながら特定郵便局廃止とかいう自殺行為的なことを言いつづける確信犯的な政治理念であり、一言居士ぶりであり、もっと言えばエキセントリックな、それこそ「変人」ぶりに皆は期待したわけでしょう。でもそれって、彼にとっては20年前からそうだったんだろうし、むしろ若いときの方がパワーバリバリの変人で良かったかもしれないわけです。キャリアを積んで、妙に丸くなって、物分りがよく調整テクニックが上達したら魅力半減でしょう。
確かに、明日も今日と同じ日が続き、それで良しとされる天下泰平の時代においては、経験もキャリアも十分に武器になりうるのですが、変革のためのスピードとパワーが求められている時代には、むしろ思慮不足のキャリア不足の方が、大胆なことをドーンとやってのけられるのでいいと思います。
ところで、なんで若い人の方が大胆なことをしやすいのかというと、やっぱりモトデがかかってないからでしょうね。つまり、長い年月をかけて努力を積み重ね、やっとの思いで現在の地位までたどり着いた人は、その地位こそが自分の人生そのものなるでしょう。どうしてもその地位が可愛いでしょうし、あだやオロソカに出来ないでしょう。失敗を恐れるようになるのは、人の情として当然だと思います。しかし、まだ始めたばかりでそんなにモトデもかかってない段階だったら、失敗して全部チャラになってもそんなにキツくないですよね。だから結構思い切ったことが出来るんじゃないか、と。
ちょっと話は逸れますが、努力して得たものが大きければ大きいほど、絶えずそれを捨てる覚悟を養っておく必要があるんだろうなと思います。どんなに苦節十年でやってきたことでも、クールに判断して、それを捨てる必要性があれば躊躇なくそれを捨てることが出来るかどうか。しがみつかないように、絶えず自分を叱っておかないならない。ほっといたら人間しがみついてしまうし、しがみつけば判断を誤るし、誤った判断はいつしか破滅を招く。極端に分かり易い例をいうと、子供の頃から必死に勉強して有名大学出て、エリートと呼ばれる人も羨むポジションまでのし上がったところで、うっかり車で人を撥ねてしまったとします。でもって、往々にして「こんなところで全てを失ってたまるか」と轢き逃げをしちゃったりする。結局あとで捕まって、逃げなければただの事故で済んでたのが、しがみつくから判断を誤り、より言い訳のきかない重大で悪質な犯罪を犯すことになって全てを失うという。
そうはいっても、やっぱり人間しがみつきますよね。人間、そんなに強くはないと思います。誰だって、今まで何十年の苦労を一瞬でふいにしたくはないです。悪夢ですもん、当然です。だからこそ、何も起きていない常日頃から、「いつかは全てを失う日が来る」と思ってた方がいいと僕は考えます。
それにしがみついてると、そのものが実際以上に巨大に見えるのですね。よーく考えてみれば、あるいは第三者から見たら、そう大したことではないものでも、しがみついてる本人からしたら物凄く重要なものに思えてしまったりします。で、手離して初めて、「なんだ、こんなものだったのか?!」と改めて気づくという。抜いてしまったあとの虫歯みたいに。
先日、「司法戦争」という小説を読みました。現役の弁護士が書いてる本で(別に現役の弁護士でなくても書けると思ったけど)、そこにはいわゆる最高裁の調査官とか法務・検察のバリバリの司法エリートばかりが出てきて、彼らの偏った感覚がまた結構思い当たるところがあって面白かったのですが、そのなかに「クビになること=法曹資格を失うこと」の恐怖がさんざん描かれていて、その恐怖に縛られて彼らがしょーもないことに東奔西走したりするわけです。「ああ、しがみついてるなあ」って思いました。裁判官をクビになったり、法曹資格を失ったりしたら、「ただの無職の33歳の女に過ぎない」とか、そんなことはもうこの世の終わり、人生の終焉と同義であるくらいに恐れるわけですね。
あのー、「33歳の無職の女性」って、そんなにイヤですかね?いいじゃないですかって、それって普通でしょう。それって原点でしょう。それって全てでしょう?五体満足に恵まれ、特に前科があるわけでもなく、何が不満なのさ。酸素が薄くなるわけでもなく、太陽は変わりなく降り注いでくれるし、これから一生に一度の恋に身を焼くこともあるだろうし、心から信頼できる友と痛飲する愉快な夜もあるだろうし、親子水入らずでコタツでしんみり話すこともあるだろうし、エメラルド色の海でぼーっと仰向けになって浮かんでいることあるでしょう。何が不満なのさ。それ以上のことってあるのかい?という気になります。
あたかも、法曹エリートの地位から平民の地位に転落する堕天使みたいに恐れているのですが、とっとと弁護士辞めちゃった僕からみたら、「それって、自意識過剰」って言いたいです。皆さん、別に裁判官や法律家が特にエラいなんて思ってないですよ。というか、そもそも知りませんよ。興味ないですよ。たまに考えたとしても、「よくそんなクソ詰まらない生き方してるな」とか思ったりするのが関の山ですよ。だから、ああ、しがみついてるなあって思います。
