京都地方裁判所は、丸太町通りをはさんで御所の南側に面している。法廷棟から連絡通路の薄暗い回廊を通り抜け、旧館の玄関に出る。時刻は午後1時15分。午後1時からの口頭弁論を終えたところだ。
今日はどちらから帰ろうか。丸太町通りを西に向い、地下鉄に乗り京都駅に出て、そこからJRに乗り換えて大阪に帰るか。丸太町通りを東に向かい川端通りまで出て、そこから京阪電車に乗り、三条京阪で特急に乗り換え、大阪の北浜まで出ようか。次の予定は午後4時の大阪地裁での和解期日だ。今日は比較的ゆとりのある日程で、いずれにしても時間はある。気の向くまま帰ればいい。
残暑も幾らかやわらぎ、初秋の爽やかな空気が抜けてゆく。こんな日は、そう、こんな日は、鴨川を渡りながら左大文字でも眺めるか。比叡もきれいかしらん。
丸太町通りから鴨川をわたるたもとに、レストランか会席場のようだが、なにやら古びた洋館がある。「これ、何の建物なんだろうね?いつか、食べに行ってみようか?」と、誰かと会話を交わした記憶がある。
「どうせ高いんちゃうの?」
「見た目、そんな感じやねんけど。入ってみなわかれへんやん」
その日は、出町柳から鴨川をゆっくりと南に下っていた。なんの用事があったわけでもなかった筈だ。
「勉強、進んでるの?」
「あんまし−−−、まだパンキョ−(一般教養科目)ばっかだもん。」
「わたし、短大卒業したら福井に帰る。」
「うん。」
「親もうるさいし。こっちで就職できたらいいんだけど、やっぱ無理みたい。」
「うん。」
俺があんたを迎えに行くのは、何年先かわかれへんけど、絶対季節は秋。晩秋に向ってる頃。司法試験の最終合格発表は10月終りから11月にかけてだから。合格証書ひっつかんで、コート着て行く。福井駅に降り立つ。ホームまで来てくれなくてもいい。福井駅の、裏口って言うのんか、京福電車のある方に来ててほしい。なんか、そっち側の方がカッコええやん?車も停めやすいやろ?
絶対自分は受かると決めてたけど、実際あの頃は何も勉強してへんかった。やたら難しい試験だ、相手にとって不足なしとか、吹いてるだけやったもん。現実に勉強始めたのは、あんたが京都から居なくなってからやった。最初の1年は発狂しそうやった。何読んでもさっぱり分からん。読んでくそばから忘れてく。砂を噛むような日々やった。ストレスも性欲も溜まる一方やねんけど、約束したもん。コート着て福井駅だもん。そこに行くまでのプロセスは全く見当もつかなかったけど、最終ゴールの画像はメチャクチャ鮮明に見えとった。
結果として言えば、俺は確かに合格してコート着て福井駅立ってたし、あんた迎えに来てくれた。
ただ、ちょっと違うのは、あんたが2歳になる子供抱えていたことだけ。俺は金沢まで出張の帰りに、福井に途中下車した。あんまり覚えてないんだけど、どっかで蕎麦屋さんに入ったよな。また、その子供というのが元気で、蕎麦を掴んでは周囲に投げつけていた。
「なんかちっとも変わってないね」
「そっちだって」
「わたし?もう、おばさんだよお」
「本当はそう思ってへんくせに」
「コート、ちゃんと着てきたやろ?」
「覚えてるよ」
「うん」
「んふふ、変なの」
「こんな筈じゃなかったんだけどね」
「ねえ?」
「ダンナさんとはうまくいってんの?」
「うん、まあ、こんなもんでしょ。不満は、それは言い出したらキリないけど、でもこんなもんでしょう。うん。いいんじゃないかな。そっちはどうなの?」
「似たようなもんだよ」
「うん」
「ほんじゃ、ま、再会を祝してということで」
「はい、再会を祝して」
「ビールでもいきますか?」
「いいの?仕事中じゃないの?」
「かめへん、今日はもう大阪帰るだけやもん。そっちこそ、昼間っから子供連れて、どっかの男とビールかっくらっててええんか?」
「あはは、ますます変かな?でも、いいんじゃないの?そんな日があっても」
−−そうだ。長い人生、そんな変な日があってもいい。
京阪電車は、OBPの高層ビル郡を背に京橋駅を過ぎた。大川を渡るとき、ビルの合間に大阪城が見えたが、電車はすぐに地下にもぐって天満橋の駅に着いた。そろそろ北浜ということで、降りる準備を始めた。
「おーーー、メチャ久しぶりやん。どうしたん?」
「そっちこそお変わりなく?」
「変わりは今現在はないけど、もうじきすごい変わる。あと3週間でオーストラリア行く。永住権取れた。」
「え、ほんと?わたしも、ロスアンゼルス行くことになったの。旦那の転勤なのよ」
「へ〜、そうなんだ」
「しかも、来週」
「なんだ、そっちの方が早いんか」
「それを伝えようと思ったんだけど、そっちも日本からいなくなるのね」
「向こうの住所が決まったら絵葉書でも出そうかと思ったけど、これじゃどっちの住所もわからんなあ」
「そうねえ」
「まあ、ええやん?またワケわからん再会の機会もあるやろ」
「そうね、そのときまで元気でね」
「そっちこそ。どこで又会うのか見当もつかんけど」
シドニー大学を過ぎたところで、ハンドルを右に切ってクリーブランドストリートに入る。長い坂を下って上って、リージェントストリートを過ぎる。芝生の公園の向こうにシティのビル群が見えた。このまま真っ直ぐムーアパークの方に抜けるか、セントラルステーションの方に抜けるか、選択肢は二つ。時間はまだある。あとは気分の問題だ。
さて、どっちから行こうか。信号が青に変わるまでのわずかな時間、この気楽な悩みを楽んだ。新緑が奇麗だ。
一生懸命育てていた草が実は雑草だったりもした。
しかし、雑草ながらもそこらへんの花よりも可憐な花をつけてみたりもした。
じゃあね。また、いつか。
(1997年9月19日:田村)