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唐突ですが、僕はロックが好きです。中学の時分から今日に至るまでの20有余年(げ、そんなになるのか)、片時も離さずというと大袈裟ですが、ロックは絶えず僕の横であぐらをかいたり、寝そべったりしています。ずっと我がもの顔で住み続けている猫のように。
そんな人間にとって、究極の価値基準というのは「格好良い/悪い」だったりします。何によらず「良い」と思えるものは全て「カッコいい」と表現され、駄目だなと思うものは「カッコ悪い」。
こう書くと、いかにもボキャブラリーに乏しいパッパラ系というか、身なりばっか気を遣ってる内容空疎なアホみたいな感じですが、いや、そう別に思って戴いて結構なのですが、それなりに自分なりにカスタマイズされた「カッコいい」の用例/使用基準があったりします。
結構細かいところまであって、例えば、ファッション雑誌から出てきたようなキメキメのカッコしてる人は、もう無条件で「カッコ悪い」ですね。「恥ずかしくないんか、おまえ?」てな感じがするわけです。しかし、その格好悪さを十分に自覚しつつ、確信犯としてキメてる人は、これは逆転して「カッコいい」わけです。
あるいは、世間では「うだつの上がらないサラリーマン」と揶揄されるような人。例えば中堅企業の係長くらいで、子供が2人いて、オフィスまで1時間20分くらいの通勤時間で、給料は決して多くはない。職場の中でも家の中でも決して目立たない存在で、だからその人が居ても特に暑苦しくはない。華々しい活躍をするわけではないけど仕事は危なっかしくない。不倫などにはあまり縁がないのだけど、たまに帰宅時の車内でスポーツ新聞を読んで、「援助交際、本紙記者突撃リポート!」なんてのを目で追いながら、「ふーん、やってみるかな、俺も。伝言ダイヤル」と思いながらも、でも本当にやることはない。というような人。「カッコいい」ですわ。
その職場の部長で、学生時代アメリカに留学しちゃったりして、週末はちょっとヨットなんかやっちゃたりして、海外にも知人がいたりなんかして、で、そこらへんのことは社内中誰もが知ってる(つまり本人がそれとなく喋ってるわけですね)ような人。そんでもって、酒の席では「日本と海外の文化の違い」論が十八番だったりするような人。カッコ悪いです。よくやってられますねという位恥ずかしいです。いや、その恥ずかしさを十分に理解しつつも、「いやあ、他の人にしてみれば、分かりやすいキャラクターであってくれた方が何かとやりやすいでしょ?真実がどうあれ。」という、これまた確信犯の人はカッコいいです。
主婦の方ならば、何食わぬ顔してヌカミソをビシッと漬けられる人、カッコいいです。社会的な話題に関心があるんだけど、聞いてるとこのあいだ久米弘が言ってたことそのまんまの人。カッコ悪いです。「そうよねえ」と周囲を見渡しながら相槌を打つオバサン。とりわけ、「そうよ,,」と周囲に視線を走らせながらオズオズと切り出し、雰囲気的に皆が同意してくれそうだと、いきなり「ねえ」の語勢が強くなるオバサン。言いおわったあと自分で深く頷いているオバサン。サイテーとまでは言いませんが、かなりカッコ悪いですね。僕の基準では。
血液型判断がどれだけアテになるかどうかは神のみぞ知ることでしょうが、事実がどうあれ、いわゆるタイプの問題としていえば、僕は「B型」。事実Bですし、性格的に「B型的」としてディスクライブ(描写)されるタイプだと人は言います。B型というのは(B型的として語られるタイプの人には)、何によらず一家言ある人が多いように思います。だから、僕にも、カッコいい/悪いの理由はちゃんとあります。言えと言われたらそれぞれ原稿用紙3枚くらい論述できます。
かいつまんで言えば、要するに「自分で自分が見えてない人」あるいは「人間の底が見えちゃってるような人」はカッコ悪いわけです。だから一見どんなにカッコ悪いことであっても、そのカッコ悪さを自覚してる人、カッコ悪いことは重々承知してるのだけど、それでもやるというあたりに、余人からは窺い知れないその人独自の世界があると思われるわけで、その部分に関しては底が見えない。逆に「〜系の人」として概括的に一括りにできちゃうような人は、それ以上にその人独自のものがないから、全然魅力を感じない。
前述の部長さんがカッコ悪いのも、「アメリカ帰りのグローバルな視野とセンスを持つ国際的ビジネスマン」という類型があるわけで、その類型に自らハマりたがってるように見える。なんでハマりたいのかといえば、「俺はそこらへんの連中とは違うんだぜい」という優越感なり顕示欲を満足させたいからんじゃないかと推測されるわけで、そのあたりの「見えちゃう」感じがなんとも浅ましいし、見苦しい。と同時に、その類型にハマろうと意欲する時点で、本当に自分だけがもってる世界を捨てちゃってるから、魅力もない。