よくあるじゃないですか、サルが壺に手を突っ込んで沢山取ろうとして手を大きく握るから壺の入り口につかえてしまって取れなくなってパニックになってる漫画。あれと同じだよなあって。無理にあれこれ欲張ってつかもうとするから、身動き取れなくなるんですよね。身動きとれなくなったら、捨てちゃえって。
三等重役のように、若い人々にどんどん機会を与えるのは良いのですが、それだけでは足りません。もう一つ重要な条件としては、彼らよりもエライ奴は極力居なくなることです。若い人に実権を委譲しても、小姑みたいにあれこれ口出ししたり、古い見方をあれこれ吹き込まない方がいいです。そうでないと、結局、思う存分采配を振るえないから意味ないです。
本当はもうパージみたいに追放しちゃうのが一番話が早いのですけどね。でも中々そうもいかないだろうし。でも、本当に後進を育てようとしたら、あれこれ教えるよりは、一番ベースになるスピリットだけ叩き込んで、あとは自分はとっとと「居なくなる」のがベストだと思います。居なくなるのが難しいとしたら、出来るだけ透明な存在になって極力口を出さないことです。
ただ、実際それは難しいですし、横で見てれば何かと言いたくなるでしょう。自分と全く関係ない他人の将棋だって、横で見てたらなんか言いたくなりますもんね。だから、もう引退しちゃうのが一番でしょう。引退というと隠居みたいな感じですが、「とっとと次のフィールドに行く」ことですね。自分がデキるという自負があるんだったら、馴れ親しんだヌルい環境ではなく、全く未知の寒い環境に一人でまた殴り込みをかけにいったらいいと思います。自分に本当に自信があったら、そのくらい出来るはずです。ここで、去りがたく思うのは、やっぱりしがみついてるんでしょうね、結局。それはもう人間の煩悩なのでしょう。
大体ですね、バブルが崩壊してから十数年、未だに構造改革も出来ず、不況を引きずってるなんて、ある意味では世界的な恥です。だって他の国の連中はクリアしてるのに、未だに日本だけが出来ない。いかに思い切りが悪く、いかに未練がましく、自己新陳代謝能力にも欠け、勇気と行動力に欠ける連中なのか満天下に晒しているようなもんじゃないですか。これが他の国のことだったら、「馬鹿だな、こいつら」と遠慮なく思うと思いますよ。それに、「若造にはまだ無理」といってて実権を手離そうとしない連中だって、10年以上の時間を貰っておきながら大したことが出来ないままなんだから、若造も無理かもしれないが、アンタらにも無理であるのは実証済でしょう。だから、まだ未知数の育つ可能性のある世代にやらせた方がいいと思います。
ねえ、ほんと過労でぶっ倒れて病院に担ぎ込まれて、ベッドの上で医者の言うことを聞かずに、「オレがいなけりゃ職場は成りたたないんだ」で仕事をしようとするビジネスマンのように、そして実際は彼がいなくても全然問題なく職場は廻っていっちゃうように、いい加減、その壺の中の手を握り締めるのをおやめなはれ、と思うのでした。
日本人は昔から「諸行無常」という哲学を持っていたでしょう。全ては流れ行く水のごとし、しがみついても甲斐は無く、いつかは流され、形を留めず、過ぎ去っていくのだと。今こそ、伝統的な無常観を多少なりとも思い出して、50歳以上、いや40歳以上の人はしがみつかずに捨てる、そしてまた新しいものに出会うということを心掛けたら、多少は風通しがよくなるのではないかなと思います。
しかし、世の中は逆にどんどんしがみつくような趨勢にあります。「老後の心配」とかね。そういう不安を煽って煽って、ますます皆をしがみつかせようとしているかに見えます。でも、それじゃあ、世の中動脈硬化で死んでしまうでしょう。若い人が就職するにあたって、「面白そうだから」ではなく「安定しているから」なんて理由がトップに来るような国に未来はないっす。また、若い人に「安定」を説く上の世代は、それが結局一番不安定を招いているを知るべきではないか。怪我と病気とどちらが言いかといわれたら、僕は怪我の方がいいと思います。なぜなら精神は病まないから。怪我を恐れて外に出さず、運動不足で病気になるくらいなら、手足の一本くらい折れてもいい。日本のメディアの中枢実権を握ってる連中、例えば電通のバリバリの若手実働部隊とかさ、お願いしますよ、ひとつ皆をしがみつかせないように、無常観を明るくエンジョイできるように、日本人を洗脳してください。
不安なのは分かりますが、不安だから→@より堅実にといくか、不安だから→A考えたってしょーがないでしょ、になるか。Aがメインストリームになって、ラテン的に能天気丸出しになっても困るかもしれないけど、心配が習い性になってる日本人はそんなに簡単に変わらないし、歯止めはあるでしょう。もう少しネジを緩めてもいいと思います。だって、このままだったら死ぬまで「なんだかなあ」の曇り空のままかもしれんですよ。その可能性も結構濃くなりつつありますよ。曇天がずっと続くくらいだったら、まだ僕はオーストラリアの天候のように、旱魃になったり大雨になったりする方が好きです。だって、抜けるような青空を見る機会が多いんですからね。
(文責・田村)
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