今週の1枚(01.06.11)
雑文/飲みに行かない
オーストラリアに来ると、生活パターンが変わる人が多い。
「喋ってるコトバが英語に変わっただけで基本的には同じ」という人もいるだろうが、僕の場合は変わった。それも結構ガラッと変わった。
もちろん生計の立て方やら、居住環境やら、何から何まで違うのだから、生活パターンが変わるのは当然である。昼間法廷に立っていた人間が、英語学校の教室に居たりするわけだから、変わらなければ嘘である。
しかし、別に変わる必要がない部分、つまり余暇時間についても変わる。その大きな違いが、例えば、夜の過ごし方であったりする。
夜、飲みにいかなくなった。
日本に居たときは、連日連夜というくらい飲み歩いていた。夜の11時に飲み友達と待ち合わせて、それから飲みに出るなんてこともあった。仕事が終わったら同僚とちょっと一杯、出張したらしたで出先で一杯、特になくても仕事の終わる頃になると「飲みにいけへん?」という電話をしてたりする。17連チャンという月もあったから、月の飲み代も結構な額になった。今時分、日本は忘年会シーズンだから、皆さんもガンガン飲んでいることだろう。
ところが、こちらに来たらピタッと行かなくなった。
理由はいろいろ考えられる。
まず、飲み屋のファシリティ問題がある。
そもそも、こちらには飲み屋が無い。まあ、パブとかバーとか無いことはないのだが、行きたいと思うような飲み屋(居酒屋系や小料理屋系)が無い。あったとしても非常に少ない。その角をまがると一軒、またそのちょっと先に一軒という具合にはない。
パブなんか全然行きたいとは思わない。うるさいわ、立ったまま飲まなアカンわということもあるが、最大の理由はサカナが無いことである。ピーナッツくらいしかない。食べたかったらビストロと呼ばれる一角に行けばいいのであるが、そうなるとステーキだのなんだのヘビーなものがメインになってしまう。
まあ、そうはいっても無いことはないし、バーにいけば比較的落ち着いた雰囲気で飲めることは飲める。だから、頑張って開拓すれば、それなりに飲み屋シーンは充実するとは思う。
しかし、それでも行かないってことは、単にファシリティの問題だけではないということである。つまりは、行く必要性・必然性がないのである。
簡単に言っちゃえば、「自宅で飲める」ということである。
特に今の家の場合、ダイニングのテーブルで6〜8人は収容できるし、キッチンと完全分離しているから周囲がゴチャゴチャせせこましくならなくても済む。リビングがまたその倍くらいの広さがあるので、かなりガランとしている。だから下手に飲みに行くよりは、自宅にいた方がスペース的にはゆったりしてるし、落ち着く。
これがもっと豪邸になってくると、庭に何十人も招いてバーベキューやったり、ベランダだけで十数人収容できたりする。要するに洋画によく出てくるアレである。豪邸でなくても、バーベキューはオーストラリア人必須のアイテムであるから、一軒屋であれば大体バーベキューで出来るようにバックヤードはそれなりのスペースがある。だから、オーストラリア人にとっても、飲むとなれば「自宅+BBQ」という大きな選択肢があるので、それで済んじゃうというケースが多いのだろう。さらに、公園や海辺でBBQというケースも多い。
このような住環境の問題はあると思う。
でも、日本の場合だって、3〜4人くらいだったら収容はできるだろうから、自宅で飲めば良さそうなものなのだが、何となくそれをする気にならない。何故だろう?自宅で友達招いて飲んでても、なんとなくパーッと気分が晴れないような気がする。終電を逃し、友達の家に泊らせてもらうことになって、そこでまた飲み直し、というパターンはあっても、「○○さんち、7時集合」みたいな感じにはならない。
日本にだって、ホームパーティーはあるのだろうし、時々流行ってたりもするのだろうが、あまり一般化しない。自分でやることを想像しても、なんか妙にドメスティックな感じがして、空気がしっとり湿り気を帯びてくるような気がする。PTA的というか、新婚さん宅訪問的というか、ちょっといい子ちゃん的にお行儀良い雰囲気をまとってしまうような。だから、「飲み会」というものが本質的に持っている、ヌケの良さというか、ハレの感じというか、ちょっぴりワイルドな「殺気」のようなものがなくて、「ちょっと違うんだよね」って気がする。
