今週の1枚(01.05.28)
雑文/ シャツのハミ出た風景
シドニー郊外の、どこにでもある風景である。
一応場所を言っておくと、この写真の場所は Dulwich Hillというところであるが、まあ、別に場所に深い意味があるわけでもない。これと判別がつかないようなストリートなどシドニーに何百とある。長いことシドニーに住んでいる人には、眠気を誘うような見なれた風景というわけである。
しかし、初めて見る人にとっても、別にそれほど「ショッキングな光景」というわけでもないだろう。なんだか妙に馴染んでしまいませんか?
緊張感がないのである。どっかしら弛緩している。
初めて友達の家に遊びにいく。呼び鈴を鳴らしたら、友達ではなく、そのお父さんが玄関口に出てきた。ちょっと緊張してしまいそうなスチェーションだけど、そのお父さん、寝ぼけマナコにジャージなんか着ていて、さらに裾からシャツが半分はみ出してたりして。
この風景もそんな感じである。リラックスというよりは、だらしないって感じ。
「海外だ!オーストラリアだ!」と勢い込んで来てみたら、オーストラリアは裾からシャツをハミ出して迎えてくれた、とう感じ。
このありふれた町の風景が、なんでそんなに普段着というか”部屋着”状態なのか、改めて見直してみよう。
まず道路。気合が入ってないのである。やたら広々しているわりには、センターライン一本引いてあるわけでもない。
この道路幅だったら上下合せて5本くらいは車線が引けそうなものだし、日本だったら絶対引いてそうなものだが、ほったらかしである。
「一応車は左側通行ということで、よろしくね」ってな感じである。写真中央、向こうから走ってくる赤い車も、堂々とド真ん中を走ってくる。その昔は、あの車のかわりに馬車が走ってたんだろうなあってな感じである。
タワムレにこの写真にセンターラインを引いてみた。
お絵描きソフトで適当に引いただけだから、かなりわざとらしいが、まあ目の焦点をボヤかして見て欲しい。
これでちょっとは日本っぽくなったかな。
「整備されてます」って感じにはなりますよね。
でも、なんか、詰まらなくなったような感じがします。
あと目につくのが、電柱である。これがまたダサいのである。いまどき木である。
また電柱の上にあるゴミ箱みたいなトランスがない。
比較のために日本で撮った写真を載せておく(ちなみに向こうに見えるのは富士山です)。左の写真に写ってるアレである。
うろ覚えで恐縮だが、日本は100Vなので各家のところで減圧するからアチコチの電柱にトランスがあり、こちらは220Vなのでストリート毎にトランスがあり、あとの配線はトランスなしでOKだとか。まあ、僕も書きながら全然自信がないので、この部分は読んだらすぐに忘れて欲しい。
まあトランスはともかく、日本の電柱の方がスゴイですよね。なんちゅーか、ハイテクっていうか、ガキガキの工業製品!っていうか、「仕事してますっ!」って感じですよね。背も高いし。
これに比べてシドニーの写真の電柱は、、、、やっぱ、気合入ってないですよね。ぬぼーっと棒が一本突っ立ってるだけだし。
しかし、このシドニー郊外の「町があって、道があって、人々が暮してます。以上!」みたいな素朴な感じ、緊張感がないというか、シャツのハミ出た感じ、これが妙に馴染む。
その昔、僕がまだ小さかった頃、昭和30年代の終わりか40年代の初めの頃、親戚が東京の赤羽に住んでいて、そのときに見た町の風景に妙にリンクするものがある。
最初にオーストラリアにやってきて、こういったサバーブの道を歩きながら思うともなく思ったのは、「なんだ、赤羽じゃん、ここ」ということだった。そのときは、そんな分析的に明確に思ったわけでもないけど、すごい異国のド真ん中に居るんだという気持と同時に、「なんだか妙に馴染むぞ」「なんか、こういう感じ、見覚えあるぞ」と。
特に夕暮れどき。黄金色の斜光と家々の影が長く伸びている道を歩いていると、こじんまりお行儀よく並んでいる家の裏庭かどっかで七輪でサンマでも焼いてるんじゃないかという。
まあ馴染むっていっても、勿論家の中に住んでるのはガイジンばっかりなわけだし、日本語以外の言葉喋ってるわけだし、文化も歴史も全然違う、レッキとした100%純正の「外国」 なのである。
でも、異国の違和感と同じくらい強烈な親和感も入り混じってくる。
この親和性の奥底にあるものは、どちらかといえば、現在の日本ではなく過去の日本との相似性でなのだろう。でも、もっと突き詰めていえば日本なんかどうでもよくて、「人間が住んでる」という素朴な肌ざわりが、同じ人間としてのピピッとくるんじゃないか。
逆に言えば、これは日本でもオーストラリアでも同じだと思うけど、町が整備され、お奇麗になっていくにしたがって、この素朴な肌触りみたいなものは徐々に薄れ、失われていくのだろう。上の写真で、車線を一本引く度に「なにか」が薄れていくように。
今、僕は、「素朴な肌ざわり」なんて文学的な優しい言葉を使っているけど、勿論他の言葉でも言い換えることは出来る。それは例えば、「高度に発達した現代社会における人間性の喪失」等という倫社の教科書みたいな表現でもあるだろう。もっとも、そんなことはここ何十年も語られていることである。
でも、問題は、じゃあその「人間性」って何なのよ?ってことなんだろう。これを言い出したら「今週の一枚」では納まらなくなるが、今ここで言うならば、センターライン一本引かれたときに、心のどこかで抱くイヤ〜な感じ。それをイヤと感じる感性こそが人間性のひとつのアラワレなんだろうなと思う。
