現在のところ、人に頼んで、日本からわざわざ送ってもらう雑誌が二つほどあります。いずれもロック雑誌で「ロッキンオンJAPAN」と「音楽と人」です。自分にとっては「これだけあれば、まぁいいか」と思える雑誌なのですが(あとはネットを通じての情報収集でかなりの程度フォローできるし)、何がいいのかというと、単純に読み物として面白いのがひとつ。もう一つは、現在日本の雰囲気がある程度のリアリティをもって伝わってくること、さらには自分の日本語能力のフォローアップのためです。
いくらこんな雑誌読んでも、こっちでは日本のCD新譜がおいそれと手に入らないので、音楽解説として考えたら無駄な話です。ましてや、どちらの雑誌も、ヒットチャートを賑わす日本のポップシーンのド主流というよりは(その手の情報はまた別にそれ用の雑誌がある)、いわゆるオルタナティブというか、玄人好みというか、よく言えば本物過ぎてメジャーでは売れにくいもの、悪く言えばマニアックすぎるか濃すぎるので一般に受け入れられにくいものを主体にしているので(必ずしもそうとは断言できないが総体として言えば)、海外でのCD入手率でいえば絶望的なアーティストが多い。
音なしで雑誌読んでて面白いのか?といえば、これが面白いです。なぜかって、別に音楽雑誌として読んでないからです。「音楽(表現)を職業とする人々のリアルな現在」が、かなりツッコミの深いインタヴューやら評論やらで書かれていて、それは何にでも共通する普遍性をもってるので、そこが面白いのですね。
より具体的に言えば、あるいは妙な角度から断定的に眺めれば、これらの雑誌のこだわってるテーマとしては、「自分の表現の質を変えないで、いかに売れるか。どう葛藤して、どう乗り越えるか(失敗してるか)」という点に尽きてるのではないかと思われるわけです。もっと突っ込んで言ってしまえば、「自分と社会の接点」であり、「自我と生計の折り合い」だったりします。このテーマから逃れられる人は、現在日本にはいないんじゃないかと思われる程普遍的なことが書かれているわけです。
もちろん大上段に「人生いかに生くべきか」なんてことが書いてあるわけじゃないです。大体は新しいアルバムを作ったミュージシャンへのインタビューなのですが、話は自然に「どうしてこういうアルバムを作ったのか」論になり、そこで「多少は売れ線を意識して作ったセコい俺がいたりする」とか「もう売れるとか、そんなことにこだわってるのがアホらしくなった」「計算どおり売れたら苦労いらないよね」とか、それぞれに複雑な胸中が語られるわけです。一方では「そんなに世間に突っ張って、これがいいんだ!なんて主張するほどのものを自分は持っているのか」「こんなこと自分が歌わなくたってもっと巧みに歌う人がいるじゃん。自分にしか表現できない世界って何だろうと思ったらもう煮詰まって煮詰まって」とか、「自我とはなんぞや」状態の葛藤も語られるわけです。といっても素直に語られるわけではなく、色々トーカイ(韜晦)したり、ふと真顔になったり、そんな苦労話口にすべきじゃないよという姿勢でいたり、そこらへんも又面白いわけです。
「創作意欲と被害者意識と逃避願望は三位一体」というフレーズをどこかで読んだ気がしますが、言い得て妙だなと思いました。人間ハッピーなときはあんまり創作意欲なんか沸かないのかもしれません。まあ、ハッピーさがあまりにも巨大過ぎて、幾ら噛み締めても消費しきれないから、あるいはメモリアル的に残しておきたい(釣師が魚拓を取るみたいに)という欲求で表現されることもあるでしょうけど。恋愛賛歌系のはそうかもしれない。でもより切実なのは、「こんなんだったらいいのになあ」という理想、「なんでそうなんだよ!」という腹立ち、など目の前の現実に対して強烈に言いたくなる「NO!」、「そうじゃねえだろ、こうだろ」とムクムクと湧き起こるものをエネルギーにした場合の表現の方かもしれない。「ロックとは、現実社会と譲れない自我とが衝突したときに生じるノイズである」というのは、かの渋谷陽一先生のオコトバですが、多分にそういう側面はあると思います。僕も中学高校の頃、鬼のように聞きまくってましたが、やっぱりその頃が一番「ふざけんな!」という気分が強かったのだろうし、そうやって懸命にレジスタンスしてないとすぐに流されてしまいそうにヒヨワだったのでしょう。
