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いい年になってもまだロックを聴いてる人がいます。僕がそうです。そろそろ渋くブルースにいったり、演歌にいったりしても良さそうなのですが、CDを買う段になるとやはりロックの棚を探してしまうし、ひとりで車に乗ってるときはついついロック系の音を求めてしまいます。
「ロックは若者の音楽」、悪く言えば「ガキの音楽」と言われつつも、なかなかロックから卒業出来ない人は僕だけではないでしょう。これはリスナーだけではなく、やってる方も「高齢化」が進んでいます。ローリングストーンズをはじめ50歳の大台に乗ってるミュージシャンはゴロゴロいますし。家庭をもって子供も大きくなっているけど、まだロックやってる人、聴いてる人は沢山います。
ロックがガキの音楽と言われているにも関わらず、なぜこうも長いことつきまとっているのでしょうか。いい年こいてロック聴いてる奴は、大人になりきれない「とっちゃん坊や」なのでしょうか。そもそもどうしてロックはガキの音楽と言われているのでしょうか。
僕も、20歳あたりには、「30歳過ぎたらロックなんか聴かなくなるだろうなあ」と思ってたものですが、それが30過ぎても、そのまた後半になっても、あまり傾向は変わりません。「もしかして、俺って成長してないのかも?」という不安がよぎったりもしますが、あんまり成長とは関係ないような気もするし、それどころか年を取ってからの方がロックは自分の成長のために大事なことのように思えたりもします。バリバリの新譜を聴いても「うわ、これいいわ」と思えたりもするから、単なる懐メロ趣味で聴き続けるわけでもでもないのでしょう。特に最近のロックがダメになったとも、「昔はよかった」とも思いません。
何が嬉しくてロックなんか聴くのか?というと、そんなもん一言で答えられる筈もないのですし、「好みは人それぞれ」でしょう。でも、そこらへんの優等生的な一般論を敢えて無視して、思いっきり単純に言ってしまえば、第一次的には「血中アドレナリン濃度をあげてくれる」という肉体的・精神的快感があるからだと思います。
なんつーか、もともとロックなんぞを喜んで聴いている人というのは、どこかしら「暴れたい」のではないでしょうか。音楽で心を休めるとか、シミジミするとか、ホノボノするとか、ヒーリングとかの対極にあるような感情を求めている。なんだか知らないけど「うおおおお!」と感じになりたくて聴いているのでしょう。戦闘BGMというか、その意味では軍歌なんぞに近いのかもしれないけど、軍歌から秩序とか国家とか大義名分とかを全部取り払ったピュアな暴力衝動を盛り上げあるいは発散させてくれる音。もちろん異論はありましょうし、あなたは違うかもしれないけど、僕はそうでしたし、今でもやっぱりそうだと思う。
その心理の根にあるものは、一種の仮想暴力というかワイルドな欲求みたいなものなのでしょう。身体の中にあるムズムズと渦巻いている「何か」にバシッ!とハマってそれを解放してくれるかどうかが、ロックを聴いて「いい」「悪い」と思うかの大きな基準になってるように思います。この名状しがたいバーバリズム欲求が少ない人は、最初からロック聴かないだろうし、聴いてもウルサイだけでしょう。でも、そのうるさくてメチャクチャなところがロックのいいところであって、ウルサイからこそ聴いてるという部分はあるでしょう(うるさければそれで良いかというとそんなことはないのですけど)。
今「暴力」といいましたが、別に人を傷つけたりとかそういう「暴行」ではないです。「ちょっと常軌を逸するほどに異常に元気でハイな精神状態」くらいのことで、小学生の頃、とてつもなく急な下り坂を自転車で一気に駆け下りていくとき、恐いのを我慢して「うおおおお!」とやってるときの、髪の毛が逆立つような、皮膚がヒリヒリするような、充実感と開放感のようなものでしょうか。
だもんだから、いわゆるロックリスナーは、エネルギーがあり余ってるような人、エネルギーはあるけどハケ口がない人に多く、つまりは若者に多いのでしょう。これが、まあ、ロックは若者の音楽と言われるユエンなのだと思います。
年をとっていくと、というか現実社会に出て行きますと、仮想闘争ではなく現実社会の闘争が襲い掛かってくるわけです。そこで現実に闘うようになりますから、求めるものは「ありあまるエネルギーをどうやって昇華・解放するか」ではなく、「昼間会社で使い果たしたエネルギーをいかにリチャージするか」に変わっていくのでしょう。ロックはもう喧しくてツラいという具合に。でも、まだ暴れ足りない人、あるいは仕事で使い果たすエネルギーとは別種のエネルギーが出てきてしまう人は、ロックから離れないのでしょう。
