今週の1枚(01.06.18)
雑文/ボンダイ・ジャンクションと日本人
上の写真は、Bondi Junctionのとある風景である。
シドニーにワーホリで来た人だったら、ほぼ皆さん「あ、ここ知ってる!」と言うだろう。
聞くところによると、ボンダイ・ジャンクションはオーストラリアで一番日本人ワーホリの人口密度が高いところだと言われている。ある時刻、ある瞬間を限定してみれば、シティ、それもあちこちにある情報センター付近の方が日本人ワーホリの人口密度は高いのかもしれないけど、トータルとしてみれば、やっぱりボンダイ・ジャンクションの方が多いような気がする。
もっとも、こう言うと、まだこちらで暮したことがない人は、ハワイのワイキキビーチのような情景を想像するかもしれないが、別にそんなことはない。これは、ことあるごとに言うのだけど、シドニーの人口400万のうち日本人の割合はわずか1万人に過ぎない。自分一人の周囲に399人のガイジンが存在しているのが平均的な数字なのである。
実際、Newtownに住んでるときでも、今のLane Coveでも、そんなに周囲に日本人がいるという気がしない。特に仕事や友達関係で意図的に日本人と付き合ったりしないのなら、1ヵ月暮して一人も日本人に出会わなくても不思議ではない。というか、本当は出会ってるのだろうが、中国人なんだか韓国人なんだか判別がつかない。もっといえば、日本人が居ても居なくてもそんなに気にならなくなる。日本人もオーストラリア人も、等しくただの「他人」でしかなくなってくるから、そんなに気にならなくなってくる。これは、ある程度長く暮らした方なら似たような感じをお持ちじゃないかと思う。
シドニー在住日本人1万人のなかには、勿論、観光客は含まれていない。オーストラリアに観光にくる日本人は年間70万人前後だという。全員が全員シドニーに来るわけではないだろうが、パックツアーなどではシドニーが入ってるケースが多いだろうから、70万人のうち50万人くらいはシドニーに観光に立ち寄ってると思われる。住んでる奴の50倍もの人数が観光に来るわけで、これは考えてみたらスゴイ数字かもしれない。
だって(もちろん単純に比較するのは無理があるのだが)、日本の人口1億2000万人だとしたら、×50で、年間日本に60億人もの人が観光に来る計算になる。世界の総人口である。しかし、そのくらい本当に観光に来てくれたら、日本の不況なんかアッという間に吹き飛ぶだろうな。笑いが止まらないだろうな。昔っから不思議なのだが、なんでもっと日本政府は海外からの観光に力をいれないのかな。自動車やウォークマンも売ろうと思ったら原価はいるしコストもかかるけど、景色なんか何億人が見ようが擦り減るものではないのだから丸儲けではないか。
それはさておき、観光客が立ち寄る先は有名観光地や土産物屋とか大体決まってるから、そこに居あわせると日本人の人口密度は凄まじい数になる。400人に一人どころではなく、400人に350人くらい日本人だったりする。これは極めて局所的な現象だが、そういうところばかりにいると、「シドニーは日本人ばっかり」という印象になるのだろう。東京を訪れたタイの人が、タイ人ばかりがタムロするエリアだけを散策し、「東京はタイ人で埋め尽くされている」という印象を持つようなものだろう。
そこでボンダイジャンクションであるが、日本人ワーホリが多い、多いといっても、オーストラリアに訪れる日本人ワーホリの数は高々8500人に過ぎない。400万人のうちの8500人である。ワーホリ全員がシドニーに住んでいても、470人に一人の割合でしかない。
ちなみに、日本人ワーホリの人数であるが、正確にいうと、99年〜2000年統計で、8510人である。ちなみに、同じ時期、イギリスからのワーホリの数は3万8910人、アイルランド1万3250人、カナダ5450人、オランダ4820人、韓国1210人、マルタ60人である。オーストラリアで「ワーホリ」といえば、圧倒的にイギリス、アイルランド人だったりする。両国だけでざっと7割を占めるのだから。
そうはいっても、ボンダイジャンクションは確かに日本人のワーホリさんが多いとは思う。ただ、それを「多い」と感じるには、一旦こちらの日本人の平均的な少なさに慣れる必要がある。「日本人なんか居なくて当たり前、居たらなんかの偶然で出会っただけ」という感覚を前提にすれば、ボンダイは「石を投げればワーホリに当たる」という感じになる。しかし、絶対数で見るならば、大した数ではない。400人に一人が400人に5人くらいになってるだけだろう。
