今週の1枚(01.07.02)
雑文/テイスト
上の写真は、ちょっと前に日本に帰ったときに撮った日本の写真です。
関西空港から、南海電車のラピート号に乗って大阪に向かう途中。たしか、堺とかそのあたりだったと思います。
この写真、よーく見てください。
いやあ、しかし、ナンですね、電車の車窓から見える風景だけで、もう日本だなあって一発でわかってしまいますよね。やっぱり、あのマンションの雰囲気からしてもう「日本」ですよね。いかにも線の細そうな、細密な感じ。
また、マンションの左隣の、”なんたら市民センター”っぽい、日本中どこの地方にいっても必ず見かける没個性な建物も、いかにも日本って感じです。
折しも曇天ってこともあるのですが、こういう色彩感に乏しい、無個性なコンクリートの建物がキチンとお行儀良く並んでる風景を見ると、「ああ、日本に帰ってきたんだなあ」という、懐かしさ半分、うんざり半分の気分になります。
なぁんてね、、、、、、、う・そ!
この写真が日本なんて、大嘘で〜す(^^*)。
これは、レッキとしたシドニーです。ハーバーブリッジを渡って、Milsons point駅から North Sydney駅に向かう途中の風景でした。南海電車も、堺も、なんちゃら市民センターも、真っ赤な嘘でした。ごめんね。
すっかり騙された方、申し訳ありませんでした。
でも、人間の思い込みというのはスゴイものでして、日本だと言われてみると日本に見えてしまう。海外だと言われたら、海外に見えてしまう。
日本だと思い込んで見ると、電車内にシルエットになってる乗客の人もなんとなく日本人のように思ってしまうという。
でも、この写真の人も実はオージーだったりします。いや、他の国から観光で来てる人かもしれないから、オージーとは限らないけど、少なくとも日本人じゃあないです。
←それが証拠に左の写真。
上の画像をレタッチして、ブライト度をUPしてみました。
ほら、全然日本人じゃないでしょう?
思い込ますことさえ出来てしまえば、上の写真を示して、
「急ピッチで開発が進む上海付近の風景です」といっても、
「アムステルダムです」といっても、
「バンクーバーです」といっても、
「千葉の市川市郊外です」といっても、
全部そう見えてしまうんじゃなかろうか?
その昔、ユニコーンというバンドの曲で、曲名は忘れましたが、日本全国を旅する男の曲がありました。歌詞も殆ど忘れたけど、「生まれは広島〜」とか日本全国の地名を羅列しつつ、最後に、「要はだいたい何処もおんなじだね〜」という。いかにも、奥田民生の歌ですな。脱力しながら正鵠を突くという。
これから「海外に行くぞ〜!」と意気込んでる人に、こんな水をかけるような言ってはイケナイのかもしれませんが、海外といっても、「要はだいたい何処も同じ」かもしれません。
僕も、最初「海外」とやらに住みはじめてショックだったのは、「何て違うんだ!」ではなく、「何て同じなんだ!」ということでした。この話は雑記帳などでも良くしてますが。
僕の場合、それまで海外経験が殆ど無かったから過剰に思っていたのかもしれませんが、海外なんかもうイチから十まで全部違うもんだと思ってました。そりゃあ勿論違うことは違いますが、でもイチから十までってことはなかったです。イチから6か7くらいまでは一緒で、あとの3割くらいが違うという。
この話も昔しましたが、一番最初にオーストラリアに着いた日、宿の部屋でTVのCM見てました。言葉はさっぱり分からんけど、画面にバーンと「安いよ!」とばかりに浮かぶ価格の数字はわかりますから、それだけ見てました。で、気が付いたら、やっぱり1000ドルだったら「998ドル」、20ドルだったら「19ドル80セント」とか一ランク下げたギリギリの数字で値付けしてるのですね。いわゆる”イチキュッパ”ですね。「ほ〜、オーストラリア人でも、やっぱりその方が安いっていう印象を持つわけね」というの発見があったわけですが、この発見は個人的には結構デカかったです。
でも考えてみれば当たり前なんですよね。なんといったって同じ人間ですもんね。
同じ人間ということで、生物学的な欲求も限界も同じなわけです。お腹空いたらゴハン食べるし、寝るし、恋もするし、悪いことする奴もいるし、いいことする人もいるし、ズル休みする奴はいるし、勤勉な奴もいるし。でもって、同じ時代に同じような文明文化を受けてるわけですし、また同じような気候ですもんね。素材も環境も似たようなものだったら同じようになっても不思議ではないです。