あ〜、でも、でも、でも、これだけではロックの半分も説明したことになってないです。というより全然説明したことになってないな。
単に気分が昂揚すればいいだけなら、軍艦マーチでも、六甲おろしでもいいわけです。サッカーのワールドカップの応援歌でもいいでしょう。十分「おおお!」と盛り上がれるでしょう。他にもいわゆる「景気のいい」音楽ならクラシックにもありますし、サンバなんかもそうでしょう。しかし、それらのハイ指向の音楽とロックを分けるものがあります。
軍艦マーチには無くてロックにはあるもの、それは何かというと、「目の前の現実に対する『くそったれ!』という動物的なまでの攻撃欲求」とそれの「解放欲求」だと思います。膝を抱えてうずくまるとき、胸に澱(おり)のように溜まっている鬱屈と屈折、それとシンクロして鳴るかどうかが結構重要なポイントなのではないかと思います。
そしてその屈折は、98年8月現在、自分の感じているこの現実世界のものであり、そこで鳴らされる音もまた、そのリアルタイムの現実とシンクロしなければならない、そうでないと響かない。「同時代性」というか「現実への屈折とシンクロ」みたいなものが、ロックのリアリティであり、DNAにあるのでしょう。うーむ、説明に窮したあげく、またぞろ難しいことを口走っているような気がしますが、このあたりのことを、もう少し考えてみたいと思います。
僕も今でもロックをメインに聴きますが、中学高校の頃ほど真剣に聴いてないです。これは僕がジジーになった証拠なのでしょう。「あかんなあ」と思うのですが、逆になんで十代の頃はあそこまでのめりこんで聴いたのかと分析すると、やっぱり大きな「救い」だったのでしょう。「自分が自分であるために絶対に必要な音」として鳴っていたと思うのですね。
もう少しかみ砕いていうと、思春期になり、自我が芽生えて、その芽生えた自我の置きどころに困る頃。親から学校の先生から周囲から、自分としては納得いかないこと、自分の趣味に合わないことをあれこれ言われます、押し付けられます。押し付けられるだけならまだしも、まだ芽生えはじめた自分の自我まで染められそうになる危機感というのはやはりあったと思います。
周囲の大人の肩越しに、本当は広い世界が広がってるように思えたし、そこには自分が自分として「立っていく」地平もあるだろうと感じました。それだけに「あんたらの言う通りにしてたら、自分がなくなっちゃうよ」と感じるのですが、だからといって「これ!」といって打ち出せるほどの対案があるわけでもなく、雄弁に反論するほどのレトリックもなく、腹の中に仕舞い込むしかない。「畜生」「くそったれ」が心の中の口癖になったりもします。
これは単に「青少年の欲求不満」なんて陳腐なレベルのものではないです。いや、普遍的にあると言う意味ではむしろ「陳腐なもの」と言った方がいいかもしれません。
思うに中学高校みたいな生活環境というのは、ある意味では牢獄のようなものです。学校生活が楽しかったという人は沢山いるでしょうけど、だったら今からもう一回中高校に入ってみたいか?と問われてYESと答える人はそう沢山はいないでしょう?
だいたい、毎朝決まった時間に登校を強制されるだけでも鬱陶しいのに、その見返りとして給料が出るわけでもない。その分勉強が出来るといっても自分のやりたい分野を選ばせてくれるわけでもないし、気の済むまで掘り下げさせてくれるわけでもない。服装から髪型まで指図させられ、「高校生らしい」とか分けのわからない基準で押し付けられる。大の大人にこれと同じ事を強制させるのは、徴兵とか刑務所とか、よほどの環境でなければ無理だと思います。あなただって嫌でしょ、そんなところに行くの。そりゃ、そこでクラブ活動はあるし、友達も出来ますから、楽しいことも沢山ある。でも根本的に「なんでこんなことしなきゃイケナイの」と不満は払拭されないでしょう。
大人だったらそれが言える。でも子供は言えない。そんなことが不満に思えないほど子供だったらいいけど、次第に自我が目覚めて大人になっていく過程においては、「ふざけんじゃねえ」という鬱屈が溜まってきて当然だと思う。周囲を壁で囲まれ、その壁に塗り込められそうに感じるなか、その壁を打ち壊したいと願う。その思いが強ければ強いほど無意識に筋肉はテンションをはらみ、得体のしれないエネルギーが満ちてくる。このエネルギーをどこに向わせるべきなのか、それを発散しなければ、その場所を見つけなれば自分が自分たりえなくなりそうな時期。そんな時期があると思います。