そういった類型だけで勝負しようという人は、同類型の中の格上が出てきたらすぐに霞んでしまう程度の存在。ハーバード卒業しただけのコマで勝負してたって、国連の緒方貞子氏が出てきたらそんで終わりでしょ。緒方氏まで持ち出さなくても、海外出りゃその類の人々は掃いて捨てるほどいるわけです。
まあ、結局、「カッコよく見られたい」という自意識が、本来の自分から離れた架空の人格としての自分を厚化粧して作り上げていってしまうから、逆にカッコ悪くなっちゃうのかなと思います。
さっきのオバサンにしたって、もう致命的に「自分」ってもんがないじゃんじゃないか。「単なる家庭の主婦におさまらず広く社会に関心のある意識的な自分」という役割を、恥ずかしげもなく演じてるだけじゃんって、僕は冷たく思ってしまうのです。オバサンに限らず、「もっともらしいこと」しか言わない人もペケですね。「おまえ、本当にそう思ってんの?」と。自分というものがないんだから、別に世の中この人がいなくても全然困らないし、幾らでも「取り替えのきく」人、「一山なんぼの人」にしか、僕の瞳には映らない。それが分かってるならいいんですけど、分からん、見えてないというところが、頭抱えたくなるくらいカッコ悪いです。
さらに、そこでのカッコいい/悪いの基準が、ある類型世界での「階級」でしかない場合、つまり「飛車は桂馬よりもエラい」というシンプルな価値観でやってる人々というのがおられます。「東大文1は文2よりもエラい」とか詳細な「番付表」が不文律としてあるのでしょう。本気でそればっか没頭してるような人って、マンガにしか出てこないと思ってたけど、実際にいるんですね。びっくりしたわ。人魂を目撃したような感じというか、オーストラリアの砂漠を歩いてたら足元をエリマケトカゲが走り抜けていくのを目撃して、「あ、本当にいるんだ!」ってな感じでしょうか。そう思ったのは随分前の話ですが。
こんな人、どうも沢山いるみたい。自分の子供が東大入ったことを自慢する奴とか。今どき東大で自慢してるという明治時代のセンスには笑えるけど、そんでも努力して入った本人が自慢するなら分かる。そりゃ大変な思いしてきたんだろうから、せめてガンガン自慢できるという「ご褒美」が欲しいでしょうし、そのスケベ根性を押し殺して、「いやあ、大したことないですよ」とスカしてる、ムッツリスケベな奴よりは好きです。「ああ、自慢したがってるオレがいるなあ。すいません、ちょっと自慢したいんですけど」ということで自慢して戴く分には、かまいません。心ゆくまでやったんさい。3週間くらい集中してハゲしく自慢したら、あるとき「何やってんだ、オレ」とアホらしくなるから、あとはスッキリ油が抜けていい男になるでしょう。それをカッコつけて抑圧してるもんだから、(どうもスケベ根性というのは抑圧すればするほど「金利」がついて増殖するみたい)、一生東大看板を支えに生きて行くハメになるのでしょう。友達出来ないよ。ほんでもって、子供東大だけで自慢してる人。自慢するなら自分が合格してからにしましょう。他に自慢するものないんか。
海外であっても西洋崇拝アジア蔑視という、これまた明治時代をひきずってる人。未だに結構いるみたいで。旅行先留学先の選定くらいなら可愛いものだけど、国際結婚や恋人が西洋系なら鼻が高く、意味なくアジア系の恋人をもつ人に優越感持ってるひと。ほんと、冗談みたいな人なんだけど、いるみたいですね。これも、まあ、エリマケトカゲの一種でしょう。
社宅やらなんかの奥さん連中の社会。APLaCの柏木も高校生の頃シドニーで駐在員の子供やってたらしいのですが、そこでは、総領事夫人を筆頭に、インドのカーストや山口組もびっくりというビシッとしたタテ社会だったそうで、位が上の人よりも、「華美な服を着てはイケナイ」「上手に英語を喋ってはイケナイ」とか、いろいろと「鉄の掟」があったそうです。なんか暴走族のレディースの方がよっぽどマシという気がしますが、こんなん、未だにあるんでしょうかね?変わったという話もきくし、本質的にはそのまんまという話も聞くし。でも知り合い一人もいないから、よう知りません。知りたくもないわ。
最後に、前述のうだつの上がらないサラリーマン氏がどうしてカッコいいのか言います。って言ってもかなり直感的なものなんだけど、さっき描写したのは全部外見的なことばっかりで、実を言えばその人が真実どういう人かは全くわからない。わからないから、もしかしたらすごい面白い人かもしれないという余地があります。経験的にいっても、本当に面白い人ってこういう人の中にいるパターンが結構多いですね。また、逆に言えば、わかりやすい「○○系の人」というのが出てこないということは、あからさまにそれらのパターンにハマってしまうことの恥ずかしさやアホらしさが分かる程度のインテリジェンスがあるんじゃないかとも言えるわけです。
