今週の1枚(01.06.04)
雑文/武蔵野
中学のときの夏休みの宿題で読書感想文を書いてこいというのが出た。たしか国木田独歩の「武蔵野」なんぞを書こうとして挫折して、太宰治の「斜陽」あたりでお茶を濁しておいたような気がする。
なんで「武蔵野」で挫折したのか、よく覚えていない。それどころか、「武蔵野」の話すら殆ど記憶にない。推測するに、中学生には難しすぎたのだろう。「斜陽」だって本当は難しい筈だし、滅びのリリシズムとか、「滅びゆくがゆえに、透明で明るい」というニュアンスをガキの自分が理解し得たとは到底思えない。今だって怪しいものなのに。
それでもまだ「斜陽」にはストーリーらしきものはあったし、取っ付きやすかった。一方国木田独歩は、取っ付きにくかった。武蔵野の情景が主観的に、しかし淡々と述べられているだけで、小説というよりは滋味あふれる随筆であり、
「僕は○○に感動しました」という定型パターンにハマリにくいものだった。数ページ読んだだけで、「あ、これはアカン」と思った記憶がある。
今読んだらどうであろうか?
と思いたっても、そこは海外の悲しさ、ぶらっと本屋に出掛けても日本語の本などそうそう置いてあるわけではない。紀伊国屋などシドニーには数軒日本の書籍を売っている店があるが、やはり値段もギョッとするほど高いし、また何でもかんでも売ってるわけでもない。
しかし、インターネットの便利さで、ネットを探し回れば、この種の古典は全文無料で入手できたりする。「青空文庫」というサイトがあり、著者の死後50年以上経た、つまり著作権のなくなった名作を、ボランティアの方々が入力して無料で公開しているサイトがある。
「エクスパンジョン・ブック」という、これも無料のソフトをダウンロードしてインストールすれば、ちゃんと縦書きで読め、「ページをめくる」ということもできる。
というわけで調べてみたら、ラッキーなことに「武蔵野」はコレクションの中にあり、無事全文ダウンロードすることができた。全文といっても、比較的嵩張るエクスパンジョンブックの形式ファイルであっても、たかだか79KBに過ぎない。上の画像一枚ほどの容量もない。
ひさしぶりに「武蔵野」をパラパラと読んでみた。
適当に抜粋してみる。
鳥の羽音、囀(さえず)る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢(くさむら)の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車(からぐるま)荷車の林を廻り、坂を下り、野路(のじ)を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音(つつおと)。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪い、切株に腰をかけて書(ほん)を読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥(ね)ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹(くりのき)もずいぶん多いから。
もしそれ時雨(しぐれ)の音に至ってはこれほど幽寂のものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜(もり)を越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過(ゆ)く時雨の音のいかにも幽(しず)かで、また鷹揚な趣きがあって、優しく懐しいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨のさらに人なつかしく、私語(ささや)くがごとき趣はない。
秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田ケ谷、または小金井の奥の林を訪(おとの)うて、しばらく座って散歩の疲れを休めてみよ。これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時、自然の静蕭(せいしょう)を感じ、永遠(エタルニテー)の呼吸身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更けて星斗闌干(せいとらんかん)たる時、星をも吹き落としそうな野分(のわき)がすさまじく林をわたる音を、自分はしばしば日記に書いた。風の音は人の思いを遠くに誘う。自分はこのもの凄い風の音のたちまち近くたちまち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の生活を思いつづけたこともある。
とまあ、こんな感じで、「武蔵野賛歌」のような文章が延々と続いている。