これは別に学校がどうの、教育制度がどうのという話ではありません。教育制度なんかなくたって、あるいは理想的な教育制度がになっていたって、やはりロックは若い人に聴かれただろうと思います。それはエネルギーが有り余っているという生物的要因の他に、もっと社会的要因もあるでしょう。すなわち「一番幼い大人」として社会の下部構造に組み入れられることの不満や、実社会の知識や経験が少ないが故に単純に(ピュアに)物事見ててしまい、その反作用として社会の上部にいる大人達がどうしても汚く見えてしまうなどなど。早い話、若者というのはいつの時代でもワリを食ってるのでしょう。少なくともワリを食っているような気がするものなのでしょう。
明治維新を推進したメインの人々は、若い下級武士でしたし、反戦平和で学生運動を繰り広げたのは大学生達でした。エネルギーはある、それなりの知性と使命感もある(この状況を理解できるだけの知性と使命感がないと逆に腹も立たないだろうでしょう)、だけど世の中は自分らの思う通りにならない、パワーも勇気もないジジーどもが勝手に仕切って出番すら与えられないように思えるでしょう。そんな状況で、若い人達のエネルギーは充満します。こういう状況にあるときって、あんまり「アルファ波が出るやすらぎの音楽」なんかは求めないように思います。
教育制度が悪いというのは、これらの状況がさらに分かりやすく展開されているからでしょう。自動車教習所で「ほら、なにやってんだ、馬鹿」と罵られ、腸煮えくりかえった経験をお持ちの人は多いでしょう。でも、中高生の場合、ちょっと勉強ができないだけで、こんな扱いが続いたりするわけですから、そりゃ腹が立つのも当然でしょう。直接的には親や先生に反抗するということになりますが、より視野を広くすれば「くっだらない世の中作りやがって」という世間一般に対する怒りにもなるでしょう。
そんな時に、ロックは力強く、気持ち良く、自分の耳に鳴り響いたわけです。自分が自分たりうる解放空間へ誘ってくれたし、何よりもその空間を作り上げるためにどれだけ強くなければならないのか、どれだけ闘わねばならないのか、それを圧倒的なエネルギーで教えてくれたような気がします。
そういう気分のときに、ジャストタイミングでロックと邂逅すると、もうハマッてしまうのでしょう。目からウロコが落ちるというか、何か化学変化が生じたかのように自分が変わってしまう。「ああ、いい音楽を聴いたなあ」なんてレベルの話ではなく、ロックに出会う前の自分が思い出せないくらい自分が変わってしまう。それは音楽なんてもんじゃなく、生き方そのものです。目の前に現実に対して、NOと言うべきときは言え、戦え、そして勝て、勝てないまでも、戦え、ボロ負けしても心まで屈服するな、と。それが、まあいわゆる「ロック・スピリッツ」といわれるものなのでしょうが、だからロックというのは即物的に見えながらも、実はかなり精神性の強い音楽なのでしょう。
僕自身も、「ああ、このまま何となく進学して、何となく就職すんのかなあ、イヤだなあ」と漠然と思っていたのが、自分の当時の成績をかえりみず、「くそ、こうなりゃ死にもの狂いに司法試験受かって、どこまで突っ張れるかやったろうじゃないの。イチかバチかじゃ!」という具合になりました。
「ロックを聴いて勉強する気になる」というのも変な話ですけど、とりあえずの行動は「要は資格が取れりゃいいんだから、大学なんかどこでもいいわ。よし、大学入試は捨てよう」というもので、要するに確信犯的に受験勉強やらなかっただけなんですけどね。つまり「自分はどうなりたいのか」「どんなのが嫌でどんなのがイイのか」「じゃ具体的にどうすりゃいいのか」ということを、途中で止めずに突き詰めて考えるようなった、腹が座ってきたということです。そういう具合に仕向けてくれたのは、やはりロックの音だったと思います。それだけが原因ではないにせよ、BGMとしてジャンジャン鳴ってたのは確かです。無邪気(?)な高校生だったもんで、「安定した生活なんかするくらいなら死んだ方がマシ」とか思ってたし、やっぱりそんな具合に突き詰めちゃって、尖がってたりするもんです。
でも、高校時分だけではなく、大学で友人が皆就職するなか自主留年を決めたときも、そうやって必死こいて得た資格をほっぽりだして徒手空拳でオーストラリアに来るときも、つまり「何かに対して突っ張ろうとするとき」は、やっぱりロックは鳴ってました。
いつか引用したと思いますが、渋谷陽一というロック評論家の人がロックの定義として、「ロックとは、目の前にあるどうしようもない現実と、絶対に譲れない自我とが衝突するときのノイズである」と言ったが、言い得て妙だと思います。やっぱり生きてりゃ、ガキゴキ衝突することもあるでしょうし、ノイズ出ることもあるでしょう。