実際、町を歩けば若い日本人の姿をチラホラ見かけるが、チラホラしか見かけない。チャイナタウンにおけるチャイニーズ比率などとは比べるべくもない。ボンダイの街角の写真を10枚くらい無作為に撮ったら、うち1〜2枚に日本人がどっかに映ってるくらいじゃないかと思う。
オーストラリア人で、「ボンダイは日本人が多い」という認識をどれだけ持ってる人はどれだけいるだろうか。ローカルの認識でいえば、ボンダイはユダヤ人が多い町である。
物の本(Untourist Sydney)によると、ボンダイエリアは、ロシア系ユダヤ人が多いという。彼らの故郷であるオデッサに似てて心地良いかららしい(同書66頁)。
さらにもう少しネットで調べてみよう。
Australian Bureau of Statistics(オーストラリアの統計局)のサイト / http://www.abs.gov.au/)で調べてみると、オーストラリアのエスニック分布についての資料が沢山でてくる。
例えば、Ethnic and Cultural Diversity in Australia (Year Book Australia, 1995)から、抜粋してみると、
It was in the cities that very large concentrations began to build up after 1947, reviving once again dormant fears of 'ghettos'. Earlier concentrations of Jews had existed for many years,especially in St Kilda, Carlton and Caulfield in Melbourne and in Bondi in Sydney.
また、Bondiのある、Waverly市役所のサイトの掲載されている96年のセンサスによると、このエリアにおける宗教分布について、キリスト教系が約3万人に対して、ユダヤ教は1万人ほどみられる。
この数字はかなり比率であろう。比較のためにNSW州全体の宗教分布をみると(前述のABSのサイトから)、によると、NSW州全体で占めるキリスト教は77%なのに対して、ユダヤ教は0.5%でしかないのである。
はたまた、去年の12月の地元の新聞記事には、ボンダイのある東部郊外の各家のポストに反ユダヤ主義のビラを投げ入れている奴を、もとパルチザンの兵士だった86歳の老人がポカリと殴って一喝したというニュースが報道されている。Partisan's punch ends anti-semite campaign
この記事によると、このオジイさんの一件の6週間前にも、二つのユダヤ教会が放火されそうになっており、また別のユダヤ教会では、37年前に仕掛けられた爆弾が先日発見されている。誰がやったのかは判らないけど、記事中にある "it was important not to blame Arab or Islamic communities, but the incidents highlighted the need for Jewish-Arab dialogue.”という一節からわかるように、遠く中東和平の問題、もっと遠くは歴史的確執などが背景にあるのであろう。
このオジイさんの記事は面白く、この人、ナチスドイツがスロバキアに侵攻してしてきたときに逃げ出し、以後終戦までパルチザンとして戦ってたのだが、その際彼の家族や親類縁者は全員殺されてしまったという。終戦後、49年にオーストラリアに渡り、以後 51年オーストラリアに暮しているそうな。
この記事の最後に、このオジイさんが言ってる言葉は中々味わい深い。
"I've got grandchildren, I've put roots down like a gum tree. Don't call me a Jew. The Nazis called me a Jew, they made it a stigma, they killed my family. "
"What's a Jew? I'm an atheist. But if he said that about the Pope, I would have hit him just as hard. It's
about decency. After 51 years, I'm Australian. What else should I be ... could I be?''
