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色即是空=どっちもアリ




 「ある」ということは「ない」ということである−−−。

 などと唐突に言い出すと、「また、何をワケのわからんことを」というリアクションが返ってくるでありましょう。「おどれ、ナメとんのか?」というシビアな問い掛けを受けるやもしれません。

 うろ覚えで恐縮ですが、お経に出てくる「色即是空」の意味って、そーゆーことだったように記憶してます。「色(カラーの意味ではなく、この世の実像とかいう意味)とは、即ちこれ(是)、空である」ということでしたよね?違ったかしら。

 実は、僕も、最初「あ〜ん、何をワケ分からんことを」「分かったような分からんような」と思いましたし、ほんでもって分かったようなフリをすると何となくカッコいいような気がするときは「うん、なるほど、深い」とか頷いたりして。

 でも、最近その意味が、断片的に分かったような気がすることもあります。いや、ものすごく誤解してるだけという気もするのですけど。




 それは「人はみな死に、空に帰るのだ」とかいう話ではありません。そーゆ話じゃなくて、
思いっきり矛盾してることってあるよね
ということであり、さらに
自分にとって本質的なことほど思いっきり矛盾してる
ということことです。
 例えば、「あなたは自分が好きですか?」と聞かれたとき、「すごい好き」という人もいれば、「大っ嫌い」という人もいるでしょう。でも、そんなにパシッと言えるもんかぁ?という疑問が昔からあって、正確には「好きでもあるし、嫌いでもある」「どっちもある」というあたりじゃないかなと思うのです。

 矛盾してるといえば矛盾してるんだけど、そらもうしょーが無いんじゃないかと。そして、「好き」な度合いが高ければ高いほど、「嫌い」という感情もまた強烈にあったりするもんじゃなかろか。

 ボールを強く地面に叩き付ければ、より高くバウンドするように、一方の気持ちが強烈であれば、他方も気持ちもまた強いという関係に立つ、と。だから、問うべきは、どれほど強くボールを叩き付けてますかということで、それに対する「思い入れの強さ/深さ」であって、その行先がポジティブになろうがネガティブになろうが、それはその場その場の条件で変わるベクトルの問題に過ぎないように思います。

 よく「嫌い嫌いも好きのうち」とか「好きの反対は嫌いではなく無関心」とか言われますが、同じことでしょう。




 で、事柄は好き/嫌いだけの話ではなく、結構いろいろな物事にも言えるんじゃないかという気になりつつあります。

 例えば、自己分析。
 あなたは自分のことを、「自分は自信満々でプライドが高い奴」と思いますか、「何一つ自信を持てず、何においてもハンパな奴」と思いますか?こーゆー問いかけ/自己分析というのは、よく心理テストかなんかで出てきますけど、これも昔から違和感がありました。「どっちとも言える」「その瞬間の気分によって答が180度変わるものばっかり」とか、「こんないい加減に答えた結果で一体何が分かるんかよ?」と思ったもんです。

 今この問いを自分に発せられたら、迷わず「両方」と答えたいです。「どっちか一つに絞って」と言われても「無理です」と言うでしょう。だって無理だもん。例えば「俺は○○に関しては結構イイセンいってると思う」とします。客観的な「実績」なんかも思い起こしてみて、「けっこうイケてんじゃないか」と思ったりする瞬間もありますが、そう思った次の瞬間「でも、結局のところ全然ダメじゃん」と思ってしまいます。

 あたかも光を当てると影が出来るように、「自分はOKだと思うこと(光をあてる)」が「いや全然NGだよ(影が出来る)」と思うキッカケというか原因になってしまうのですね。OKと思う気持ちが強いほど、影もまた強い。だもんでコンマ何秒かのラグをおいて、相反する気持ちがほぼ同時に立ち上がってしまうわけです。これで答なんか出るわけないではないかと。

 どっかの宇宙人に「地球というのは明るい星?暗い星?」と聞かれても、太陽に面してる昼の部分は明るいけど、夜の部分は暗い。明るいか暗いかどっちか一つなんてことはないわけですが、それに似てます。