ロックを好きな人の話、ロックミュージシャンのインタビューなどを見ると、それぞれにロックとの出会いが語られています。先日自殺したhideの自殺直前のインタビューでも、同じようなことは書かれてました。「自分の中で壁がバラバラってなった瞬間を知ってるから。ロック前、ロック後みたいなね。だからその子だけは裏切れない。ある意味優秀な宗教だよね(笑い)」(ロッキンオンJapan、98年6月号50頁)。
だから−−、そう「だから」というべきなのでしょう、ロックは音楽のジャンルではないのでしょう。一口にロックといってもあまりにも間口が広く、何でもアリの世界で、音の様式だけからではロックかどうかはわかりません。古典的な8ビートのロックンロールから、ヘビィメタル、さらにハードコアなどの系譜があるかと思えば、現代音楽のようなノイズ系、まるっぽ民族音楽、叙情的なもの、幻想的なもの、等身大のもの、異次元的なもの。音の様式でロックを定義するのはほぼ不可能だと思います。知る人ぞ知る、イニシエのイタリアのプログレバンド、PFMなんて、全編バロックの弦楽四重奏曲だったりしますし、パープルにしたって「4月の協奏曲」というほぼ100%クラシックのものもあります。
だれがどう聴いてもクラシックにしか思えないものでも、それでもやってる人間は「これはロックだ」ということでやってたりしますし、聴いてる方もロックとして聴いている。どこに分水嶺があるのかいえば、やはりそういったスピリットという精神的なことなのでしょう。それがあれば、あとは何をやってもいいし、何をやってもロックになるのでしょう。
どんなに非現実的なことを歌っていようとも、どんなに浮世離れした幻想的な世界を築いていようとも、その音を出しているプレーヤーとそれを聴いているリスナーが、今ここにある現実をどこかしら強烈に意識し、そこから出発しているという基盤がロックにはある。たとえそれが現実逃避の夢想であったとしても、「逃避してきた現実」という認識なしには逃避もできない。その認識を共通していること。それがないとロックにならないし、何かしら嘘臭く聞こえる。
現実との対決姿勢をとることを決めること、そこで思いっきり疎外感を感じながらも譲れない自我のために戦おうということ、少なくともその現実に直面しているのだという認識。だから、ロックというのは、どこか必ず「今ここにある現実」と接点がある音楽であり、それが鳴っている時のスチュエーションとの関連性で捉えられるものなのでしょう。だもんで、年食ってきて、昔ほど必死に聞かなくなってきてるのは、ある意味では昔ほど戦おうとしなくなってるからかもしれないですよね。それって良くないことだわ。
最初に血中アドレナリン濃度だの仮想暴力だの述べましたが、突き詰めていけば、それは属性であって本質ではないのでしょう。
なんでこんなことグチャグチャ力説してるかというと、いや自分でもよく分からんのですね。書いてるうちに妙に盛り上がってしまっただけなんですけど。
しかしですね、何の予備知識がなく音を聴いても、不思議と「あ、これはロック、これはロックではないな」と分かってしまったりします。もちろんそこでの判断が正しいかどうかなんてことは分からないのだけど、それが正しいかどうかが問題ではないのです。問題は、自分のなかに「ロック的なるもの」という基準がインストールされているということです。だから、音楽でなくても、あの小説はロックしてるとか、あの人はロックしてないとか、あそこの郵便ポストはロックしてるとか、しまいにはロックしてるかしてないかの二元論が出来てしまったりもします。ロックしてるホームページとロックしてないホームページもあります。
ただ、生きるにあたってとても本質的でとてもプライベートな部分にシンクロする音楽は、何もロックに限ったことではないでしょう。それは人それぞれの魂の資性の問題で、ジャズにシンクロする人もいるでしょう。演歌にシンクロする人もいるでしょう。あるいは、最初に何に出会うかという偶然の事情も多いでしょう。
演歌なんか、よく聴けば無茶苦シリアスで、人生の濃いエキスのような部分ばっか歌ってますよね。『〜あなた死んでもいいですか?』とか。あの濃さに共振できるだけの濃い物を抱えた人は(例えば「一生消えない恋の疼痛」とか)、シンクロするのでしょうねえ。ただ、ロックが、どちらかといえば(山ほど例外はありますけど)、よく見えない敵にこれから挑みかかっていくような現在〜未来形文脈で鳴らされる音であるのに対し、演歌は既に起きてしまった出来事に対する重さと苦さを噛み締めるように過去〜現在形文脈で歌われるようにも思えます。その差がリスナーの年齢差に反映しているのかもしれません。