そして、そんな「人間だったら誰でもお腹が空く」という原理原則みたいな根幹部分だけではなく、”イチキュッパ”の方が安く感じるみたいな、心理学的な錯覚みたいな細かな部分にいたるまでかなり似通っている。翻って考えてみれば、そういった物の考え方、感じ方が民族ごとに全然違ってたら、映画も文学も世界的に共通する筈ないですよね。もちろん細かなところで民族的な感性のヒダみたいなものは違いますが(日本文化のワビサビとか、西欧のキリスト教的な感覚とか)、それ以外の大部分では殆ど共通してます。
日本とオーストラリアとでは、暮してみて何処が一番違うか?というと、冷静に考えてみると、やっぱり公用語、コトバが違うというのが一番大きいような気がします。もし、オーストラリアの公用語が日本語で、皆して日本語喋ってたら、話は全然違うと思います。ただ、この言葉の違いは大きくて、英語が全然判らないと、来た当初などは目の前真っ暗になるくらい100%理解不能のパニックになるわけです。逆にいえば、単にコトバが違うというだけで「こうも違うか?」ということも判るのですよね。自分が生きてるなかで、言葉というものが占める重要度というのが、浮き彫りにされます。
で、英語が分からんから必死になって推測します。他人の行動をじっくり観察しつつ、「多分○○だから○○してるのだろう」と対処しようとします。この推測が結構な確率で当たったりするのですね。なんで当たるのか?といえば、同じ人間だからですよね。例えば、「金曜の夕方だから、皆浮き足立っててあんまり仕事もマジメにやらないんじゃないか?」「連休明けだからボケてるんじゃないか」とかね。
そうやって段々わかってくるにつれて、「ほ〜、人間のやることなんか、どこも大差ないわけね」というのがわかってくるという。これはもう現地にも馴染んで事情がわかるにつれ、その観が深まります。例えば、最初買い物してて、オーストラリア人が見るばっかりであんまり買わなかったりするのを目撃します。すると、「ほお、オーストラリア人というのは滅多に買わないんだな。やっぱりケチなのかな」と思ったりします。しかし、段々事情が分かるにつれて、実はその時期はバーゲン直前で、どうせ来週になればバーゲンで安くなるから、今は商品のチェックをしてるだけっていうこともわかってきたりするわけですね。
そんなこんなで時が経てば英語パニックもおさまってきます。そして、ガイジンという異人種のビジュアル的な落差も見慣れてきてしまえば、それほど違うという気にならなくなってきます。
最初は、同じ人間ということで「素材の同質性」みたいな直感的な親和性を感じ、さらに進んで現地の深い事情が分かるにつれ、また親和性が深まるという。
じゃあどこが違うのよ?残りの3割はなんなのよ?というと、確かにこれはこれで厳然としてあります。
例えば、ジョークのポイントが全然違うとか、キリスト教的な発想やら、家に靴のままあがってくる生活習慣やら、あとはもう肉体的な差(寒さに強く、暗くても良く見えるという西欧人の人種的特性とか)などなど。
でも、これも突き詰めていくと相対的な差に過ぎないんじゃないかって気もします。
キリスト教とかいっても、オーストラリア人でも無神論者っていう人は統計などを見ても相当程度いますし、「一応キリスト教」という人でも、そんなに敬虔な信者ってわけでもなく、日本人がお彼岸にお墓参りをする程度のカジュアルさという感じの人も結構いるといいます。
また、西欧系の人でも、家で靴脱いでる人は、これはこれで実はいたりします。ホームステイにお送りするときに見てますと、玄関先で靴脱いでる家も意外とあったりするのですね。ひとつは健康ブームということもあるのでしょうし(素足でいた方が健康にはいいとか)、あるいはカーペットの汚れ防止なんかの意味もあるのかもしれません。それに日本人でも、畳の上は絶対土足で上がらないけど、オフィスとかレストランでは靴のまま歩きますよね。家の中でも、直接外から入れるガレージとかアトリエだったら土足のままってケースもあるかもしれない。
文化的な違いは、そのもともとの形式の発生をたどっていくと、それぞれに異なる環境における必然性・合理性に基づくものなのでしょう。農耕民族だったら集団的生活様式を基調とするとか、寒冷地方の建築様式は寒気を避けてこうなるとか、熱帯地方の料理は腐敗の進行が早いので必ず火を通すとか。
でも、今現在の世界的な資本主義社会、交換経済社会だったら、純然たる農耕民族・狩猟民族なんて区別はしにくいでしょう。むしろ現在そういう区分けするとするなら、サラリーマンと自営業者で分けた方が合理的かもしれません。あるいはキャリアとノンキャリアとか。
