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それは、ナーシングホームで夜勤看護婦を始めたばかりの頃だった。ピーターという66才の男性が入所して来た。痴保状態による尿・便失禁、夜間の徘徊で、奥さんがこれ以上自宅では面倒見きれなくなったのだ。
ピーターは「人格崩壊」が起きていて、暴力的になったり乱暴な言葉を吐いたりして、奥さんをオロオロさせていた。以前は本当に親切で優しい人だったという。ピーターは身体的には健康で、まだ慣れていないナーシングホームの中を時に紙オムツをぶら下げながら勢い良く歩き回っていた。そんなピーターを奥さんは毎日訪ね、後をついて歩いていた。
ピーターがやってきて、2週間ほどたった頃のことだった。準夜勤務のサリーから申し送りを受けた私は、午後11時に看護助手のケイと1回目の巡回を始めた。ピーターのところに行ってみると、痰が溜まってゼイゼイしながら虫の息だった。唇に軽いチアノーゼ(血液の廻りが悪いため皮膚や唇が青っぽくなること)があり、熱も出ていた。
申し送りでは何の変わりもないということだったのに一体どうしたことだ? 急いで酸素吸入を始め、吸引器を持ってきてチューブで痰を取ろうと試みた。しかし口と鼻からうまく痰は取りきれなかった。「これはまずい。Dr を呼ばなくては…」
それぞれの入居者には家庭医がついていて、日中なら診察に来てくれるはずだが、夜間はどうしたらいいのか? 私はまだオーストラリアのシステムを把握できていなかった。
ケイが「ローカム」に連絡するよう教えてくれた。「ローカム」とは何なのか良くわからないままとにかく電話をして往診を依頼する。午前3時頃、ようやく若い医師がやってきてピーターの診察をし、下熱剤を与薬するよう指示をだして帰っていった。
医師が帰ってから、「一体どうやって意識がほとんどないピーターに薬を飲ませろというのだ?」と気づき、毅然とする。しかし、医師のオーダーだから従わなくてはならない。薬をつぶしてジャムに混ぜスプーンで少しずつ口に入れる。しかしピーターは意識がないのだ。うまく飲みこめるはずない。
「こんな状態のピーターに経口薬しか指示が出ないというのか?日本だったら、点滴と抗生物質の注射を始め、多分経口または経鼻挿菅(口か鼻から気管までチューブを入れて呼吸を助けること)をして痰をとり、たぶん人工呼吸器がつけられるだろう。」
ピーターの様子を見ながら、痰を吸引したり体位交換をし、その合間に他の入居者の体位交換と失禁ケアをしながらアッという間に夜が明けてきた。
そして午前6時50分にピーターの息は絶えた。
朝7時に婦長のジルがやってきた。状況を報告すると、ジルが最初に言ったのは、「ああよかった、これで奥さんが救われる。奥さんはピーターを見ていつも泣いていたのよ」だった。
私はジルが「かわいそうなピーター」か「気の毒なピーター」とか、「どうしてたった一晩でこんなことになったの?」とか聞かれるのではないかと思っていた。また、準夜勤でまったく問題がないという申し送りでありながら、私が行くとひどい状態であったということに疑問が起きないのだろうかとも思った。
もちろん、ジルは準夜勤のサリーは何も言ってなかったの?と私に聞いた。そして「悪性の肺炎は短時間で急速に悪くなるから、準夜勤ではきっとなんでもなかったのでしょうね」と言った。
ピーターの奥さんはきっと悲しむだろう。でもその悲しみから立ち上がり、第2の人生を歩んでいくことができるだろう。奥さんも60台、まだ若いのだ。ジルのように医療従事者が「死」を良かったとはっきり言える国民性、そして環境は、色々な面で老人看護に影響を与えるのだろうな、と思った。
私はまた、人の死がこんなにあっけなく来るという状況に日本で遭遇したことがなかった。意識のないピーターのような患者さんにも、あらゆる限りの医療処置がなされ延命する事しか見てこなかった。
本当に現在の医療は「延命」を可能とする。人生のどこに、そして何に価値を置くかで状況は大きく変わってくる。
これを読んでくださった方、あなたはどんな状態で死を迎えたいのですか? 意識がしっかりあるうちに考えておかなければ、そしてそれを伝えておかなければ、あなたのことをよく知らない医療従事者が、もっとも大切な人生の終止符をコントロールすることになりますよ。
ちなみに「ローカム」というのは、医師の当直サービスで、一人の医師が24時間待機することはできないため、多くの家庭医はたとえば「午後5時から朝7時まで」… と緊急時の対応をローカム会社に依頼しておく。すると連絡を受けた「ローカム」会社はその日の当直医を診察に送る。何人もの医師と契約を結んでいるため、その日の当直医は家に往診したり、ナーシングホームに行ったりと、色々な患者さんの診察にあたる。日本にあるナースバンクならず医師バンクというシステムだと後でわかった。