 で、昔は、「右だと思えば右、でも左というセンも結構強いかも...」という腰の定まらないフラフラした認識状況をして、「自分のこともよく分かっていない」とかネガティブに考えたり、「どっかにちゃんとした答はあるのであって、自分はまだそれに気付いてないだけ」のように思えたり(だから人は占とか心理テストが好きなのでしょう)したもんです。けど、最近は「これでいいのだ」と思えるようになりました。

 あるいは、昔は、右と左が相殺し合って結局煮え切らない、よう分からんことになってみたりしました。自分に自信を抱きかけても、「同時に立ち上がってくる自分に対するネガティブな見解」にちょっと遠慮しちゃって−−「ほら、アホなくせにすぐ調子に乗ってる俺がいるわ」みたいなツッコミが自分の中で入ってて、「それもそうだな、そんな自信なんか持ったらアカンのかもね」と控えめになってたのですけど−−、でも、もういいもんね。

 もう、何かどっちか一つに統一してないのは変だとも思わずに、ガンガン矛盾しようじゃないかと。平気な顔して、巨大な自信と巨大な自己嫌悪の両方を抱え込むことにしましょう、ボケとツッコミ両方揃ってワンセットなんだから、ガンガンボケて、どんどん突っ込みましょう。それぞれの立場でベストを尽くしましょうと、無理に一つの見解に統一せんでもええわいと、こういう気分になりつつあります。

 だって、もう分かったもん。いくら自分で自分を誉めるような調子のいいこと思ってたって、だからといってそうそうアホ度100%になるもんじゃないってことが分かったもん。自動的に「馬鹿言ってんじゃないよ」というツッコミが立ち上がってきてくれて、それで自然とバランス取ってくれるのだから、安心してガンガンうぬぼれたらいいじゃんと。それで気分良くポジティブになれることはあっても、そのためにアサッテの方向に舞い上がってしまうことはないだろうということです。




 要するにそれが唯一の正解だと思う事、唯一の正解というものが存在するのだという前提で物考えてたから、暗くなったり舞い上がったりするわけで、最初からそんなものないのだと開き直ってしまえば話は一気に簡単になります。

 そうすると精神衛生上イイです。誰だって自分に関して「ここが駄目」「そこも駄目」と幾らでも数え挙げていけると思うのですが、あんまりそんなことばっかりやってると気分がダウナーになっていってしまいがちです。で、適当なところで止めたりもするのですが、どんなにダメを出しても、もう一方で「でも、そんなの関係ないもんね。ふははは」という傲慢な自分もいるならば、くじけることもないです。気にせず、自分の良さなり、アホさ加減なりを見つめることも出来る。



 色即是空、空即是色とのたまわったお釈迦さんの真意はよう分かりません。有と無の連続性、終局的同質性、あるいは無常観を言わはったのでしょうか。無学な私にはよう分かりません。でも、「有」も「無」も、全体の一部を構成するものであり、そのパーツだけ取り出して並べれば大矛盾しているようだけど、それでいいのよということであれば理解できるような気がします。

 両面あることさえ分かっていれば、人間そうそう簡単にどうにかなってしまうことはないでしょう。むしろ、おかしくなってしまうのは「正解は一つ」と思い込んだからだと言う気がします。




 でも、世の中「正解は一つ」「最終的には一つに統一する」という発想が強く、それで皆不必要に不幸になってるようにも思います。「どっちか一つにしなきゃ」と思うから、必要以上に偽善的になってみたり、偽悪的なってみたりして、どっちにせよリアリティを失うことって沢山あると思う。

 例えば、学校での偏差値教育をなんかよく槍玉にあがります。勉強の「出来る/出来ない」で人間をランク付けしてしまうのが宜しくないと。で、学校の勉強なんか人生の真実や幸福とはまーったく関係無いのだ、子供たちに点数を付けるのはすべからく間違っているのだとかという見解も出てくるわけです。

 あるいは、顔がいい/悪いで結構差別的に扱われたりしますが、同時に「人は容貌ではないよ」という見解も根強くあったりするわけです。このバージョンは金がある/ない、など幅広くありますけど。