まあ、オーストラリアでも、家で飲むのと外で飲むとでは、そのあたりの「殺気」は違うと思う。ただ、日本ほど、自宅に「ドメスティックな怨念」みたいなものが染み付いてないような気がする。こうなると話も深くならざるをえないのだが、そもそもオーストラリアと日本とでは、「ドメスティック」というもの、家族や私生活のありようそのもののヌケの良さ、湿度的な重さみたいなものが違うような気がする。
オーストラリアで自宅というと、単に自分が住んでる所であり、生活の拠点であり、日曜大工でリノベーションして遊ぶオモチャでもありそれ以上でもそれ以下でもない。仕事もポンポン変えるし、家もポンポン移り住む。だから一過性のものであり、「今のところここが拠点」という感じである。ところが日本の場合、そういったテンポラリーな軽さが少なく、家のあちこちに、「住宅ローン」とか「老後の設計」という標語が見えない紙に書いて貼ってあるような感じがする。
だから同じ日本でも、実家を離れて独り暮らしをした時の賃貸アパートと「実家」とは空気の重さが違う。あるいは自宅と(持ってる人は少ないけど)別荘とでは空気の感じが全然違う。要するに「生活の重さ、シリアスさ」というものが、そのへんの壁や柱にどれだけ染み込んでいるかということである。
オーストラリアだって、生活はそれなりに重いし、シリアスなのだが、それでも日本に比べれば随分軽い感じがする。これはもう無数のファクターがあるのだが、同じローンを組んでるのでも、オーストラリアでローン組んだ方が心理的には気が軽いように思う。どこがそんなに違うのか突き詰めて考えてみた場合、要するに「いよいよローンを返せなくなったら、どうするか」という対応が違うのだと思う。
オーストラリアだったら、家を売ればいい。こちらは中古でも値が下がらないから(不動産情報にも築○年という表示がない)、そこそこ売れる。それでもローンに満たなかったら借金を背負うことになり、それで破綻したとしたら、破産すればいい。実態を詳しく知るわけではないが、どうもこちらでは「破産」というものの捉え方が随分違うみたいで、単なる「ファイナンシャルなリセット」でしかないような気がする。
ちょっと前に地元の新聞がスッパ抜いていたが、シドニーのバリスター達(法廷弁護士、日本でいえば大病院の院長や大企業の重役くらいのステイタスと高額所得者のイメージがある)が、投資に失敗すると、財産を妻名義に替えて、とっとと自分は破産してチャラにして、そんでもって悠々と仕事を続けていて、ズルいぞという記事があった。日本だったら破産したら弁護士は出来ない。一定期間を過ぎたら復権するが、それでも「破産した弁護士」という烙印は押されるだろう。ましてや、大企業の重役とかが破産したら、それで人生終わりだろう。それなのに、こちらでは悠々とバリスターを続けて、高額所得を稼ぎ続けている。逆にいえば、こちらでは、破産なんてそんなもんでしかないのか?と思った。
いよいよどうしようもなくなったら、失業保険は(いろいろ条件は厳しくなってはきているが)一生出るし、生活保護やペンション(年金)も日本に比べれば厚い。退職は、基本的に”ハッピー”・リタイヤメントであり、「もう働かんでもええやろ、後の人生遊んで暮そ」と個人が思ったときに退職する。年金は、基礎部分に関しては全額税金から出るから、別に個人で積み立てなくても良い。個人でやるのは、スーパーアニュエーションとかプラスアルファの部分である。
また、自分でビジネスを興してもいいし、捲土重来で中高年になってから大学いったり資格とったりする人も珍しくない。「一生勉強、一生チャレンジ」というのが、理想の目標でもなく、ごく普通の感覚としてあったりする。
さらに、ここが大事なところなのかもしれないが、「世間の目」というのが少ない。あったとしても貧乏人に冷たくない。オーストラリアでは貧乏しててそんなに恥かしくない、、、というか、ファッションもダサいし、車もボコボコだったりしてるし、貧乏してるのかどうか、他人を見ててもよく判らない。何をやって暮しているか、生計はどうなっているのか、見当もつかない人がゴロゴロしている。またオーストラリア人は全般に意外とケチだから、ケチくさくやってても別に何とも言われない。