さきほど「うだつが上がらない」なんて表現しましたけど、人間まっとーに生きてれば大抵うだつなんか上がらないもんです。「うだつ」なんてのは、国会議員みたいに、自己顕示欲ギンギンで、利用できるもの何でも利用する、部下の手柄は自分の手柄、自分のミスは部下のミスと押し付けて、権某術数阿諛追従やりまくらないと、なかなか上がるもんじゃないです。海外にやってきてこんなホームページでこんなこと書いてる僕は、「うだつ」が上がらないどころか下がりっぱなしです。
で、そのうだつの上がらなさ加減に耐え切れず、人はジタバタし始めるもので、なんとか人と差をつけようと、いろんなことを自慢のネタにし始めるわけです。地位や名誉がほしくなったりするわけです。何にも自慢するものがないなら、その分他人を嘲笑して落としめて相対的に自分が優越しようとか、涙ぐましいことをする。で、そうやってハズして一生を終えていくのでしょうが、この人は、その「うだつの上がらなさ」を受け止めてます。それだけでもカッコいいなあと思うのですね。「ごく平凡なサラリーマン」という個人の人格を無視するような心ない描写をされても、普通だったらそんなアイデンティティ、カッコ悪くて嫌なんだろうけど、それでもジタバタ無駄なことはしない。もしかしたら、そこらへんがすごく「見えてる」人なんじゃないか、あるいは自分にしっかりした自信があるからどう言われても気にしないんじゃないかという気もするのです。
いや、まあ、単に覇気がない人に過ぎないかもしれないし、家に帰ったら内弁慶でグチグチやってる人なんかもしれない。なんかの拍子に地位と権力手に入れたら成金趣味を爆走するかもしれない。だから無条件でOKとは言えないんだけど、積極的にネガティブではないですね。で、人間、どっかになにか情熱はあるだろうから、それが一体何なのかという。そこに興味があります。実は趣味の世界では、全国的世界的に有名で帝王のように崇められてる人であっても、日常生活は全然フツーのおっさんにしか見えないというパターンはよくあります。ウルトラマンに変身してないときのハヤタ隊員みたいな。あるいは、そんなに飛びぬけた世界を持ってなくても、イメージとしては、永ちゃんやショーケンが番組やCMで冴えないサラリーマン役をやってたりしますが、あんな感じでしょうか。一応全てのことをわきまえておきながら、サラッと、のんしゃらんとしてるというのはカッコいいですね。これを推し進めていくと、マンガの浮浪雲系になったりするのでしょうが。
余談ですが、僕と相棒福島の間だけでギャグになってる「サトル君」という類型があります。サトル=悟君というのは僕が命名したのですが、80年代にはよくいたタイプですが、「他人のことを凄く分かった(悟った)気でいる奴」のことです。「症状」は、例えば、同僚で年下の女子社員と飲みに行って、その人の人格の核心に触れる(かのような)ことをモットモらしく喋るという。「○○さんなんかの場合さぁ」という切り出しで、「他の人と違う部分があるんだけど、そこに今一つ自信が持てないっていうかさ、それを中々うまく把握できてないんじゃないかなあ」とか言うわけです。そこで又その女性が心優しかったりオッチョコチョイだったりしてノッてしまうと、「そうなんです。私ってちょっと人と変わっててぇ」とか、およそ万人が言うような合いの手を入れると、サトル君益々調子に乗ってくるわけで、「他人から○○って言われたことない?」「あ、わかりますう?」「いや、普通にしたらそうは見えないんだけどね」「やっぱり、そうなのかな」という具合に、ツッコミが入らないまま際限なくボケ合戦になっていったりするわけです。
サトル君のテーマは別に「他人の人格」に限るものではなく、「オーストラリアなんかの場合は〜」とか幾らでもあったりするわけです。なんでこんな話をするかというと、自分がまさにこのサトル君じゃないのかという気が時々したりして、「もしかして、すごいダサいことやってんじゃないかな、オレ」とか思って、衝動的にホームページ削除したくなったりするわけですね。まあ、しませんけど。ホームページなんか恥ずかしげもなくやる以上は、そこらへんのカッコ悪さはもう黙って引き受けて行くしかないのでしょう。だいたい、「自分のホームページ(APLaCのHPであって、「自分の」ではないが少なくとも雑記帳に関しては)をやる」というのが、もう致命的にカッコ悪いですもんね。しょーがないです。
(1997年2月18日:田村)