ロックが本質的にオノレを賭した闘いの音楽だとしても、その闘いは常にカッコ良いわけではないです。どっちかといえば、現実には情けないものである場合も多い、というかそっちの方が圧倒的に多い。だから、ロックにはミもフタもなく情けないものも多いです。もちろん「カマン・ベイベー」で始まって、「ケンカ強いぞ、車速いぞ、いい女とセックスするぞ」で終わってしまう頭悪そうなロックも沢山あります。まあ、それはそれで「(しょーもないシガラミだらけの情けない現実を100%踏まえたうえで)敢えてそう言い切ってしまう馬鹿馬鹿しさと力強さ」という形で鳴っていればOKですけど。実際、そんなアホみたいな曲ばかりじゃないです。
例えば、筋肉少女帯というバンドには「蜘蛛の糸」というすごい曲があります。
「友達はいないから、ノートにネコの絵を描く」という、いきなり寒い風景から始まり、
「最近どうも皆が僕を笑ってる気がする!」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫だよねえ?気にするな、眠れよ」というシャレにならない独白に続き、
サビでは、「蜘蛛の糸をのぼって、いつの日にか見下ろしてやる!」と鬱積した暗い情念が放出されます。
もう全然カッコよくないのだけど、鬼気迫ります。聴いてるうちに凍り付いてくるようなシリアスな曲ですが、そこには現実の苦みと痛みを伴った共感があります。こんなミもフタもない、そして切れば血が出る同時代的なものが歌われるというのもロックの一つの特徴なのでしょう。
だって、「友達はいないから、ノートに猫の絵をかく」というフレーズと、それによって表されている90年代日本のリアルな風景を、他のジャンルがやるのって想像できないのですけど。そりゃエッセンスとなるナイーブで暗い情念は、いろんな分野で取り上げるでしょうけど、そのまんまの形で取り込めるのはロックくらいでしょう。それがイイとかエライとかいうことではなしに、そういう特質があるということですし、その特質に僕は惹かれたりもするのでしょう。
ただ、そういう本質論や精神論だけで音楽が成り立つものでもないです。もともとが喧しい音ですから、下手糞だったら本当に騒音でしかないわけです。そこには多くの技術や技術論があります。楽器演奏上のテクニックだけでなく、トータルビジュアルとしてのファッション、ヘアメイク、ステージング、さらに録音技術、インタビューでの答えかたなどメディア対策、肖像権や原盤権その他のマネージング。もう、それで食っていこうとしたら、それなりに必須科目は山ほどあります。とにかく売れなきゃ契約切られるというシビアな現実もあります。で、売れたと思ったらメンバー内の人間関係で煮詰まったり。
僕らがCDで聴いている音は、創作者の初期衝動から何十ステップにもわたる面倒臭いフィルター、あるいは「障害物」を通して出てきた音だったりするわけです。リスナー=消費者というのはいい気なもんで、そのフィルターを通すことによって純度が薄まったり、どこかに「媚び」の臭いをみつけたら、「ロックしてないじゃん」で切っちゃうという。大変な仕事ですね。これは、ロックに限らず、資本主義社会でアーティストという生業を成立させようとすれば、不可避的に出てくる問題なのでしょうけど。
最近は高度情報化社会ということで、こういったミュージシャンサイドの内部事情も情報として出回ってますから、リスナーの方でも、「このバンドの置かれた状況で、こういうシングルを切るというのがロックしてるよなあ」とかトータルとして見てしまうという。ちょっと古いけどイエローモンキーの「JAM」とか。しかし、そんな聴き方もオヤジ臭いなあと思ってしまいますし、実際には、イチイチそんなこと考えて聴いてるものでもないのですけど。
さてさて、こんなゴタクはどうでもいいのです。問題は、自分がいまもロックしてるかどうかです。してるんでしょうかねえ、うーん、なんか頼りないなあ。目の前の現実に、適当に調子合せてるだけという気もしてきます。このホームページもですね、「詳しいですね」と言って戴くことはよくあるのですが、自分では全然詳しいとは思ってないし、「こんなもんじゃないだろう」という不満はすごいあります。でも日々あれこれ立ち働いてるうちに、メールに返事書いて「今週の一枚」を作って力尽きてる感もあります。アカンですね。もうちょい何とかせな。うん。
1998年08月04日:田村