今週の1枚(01.06.25)
雑文/新しい生活
上の写真は、他の人の賃貸不動産探しにお付き合いしていたときに撮った一枚です。
いいですね、こういう何にもない部屋というのは。
買ったばかりの、まだ何も書いていない新品のスケッチブックやノートのような、無垢な匂い。
昨日も、過去も、記憶も、シガラミも何もなく、ただ未来と明日と抱負と希望だけがあるような空間。
引越ばっかりしてる人がいます。
僕も、別に引越が好きなわけではないのですが、かなり引越は経験している方です。
物心ついてからでも、東京都世田谷区二子玉川、川崎市百合丘、同市生田、東京江東区門前仲町、中央区佃(その1)、同佃(その2)、京都市北白川、同市西陣、同市九条、千葉県松戸市、岐阜市、大阪市京橋、、と来て、オーストラリアに渡り、シドニーのGlebe、Newtown、そして今のLane Coveと移り住んできました。
引越す都度、目新しい、何もない部屋に迎えられるのですが、あの感覚はいいものです。
もっとも、その感覚を味わいたくて必要もなく引越したということは一度もなく、それぞれに引越さざるを得ない理由があったわけです。どちらかといえば不精な方ですから、出来れば面倒なことはしたくないという。でも、動いたら動いたで嬉しいわけです。
自発的にはやらないけど、やらざるを得なくなったらなったでエンジョイしてしまうというのは、旅行と出張の関係に似てます。旅行は、別にそれほど好きな方でもないのですし、あんな面倒臭いこと皆さんよくやるよなと思うくらいなのですが、仕事で出張ということになると妙に嬉しくなってしまうという。出張も日本国内ばかりですが、かなり行きました。変わったところでは、石川県輪島市、島根県米子市、鳥取市、鹿児島県串木野市、舞鶴、津、宇都宮、旭川などなど。しかし、これらの街に自発的に行くか?といったら中々行かないでしょうね。
「なんで、オレ、こんなところに居るんだろ?」という、アホみたいな感覚がわりと好きなのでしょう。
知らない街に始めて来て、その晩適当に居酒屋かなんかに入って、いい感じで酔っぱらったまま、よく分かりもしない道を適当に当てずっぽうに歩いて、で、結局迷うという。「あれ〜?」と思いながら、西も東もわからない暗い街角で途方に暮れているのって、結構好きです。
夢をみるときも、全然見たこともない場所にいる夢というのは多いです。他人の夢事情は知りませんから、平均よりも多いのか少ないのか何とも言えませんが、知ってる場所が出てくるケースと知らない場所とでは丁度半分半分くらいだと思います。
話は横道に逸れますが、知ってる場所が出てくるときって、地理関係がメチャクチャになったりしてませんか?オーストラリアに慣れるにしたがって、オーストラリアと日本との心理的距離がどんどん縮まるせいでしょうか、夢の中では、オーストラリアの街角と日本の街角が無節操に融合してたりします。ハーバーブリッジをわたってるうちに、いつのまにかその橋が、昔住んでた佃大橋になってしまって、サーキューラキーのあたりが、地の言葉でいう「もと佃」という旧町になってて、昔ながらの佃煮屋さんが並んでるという。でもって、「ふーん、オーストラリアでも佃煮屋さんが沢山あるんだ」とワケのわからない感心をしているという夢。もしかしたら、こんなの僕だけなのかも。
しかし、こういう夢体験って、他の人もしてるんじゃないかな。タウンホールの地下街を歩いていて、角を曲がったらいつのまにか大阪のウメチカ(梅田地下街)になってるとか。
色んな場所に自発的に行くのは面倒臭いけど、行かされるのはわりと好き、という性格特性を持つ人間の場合、自営業は向いてないですよね。自営というのは、一概には言えないけど、その土地にベターっと根を下ろしてジワジワやっていくというパターンが多いですから。
このように、強烈に放浪癖があるというよりは、ほのぼのと放浪癖がある人間にとって、「転勤」という言葉は非常に魅力的に響きましたね。まあ、子供が出来て就学上の問題とか出てきたらまた違うのでしょうし、同じ転勤でも「出世コース」とか「ドサ廻り」とか妙な意味付けがされちゃったらイヤな感じがするのでしょうが、そのあたりを深く考えなければ、一定周期で、自動的にあちこち移動させてもらえるってのは、「楽しそうだな」とか思ったものです。
しかし、まあ、そう都合よく仕事が転がってるわけでもないです。具体的に僕の場合、司法研修所を出てからのコースというのは、弁護士、裁判官、検察官の大きく三つがあったわけですが、それを選ぶ段になって、「転勤のある弁護士」ってのがあったらなあ、と思ったものです。ちなみに日本の場合、そんなもんは無いです。
今まで暮した場所で、ここはイヤって場所は一つもないです。みなそれぞれに良かったです。一生そこに居ろといわれたら何処であってもイヤですけど、場所それ自体はどこも好きです。都会には都会の、田舎には田舎の良さなり楽しみ方がありますから。
今の言ったように、何処も好きなんだけど、一生そこに縛り付けられるのは嫌です。これは物凄くイヤで、もう終身刑を宣告されるくらいにブルーになります。
なんでなんだろうな?