こういったリマークを記事の最後に持ってくるあたり、現代オーストラリアのコンセンサスというか、暗黙の大団円的パターンがあるように思う。いいことだけど。 ”After 51 years, I'm Australian. What else should I be ... could I be”と僕も51年経ったら言うのかもしれないな。もう半分そうなってるような気もするけど。
こういった背景(というか前景でもあるけど)を前提にして、再び「ボンダイジャンクションは日本人ワーホリが多い」という命題に立ち返ってみると、こんなものは極めて限定された社会における、極めて限定された認識に過ぎないことがわかる。
極めて限定〜というのは、例えば、「東京23区で最も切手収集家の多い区はどこか?」みたいな問題に過ぎないということである。語学学校の勤務しているとか、ホームステイをやってるとかいう「関係者」を除いた、地元のオーストラリア人のローカルでフラットな視点でいえば、日本人ワーホリが多いと言われても、「ふーん、そうなの?」ってな感じだろうなと思う。
ただ、しかし、我々は日本人であるから、当然「関係者」である。関係者から見ると、多い/少ないは大事な問題なんだろうなと思う。
ボンダイジャンクションは、英語がまだ滑らかではない、現地に慣れていないビギナーにとっては、心安まる所だと思う。日本人のお店も、情報センターの他に、日本食レストランがあり、上記の写真のように日本食材店があり、日本人のカラオケボックスがあったりする。その気になったら、あちこちに点在する(そうと知らなければ中々判らないけど)日本関係の店をハシゴすれば、日本語だけで暮すことも不可能ではない。
そういう「ぬるま湯」的環境がイヤという人もいるが、それは、「そういうことをやろうと思えば出来る」というだけに過ぎず、住んでたら必ずそうなるというものではない。そこは各人の生活指針だと思う。
現地に長く住むに連れ、(あるいは英語が上達するに連れ、と言うべきか)、町を歩いていて他の日本人の存在が、良くも悪くも気にならなくなってくる。多いとか少ないというのも気にしなくなってくる。
これは何故か?自分で考えるに、おそらく英語がヘタクソな頃は、自分にとって「コミュニケート可能な人間」、つまり日本語喋れる日本人だけが自分にとって意味ある存在だったのだろう。あとは十把一からげに「ガイジン」であり、半ば単なる「風景」に過ぎないように認識されていたのだろう。まあ、そんな、ONかOFFかというくらい極端ではなくても、意味の差、存在の差というのはあったと思う。だから、等しく風景に過ぎないボンダイのガイジンの中で、ユダヤ人が多いかどうか等、どうでも良くなってしまうのだろう。
それが英語力がつくにしたがって、誰でもコミュニケート可能になってくると、別に日本人かどうかということはそんなに意味を持たなくなってくる。今、ボンダイジャンクションの町を歩いても、別に日本人が多いなとは、あまり思わなくなってきているし、確かにユダヤ系の人は多いかなと思う。あのユダヤ独特の帽子をかぶって歩いている人もいるし、週末になると家族で教会とか行く姿がよく見られるし。
あるいは、僕も含めて日本人にとっての「海外」とは、地理的、文化的違いだけではなく、「日本人が居ない所」なのだろう。だから、海外にいって日本人がいると(そりゃ、いるわな)、「海外じゃない」ような気がするのだろう。このあたりの感覚はおもしろいし、この感覚は「せっかく海外に行ったのに日本人と付き合ってたら意味がない」というよく聴くフレーズに集約されている。
しかし、これを日本国内に置換えてみると、大阪の人が東京に住みはじめたとして、「せっかく東京にいるのに関西人と付き合ってたら意味がない」とは、あんまり誰も言わない。
今から何十年後か判らないけど、日本人がもっと当たり前に海外に住むようになってきたら、「せっかく海外に〜」というフレーズは死語になる日が来るのかもしれない。昔から思うのだが、地球人が地球のどこに住んでても不思議ではないのだから。
上の写真、日本語の看板と韓国語の看板が一緒に出ている。それが別に不思議とも思わなくなる。
オーストラリアに来ると、韓国人との距離がぐっと身近になる。日韓だけの関係を見てると、かなりギクシャクしてしまうのだが、広く世界全体でみると、まるで兄弟のように似通ってるのが判る。他の国の人達に比べれば一緒に居て遥かに楽なのである。
日韓関係をナチュラルに改善したかったら、もう両国の国民を強制的にどっかに留学させ、多民族の中に置いてみるという経験をさせるのが一番手っ取り早いような気がする。
オマケ
上に引用した、ABSの民族分布に関する資料であるが、該当箇所の全文を引用してみます。なかなか面白いので興味のある方はトライしてください。大した難しい英語でもないので、勉強にもなると思います。
Ethnic Concentrations
In all societies there is a tendency for immigrant and ethnic minority groups to concentrate in particular areas. These are often wrongly termed 'ghettos', suggesting isolation from the majority, poor and even criminal characteristics and undesirability. However, there are few recent instances of such deprived concentrations in Australia, compared, for example, with the situation in the United States or the United Kingdom. Immigrants to Australia have been carefully selected although social deprivation can be found amongst many refugees and some
relatives of previous settlers. There are few slum areas in Australian cities comparable to those found in Europe and North America, and none comparable to those found in the rest of the world. The worst housing and living conditions are those of Aborigines in rural and outback areas, which are often far worse than for any other identifiable group in Australian society. This low incidence of slum ghettos reflects the relative affluence of Australia since the 1880s and the newness of much housing. There are, undeniably, suburbs of relative deprivation on the outskirts of the major cities. These are not necessarily inhabited by ethnic minority groups.