たしかに滋味あふれる美文である。単純に文章の上手さだけみても、僕なんぞとはもう日本語のレベルが違う。昔の人は当たり前のように漢文の素養があったという。そういえば、弁護士になりたての頃、上の人に言われたことがある。「一人前の顔をしたかったら、大昔だったら漢詩のひとつもスラスラと書けなければならなかった。一昔前になると漢詩は無理でも書が書けなければならなかった。今は全体にアホになってるからそれも無理だけど、せめて文章だけはキチンとしたものを書けるようにせよ」と。
「せめて文章だけでも」といっても、これがまた難題である。この「武蔵野」の文章は、単語をちょちょっと抜き出せばただちに和歌にもなるし、漢詩にも仕立て直せるほど洗練されている。なんというのか、ボキャブラリーのバックボーンが違い過ぎる。教養が違いすぎる。
また、「頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時」という文章は、別に難しい単語を使っているわけでもないのだが、こういう表現は僕には出来ない。最初から、こういう構文というか、表現パターンが自分のストックの中にない。「風もないのに頭上の木の葉が落ち、地面でかすかな音をたてた」くらいまでは書けても、その次の「それも止んだ時」というのが出てこないだろう。落ち葉が地面に落ちる音など、一瞬に始まり一瞬で終わる。敢えて「それも止んだ時」なんて書こうとは思い付かない。しかし、それを入れることにより、微かな動と静のコントラストが鮮やかに感じられ、研ぎ澄まされた静けさがより一層イメージされる。このあたりはテクニックであるが、「なるほど、これが文豪というものか」と思わされる。
もう一つ。この文章、声を出して読むと尚良い。計算されたリズムが組み込まれている。この感覚は、いまのラップに似てる。「これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり」というリズムとライム(韻)。この人、一つの文章が長いのだけど、それを読ませるだけのリズムとメロディ、発声や聴覚の快感みたいなものにも気を遣っているのだなと思う。
しかし、こんな作品、中坊の頃に読んで咀嚼できるわけがないよな。
コカコーラしか飲んでない奴が、いきなり大吟醸飲んでるようなものだから、(コーラのように)「甘くない」「炭酸がない」という、レベルの低い低〜いところで挫折するのは、当然といえば当然だろう。かといって「斜陽」がコカコーラかといえば全然違うのだけど、「コカコーラを飲むようにしても飲めた」というだけ、つまり「誤解しやすかった」というだけのことだろう。
ところで読書感想文というのも不思議なもので、学校教育のなかでしかお目にかからない。もちろんそれに類することは、大人になってからもやるのだが、それは例えば「書評」という形になっていたり、BBSやホームページで「雑感・感想」というもっとカジュアルな形で展開されている。が、「読書感想文」なんて、改まって、カシコマった形で書くような機会はない。あなたは、学校を出たあと、読書感想文を書いたことありますか?
今にして思うのだが、「読書感想文」と言われるとメチャクチャ書きにくくないですか?「読んで思ったことを自由に書けばいい」って言われてもねえ?しかも原稿用紙3枚以上とか指定されたら途方に暮れそう。「ムチャクチャ面白かった」とか「漢字が多くて読みにくかった」で終わっちゃったらマズイし。遥か昔の学校時分を思い出すのだが、「自由に書けばいい」とか言われつつも、本当に自由なわけではない。ソコハカとなく「求められる優等生的答案」というのがあって、それが見えたら書き易く、それが見えないときは書きにくいという。「自由に」と言いながらも、なんか期待してし、期待されてるんだよね。それがあるから書きにくい。
そこへもってきて、コカコーラの大吟醸だもんね。出来るわけないよね。だからといって「ドラえもん」で感想文書くわけにはいかないし。
これはもう、日本の教育というか、日本社会の組成そのものだと思うけど、自分が本当に思ってることを、それこそ自由に、雄弁に、おもしろおかしく表明することに価値を置くのではなく、「なんとなく期待されてることを満たすように、もっともらしい事をひねりだして、とりあえず無難に済ませる」ことに価値を置いてるからだと思う。こういう教育を受けてきて(というか生きてる周囲の環境全てだけど)、海外、とくに西欧社会に来ると困るのですね。何でもかんでも「キミの意見は?」と聞かれるし、「なんとなく期待される模範答案」というのが無いから、なにをどう言ったらいいのか途方に暮れるという。
「武蔵野」の感想文だって、「この人、読んでると一日中武蔵野をほっつき歩いてるだけみたいで、どうやって働いて生活してるのか不思議」というのだって全然OKだと思うのだけどな。というか、そういうところから始めていかないといけないんじゃないか。
ところで、上の写真は、Glebeの晩秋の夕暮れ(だったと思う)。
武蔵野的世界、雰囲気に近いかなと思ってセレクトしただけで、それ以上深い意味はないです。
写真・文/田村
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