海外旅行のお決まりの文句に、「どこ行っても日本人ばっかり!」というフレーズがあります。海外の地でも愛すべき同胞に囲まれてハッピーだあ!ということではなく、いかにも詰まらなそうに、なかには吐き捨てるように言う人もいます。アメリカ人が「どこいってもアメリカ人ばっかり」とうんざりするのかどうかは知りませんが、日本人の場合はうんざりするようです。なにがそんなにイヤなのでしょう?
仮説1:せっかく海外に出たのに、見慣れた同胞ばかりでは、来た甲斐がない。
仮説2:「日本人」がいけないのではなく、「観光客ばかり」という点がよくない。その地の珍しいものを見聞しようというのに、決して珍しくもない「観光客」と「観光的なカルチャー」に包まれていては興ざめである。
仮説3:とにかく日本人が嫌いである。少なくとも見たり聞いたりして心が愉快になることはない。本当は日本にいても日本人は嫌なのだが、それは仕方ないのでガマンしてるが、せめて海外では、、、と思っていたらまた日本人に出くわして不愉快である。
仮説4:こんなに日本人がいたら、「○○へ行った」という希少価値が出ず、帰っても自慢できないから嫌だ。
いずれもあると思いますし、人それぞれでしょうが、ここでは仮説3、すなわち「日本人は日本人が嫌いなのか?」という点に絞って考えてみたいと思います。なぜなら一番面白そうだからです。これは、ナショナリズムといってもイマイチ盛り上がらず(VIVA!JAPAN!と心の底から嬉しそうに言えないとか)、盛り上がっても何か妙な方向にいってしまいがち(街宣車で軍歌流したりとか)な、我が国の心象風景と微妙なところでつながってるような気がするのです。
「日本」「日本人」「日本文化」「日本の山河/自然」のうち、一番「誇りに思える」「好きなもの」は何ですか?というと、おそらく「日本の自然」ではないでしょうか。もちろん人によって違うでしょうが、僕はそうです。紅葉の錦繍に彩られた山並み、雄大な富士の裾野や北海道、エネルギッシュな阿蘇や桜島、ひらひらと舞う桜花、京都嵯峨野の竹林の涼風、柿と温泉のある山里の風景、波涛砕ける冬の日本海、、、、ディスカバーJAPANではないですが、これらに関しては地球上のどこの国の奴にも、あるいは宇宙人にも、「どう?奇麗でしょ?」って胸張って言えるような気がします。
海外旅行が盛んなのも、国内旅行が嫌だからというよりも、国内旅行よりも相対的に安いからというのが大きな理由になっていると聞きます。温泉が大嫌いという奴はあまり見掛けませんし。皆、日本の山河は好きなんじゃないかなと思います。
では相対的に劣位になる「日本」「日本人」などですが、「そうそう無条件に百点つけるわけにはいかないぞ」というシビアな視線が、僕らの中にあるように思います。日本の自然に関してはわりと素直に「いいよ」って言えるのに、それ以外の日本についてはあんまり素直に「いいよ」と言えない。「やっぱり日本の技術や日本車は世界一だあ!」と叫んでも、なんとなく虚しくエコーが響くような気がします。視野を限定して「ここだけ見たらスゴイぞ」というか、なんとなく無理をしてるというか。「車が最高で、それがどうした?」というツッコミを自分でもいれたくなってたりします。
それと同時に「日本のここはアカンなあ」という部分を僕ら自身よく知っているのでしょう。これはまあどこの国の奴でも同じですが、自分の国の駄目な部分を挙げるのは、良い部分を挙げるよりも簡単だったりします。それにしても、日本人の場合、自国のあら探しというか、自国批判に熱心な部類に属するんじゃないかと思います。日本人マゾヒスト論なんてのもあるくらいですし、「そんなに卑屈にならずにもっと誇りを持とう」という主張もあります。
なんでなんでしょうね?ここでも仮説を出してみましょう。
仮説1:真実日本は他国に比べて駄目だから、イヤでも駄目なものは駄目と認識せざるを得ないから。
仮説2:日本人は本当の意味で自信の持てない民族だから、常にダメな部分を認識して「そうだよなあ」と思ってないと、地に足がつかないようで不安。
仮説3:逆に日本人ほど心の底に自信を秘めてる民族はなく、「俺達は何でもできる」と思ってるからこそ逆にアラが色々見えてしまうし、ダメな状態が許せなくなる。
