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不本意な役割(本当はやりたくないこと)

不特定多数の「日本人」と目の前の現実の日本人とのズレ
深夜の1時、ライトアップされたオペラハウスを見ながら、海辺の公園で日本酒を飲みました。シドニー空港に到着した日本からの客人お二人をホテルにお送りしたあと、「ちょっと一杯いきませんか」とのお誘いをうけ、やってきたのです。お土産に戴いた菊正宗を回し飲みして、なんだかんだで四方山話をしていました。

お二人とも世界中を歩き回っておられます。お一人は、著述業のキャリアも長く(著作4〜50冊)、地道な研究を続けておられます。今回も、世界の日系移民の足跡を訪ねてというテーマで、オーストラリアの辺境地からニューカレドニアまで足を伸ばす予定だそうです。もうお一人も、一年の三分の一は海外を出歩いており、インドネシアからハワイ、グアムなど南太平洋諸島をターゲットにしておられます。


そのお二人が来る数日前まで、東京から5名の客人が来てました。いずれも名前を聞けば誰でも知ってるような企業にお勤めの20〜30代の皆さんで、「いっちょ、俺達でなんかやるべ」と意気投合し、オーストラリアにはその視察にやってこられたわけです。そのうちのお一人は、人生の半分は海外生活という方で、「実は既に四回辞表を出してるんですよ。でも受け取ってもらえなくて、、、」と苦笑いしてはりました。そりゃ会社も手放したくないだろうという方でした。



ところで−−−−。
マスコミなどでは「日本はもう終わりだあ!」と書かれているでしょう。僕が前回日本を出る1年半前もそんなこと言ってたし、その数年前から同じ事は言われてました。その後「見違えるような改善」はなされていないように見受けられます。少なくともオーストラリアから見る日本はそうです。

しかし、僕が個人的に知ってる「日本人」達は、全然終わってません。
むしろ、これからどうなるのか目が離せないという方が比率としては多いように思われます。それは海外に関連しているかどうかは関係無く、日本にいて地道に仕事してる人のなかでも、将来を創造していくに足るだけの意思と器量と聡明さを持ち合わせている人は沢山おられます。

しかし、反面、「日本、ちょっとヤバいんじゃないか」という意識、大袈裟にいえば「危機感」は僕自身のなかにもあります。ありますというか、海外に出て外から眺めてると余計に「あ〜、も〜、何やってんだか」と思ったりもしました。で、日本に帰ってきてTVをつけると、「オウムがどうした〜」とかいう、どっちでもいいような話ばっかりやってるわけで、「そんなことやってる場合じゃないのに」と結構脱力感を感じたりもしました。




話を戻しますと、僕が直接見聞する日本人と、全体として進行している日本の状況との間にはどうも食い違いがあるような気がします。今の「ちょっとヤバい日本」を構成している「平均的日本人像」と、現実に目の前にいる日本人とはどうも違うような気がしてならないのです。

「日本の社会がダメなのは、それを構成している個々の日本人がダメだからだ」という言われかたがよくなされます。政治家が駄目なのはそれを選んだ(あるいは選挙にも行かず選びすらしない)日本人がダメだからであり、日本が閉塞状況に陥ってるのは個々の日本人が覇気を失って小粒になってるからだ、、、、、云々という具合に。

なるほどそうかもしれません。

構造改革が叫ばれているのに、未だに利権構造から脱却できない人々、さんざん不祥事や経営失敗を繰り返しているのに「責任をとって」→「社長をやめて会長になってる」人々(なんでやねん)、学歴主義は終わったと言われながらも慶応幼稚舎入学のために奔走している人々、もっと身近には、酒飲んじゃ「日本人はダメだよ」と総論は意気盛んだけど、各論になると曖昧になり、「じゃあ、キミはどうすんの?」というと何の青写真も描けないし、描けたとしてもそれを実行する勇気がなさそうだったりする人。それ以前にすっかり諦めきってしまってる人々。

昨年末、APLaCの柏木と福島がそれぞれに一時帰国しましたが、両名とも帰ってきて異口同音にいうことは、「みんな詰まんなそうな顔して歩いてる」ということでした。それは確かに僕も思い当たる、というか、やぶから棒に「そうだ、海外に行こうか」と思い始めた「引き金」的な光景でもあります。大阪は梅田のコンコースを歩いていて、ふと気付いたですが、「なんで皆こう揃って苦虫かみつぶしたような顔で歩いてんだろ?」「あんまり幸せそうじゃないなあ」「俺もそうなのかな」と。同じ事は、偶然ですが僕の依頼者の方も言ってました。その方は、借金数億、連日住友銀行をはじめ各担当者としんどい交渉を繰り返し、心労の挙句、入院する羽目に陥ってしまったという。本来なら、半径100メートル以内ではその人が一番苦虫を噛み潰していても良さそうなのですが、「なんか自分より電車に座ってる他の人の方が不幸に見える」と言ってました。



