(承前)
こんなん読んでる人いるのかしら?と疑問なのですが、今更止められなくなってしまいました。無理して読まなくてもいいですからね。好きな人だけどうぞ。
この人の歌詞世界についてもう少し言うと、「将来僧になって結婚してほしい/ピザ屋の彼女になってみたい/そしたらベンジーあたしをグレッチで殴(ぶ)って」(丸の内サディスティック)という意味不明な歌詞が色々でてきます。
ちなみにベンジーとはブランキー・ジェット・シティのボーカルの浅井氏のことです(彼女は大の崇拝者らしい)。グレッチとは彼が弾いてるギターのブランド。このアルバムの歌詞カードの写真に出てるギター。また、去年でたブランキーのアルバムで「泥酔したグレッチが階段から転げ落ちてきて」という一節があったりして、またそれと対応してるんだと思います。しかし、カルトな世界だ(^^*)。
でも、こんなぶっ飛んだ歌詞が爆発してるのは、「丸の内サディスティック」と「モルヒネ」くらいです。例えば「家にはひとりで帰ります/あたしには鳥が4羽ついてるので/家には納豆があります/あたしにはグリコゲンがあるし 驚きなのは地下鉄のレール」(モルヒネ)という具合。
でも、それを除けば、驚くほど素直な歌詞が多いと思います。難しい漢字や古い言い回しを駆使したクセのある文体など一見わかりにくいけど、よく読めばものすごく正直に書いてくれてるなあと思う。
さっき話にでたブランキーの歌詞の方が、よっぽどブッ飛んでて右脳にダイレクトに直結する歌詞が多く(ここであなたの右脳にコネクトするかどうかがこのバンドの好き嫌いの分かれ目でしょう)、だから左脳的に考えててもさっぱり判らない。鮮やかに情景を描写するのだけどその情景が何の意味を持つのかの説明はない。左脳的には「それが何なの?」といいたくなるのだけど、右脳的には「あ..」と来るものがあります。
例えば、「紅茶に砂糖を入れて 思い出にひたる/水溜まり足をつけた ドブネズミ 死骸/隣に映った青空 虹が出ればいいのに」(ドブネズミ)とか、6分近い長い曲なのに歌詞といえばこの3行だけ、これで全部。全然わからんでしょ。でも、このたった3行が音と合わさって響いて、右脳にコネクトされたときの化学反応と情報量たるや爆発的で、僕にしたら本一冊読んだくらいキます。
でも、彼女の歌詞はきちんと左脳を経由しますから、わかりやすいです。
「飛交う人の批評に自己実現を図り 戸惑うこれの根源に尋ねる行為を忘れ 此の日々が訪れた窓の外には誤魔化しのない夏描かれている」(同じ夜)なんてのは、モロ直球ですよね。さっき挙げた「正しい街」の姉妹編のような世界。「正しい街」を飛び出し都会に出た私の日常。そしてそれは、「行交う人々の大半に素早く注目させ(同じ夜)」といった「売るための努力」という虚しさを含めて。
ちなみに、意外に律義に韻をふんでたりします。「正しい街」でも、
不愉快(Kai)な笑みを向け長い(Gai)沈黙の後態(Tai)度を更に悪くしたら
冷たい(Tai)アスファルトに額(Tai)を擦らせて期待(Tai)はずれのあたしを攻めた
短い(Kai)嘘を繋げ赤い(Kai)ものに替えて阻害(Gai)されゆく本音を伏せた
足らない(Nai)言葉よりも近い(Kai)距離を好み理解(Kai)できていた様に思うが
という具合に、歌詞だけ読むとわかりにくいけど、ちゃんと韻が踏まれてます。これは曲を聴けば、リズムの山のところに韻がくるように作ってあるのですぐにわかると思います。ただ、韻はわかるのだけど、妙なところで切るから、難解な歌詞とあいまって聴いただけでは何言ってるのか意味わからんのが難点だけど。
サウンド面ですが、これが又色々言いたくなるのですね。最初は歌詞なんか聞き取れないからサウンドの面白さで惹かれたわけですから、むしろこっちの方がメインです。しかし、これ、言葉で表現しにくいな。
一番特徴的なボーカルは後回しにしてバックですが、バックといっても本人もドラム叩いたり琴を弾いてたりするようですが、基調となるテイストは、ノイジーでザラザラした粒子の荒いロック。
ちょっと技術論的になりますが、特にそのノイジーな感じを醸し出しているのはギターで、ハウリングとファズ(ディストーションというより昔ながらのファズって感じ(※)のかかったサウンド。ピーカー、グワーン、ズジャヂュギャガガガってな感じの音。これ、好きで人が聴けば「だー、うるさい!」ってなもんでしょう。