仮説4:自信も不安も他国並みであって特徴的ではない。過去2000年の歴史、特にここ150年の歴史の浮き沈みの激しさから、改善改良を続けていると生活が良くなるという民族的な成功記憶と、気を抜くとすぐ駄目になってしまうという失敗記憶の両方をもっているので、「何をやってもどうせダメ」という諦めもないし、「絶対大丈夫」と能天気にもなれない。いきおい、現状に対するチェック意識は敏感になり、不十分な部分をよく認識するようになる。
仮説5:同じような性癖を持つ日本人同胞の姿によって、自分の嫌な部分を見せ付けられるのは愉快なことではない。「俺も同じだ」と思う事によって嫌さが倍増する。あるいは近親憎悪。
仮説6:あれは「日本」を批判してるのではない。自分を取り巻く「外界/社会」に対する不満や批判を「日本は〜」という形で表現しているに過ぎない。
いかがでしょうか?こんなもんじゃないですし、全部検証する余裕もないのですが、ここでは耳慣れない仮説6を検討してみましょう。耳慣れないのは当然です、今僕が適当に思い付いたものですから。
この仮説6が非常にわかりにくいのですけど、10%くらいはそういう部分も含んでるんじゃないかな?と僕は思ってます。例えばここに、いわゆる日本的慣行でイヤな思いをしている日本人がいるとします。談合やらに阻まれ参入できない新規業者、無理やり慰安旅行でお酌させられているOLの皆さん、はたまたお年玉でムシられてしまったとか、帰省ラッシュでうんざりしたりとか、意味ないつきあい残業の毎日、噂によって支配される人間関係、等など「日本的特徴」によって不愉快な思いをしている日本人は沢山いるでしょう、というか全員そうかもしれない。はたまた直接的には被害を被らなくても、他の連中の言動を苦々しく思うこともあるでしょう(「あいつら何考えてんだ」みたいな)。
日本人というのは、その殆どが日本で暮してます。周囲の環境も日本人度99%くらいでしょう。自分の周囲を取り巻く「社会・世間」というのは、殆どイコール「日本、日本人」なわけです。となると、「社会が悪い」「世の中間違ってる」「嘆かわしい」、要するに自分以外の誰か他人ないし社会がNo Goodだと思うとき、それを批判するのは、まんま日本を批判することにもなります。だって「社会が悪い」の「社会」とは事実上「日本社会」なんですから。
このように社会に対する不平不満をブチまける一つのレトリックとして「日本はダメだ、遅れてる」という言い方をしてる局面が多々あると思うのです。大体、日本批判をするとき、無意識的に自分を除外してたりしませんか?そしてこの類の話は、理性的分析的批判というよりも、単なる不満、愚痴、悪口になりやすい。そして、非難、悪口というのは、往々にして他と比較して相手のダメさを際立たせるというやり方が結構好まれると思うのです(「隣の○○ちゃんは学級委員よ」「同期の鈴木さんはもう課長なのにねえ」とか)。
よりミクロに見ていきます。職場のセクハラ課長にムカついているOLのAさんがいます。Aさんは、おそらく一度くらい「あんなオヤジがのさばってる日本の社会はダメよ」「欧米だったら絶対'許されないわよ」「ほんと日本って遅れてるからねえ」と同僚とアフターファイブで語り合ったりしたことはあるでしょう。その延長で、「わたし、もう日本って嫌い」ってなることも、Jump to the conclusionではありながらも、不自然ではないでしょう。
しかし、よ〜く考えてみると、Aさんの不快感、もっと言えば「憎悪」、の対象を絞り込んでいけば、このセクハラ課長ただ一人ではないか。そんな日本社会や風土がどうとかいう巨大な問題ではないのではないか。実際、オーストラリアでもセクハラの苦情は山ほど寄せられているそうです。そりゃ、企業の人材募集広告で「女性社員募集」と書いただけで即違法(採用基準に性別を用いることは法で禁じられてる)くらいですので、日本よりもセンシティブであるとは言えるでしょうし、苦情のレベルが違うのでしょう。しかし、だからといって、「性欲の歪んだ露出(セクハラの動機)」という個人の内面のドロドロした部分までもが浄化されるべくもない。さらに、「日本は〜他国は〜」というほど、世界情勢に精通してるわけでもないでしょう。女性として生まれたら子供のうちにクリトリスを切除されちゃう国も沢山あるわけで、正確に「日本だけが駄目」なわけでもないです。でも、ここではそんなもっともらしい国際動向分析なんかどうでもいいわけで、要は「あのスケベオヤジが許せない」というのが原点だと思うわけです。