しかし、そのようなイメージと、現実にオペラハウスを見ながら酒をラッパのみしていた人たちとは、どうも同じ日本人として重ならない。僕の知ってるあの顔、この顔、どれも重ならないです。端的に言いますと、「自分の知ってる日本人はOKなんだけど、自分と面識のない、匿名的な不特定多数の日本人はOKじゃない」ということでしょうか。
しかし、これも変な話ですよね。

まあ、類は友を呼ぶのか、ケッタイな僕の周囲には「ケッタイな人」しか集まらないのかもしれませんし、僕も結構気が短いのでイヤだと思ったらその場でケンカして「現場処理」しちゃうので、嫌だと思いながら延々付き合ってるような人が少ないから、「自分の知ってる人はみんな好き」という結果になってるとは言えるかもしれません。

しかし、それにしても、ギャップがありすぎるじゃないか。



そこで僕はある「仮説」を考えています。
「日本人は駄目だという先入観をもって他人を見てないか?」と。本来、赤の他人については、好き/嫌いのない無色透明な筈なのに、日本人は、赤の他人の日本人に対して、ある種ネガティブな先入観をもっているのではないか?と。だからある程度その人のことを知ってくると先入観なんか打ち破られますから、別に嫌いでもなくなる。日本人はダメだというならば、「じゃあ、具体的にダメな日本人の氏名を列挙して下さい」というと、そんなにいないのではなかろうか。駄目なのは、不特定多数の「日本の大衆」とか「日本社会」ではないのか?でも、そんな抽象的な存在なんか何の意味があるのだろうか。よく知りもしない時点でネガティブに判断しちゃうのは、これはレッキとした「偏見」ではなかろうか、と。

いや、これは偏見じゃないぞ、しょーもない日本人なら俺の周囲に沢山いるぞ、という方、おられると思います。でも、お言葉を返すようですが、2点ばかり指摘させてください。@周囲にしょーもない人がいたとしても、同時にしょーもなくない人もおられるのではないですか?全員が全員しょーもないのでしょうか?もし半数近くがしょーもなくないならば、そんなに捨てたもんじゃないのではなかろうか。Aもう一回、その人が本当にしょーもないかどうか考えてください。どこから見てもしょーもないですか?

Aは特に注意を要するように思います。ハタから見てたらアホに見えても実はきちんと物事考えてる人かもしれない。あるいは単に口下手で表現するのが上手でないのかもしれない。ある面は確かにしょーもないけど、他の面では非常に優れているのではないか。例えば、冒頭の方々にしたって、非常に頼もしい人々なんだけど、いざ選挙になったら面倒くさくて棄権してるかもしれない(聞いてないですけど)。



話、ちょっと飛びます。

シドニーから車で3〜4時間ほどいったところにカウラという町があります。ここは大戦中日本兵士の捕虜収容所があったところで、半ば自殺行為のような集団脱走行為が行われ、投降に応じぬまま殆どが射殺されてしまったという過去のある町です。なんでこんな無謀な脱走を試みたか、その経緯をみていくと非常に「日本的な」図式が浮かんできます。もともと皆も本心では、殺されるに決まってる脱走なんかやりたくなかった。しかし、「生きて虜囚の辱めを受けず」との「正論」を吐く者がいて、この正論には誰も反対できなかった。決行か否かを投票で決めたらしいのですが、殆どの人が「他の人間が反対に投じるから不決行になるだろう」と考え、自分は「決行」に投票した。しかし、気が付いてみれば皆も同じように投票してたので、結果的には賛成多数で決行する羽目になってしまった。「それでも俺はいやだ」という人は皆が見てる前で自決することを強いられたそうです。で、連合軍も不思議がるような、自殺行為になったわけです。

日本や日本人が一番直すべき点は、こういう部分にあるのではないかと思います。「思ってることとやってることのズレ」です。さらに突き詰めれば、このズレは「社会において演ずべき自分」と「本当の自分」のズレです。「これはアカンなあ」と思いつつも、浮き世の義理だのしがらみだので、本意と反する行動をしてしまうという。長良川河口堰の問題がありますが、中央のエライさんが来たとき、地元の建設推進(反対ではない)住民の集会というのが催され、そのとき僕の知り合いの方は、さまざまなシガラミから、本当は反対なのに「賛成住民」として出席することを余儀なくされたとか。

この類の話は大事件から日常の町角に至るまで、日々繰り返されているのでしょう。HIVに対する厚生省の態度にしても、TBS問題にしても、その組織の中には「俺達の組織がやってることは良くないよ」と思ってる人は沢山おられるでしょう。むしろ殆どの人が「いい迷惑だ」と思ってるかもしれない。でもその意見(本心)は外部に伝えられることは少ないし、伝えられた場合は「内部告発」という「裏切り」的なニュアンスのある表現で言われたりもする。