Australians have a long history of opposition to 'ghettos' which can be traced back for over a century. Certainly, on the goldfields the large Chinese populations had often been confined to certain areas by official decree. But when a group of destitute Italians arrived in New South Wales in 1881, they were told by the New South Wales Government that there could be no public assistance for them if they sought to settle together: 'the customs of the country and other circumstances render it undesirable, indeed almost impossible, for them to settle down
altogether in one locality. Even if this were practicable it would not be for their own good to do so'. (Address to the Italian Immigrants, Sydney, 21st April 1881).
The Irish were believed to concentrate in urban ghettos, as they had done so in the United States and Britain. However, inspection of nineteenth century census data suggests that most Irish lived in rural areas until the 1890s. There were only a small number of metropolitan concentrations in areas such as Surry Hills and Paddington in Sydney or North Melbourne or Richmond in Melbourne. Even in those areas there was always a considerable mixing of British immigrant origins. The only areas with a Catholic majority were small rural settlements such as
Boorowa (New South Wales) and Koroit (Victoria). A stronger ethnic concentration in rural areas was of Germans in South Australia. Until the implementation of the White Australia Policy in 1901, there were strong concentrations of Chinese and Pacific Islanders in parts of North Queensland.
The German Lutheran villages of South Australia represent almost the only survival of these nineteenth century concentrations, along with the Chinatowns of Melbourne, Sydney and Brisbane. More recent rural settlements began to develop from the early twentieth century, although they were always limited by the itinerant character of many immigrant workers. Italians have been the most numerous non-British settlers, shaping the character of several sugar towns in North Queensland (such as Ingham), in the Murrumbidgee Irrigation Area (Griffith) and
along the Murray (Cobram). Other small groups concentrating before World War II included Albanians around Shepparton (Victoria) and Croatians in the Swan Valley (Western Australia).
These small settlements were strengthened after the War, with the beginning of the immigration program in 1947. Subsequent settlements were also mainly of southern Europeans, though there was some Dutch settlement in areas such as northern Tasmania, King Island and in Gippsland.
It was in the cities that very large concentrations began to build up after 1947, reviving once again dormant fears of 'ghettos'. Earlier concentrations of Jews had existed for many years, especially in St Kilda, Carlton and Caulfield in Melbourne and in Bondi in Sydney. Because of the impact of White Australia, the Chinatowns were dying out though there has been a continuous Chinese presence in Little Bourke Street, Melbourne for 140 years. A small Lebanese community had its centre in Redfern, Sydney, but many of its members were hawkers
and shopkeepers in rural areas, as were many Chinese and Jews. Otherwise, Australian cities were very monocultural apart from the divide between Catholics and Protestants. Even that division was not very clear cut, although Protestants tended to be concentrated by the 1940s in middle class areas such as Camberwell in Melbourne or the North Shore in Sydney, while Catholics were more commonly found in working class areas.
These settlements were usually very small but aroused hostile comment because of their visibility. The displaced person arrivals from 1947 did not form such visible communities. They were initially housed in rural camps such as Bonegilla, Bathurst or Greta (New South Wales) or in construction camps for public works such as the hydro-electric schemes of Tasmania or the Snowy Mountains. Although they eventually tended to settle in particular suburbs, they did not do so in large enough numbers to attract attention. Nor did they develop visible commercial centres comparable to the Chinatowns or the small Italian shopping centres in Carlton (Melbourne) or Leichhardt (Sydney).