とまあ、動機はいろいろあれど表現欲求なるものが起きるのですが、問題はその後で、それをどう「プロ」として成り立たせるかという、実に面倒くさい現実が待ってたりします。これはもう、どんな職業、どんな立場であっても逃れられない、「現実との折り合い」なのでしょうが、プロとしてロックをやるなんてのは、それが非常に分かりやすい形で出てくるポジションだと思うわけです。片やアングラ道をまっしぐらに進みその日の米さえ事欠く状況に陥るかと思えば、片や資産数百億でフェラーリ乗り回す身分になれるかもしれない。普通の人間が一生かかって経験する山と谷の振幅の数倍巨大な振幅がわずか1年の間に訪れるかもしれないという。極端なんだわ。あるいは、ギリギリ突き詰めたピュアさを求められつつ、商業資本主義の権化ともいうべきショービジネスの毒素もてんこ盛りになってるという。「コアなファン捨てても欲しいタイアップ」((c)大槻ケンヂ)という状況があったりするわけです。
何によらず「わかりやすいなあ」と。今の世の中で考えるべきことなんか全部このなかに詰まってるよとも思うわけですが、同じ表現、同じ音楽であっても、他の領域(全部じゃないけど)にはいまひとつ関心がいきません。特に「芸術」なんて権威付けられちゃってる領域には、生身の人間の血肉を感じない。多少の例外はあれど、感じにくい。国の補助金やタチマチ、あるいは上納金その他で経済基盤が成り立ってる分野なんか、もうアートとして死にかけてるんじゃないかと、それだけ一般の人々に訴求するパワーもリアリティも失ってるから、客が入らなくて経済基盤が成り立たないんじゃないのか。
でも一応上納金にせよ補助金にせよせしめているというのは、それなりの「経済的成功」ではあるのだから、そこに何のバーター(交換)があるのかというと、結局アレでしょ、「教養」とか「文化」とか、要するにヴァニティ(虚栄)じゃないのか。「これを鑑賞できる私は高級」という気分に浸れるような、いうたら貴金属みたいなものを提供してるバニティ産業じゃないのかと思うわけです。
いや、ほんとにそういう分野が涙が出るほど好きで好きでたまらないという人もいるでしょう。それはそれで素晴らしいことなんだけど、でもそれじゃ基本的には食えない。テクニック道を邁進するのもいいんだけど、テクニックだけで成立するなら誰も悩まない。そこでいさぎよく清貧生活を送りつつ、好きな道を究めようというのであれば、もう大尊敬いたします。頑張ってください!って感じです。許せないのは、そういう、しょーもない現実の中に踏みとどまって内容本位で闘うのではなく、権威だの虚栄だのを餌に社会に寄生してるよな連中ですわ。
誰だって理想はあるし、趣味もある。でも自分にとっての理想を追求すれば、現実的に売れないという絶対的なジレンマがやってきたりするわけです。そらもう、作家にせよ、レストランのシェフにせよ、医者にせよ、お百姓さんにせよ、サラリーマンからバイトの人々に至るまで、自分の職業に何らかの感情移入をしちゃった人々にとってそれは同じだと思うわけです。資本主義社会で社会人たることは、誰もが「お客さん」を持ってるということで、自分にとって最高に「いい」と思われるものを提供して、お客さんが感動してくれて金払ってくれて、その金で生活できるというのが、もう理想なわけです。でもそんな幸福な関係に巡り合わせている人は例外中の例外で、生活のためには自分を殺したり、お客さんを殺したり(騙したり)せざるを得ない部分がどうしてもある。売りたくない商品でも「いいですよ」と言って売りつけないとならないとか。そこで皆悩んだり、落ち込んだり、スレカラシになったり、人間腐ったり、意地を通したり、世捨て人になったり、その矛盾を打破するために「圧倒的にいいもの」を作ろうとしたり、いろいろ頑張らんとならんわけでしょ。それやって、大きな「社会市場」に自分を並べて初めて一人前呼ばわりされるわけで、その戦いの場のルールはちゃんと守れよということです。