本来、こんな道にセンターラインなんか要らない。別にそんなに交通量が激しいわけでもないし、車両スピードもそれほど出るわけでもないから、ガイドラインを引いておかないとドライバーや歩行者が困るってことはまず無いだろう。対向車がやってきたら、それぞれ左側に寄って離合すれば済むだけの話である。およそ、運転免許を取得出来るくらいの視聴覚能力と運転技術があれば、たやすいことだと思う。
この必要性のないところにセンターラインを引くということはどういうことか?ここをちょっとペダンティックに言えば、本来人間の生活に奉仕する道具としての存在であるべき「システム」だの「法律」だのといったモノが、人間の上位に躍り出てきて、逆に人間にあれこれ指図するかのような価値倒錯が生じる、ように思う。かなり突き詰めて誇張して言ってるんだけど。
もともと交通法規もセンターラインも、それがあった方が便利だから存在するのである。逆に言えば、無くても問題がないならば極力無い方が望ましい。必要のないシステムは、とりあえず邪魔臭い。「そうした方が望ましい」というような場合であっても、「必要」というほどでは無ければ、個々の人間の判断に任せておけばいい。
それは例えば、「助手席に座ってる人は、常時地図を傍らに置き、運転手の求めに応じて適宜ナビをするのが望ましい」とイチイチ道路交通法に書いてあるようなものである。そんなもん余計なお世話である。ナビしてほしかったら、運転手がその旨頼めばいいのだ。人間というのは、そんなことイチイチ決めて貰わねば困るほど馬鹿でも愚かでもない。
必要性を超えてシステムがシャシャリ出てきたとき、波及的に二次三次の弊害が出てくる。
例えば、システムがあれこれ指図するようになってくると、徐々に人間から大きな視野を奪い、判断力を弱体化させていく。システムに従ってればいいのだということで、それ以上考えなくなるし、考える癖もなくなってくる。
センターラインがあったら、ラインのこっち側を走るということ「だけ」考えれば良いわけで、そこで思考が停まってしまいがちである。前方から巨大な対向車が来て、中央を止む無くはみ出してやってきた場合、センターラインが無ければ避けるなり徐行するなり、平静柔軟に対処するだろう。でもセンターラインがあった場合、ともすれば相手のセンターラインオーバーだけが目につき、「なんて野郎だ」で腹が立ったりする。この場合「センターラインを守る」という下位のルールが、「車両同志の安全な通行」というより上位の目的を見失わせたりするのである。
過度の、不必要なシステムは人間の痴呆化を招く。臨機応変の処置を出来なくなる。要するに人間をアホにする。システムの極致のような日本の中央官僚機構が、大地震などの災害において、「とにかく人命を最優先に救助する」という当たり前の目的を見失い、ずっと下位のシステムにとらわれ(書類の届出が済んでないとか)、立ち往生するようなものである。
システムはまた人間を守ってもくれるから、システムどおりにやっていたら楽チンでもある。楽チンなことばっかりやってると、段々ヒヨワになってくる。マニュアル世代とか指示待ち人間とかよく言われるし、僕なんかもその走りの世代だが、確かにマニュアルどおりにやってるのは楽である。しかしマニュアルだけだと、その背景にある大きな構造とか原理というものが何時までたっても把握できず、応用がきかない。というかアホのまんま進歩しない。
この世でマニュアルが一番通用しないのは、なんといっても対人関係だと思う。人間くらい予測不可能で、個体差が大きく、扱いにくいものはない。だからこそ面白いのだが、システムで楽ばっかりぶっこいてると、この対人関係というのがどうにも手に負えなくなってくるのかもしれない。
逆説的にいえば、本当に優れたシステムとは、緊急時においては、何のタメライもなく瞬時にシステムを叩き壊せるように予め用意されていること、また、何のタメライもなく叩き壊せる人間の知性を維持しておくように設計されたシステムなのだと思う。
小松左京の短編小説に、題名は忘れたが、こういうのがあった。
遥か未来、人類は宇宙の辺境まで進出し、多くの人間が宇宙に移民に出た。結婚したばかり若いカップルが移民を申し出た。当時、移民をするためには「試練」を受けねばならず、それは、地球のあるエリアを男女別々に一人ぼっちで3日行程の距離を進み、再び邂逅するということである。そのエリアは、砂漠や密林など暴力的な自然があえて手付かずのまま残されている。若い男は自分の妻に会うため、妻は夫に会うため、コンパスと寝袋、そして銃を片手にジャングルを、断崖を、砂漠を進む。勿論携帯電話なんか無い。地図を読み間違えたら終わりである。「この惑星にたった一人」という過酷な環境、満天の星空のもと、砂漠の丘の向こうに目指す相手が見えてくる、というところで物語は佳境を迎える。「試練」をパスした若いカップルに再会した二人の両親達は息を呑んだ。彼らにはもはや試練前の幼さは微塵もなく、顔つきがガラリと変わっている。それは確固とした意思と自信に溢れた成熟した男女であった、というお話である。
話が横道に逸れた、、、のではなく、実は真っ直ぐ掘り進んだのだが、シドニーのサバーブの、シャツがハミでたダサい風景を見て僕がほっとするのは、システムが必要以上にデカいツラをしていないからかもしれない。システムによってスポイルされていない、生の人間っぽさが漂ってくるからだろう。
だからといって、オーストラリアが周到に計算して、このダサさを演出してるってわけではない。そんな筈、あるわけない。
ただ、「センターラインをひかないとアブナイじゃないか」とヤイヤイ文句を言う人がまだ少ないのだろうな。
写真・文/田村
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