適当に(というか不適当に)心理学的にいえば、自分の自我の延長として融合し、取り込んでいく範囲が、僕の場合はそんなに広くないのかもしれません。まずコアな自分があって、その直近に、自分の服とか、自分の家とか自分の所属物があって、そして自分の家族とか友人があって、自分の住んでる町があって、県があって、国があって。その、どこまでの周辺が「自分」として強く思えるかどうか。例えば、それを馬鹿にされたとき、まるで自分が馬鹿にされたかのようにムカつくか?ということで測っていってもいいかもしれない。
自分が自分であるアインデンティティの要素として、自分が、例えば、「○○家の人間」であるとか、「○○町の町民(「町民」ってのは変か、江戸時代じゃないし、「住民」か)」であるとか、○○県人であるとか、○○社の社員であるとか、○○国の国民であるとか、○○民族であるとか、いろいろあるわけですけど、物理的に自分以外の要素がどれだけ強く混入しているかどうか。
僕の場合、物理的に自分の肉体を離れてしまうと、それ以外はあんまり強い関わりを持たなくなっていくみたいです。自分の服でも、別にそんなに強く自分を表現してるわけでもないし、適当に身近にあるのを着てるだけって感じだし。これは年を追うごとにそうなっていくようで、極力自分以外のもの削っていきたくなっていってます。その昔は服がカッコいいかどうかは結構自分自身の尊厳(大袈裟だけど)において重要な問題だったりするわけだし、ルックスなんかも大事なことだったのだけど、段々そんなことはどうでも良くなってくる。まあ、無意味に馬鹿にされたくはないので、事務的防衛的に最低の線は守るにしても、あくまで事務的。思い入れが薄らいでるから、逆に褒められても昔ほど嬉しくもなんともなくなってきます。
土地についてはもっと端的で、自分を取り巻く「環境」に過ぎないです。だから、東京人でも関西人でもないし(丁度同じくらいの期間を過しているし)、どちらに所属する気もないし、高校野球を見てても、別に何処を応援するでもないです。仕事にしても、弁護士してるときは、一応職業上の倫理やら自負やら緊張感があるから、弁護士であることは自分のアイデンティティの一角を形成してたけど、今となっては、もうただのエピソードでしかないです。日常生活の99.99%の瞬間は、そんなこと忘れてます。
ましてや、日本国とかオーストラリアとか、国レベルになってくると、単に「大きな人為的環境」に過ぎず、それ以上に自我が投影されることはないです。自分が「日本人」だということも、まあ、言わばタックスファイル・ナンバーみたいな、あるいは健保か共済かみたいな事務上のものにすぎない。だって、今日本の法律が改正され、日本でも二重国籍を認めるようになれば(早く認めて欲しいけど)、僕はオーストラリア市民権も取れるわけだし、そうすれば名実ともにオーストラリア国民になれるわけです。今ならないのは、単に二者択一を”事務処理上”迫られるわけだし、日本国籍を持たないで日本に居るのと、オーストラリア国籍を持たないでオーストラリアに居るのとでは、圧倒的に前者が不便だからという、これまた”事務処理上”の理由に過ぎない。
だもんで、そういったレジストレーションのレベルで「日本人」だといっても、別にそんな自分のアイデンティティを構成するものではないです。では、民族のレベルではどうかというと、これはありますよね。日本民族というか、ヤマト民族の末裔なんだというのは、遺伝子的にも、生育環境的にもそうだから、それは自分の血肉として残ってます。
でも、それすらも、それほど宿命的なものでもないと思ってます。それは、言うならば、世界のどの民族よりも、俳句や和歌の表現世界において、その著者の意図する表現を的確に汲み取れる能力であり、アドバンテージであったり、刺身や味噌汁の味を堪能できる味覚であったり、要するに「○○という環境に育ったから、○○方面には精通している」という、個々人の能力や特性に分解されてっちゃうんじゃないかと思ってます。あとはもう、遺伝的特性ですね。髪の毛が黒いとか、そういうこと。
