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老人ホームから、または自宅から高齢の患者さんが肺炎や脳卒中などで入院してきて、経過が思わしくないときは、医師によりNFR(Not For Resuscitation)=「蘇生術なし」の指示が出される。
本人に意識があり、精神的にしっかり判断できると思われるときは本人と、意識がなかったり痴保のため本人に判断能力がない場合は家族と話し合って、医師が出す指示である。
ガン患者さんが医師に蘇生術をしないでほしいと頼むこともある。この指示が出されると延命のための治療はせず安楽を第一に考えた看護だけがなされ、心停止が来ても心臓マッサージなどは一切せず患者さんは静かに亡くなっていく。
医師がはっきりとこの蘇生術なしの指示をカルテに書くことによって、看護婦は救急処置をしないことを正当化できる。患者さんの命に別状があった場合、救急処置を施して命を救うことは看護婦の義務だからだ。
高齢で状態の思わしくない患者さんがいると、申し送りで「蘇生術なし」の指示が出ているか、それはきちんと記載されているかが確かめられる。しかし医師によってはこのような話し合いを避け、万が一にどうしたらいいかということをはっきりさせない者もいる。
80代、90代で衰弱が激しく心臓マッサージなどをして延命しても患者さんを苦しめるだけであるのに「蘇生術なし」の指示が出てない場合、ベテランの夜勤看護婦はよく「何かあったら紅茶を1杯飲んでから行くわね」と言う。
つまり最善は尽くしたけれども手遅れで何もできなかったこととして静かな死に持っていこうという意図だ。
実際にこういうことがあるのかどうかはわからないが、高齢者の患者さんで治療の見込みのない人は、多くの場合「蘇生術なし」の指示が出ているし、出てないときに状態が悪化しているときは医師の家まで電話で連絡してどうするか問い合わせ、病棟まできてもらってカルテに指示を書いてもらったりする。
5月に肝臓ガンの84歳の男性Aさんが、下肢痛で入院してきた。入院時は何とか立ち上がったり、椅子に座ることができたが1週間ぐらいで状態はどんどん低下していった。回復していく可能性はなく「蘇生術なし」の指示が主治医から出された。彼は私が準夜で受け持っていた夜、亡くなった。
Aさんは体の大きな人だったので一緒に働いていた准看護婦のメルと9時ごろ体位交換に行くと呼吸状態が落ちていて意識もなくなっていた。
その1時間前まで姪御さんたちの面会があっって微笑んでいる姿が見られた。急速に状態が悪化していることはあきらかっだった。
体位を仰向けにし,メルがこの患者さんの手を握り、2人で10分近くベッドサイドについている間にAさんは静かに亡くなっていった。「奥さんが3ヶ月前に亡くなって、子供のない彼は早く奥さんの元に行きたかったのよ。」メルが言った。
もしAさんに「蘇生術なし」の指示が出ていなかったら、やはり私は看護婦の責任としてすぐICUから救急処置チームを呼び、Aさんに点滴をして人工呼吸器をつけ、ハートモニター、血液検査、レントゲン…と意識のないAさんは医療者の判断で裸の体に色々なものをつけられ尊厳のないまま、意識がないまま、現代医療の最大限の技術と人口呼吸器のおかげで数日、いやもっと延命できただろうと思う。
日本の医療はまだまだ医療者側、特に医師の判断で医療処置が進む事が多い。そして多くの場合延命に第一目的が置かれる。それは出来高払いの日本の医療制度が多少なりとも影響していることは否定できないだろう。
現代の医療は確実に多くの人の命を延命できる。命のどこに価値を置くかを個人がしっかり見極めていないとわけのわからないまま、本人の意思はまったく入らないまま、医療だけが進んでいく。
自分が、そして自分にもっとも近しい人がどのように亡くなっていってほしいのか……元気なときには考えたくないし、病気になったら話したくない内容であるが、だからこそ普段から日常のなかで考えてみる必要があるのではないだろうか?