 でも、学校の成績が人生に全く何の関係もないと言っ切ってしまうと、それはそれで無理があると思う。ルックスなんか全然関係ないんだと言えば、それもどうかな?妙にキレイゴト的な嘘臭さが漂ってしまう。実際、成績も悪いよりは良い方がいいでしょう?「本当の実力」とは関係ないとは言いながらも、100聞いて70理解できる奴は、30しか理解できない奴よりは、なんらかの形で「実力」もあると考えた方が自然じゃなかろか?容姿だって、ビジュアルなものが人間心理に与える影響というのは軽視すべきじゃないでしょう。でも「世の中所詮学歴だ」「しょせんルックスだよな」と言い切ってしまうのも、これまた妙に偽悪的で同じように嘘臭くなってしまう。「100か、しからずんばゼロか」みたいなモノではないでしょう。



 ところで、今の日本の状況は、あまり素晴らしいとは言えないと多くの人が言います。どちらかというと現在日本に住んでる人ほど、「こんな国!」と吐き捨てるように言う人の比率が高いような傾向にあると思います。「一億総痴呆化」とかね。「そこまで言わんでも...」とか思ってしまふ。

 海外に出てくると掌返すわけではないけど「日本もまぁイイよね」とちょっと気分も変わります。でも、だからといって、とっとと日本に帰るかというと、そうしないあたりフクザツだったりするのです。「好きかキライかどっちなのよ?」と結論を出そうとすると口篭もります。ワケわかんなくなります。

 これも、「どっちもアリ」でいいと思うに至りました。日本のことは「思いっきり好きだけど、死ぬほどキライでもある」と。

 本当にそう思うのです。ある一面で美しかったとしても、醜い面は相変わらず醜い。日本を出る前「ここがヤダな」と思った部分は、相変わらず駄目なまんま、むしろもっとヒドくなってるような気もする。だからその意味では前よりもっとキライになってるかもしれない。でも、落ち着いて見回してみると、いいところだって沢山あることに気付く。気付けば気付くほど好きにもなります。



 好きでもキライでもあるのです。それは「どっちでもいい」とか、相殺・中和して「プラマイゼロ」になったりする類のものではなく、美しい花の横に犬のウンコが転がってるようなもので、両者とも鮮烈に存在している。それを認めてしまえば、花もウンコも非常にクリアに見えるようになります。

 ここで、花とウンコの同時存在を認めずに、強引に統一見解を出そうとするからシンドイし、狂ってきてしまうものもあるのでしょう。「総合評価」とかね。ミシュランの5つ星とか、点数評価とかね。なんでもそうやってランキングするのって、分かり易いっちゃ分かりやすい、便利と言えば便利なのだけど、違うんじゃないか?という疑問は非常にあります。物事、間違って表現された方がすごく分かり易いということは、良くある話ですから。



 実践的に、あるいは本質的に、もっと大きな意味をもつものは、関わり/コミットメントの深さや方向なのかもしれません。その対象に、自分はどれだけ関わっているのか、どういう角度で関わっているのか、という浅深に意味があるのであって、関わったことによって化学反応のように生じる「好き・キライ」「右だ左だ」というのは、言わばそのとき気分一つでどうにでもなるものではないか、と。

 自分の家族、恋人、住んでる国、自分自身...何によらず、その人(もの)に自分はどれだけ深く関わっているのか、関わろうとしているのか、どういう角度で関わろうとしているのか、そこらへんのことが大事なのではなかろうか。関わった結果生じるその時々の「好き・キライ」については、こんなものはお天気みたいなもので、晴れる日もあれば雨の日もあるわなという程度のことではなかろうか。

 よく言うじゃないですか、「ケンカするほど仲がいい」とか。チャンチャンバラバラやってるうちは華で、大した問題ではない。というか、より深くコミットしようとするからこそ色々対立するのでしょう。ヤバいのは、「もしかして、この人、ワタシの人生にとって、な〜んも関係ないかもしれない」としれ〜っと思えてくるときでしょう。コミット度が冷めてしまうと、もう別れるしかないとか。

 だからですね、あ、もう本題終わって蛇足で書いてるんですけど、昔から不思議なんですよ、「ケンカ別れ」ってやつ。ケンカするほどアツくなりながら何で別れられるのかなあ?って。自分ではそういう経験ないのでよく分からんのですけど。無理矢理想像しようとすると、、、、たとえば、互いを理解し合う過程で激しく対立して、その結果理解できたのはいいけど、理解できたのは「自分とは全然接点のない人だった」とかいう場合なんでしょうかね。経験者のひと、教えてください。


(1997年9月4日:田村)
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