要するに、家は好きな所に住めばいいのだし、ローンは返せるだけ返せばいいんだし、仕事も好きにやればいいんだし、チャンスとチャレンジは幾つになってもあるわけだし、それでどうにもならなかったらその時はその時だし、、、って感じなのである。
しかし、これは、ハッキリ言って 国民的な myth(神話)であろう。オーストラリアの新聞でも文献でも、ちょっと調べたら結構しんどい社会状況がわかる。福祉も全然万全ではないし、ラッキーカントリーなんてのは大昔の話である。失業保険が出るといっても、出たところで週1〜2万円でしかない。大体、「庶民」を意味する単語で、"(Aussie) battler"というスラングがある。「生活苦にメゲずに戦ってる人」という意味(conscientious person working against many odds for a living, the ordinary working-man earing a living against many odds)であり、よく新聞の見出しなんかで出てくる。
だから客観的な生活のシンドさそのものでいえば、実は日本もオーストラリアもそんなに差はないのかもしれない。ただ、その状況を受け止める主観、その主観の統合としての国民的”幻想”みたいなものが違うのだと思う。日本で「生活」というと burden(重荷)であり、オーストラリアだと battle(戦い)なのだろう。日本の家の床の間には「ローン返済!」と大書した掛軸が飾ってあるのに対し、オーストラリアの場合(掛軸なんかないけど)、”She'll be alright, mate!" (何とかなるだろ、まあ大丈夫だろ、という意味のオーストラリア人が好んで口にするスラング)とでも書いているのだろう。
話が長くなったが、そんなこんなで、オーストラリアの場合、「自宅」の空気が違うのだろうし、だから「自宅で飲む」というオプションは、かなりの有用性をもって存在しているのだと思う。
さきほど、飲みに行く場合の独特の「殺気」と言ったが、日本の場合、このハレ的な殺気が欲しくて飲みにいってたような気がする。日常が鬱陶しいから、その鬱陶しさを殺せるだけの場の力が欲しく、だから飲みに行くという行動パターンだったのだろう。もちろん、これは人によって違うから一概に言えないけど、僕の場合はそうだったような気がする。したがって、鬱陶しさの総本山のような「自宅」で飲んでても気が晴れないのである。
一言でいえば、「ストレス解消」であるが、自宅もまた、ストレスを発散する場というよりはストレスを製造してる場でもあるから、どうしても外に飲みに行くのであろう。僕は自宅にそんなにストレスはなかったが(賃貸だったし)、たとえそれがニュートラルであってもハレ的な解放感は生まないから、やっぱり駄目なのだろう。家でシコシコビール飲んでても、「いやあ、よく飲んだあ、今夜は最高!」ってな感じにはならないのである。ましてや、昼間っから一人で飲んでようものなら、「俺、人生終わってるかも」とズーンと暗くなりそうである。
さらに言えば、オーストラリア全体に漂う国民的錯覚、「何とかなるべ」的空気を吸ってると、最初からそんなにストレスも溜まらないのである。だから、別に飲みに行くという行為や、アルコールそれ自体に対する欲求が薄くなるのである。アルコールを飲むときは、純粋にその味を味わいたいから飲むのであり、それ以外の目的がなくなってくるのである。これが一番大きいのかもしれない。
大体ですね、日本にいたらこんなAPLaCなんてやってないですわ。
日本に居ながら、こんな、趣味なんだか仕事なんだかみたいなことやってですね、しかも今年本厄ですもんね、やってられないですわ。やってたら逆にすごいストレス溜まると思う。だから、やっぱりガンガン飲みに出掛けていたと思います。
写真・文/田村
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