※ディストーション、ファズ:録音するとき入力レベルを大きく(音を大きく)し過ぎると過大入力でブーガーと音が濁るが、エレキギター(ベース)の場合はこれを意図的にやる。「音を歪(ひず)ませる」というが、適度に歪ませないとエレキの音はペンペラペンの三味線みたいな情けない音にしかならない。この歪んでることをディストーションとかファズとかいうし、そういう効果を醸し出す小道具(エフェクター)の一般名称でもある。大昔のジミヘン時代はファズといってたのだが、80年代頃からより洗練された歪み方をするディストーションとかオーバードライブとかいう商品名が一般的になってきた。
なおこのアルバムでは「ファズのきいたベースが走る」という歌詞もでてきて(茜さす帰路は照らせど)、ここでもまた懐古的なあと思ったりもするのである。
ノイズがかってるのはボーカルもそうで、異様にエコーを殺したデッドな録り方にキモチ過大入力で歪ませててる場合が多い。それを手数は少ないけど存在感のある(時々ちょっとタドタドしい)ドラムと、クセのあるベースというリズム隊が支えるという。これだけだったらインディーズになってしまいがちなのを、ポップに引き立てて商品として成立するレベルまで持っていってる功労者がキーボード。
これ、ヘタクソだったらほんとゴミになるしかない音構成なのですが、それが緊張感ありながらも全体として聞きやすくなってるのは、@メロディがしっかりしており、メロディの起伏に合せたメリハリのきいた歌い方、Aキーボードを含めたアレンジの巧さだと思います。だから比較的安心して聴けるという。歌詞世界と同じように、自分の趣味性と売り物としてのポップさとの調和点を相当気を遣ってるなあと思います。
僕はこの音、わりと好きです。一曲目の「正しい街」のイントロ5秒のドラムとギターのハウリングだけで、「あ、このCDはアタリ」だと思ったくらいで。ゆっくり叩いているんだけど、切羽詰まったテンションが出てて、アドレナリンがぶわっと分泌されてくる。ロックの「カッコいい殺伐さ」があってキモチいいです。ただし、いい音+大音量で聴かないとうるさいだけですけど。
「正しい街」についてもう一つ。二番歌ってるときに、右チャンネルから、ウッウウ〜〜とむせび泣くよなすすり泣くような音が入ってます。最初はワウ(※)をきかせたエレキギターだと思ったのですが、同時息を吸い込むような音も入ってて、これはギターの音ではないんちゃうか?と。ある程度はグリッサンド(※)とワウを併用すれば近い音が出るとはいえ、特に二番の『本音を伏せた〜』の部分は明らかに人間の声だと思います。これどうやってんのかな。ボーカルを電気処理(イコライジングなど)してギターの音のようにしてるのかな。単純にギターにボーカル重ねただけかな。気になります。というのはこの部分が大好きでして、生々しい感情を押さえた歌詞世界と歌い方の中でここだけすごい官能的なんですね。「押し殺した本音が漏れる」みたいに聞える。
ただし、後半部分にかぶさってくる左チャンネルるギターは要らないと思うのだが。
※ワウ:エレキギターの音をいじくる古典的な機械で、足で踏むペダル式になっており、ペダルの上下でトーンコントロールをするというシンプルな構造。踏む込むとショワ〜と高音が強調され、上げるとくぐもった音になる。これをリズムやフレーズに合せて上手く使うと、シュワ〜チャカポコクィィア〜と蛇がのたくったような変幻自在な音になる。ジミヘンが得意としていたもので、これを使うとどことなく気分は70年代。オーストラリア在住の人はアボリジニのジュドゥリドゥのジュワジュワ音に似てるといった方が理解が早いか。なお自動的に変化してくれるオートワウなんてのもある。このアルバムでは結構いろんなところに使われてます。「正しい街」の大サビのところの右チャンネルのギターでもワウサウンドが入ってます。
※グリッサンド:スライドともいう。弦の上に指をシュワーと滑らせるだけのシンプルなワザ。シンプルだけど、滑らせる位置、速さ、弦を押さえる強さによって、その効果は千差万別。簡単なだけにセンスの善し悪しがモロに出る。こういうところでギターの巧い下手がバレたりする。