まあ、バニティ産業にせよなんにせよ、成立させてる経営手腕や政治力、創意工夫は認めてもいいですが、他の分野を見下すような高飛車な態度、天に向って唾するようなことは、お止め下さいましと思うわけです。ほんでもって、それが好きな人々から上納金取るような真似はやめなよ、所詮は情実で支配されてるのにくだらないヒエラルキー作るなよ、そんなことに血道を上げるなら、好きな人々がプロとして生活できるように業界のパイを増やすべく、積極的に社会に働きかけたらどうですかと言いたいわけです。
長くなりましたが、上述のロック雑誌読む楽しみは、「皆さんどうやって頑張ってんのかな」「ああ、なるほどこういうやり方もあるなあ」「へえ、そんな開き直り方もあるんだ」「この言い訳の仕方が秀逸」とか、より普遍的な部分で興味があるわけです。かつて、年間150冊ペースでビジネス本とか経済本とか乱読してた時期がありますが、その手の本読むより、こっちのほうが遥かに役に立つし面白いです。だって本屋で平積みされてるビジネス本とか、90%の確率でしょーもなかったですもん。他人の成功や失敗を後付けの理屈で得々と解説してみたり、それも一見もっともらしいんだけど、よ〜く考えると説明になってなかったりとか。あれがいかにいい加減かは、1989年〜90年頃に出版された(バブルの最中)本を今読んでみたらよくわかる。3年前に「地価は底を打った!」と言ってた人達、2年前の超円高で「1ドル50円時代の到来」とか言ってた人達、予想が外れるのは恥ずかしいことじゃないけど、掌返したようなこと言いながら「私は前からそう思っていた」と吹かすのは何とかならんのか。まあ、それはご自由にってことだろうけど、金払ってまで読むものじゃないというは痛感しました。
日本社会のリアリティが分かるというのも、意識の浅い部分で発せられた情報がいかに集まろうとも、一人の人間のギリギリの深いところで発せられた言葉の方が、そこに織り込まれている周囲の状況(つまり今の日本の状況)は良くわかる(ような気がする)のです。新聞の意識調査なんか、殆どアテにしてません。それはオーストラリアでも同じ。あんなもんで世の中分かるなら苦労せんわいと。でもやらないよりはやった方がマシだから、やってくださる人々のご苦労には敬意を表しますけど、その扱いに関しては自分なりの尺度でやらせていただきますということ。
最後に日本語能力のフォローアップについてですが、これも多少独特。誰も言ってないことかもしれないけど、自分としては、基本的に言語能力というのは「造語能力」だと思うのですね。極端に言ってしまえば、日々刻々と世の中変わるのだから、昨日までの言葉では今日の世界を表現できないんじゃないか。そこで色々な造語/新語が開発されていくし、必要に迫られて自分でも結構造語を作ったりするのだけど、その感覚はフォローしておきたいという。これ、かつて相棒福島が、こっちに30年住んでる日本人の方から電話をうけて、まごうことなき日本語なんだけど、何言ってるのか全然分からなかったという経験もあるくらいで、1日日本を不在するだけで、1日分旧モデルになります。つもり積もれば大きくズレていくし、そうなったらもう手遅れだから、それはすごい恐いですね。
ただ、造語/新語とかいっても、現代用語の基礎知識を見て流行語を覚えるとかいうしょーもないレベルのことではない(ところであのページは、何故にいつもいつもあんなにハズしているのか?ギャグでやってるのだろうか)。新しい造語を作るときの、そのベクトルですね、知りたいのは。いろんな方向で造語って作れると思うのだけど、時代の意識なんか分からんけど、やっぱある一定の方向を選んでると思うわけです。その感覚がキモなんじゃないかなと思います。具体的な新語それ自体は、すぐに廃れるから覚える必要もないし。