ナショナリズムはどこの国にもありますけど、あまりに熱中している人をみると、僕のような人間からは、そんなに自我の範囲を広げちゃって大丈夫なんかな?と、他人事ながら心配になります。自分のコアの部分がスカスカにならんか?と。もっと言ってしまえば、そんなに風呂敷広げ過ぎたアイデンティティは、もはやアイデンティティではないとすら思います。
あるいは、ナショナリズムが集団的エゴイズムになってしまったならば、そんなナショナリズムは百害あって一利なしだから撲滅したらいいと思います。例えば、海に日本人とカナダ人とベトナム人が溺れていて、ボートの空席上一人だけしか救うことが出来ないような極限状況の場合、自分は日本人だから日本人だけを救うというのは、良いことだとは思わない。その場合は、もっと別の基準、例えば女性や子供を先にするとか、体力の乏しそうな人から先にするとか、そういった原理で動くべきだと思います。
身近な者同志の自然発生的な親近感や応援で留まってるなら全然問題はないし、微笑ましくもいいことだとも思うけど、内容空疎な自我を埋め合わせるために、あるいはイケてない自分の生活をいっとき忘れるために、なにかイケてるエリアまでズワワと自我の延長を広げて満足するなんてのは、僕は嫌です。それはそれぞれに他人の生き方だから、その人に僕はとやかく言わないけれど、少なくとも自分はそんなことはしたくない。また、そんな代償自我の仲間に入りたいとも思わないし、それを居丈高に説教されたくもない。
オーストラリア人がオーストラリアをナショナリスティックに語るとき、自意識過剰に盛り上がってる珍妙さがよく見えますし、「世界は、君が思ってるほど、君のことなんか気にしちゃいないさ。せいぜいが"カンガルーとコアラと一緒に暮してる人達”くらいのもので、それは君がエジプト人を”ピラミッドの近くで暮らしてる人達”としか思っていないと一緒」と言ってあげたくなるし、それは日本人の場合も同じ。自意識過剰にせよ、夜郎自大にせよ、ハタからみたら見っともないだけですし、アングロサクソンの夜郎自大に対抗するために、日本も夜郎自大になりましょうなんてのも、話が違うと思う。クールに、もっと上のランクにいっちゃえばいいんだと思う。
世界は僕やあなたが思ってるほど、僕やあなたのことを「日本人」とは思っていない。そりゃ、最初は、何の情報もないから「日本人一般」としての(往々にして誤っている)社会通念で扱うけど、ほんの少し、自分自身の個性を出せば、たちまちそんな一般論は霧散してしまう。
もし、いつまでたっても「日本人一般」としてしか扱われなかったら、それは以下の3つの可能性があると思います。
@自分の個性が、日本人一般の通念の打ち破るほど鮮明ではないから
A自分の個性は鮮明なのだが、それを鮮明に表現してないから
B周囲の連中が、そういった「一般」でしか物が見えない、内容空疎な bullshit だから
そういえば、海外に出ると誰もがナショナリストになると言いますが、そんなにならんですよ。まあ、日本のことは、プロパーだからよく聞かれるし、意見も求められるけど、それは異業種交流会をやって、自分の業界の話を求められるのと大差ないです。少なくともシドニーにおける僕の経験で言えば、ですけど。
閑話休題。
新しい部屋。新しい生活です。
それだけで、なんかウキウキしてくるのは、おそらく、今まで自我を広げすぎてて、動きが取れなくなったり、鬱陶しかったのがサッパリ取れて、「自分と、身の回りの多少の物」だけで話が始まるという、「シンプルな原理」の風通しの良さと、心地良さからなのだと思います。
”自分”だと錯覚していた”何か”が段々取れていくのって、それはそれでいいもんです。
自我奪回のレコンキスタ。
写真・文/田村
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