さてメインのボーカルです。僕はあんまりボーカルの巧い下手は判らんのですが、この人は特に巧いのか下手なのか判らんです。歌にとにかく巧さを求める人は嫌いになるかもしれない。でも巧い下手以外のサムシングを求めるならば、強烈なフックはあると思います。
巧いのか下手なのか判らんというのは、例えば音程が不安定なところです。「ここハズしてるんちゃう?」というような部分とか。ただしその不安定さは、どうも計算してハズしてるような気がする。というのは例えば「正しい街」の最初の「あの日飛び出した〜」の飛び「だ」の音ですが、ここだけポンと高い音になるのですが、妙な音程です。音とりにくいのですが頑張ってギターで音を取ってみると、この音、僕の耳には妙に4分の1音(かな?)ズレてるような気がする。錯覚かもしれんし、別の箇所ではまた微妙に違うようだし。曲の最後の方の出てくる同じメロディの「明日の空港に〜」なんてもっとヘロヘロな感じするし。
で、ズレてるとして補正するとします。でも、シャープかフラットかどっち方向に補正してやっても前よりカッコ悪くなってしまうのですね。逆にいえばこのフレーズは微妙にズレてないとこの雰囲気はでないんじゃないか、だからこれで正しいんじゃないかと。そんな気にもなるのですね。これ、ギターだったら、ここらへんのファジーの感じがよく出てきて、例えば譜面でも(QC)クォーターチョーキング(4分の1音上げる)と書いてあったりします。で、正確に4分の1かというと、それも「ニュアンスで」という感じ。たしかにギターで弾くとここチョーキングをカマして音ズラしてやるとあの歌の雰囲気に似てくるのですね。
しかしこのフレーズ、僕歌えませんわ。キーの調性からするとハズれたテンションノートがバリバリ入ってるから普通に歌ったらもろにド音痴みたくなっちゃうし、前述の4分の1音みたいなファージなフレーズ。またこれを奇麗に上手に歌ってしまったら、全然面白くないし、かえってダサく聞えてしまうでしょうね。それこそ「あたしもう壊れそう」というブチ切れた切迫感で歌わないとならない。音痴に歌わないと駄目なんだけど、ほんとに音痴になっちゃったら意味がないという。難しいわ。できませんわ。
このフレーズを歌うというのも冒険だけど、それを思い付いて曲に仕立てるところはもっと冒険です。僕だったら、思い付いてもボツにするんじゃないかな、こんな変てこりんなフレーズ。しかし変なんだけど、それが全体に組み合わさったときすごい印象的なフレーズになるという。それをイキオイで押し通して、曲の最後のリフレインになった頃には聴いてて非常にキモチ良くなってしまうという、力技だわ。力技といえば、さっきも書いたけど、この人メロディの上下長短に合せた押し引き、メリハリが上手だと思います。音程強弱の他に「音圧差」みたいなのがハッキリしてるので、耳になじみやすい。
ただし、この部分に限らずこの人全体的にフラット気味だとは思います。しかし、その上昇しながら失速していくみたいな妙なフラフラ感が、テンションをだしていて気持ちいいという。僕なんかはギター畑だから音程に甘いし(エレキギターという楽器は曲の最初と最後でもうチューニングが狂うくらい不安定な楽器です。だからライブなんか見ててもよく曲毎にギターを取り替えたりしてるでしょ)、チョーキングだのアームだのスライドギターだの連続音程変化技が目白押しで、キーボードみたいに音階的にキッチリ弾くことの方がむしろマレだったりするから、この人の変幻さにはそんなに違和感を感じません。ただ、音階をキッチリ取らないと気が済まない人には不快かもしれないなあ。
あと、この人のボーカルの特徴的なことは、ブレス音(息を吸い込む音)が極端に多いことです。全編こればっかといっても過言ではない。あんまり声量ありそうにないのですけど、やたら息継ぎ音が多い。ただ、このブレス音がすごくいいアクセントになってて気持いいのですね。
例えば「正しい街」の後半の大サビのあと最後のリフレインに入る前の間、ほんの一瞬無音になって、ギターのハウリングの音の後、間髪いれずに「すわっ」と息を吸い込むブレス音だけがかぶさってくるタイミング感は、鳥肌が立つくらいカッコいいです。