Most of these small settlements provided a nucleus for much larger concentration as the post-1947 immigration program got under way. But this proved to be a temporary phase. While Italians initially settled in Leichhardt and Carlton, they soon spread outwards, with much larger populations eventually to be found in the Drummoyne area of Sydney and the Coburg area of Melbourne. New areas opened up, including those close to migrant hostels in the big cities, though not in most rural areas. This became particularly important as these hostels were
increasingly limited to refugees from countries which had no previous major presence in Australia. The location of hostels was very important in establishing the Vietnamese communities in Cabramatta (Sydney), Springvale and Footscray (Melbourne), Darra (Brisbane) and Woodville (Adelaide).
Most postwar non-British immigrants have gone initially into industrial employment and many have stayed there. Consequently, the largest communities are based on industrial suburbs. These often develop a multicultural character, rather than being dominated by one or even a few ethnic groups. Most important in this development have been the so-called 'green field' industrial sites to the west of Melbourne and Sydney. Similar sites to the north and south of Adelaide attracted mainly British migrants, who were given special concession in the allocation
of public housing in the 1950s and 1960s. More typically, British migrants, like the Dutch and Germans, gravitated to the new outer residential suburbs on the opposite fringe from industrial development, especially in eastern and bayside Melbourne, the Sydney North Shore and the south-eastern suburbs of Perth.
The stages of settlement vary in the major cities. As the metropolitan city with the lowest proportion of non-British migrants, Brisbane showed an older pattern of concentration in the inner suburbs of West End (Greek), Fortitude Valley (Chinese) and Newstead (Italian). This was broken by Vietnamese settlement around the Wacol migrant camp and by Aboriginal concentration in the public housing of Inala. Newcastle, another major city with a small migrant population, shows a similar pattern with concentrations in the older areas such as Hamilton.
Elsewhere there is a very wide spread in working class suburbs, with a developing settlement in some important middle-class areas as well. The Jewish population of Australia is very heavily concentrated in middle-class areas such as Caulfield and St Kilda in Melbourne and Waverley and Ku-ring-gai in Sydney. The larger Muslim population, in contrast, lives overwhelmingly in industrial areas such as Canterbury and Auburn in Sydney or Brunswick and Coburg in Melbourne.
Bearing these variations in mind, the normal settlement patterns for non-British migrants follow three stages: firstly, settlement in inner-city areas or near migrant hostels; secondly, movement outwards along public transport routes; and thirdly, dispersal into more middle-class areas particularly for the younger generation. Some ethnic groups, most notably the Maltese, have settled in and remain in, outer industrial suburbs with little movement. Some, like the Dutch and Germans rarely passed through the first stage but went directly to outer residential suburbs.
Many Chinese students settle near universities while middle-class Hong Kong and Japanese migrants go directly to middle-class suburbs. But the bulk of immigrants from southern Europe,Indochina, the Middle East and Latin America, follow the stages outlined above. Institutions and shopping centres tend to lag behind residential movement, so that the main Italian shopping centres are still Lygon Street, Carlton or Norton Street, Leichhardt. More recently arrived groups such as the Vietnamese still live close to their commercial and institutional centres in suburbs such as Cabramatta or Bankstown in Sydney or Richmond, Springvale and Footscray in Melbourne.
The concentration of various groups can be gauged by figures for local government areas in the major cities (and by Statistical Local Areas in the unified City of Brisbane). Some of the largest concentrations are of British migrants in suburbs such as Elizabeth, Salisbury, Tea Tree Gully and Noarlunga in Adelaide or Armadale, Kalamunda, Gosnells and Wanneroo in Perth. But these attract little attention and they are not included in the following table which is based on language use. The Dutch, Germans, Chinese, Filipinos, Indians and Sri Lankans are widely distributed in residential suburbs. The most concentrated Chinese groups are those from Viet Nam who often settle in the same areas as Vietnamese, which other Chinese do not. Aborigines in Sydney, Brisbane, Adelaide and Perth tend to be found on the outskirts, particularly in areas with public housing. Like many other ethnic groups they often have social centres in the inner-city but do not necessarily live close to these.
写真・文/田村
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