建築様式だって、これだけ空調が発達してくれば、それほど極端な差なんか出なくなってくるでしょう。その昔は、その土地豊富に採れる建築資材を使って家を建ててたから、あるところではバナナの葉っぱ、あるところでは牛糞、あるいところでは木材、あるところではレンガとか、ところ変われば建物も違っていたわけですが、21世紀になってしまった現在(しかし、未だに21世紀と聞くと「未来」のような気がするな)、最もポピュラーな建築資材は鉄骨とコンクリートになったりするわけですね。
だから、上の写真のように、世界中何処ともいえそうな無国籍のマンションが建ってたりするわけなんでしょう。
僕らが文化と呼んでいる一定の様式は、その発生時点においては、それぞれの環境に適応した合理的なものだったのでしょうが、環境の変わった今となってみればあまり合理的ではなくなってきているものもあるでしょう。それを継続してるのは、単なる「名残」ということもあるでしょうし、単なる「惰性」であるかもしれません。実際、日本人でも純粋に和風一色で生活してる人は稀でしょうし、またそれをしようと思ったら途方もなく費用がかかったりします。年中和服で通し、スパゲティもカレーも食べずに和食だけで、純日本建築の家に住み、ストーブも使わず火鉢だけで済ませる、、、なんて人は非常に少ないでしょう。
もちろん過去の様式であったとしても、捨て難い味や、快適さがある場合もあります。だからこそ残っているのでしょう。あと1000年たっても、寿司は寿司で残ってると思いますし、生魚を食べる習慣も廃れはしないと思います。
とは言いながらも、日本文化だって、明治維新まで1000年以上同じ様式がずーっと続いていたわけでもないです。寿司なんてのも出てきたのは確か江戸時代以降でしょう。「靴を脱ぐ習慣」といっても、その昔はそもそも「靴」だって草鞋や草履だったし、庶民の場合は土間しかない家もあったり、しかも草鞋すら穿かずに年中裸足だから「靴を脱ぐ」という行為自体がありえないケースもあったんじゃないかと思われます。「靴を脱ぐ習慣」が成立するためには、そもそも靴が存在し、しかも土間と明確に区別された「上」が屋内に存在していることが必要なわけで、それだけ社会の経済力が発達しないと出てこない習慣であったのでしょう。
もちろん西欧だって1000年間ずっと同じなんてことはないでしょう。西欧の中世の貴族のカッコみてても、妙なちょうちんブルマーみたいなのを穿いてますしね。
文化というのはおもしろいもので、その時々の環境、つまりは経済力やら、工業技術力やら、情報の伝播やらによって刻々と変化しているものなのでしょう。新しい良い物は、民族と国境を越えて普遍化します。車や、パソコンや、ウォークマンがそうであるように。必ずしも良いとは言えないものでも、なにがしかの(仮に反社会的であっても)合理性があれば、これまた広がっていきます。例えば武器とか、新しい犯罪のスタイルとか(ハッカーとか)。必ずしも趣もなく、快適性に欠けるものであっても、経済的に安いということなれば、これも広まる。純和風、純洋風の建築にはそれなりの趣はありますが、そんなものを国民全員分に建ててたらお金が幾らあっても足りないし、土地も足りないということで、安価に巨大なキャパを提供できる鉄骨ビルが広がっていくとか。
これはもう、とどのつまりは「出来るだけ楽をして、いい思いをしたい」という人間のベーシックな行動原理に根ざしているのだと思いますし、これがある以上、人間というのはその時々で最も合理的な方法を選んでいくのでしょう。
ただ、文化の伝播力のなかで、経済性合理性は比較的伝わりやすいし、全く新しい技術的発明も伝わり易いのですが、何をもって「いい思い」というかという趣味的な「テイストの部分」は中々伝わらない。伝わるのに一番時間が掛かるように思います。
例えば、寿司にしても、ここ数年でシドニーの寿司屋も驚くくらい増えました。まあ、鳥のカラ揚げ巻きみたいに、あんまり寿司とは思えないような物も多いですが、それでも一頃に比べたら増えました。また、当たり前のように刺身を賞味できるオーストラリア人も着実に増えているように感じます。
日本製の車とか、ウォークマンに比べたら、その伝播力は遅々としたものですが、それでも徐々にテイストの部分が広がっているのでしょう。また、家で靴を脱ぐというのも、単純にその方が気持いいからという人も広がっていくんじゃないかなと僕は思ってます。それは、単に日本の文化の良い部分だけが広がってるというよりは、世界中の民族がそれぞれに育んできたテイストが相互に交流しているの過程にあるのだと思います。