しかし何といっても一番特徴的なのは、やっぱり声質と歌い方。一言でいえば「変な歌い方」で、鼻にかかったヌケの悪い声だと思えば、一瞬声が裏返ったり、変なコブシが入ったり、所々「アニメの声」みたいな声音で歌うし。ブレス音は肉感的なのに、歌そのものは情感がダイレクトに来るというよりは、プラスチックみたいな加工感がある。そうじゃないところも勿論あるのですが。また音階昇って下りてくる、その行ってくるときと帰ってくるときとでもう声音も歌い方も違う。これをもって変幻自在な表現力と思うか、単に「ふざけて歌ってるんじゃないか」と思うか、そこは好みが別れるところだと思います。
ただ、僕が何にも知らないで譜面渡されて歌えと言われてもこういう歌い方はしないだろうし、思い付かないでしょう。それにどうしてこの歌詞の部分でこういう無機的な声にするのか?と判らん部分も多々あります。そうはいいつつも、トータルとして聞いたらそれなりの整合感はあります。また、頭を真っ白にしてこの歌詞を一体どうやって歌ったら一番伝わるのか?と言われたら、結構途方にくれるかもしれない。だからこれが一番いいのかなと思ったりもします。
またまた思い付きですが、もしかしたらこの人、歌を聞いて歌詞世界を理解してもらおうとはあんまり思ってないかもしれないです。たしかにあんな難解な歌詞、聴いてるだけなら判らん。「正しい街」の「百地浜も君も室見川もない」なんてくだりは、「モモチハマモキミモムロミガワモナイ」と聞えるわけだし、僕なんて最初聴いてるとき、まさか「百地浜」なんて言ってるとは思わないから、「モチ肌の君?何それ?」てなもんでした。
歌詞というのは読んだときと聴いたときで全然感じが違うのですが、この人はもうそこを割り切っちゃって、全部の理解は無理とした上で、印象的に耳に残る部分だけ聞えればよく、あとはサウンドとしてボーカルを捉えているんじゃなかろか。実際何度も聴いて、あとで鼻歌で口ずさもうにも歌詞がスラスラ出てこないんですよね、この人の曲は。で、サウンドとして考えれば、あの変化球の歌声もバックになじんでるからしっくりくるのですね。
以上、こんなに長くなるつもりじゃなかったのに、書いてしまいました。
で、トータルとして好きか?と聞かれたら、まあ好きです。でも冒頭でも言ったように、サウンドとか試みは面白いし、楽しめますが、歌詞的にはあんまりビビッときませんです。これは好みですけど、なんで来ないのか?という理由なら言えます。
歌詞世界というのは、その人の心象世界なんですが、この人の心象世界って、現実の出来事が10あったら100くらいに増幅してグワワンと鳴るような感じだと思うのです。感受性が強いということなんでしょうが、その感受性の作用が、実際に無かったことまで色々想像して肉付けしていく感じがあって、それがハマる人にはいいのだろうけど、僕にはハマらない。シド・ビシャスまで届くほどリーチの長い想像癖は僕にはないですし、あまりそういうことをしたくもない。だからビビッと来ない。
この人がブランキーの浅井氏の大ファンだというのも、見当ハズレかもしれないけど、僕には何かしらうなずけるものがあります。椎名林檎というのは「イッちゃいたい人」で、浅井氏は「もうイッちゃった人」ではないか。椎名林檎は、物凄く想像の翼を広げて、それこそシドビシャス的破滅等の物語を紡いでまでして、行きたい。この人の歌詞世界は、個人の心象世界がエコーをかけてワンワン鳴ってる感じがする。
でもブランキーの場合は、もうイッちゃってるから、あえて破滅なんか持ち出さなくても、今目の前に見えているものをそのまま表現すればいい。だから歌詞は異様に即物的だったり、それに対する自分の思い入れをあんまり持ち込まない。言ったとしても「こう思う」「こう感じる」とレポートのように素気ない。「水溜まりにドブネズミの死骸 隣に青空が映ってる」という情景、それに対する自分の感想は「虹が出ればいいのに」とそんだけ。素気ないんだけど、実際にそれを見てるというリアリティを凄く感じさせるし、それが説得力になってる。