んー、というか、個別的な「単語」というより、使い回しの仕方の方が重要かもしれないです。こんな話、具体例出さないと分からんですよね。これ言い出すと長くなるから、、、まあいいや、例えば、こっちきてから知らないうちに日本で広がってるのかなと思うのは、「○○な○○」という「な」の使い方ですね。最初は「マニアな人々」という程度だったのだけど、段々と強引になってきて、普通名詞に「な」をつけて力づくで形容詞にしちゃう用法が広がってるよな気がします。例えば、いい例思い浮かばないですけど、「サッカーな瞬間」とか。あるいは、「オウムの人々」というとあの教団の関係者だけど、「オウムな人」と言うと、そういった身分関係とは別に、「あの手の新興宗教にハマっちゃった(ハマりそうな精神傾向を持つ)人」という具合に広がったりするわけです。「ほう、こりゃ便利だわ」と思うのですが、「林真理子な人」とかいえば、「なんか、こう、ほら、分かるじゃないですか、あの感じですよ」というのが労せずして伝わるという。だからその対象物に対する見方が共通してないと全然伝わらないわけで、その意味では早く「APLaCなやり方」とか言われるほど認知されたいもんです。
これのベクトルですけど、要するにキチンと説明/表現するのが面倒臭いんですね。でも既成の言葉を使ってたらどれも帯に短し襷に長しで適当なのがないと。あったとしても異様に生硬な表現になっちゃうと。新しい状況が出てきたら、そのニュアンスを伝える言葉が必要なんだけど、それがまだ形になってない場合、そのニュアンスをまとってる単語(名詞)を強引に形容詞にしたほうが早いし正確にそのニュアンスを注ぎ込めるということなんかなと思います。この類の急場しのぎの表現みたいなものは、ここ10年で沢山でてきたように思います。「〜って感じ」なんて用法も、5年前の日本語にはなかったように思うし、あったとしても使われかた現在とは微妙に違うんじゃないでしょうか。
この手の話になると、若い人の言語能力の低下を嘆く声が起こったりするのだけど、もちろんそれもあるのだろうけど、嘆く人の中には「そうでもしなけりゃ表現できない現実社会のニュアンス」をちゃんと認識してないなと思われる人もいるんじゃないかな。世の中の情報量が増えてくれば、それを描くための言葉や表現も増えざるを得ない。平安時代は、枕草紙とかで「いとをかし」とか言ってれば通じたんだろうし、読んでりゃ何でもかんでも「をかし」にしてるけど、随分乱暴な表現の仕方だなあとも思います。本当にあれで通じていたんだろうかしら。まあ、もともと「最高ですよね」「超いいっスよね〜」程度の意味しかなかったのかもしれないし、枕草紙ってあんなに有名になるほど価値あるとは思えないんですけど。ヒドいこと言ってしまえば、清少納言という人の下品さというか、頭の悪さがモロに出ていて、言ってる内容のレベルでいえば、嘉門達夫がその昔歌ってたような「どっかのペンションの雑記帳に丸文字で書いている少女のナルシズム満載の文章」並みなんじゃないかという気もするのですが、違いますか。
ここで現代国語の問題です。
「現在日本パッシングとか言われてるし、株も下がってるみたいだし、大変だって言う人が多いし、老後のこと考えたら結構クラくなったりするんだけど。でも、大変っていっても凄く差し迫ってるような気もするし、全然迫ってないような気もするし、とりあえずコンビニなんか行くと全然いつもと同じなわけで、とりあえずいつもと同じように週刊誌買ったりお弁当買ったりしてるわけだし、それで別に全然問題ないし。老後といっても真剣に考えてるのか考えてないのか自分でも分からないし、今のところ、鬱陶しいのがこの週末の社員旅行で、なんとかエスケープできないかな〜とか思うんだけど、やっぱ無理かな」という主人公の現在の気持ちを二字熟語あるいは5文字以内で表すと何が最も適当か、書きなさい。
70年代だったらね、井上陽水先生が一言、「傘がない」と言って表現してくれたんだけど、90年代はどうかな。
(1997年3月9日:田村)
PS:後日談ですが、ロック雑誌も段々面白くなくなったので、あるときを境にふっつり読まなくなってしまいました。いつぐらいだったかな。これを書いてから2年くらいかな。
何が面白くなかったかというと、、、、これだけで一本書けそうなのだが、人気に乗っかるあざとい商業主義的な方向性と、その真逆であるタコツボ的同人誌的な方向性が鼻についてきたという感じでしょうか。実際に客観的にそうなったのかどうかは分らないけど、そう感じたと。少なくとも「面白い!」って感じではなくなった。