このように世界各民族が温めてきたテイストを、それぞれに鑑賞することができるというのはイイコトです。僕もこちらに来て、知らなかったテイストも色々教えてもらったし。ラム肉なんかでも日本ではあまり食べなかったですが、こちらで食べると美味しいですもんね。慣れたら肉の中では一番旨みが深くて美味しい。また、日本人だって、カレーやスパゲティを食べてるわけです。スパゲティにしても、昔はケチャップで炒めてそれで終わりだったのが、豊かになるにしたがって本格的なトマトソースやらアルデンテやら言うようになってきてます。カレーにしたって、いまはチキンカレーだのシーフードカレー止まりですが、やがて、カレーの中でも、ヴィンダルー、ローガン・ジャ等など十数種類のバリエーションが認知されていくだろうと思います。
同時に、世界的に豊かになってくれれば、これまで貧乏だったから、止むを得ずテイストよりも効率を優先して捨て去っていた「いいもの」を再発見してくことでしょう。日本でいえば、その昔は、安くて酔えればそれでいいんだみたいな時代から、本格的な醸造をした地酒に人気が集まるとか。そういう再発見や再評価って、世界各国であると思いま。
話が大きく膨らんでしまいました。
「要はだいたい何処も同じ」という話でしたが、どこも同じになってしまうのは、それなりに合理性があってのことなのでしょう。だから、世界はいずれローカル色が失われ、機能性を優先させたつまらない単一文化になってしまうという悲観的な予測をする人もいます。そして、また、上の写真を見てるとそんな気にもなってしまいます。
でも、僕はそんなに悲観的でもないです。
機能性を優先させて経済力を押し上げていけば、人間というのは欲が深いですから、そのうち今度はもっとテイスト重視に変わってくると思います。そうなれば、また世界中のテイストを探すようになりますし、流通しあうようにもなるでしょう。
テイストが完全に流通しきって、人類が全員高度な趣味人になって、「これぞ最高!」というものがスタンダードになって、それでモノトーンになってしまう、、、というようになるまでは、まあ、心配しなくてもあと100年や200年はかかると思いますから。
「海外が違う」ということに関連して今思うのは、結局僕らは基本的属性を同じくする人間同士であり、その上で、それぞれに異なる文化を身につけていて、それを相互に交換し合うという大きな地球規模のゲームに参加していると考えればいいんじゃないか、ということです。それはもう経済のグローバライゼーションなんて小さな話ではなく、日本人が中国から漢字を輸入したり、ポルトガル人からカステラを教えてもらってエンジョイするようになったりという、遥か昔から連綿と続いている「テイストの自由市場」みたいな話です。
逆に、経済的合理的に説明できちゃうような差異は、僕にとっては、どっちゃでも良いことであったりします。だって同じ環境になれば合理的に同じになっちゃうんだから、結局本質は同じなんだもん。例えば、日本人の染み付いた特性と言われる終身雇用にしてもマイホーム願望にしても、あれも戦後の高度成長+人口増と都市流入という一過性の「環境」あったがゆえの一過性の傾向に過ぎず、その昔はデッチから奉公してやがてノレンをわけてもらって独立するという、完全自営志向が当然だったわけで、全然日本人の本質的特性でも何でもない。だから経済成長というものが停滞すれば、それをやってる合理性が失われるから、昔にもどって転職、自立が当たり前になってもくるのでしょう。それに付言すれば、板前さんにせよ、メカニックにせよ、職人さんの世界では一貫して独立指向だったと思います。少なくとも僕の知ってる限り、弁護士業界が終身雇用だったことはかつて一度もないと思います。
それはもう日本だからどう、ということではなく、Aという環境に人間をおけば合理的にAの方向に動く、という普遍的な原則のあわられに過ぎないと思います。お隣の韓国人とつきあってると、もう日本人よりも日本的だったりしますし、同じ年であっても、僕らの親の世代とつきあってるような感覚を覚えたりもしますし。
だから、そういった合理的に説明できちゃう差異ではなく、そんなに簡単に説明できない、好き嫌いでしかないようなテイスト面での差異をエンジョイしたいなと思ったりするわけです。
写真・文/田村
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