一見するとブランキーの歌詞の方がよほど空想的だったりします。というか、15人の単車乗りが大陸を爆走するとか、ベトナム戦争の処刑での会話だとか、天国から追放された天使だとか、もうイチから10まで全部架空の物語だったりします。「ハートにヒビが入るほど奇麗な海を探しにいく物語」なんてのもあったな。だからもう彼の日常生活とか過去の体験とかそんなものを全くと言っていいほど感じさせない。想像もつかないし、想像しようという気にもならない。出てくる情景も全然日本じゃないし。
だったら「百地浜」とか日本の固有名詞を出してる椎名林檎の方が遥かにリアルな筈なんだけど、なぜブランキーの方が僕にはリアルに感じられるか。それは、ブランキーの視線がこの現実世界という外に向っているからで、彼女の視線は私という内側に向っているからだと思います。彼女は自分の中にだけある理想なりピュアなものを求め、そのベクトルは内省的だと思う。
もっと極端にいえば、椎名林檎は「この世界がどうなってるのか」よりも「自分が自分であること」ということに興味が向かうのに対し、ブランキーは自分がどうかというよりも(自分の価値観は揺るがないほどハッキリしてるから)「この世界はどうなっているのか」の方に興味が向かう。だから彼女の歌は、彼女と同じ心象志向をもってる人ならば共有しうるリアリティとして感じられるだろうけど、そうでなければどこまでいっても彼女の内面にしか向わないから、僕にしてみれば、そんな他人の頭の中なんか判らないよということになって、そこでリアリティを失う。
ブランキーの世界観は、「天国にも地獄にも行く必要はない、そんなトリップなんかする必要はない、この現実の世界に全てがある。醜く恐ろしいものから、純粋で美しいものまで全てある」というものだと思いますし、それは僕個人の世界観でもあります。だから僕にとってはすごくハマるんだと思います。そして彼らが実際に感じた現実世界を、色んな情景という形で出してきている。だからその情景が架空であっても構わないんです。その情景に託されたものが現実世界のリアリティを持っていればいいと。この世界がもってる汚いものも美しいものも100%引受けよう、そのうえで自分はこうするよと言ってる。「汚いものなんか見たくない」とは言わないし、汚いものを見てもそこで屈折することもない。その視線と心の直線性をどこまで貫けるかというのが、彼らの世界なのでしょう。
天然でイケちゃってるからこそ、イクことそれ自体はただの生理現象であり、大した努力を必要としないブランキー。そこに、天然だけではイケず努力する秀才肌の椎名林檎が憧れるということなんかなあと、両者の音楽を聴きながら僕なんかは思ったりします。
椎名林檎のアルバム全編に貫く何となく人工的な感じは、第一層に商業的成功を目指したフェイクが施され、第二層にサウンドの荒さの中に緻密に計算が施され、第三層に本人のクリエーターとしての秀才感が漂うという、まるで高級ビデオテープみたいな三層構造に基づくんじゃないかと思います。ただこの秀才な感じが、僕などの凡才には手の届く切なさとして逆にキますから、そこがいんですけどね。
だから、次回作、次々作を期待したいです。これは本作が駄目という意味ではなくて、これはこれで3000円出す価値は十分にあります。もう100回は繰り返し聴けます。くだらない計算だけど、100回聴けたら1回30円だから、一曲3円、1分1円、安いよ(^^*)。
次回に期待するのは、この三層構造がどう変るかをみたい。僕としてはこのアルバム売れてほしいです(売れてるみたいだけど)。売れれば売れるほど対レコード会社との関係でミュージシャンとしては自由度が高まりますから、売るための余計な努力や計算は少なくなり、第一層は変るでしょう。次々先に期待するのは、その頃には大分秀才感も薄れているだろうから。
デビュー作はほんとこれまでの記録をまとめただけって感じもするし、この人もっともっと遠くまでいけるでしょうし。内向するベクトルも、行くところまでいけば、カチリと普遍性の鉱脈にブチあたると思うし。そのときどういうサウンドとどういう歌詞世界を構築しているか、すごい興味があります。本人もクレバーな人だと思うから(アホにこれだけの構築力はない)、まだまだ暫定的な段階であることを十分に判ってると思う。だからこそ、わざわざこのアルバムのタイトルを「無罪モラトリアム」としたのかもしれません。
1999年05月11日:田村