そして、この点は、(やや牽強付会気味ですが)前述の「不特定多数の日本人と現実の日本人とのズレ」の問題にもつながっていくようにも思われます。

僕らが漠然と「日本人はダメだ」と思うとき、その日本人とは、「演ずべき役割を演じてる日本人」であり、僕らが個人的に知ってる日本人は、役割を演じてない「素のままの日本人」なのではないでしょうか。カウラで無謀な試みをした日本人兵士をして、「軍国主義にとことん洗脳されてしまった」と評するのはたやすいことですが、本当は洗脳なんか全然されてなかったのではないか。ちゃんと物事わきまえていたにも関わらず、それをそのまま意思表示することが許されなかったのかもしれない。演ずべき役割を演じた日本人に対して、その愚かさと悲しさを指摘するのは簡単ですけど、至近距離でその人を見ていけば全然そんなことはないのではないか。

もしそうだとすれば、他の日本人に対するネガティブな先入観は、あながち「偏見」とも言えない。しかし、それは素のままの日本人に対してというよりも、「役割を演じてる日本人」への批判であり、その役割に打ち勝つことが出来ない状況それ自体へのイラ立ちなのかもしれません。

僕が梅田のコンコースで見た、歩いている人々の詰まらなそうな顔も、「やりたくないことやらされている人の顔」というか、演ずべき役割を果たしている者特有のデスマスクであったのかもしれません。そして、また僕も、同じように詰まらなそうな顔して歩いていたのでしょうし、明日日本に帰っても、「演ずべき役割」が押し寄せてきたら、同じように詰まらなそうな顔をして歩くことでしょう。



 だとすれば−−−話はまだ続きます。続かねばならない−−、僕らの周囲を取り囲む「役割」の実体とは何なのか?なぜこんな馬鹿馬鹿しい状況になってしまうのか?逆にこの「役割」とは本当に「悪」なのか?なんだかんだ言ってもトータルとしてみれば、この「役割」はあった方がいいのか?あった方がいいけど改善の余地はあるという程度なのか?いっそのこと無い方がいいなら、どういう段取りでこれを解消していくことが出来るのか?そしてそれは進行しているのか、いないのか?考えることは山ほどあります。

別にこんなところで僕がムキにならんでもいいのですけど。ただ、「日本(日本人)はダメだよ」というフレーズをあまりにも多く耳にしますし、かつては僕もそう思ってたし言いもしました。しかし、そんなこと百年言い続けても事態は変わらんどころか、益々気が滅入ってくるだけです。あんまり意味のある行為でもないなあと思うようになりました。

一方では「だから日本は素晴らしい」的な意見もあるのですが、多少の例外はありながらも、大体において説得力がないように思います。伝統文化がどうとか、歴史的に偉業を成し遂げた云々の論議については、そんな「昔の話」を持ち出さなきゃならないところで既にヤバいと思いますし、問題は今現在どうかであり、明日どうするかです。「かつてエラかったから自信を持とう」と言われたって今日がダメなら自信持てないです。持てるわけないじゃないか。

あるいは農耕民族だから云々という議論もありますが、そもそも日本人が農耕民族だという点で僕は懐疑的ですし、仮にそうだとしても明日の処方箋が書けるわけでもない。

必要なのは、今現在日本人が潜在的顕在的に持っている良さを、どう引き出して、どうプロデュースしていくかだと思います。妙な癖がついてフォームが乱れて飛距離が伸びないならその癖を矯正しなきゃいけない。そういうプラクティカル(実践的)な話こそが求められているのだと思いますし、求められてなくても僕は求めます。

最後に手前味噌で恐縮ですが、僕がAPLaCを思い付いた遠因の一つに、このプラクティカルな理由が あります。「不本意な役割からの解放」の一助として、海外に住むことは不可能ではない、「僕でも出来る」と示すこと、そのためのノウハウなどを提供することによって、選択肢を広げ現実性を増す。そうすれば、生きる為に不本意な「役割」にしがみつく度合いも減るかもしれない。そして何よりも、こんなのは気の持ちようひとつですから、「それもアリかな」と思えた時点で随分楽になるんじゃないかと。

勿論、オーストラリアが絶対的にいいよ、とはよう言いません。こっちはこっちで、しょーもない部分もあります。どこであれ生きて行く為には「不本意なこと」しなきゃいけない部分は出てくるでしょう。しかし、どうせ不本意な部分が避けて通れないなら、せめて「この不本意」と「あの不本意」とで選べた方がいいと思います。人によっては「その程度ならガマンできる」という不本意もあるでしょうし。 (1997年1月20日:田村)
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