もちろん、日常の些細な出来事から疑問をもち、それを広げていくなかで社会的な問題意識を獲得していくことは非常に大事なことです。セクハラオヤジの問題は、それを生み出しのさばらせてる日本社会の問題でもあるわけで、「単なる個人的な恨みでしょ」と矮小化してしまうのは間違ってもいます。また、「だから日本も捨てたもんじゃないんだよ」と弁護するのが本題ではないです。ただ、「日本が嫌い」というのと、単に「自分の周囲に気に食わない奴(出来事)がいる」というのとでは、実体において同じ場合も結構あるんじゃないかなという指摘をしたいだけです。
これは「自分の周囲」が日本以外になったとき、「社会」と「日本」がズレますのでよく見えてきます。
今の僕には、日本がいかに住み心地悪くなろうが、公共料金が値上げになろうが、消費税が上がろうが実害ないので、「ふーん」で済みます。生活に根ざした怒りがこみあげてくるわけでもないです。こっちの新聞の国際欄で、「○○内戦泥沼化、難民流出」という記事の隣に日本の記事を見ると、「平和な国だなあ」と思うわけです。そのかわり、現地でいろいろ聞くのがオーストラリアの悪口だったりするわけですね。「これだからオーストラリアは駄目なんだ」「まったくこいつらは〜」という。これも結局同じことだと思います.
海外にいくと愛国者になるといいますが、とかく目の前の不満が大きく思え、日本については「思い出は美化される」「喉元過ぎれば」になってるだけかもしれません。「日本は良かった」と思いながらも、実際に戻ったら「ぐわ〜、鬱陶しい」と文句言うかもしれません。日本の自然が美しいといっても、取りあえず空港について最初に思うのは、「うわ、ムシ暑い!気持ち悪い!」ということだったりしますし。
大分遠くまで来てしまいました。話をもとに戻していきます。
海外旅行で日本人同胞を見掛けるとイマイチ嬉しくないのは何故か?という話でした。いろいろ仮説があるなかで「日本人は日本(人)が嫌いか」という仮説があります。ではなんで嫌いなのか?と考えていくと、これまた色々理由はあろうが、「周囲の気に食わない奴(出来事)」を念頭に置きつつ「日本人嫌い」と言ってるだけという場合もあるのではないか、という話でした。
これはあくまで「そういう場合もありうる」と言うだけの話で、全部が全部そうだとは言ってません。比率で言えば10%くらいはそういうバイアスが掛かってるんじゃないかなという程度です。
この仮説の「効用」ですが、僕にも「気に食わない日本人」の心当たりはあります。「殴ったろか、こいつ」とブチ切れそうになったりもしますし、脱力感に襲われたりもします。でも、そういうときには、こう思うことにしてます。「こいつは全日本人を代表しているのか?」「俺は単にこいつがキライなだけではないのか」と。と同時に「好きな日本人、尊敬できる日本人」も思いだそうとします。これは嫌いな奴よりも沢山います。「あの人は本当にエラい」「感じいい人だなあ」という人、沢山います。で、頭のスクリーンに、片やムカつく野郎を置き、同じスクリーンの反対側に愛すべき人々を置きつつ、「これ全部日本人」と思いながら、「日本人キライか?」と自問すると、答え出ません。「そういう問題じゃないかなあ」という気になってきます。
同じく、「オーストラリア人がどうの」と思うときにも、好きな人、嫌な奴、均等に並べて考えるようにすると、結論でなくなります。これもそういう問題じゃない場合が結構多いです。全員並べてみて、全員にほぼ共通する特徴が、因数分解のように括りだせたとき、「○○人は〜」という主語を使おうと思ってますが、これ、滅多に出くわすことないですね。
一つの事例から全体を推測したり、演繹したりすることは大事なことですが、時としてメチャクチャ飛距離がありすぎることもあります。刑事裁判では「反対尋問を経ていない証拠は、証拠として採用してはナラナイ」という大原則がありますが、一遍、徹底的に反対の立場から見てみないと、おっかなくてよう使用できない。同じことでしょう。「○○人は〜」と思うよりも、シンプルに「俺、こいつキライ」と思ってた方が話は簡単だし、妙な色眼鏡で見ずにも済みます。「効用」といえばそれが効用でしょう。
1997年1月7日/田村