「シドニー雑記帳」もこれで37本目?ですか、になるわけですが、「シドニー」というタイトルにもかかわらず、シドニーあるいはオーストラリアに関する話題なんか半分くらいに過ぎません。「不当表示やないけ」とお嘆きの貴兄には(特にそんなクレームも受けてませんが)、別に「シドニーに関する雑記」ではなく「シドニーいるワタシが書いた雑記」という意味で看板に偽りはないと開き直りたいと思います。
と言いますか、生まれて初めてオーストラリアの土を踏んだのが丁度3年前の今ごろでして、途中帰国していた時期もありながらも、3年も経てば「ワタシは、今、なんとシドニーにいまぁす!」とハシャいでいられるもんじゃないです。もう自分にとっては当たり前の日常になります。
夢を見ていて「(前に住んでいた大阪の)西天満の交差点から一号線を京橋に向けて進んでいるうちに、いつしか道はParamatta Roadに変わっていて、もう少し行けばシドニー大学だなあと思ってたら、見慣れた銀橋が出てきて、その向こうに桜宮のラブホテル街が見えた」とかいうくらい、自分の意識の中でゴッタ煮状態になっております。ですので、そのなかから「シドニー」に関するものだけを意識的に検索して何か書き続けろというのは結構難しいっす。
ちなみに、いずれこうなるだろうと思って、「シドニーだあ!全然分かんないぞ!」と新鮮なうちに、超ビギナー向けの生活体験マニュアルを書こうと思っていたわけでもあります。時間が経つと視点が変わってきて、最初に来た予備知識ゼロの人がどこで困るかが分からなくなるんじゃないかなという気がしてたのです。
というわけで、今後も、ますますグツグツ煮込まれていくゴッタ煮状態で書き綴ることになるかと思いますが、よろしくお付き合いのほどを。いいダシが出ればいいのですけど。
このゴッタ煮の「具」は別にシドニーと大阪だけではありません。日本だけでも、東京は巣鴨、世田谷、杉並、深川、佃、川崎は百合丘や生田、千葉は松戸、京都は北白川に西陣に東寺のあたり。そうそう、岐阜なんかにも住んでました。毎日金華山を見上げながら鵜飼で有名な長良川を渡ったりしてたのですが、あそこはいい町です。
何処に住んでも「ここはイヤ」という所は一つもなかったですね。それはそれなりに凸凹はありますが(自然はあるけど刺激はないとか)、全部揃ってる場所なんかあるわけないので、そこは気の持ちようでしょ。一つイヤだとしたら「一生そこに居ろ」と言われることでしょうか。やってみたらイイものなのかもしれないけど、一つの場所にずっと居たことがないので、なんかそれだけは勘弁して欲しいなと思ってしまいます。ずっと同じ環境が続くとですね、「うおおおおっ、退屈で死にそうだぜいっ!」ってワイルドに盛り上がる感じじゃなくて、なんていうのかな、「とほほほ」と悲しくなってきてしまう。お寿司が好きだとしても、「これから一生寿司以外食ってはならん」と言われたら、やっぱり「とほほほほ」と思いませんか?あの感じに似てますね。
多分どんな土地でもソコソコ楽しめるのは、どうせテンポラリーだと思ってるからでしょう。「ここで一生」とか思うと、どんな土地でも許せなくなるような気がします。で、これは土地に限らず何でも同じで、マトモな生業は弁護士だったけど、家に帰るとギターが6本ほど転がっていて、余興でギンギンに化粧してXとか完コピして弾いてて、でも高校時代は「うっす」とか言って柔道やってたんだわ。んでもって小学校のときには、「このGペンのラインが」とか言ってマンガ描いてたわけです。ほんで今はなぜかオーストラリアにいて、APLaCとかやってるわけで、なんかこう一貫するものがないですね。
でも、自分なんかおとなしい方で、「小学生時代アフリカに暮らして(ナイジェリアだっけな)、北海道で獣医を目指して、いまはマーケティングの会社やってる」友達とかおるし。結構いるでしょ、そういう一貫性のない人。父親なんか転職経験数え切れないくらいある(30回は越えてるだろうな)。僕も、電機機械工場の息子から、不動産屋の息子、とんかつ屋の息子、雀荘の息子、TVゲーム機リース業者の息子、占師の息子、えっとそれから、、、とにかくメチャクチャあって、作文で「お父さんの仕事」とか出ると毎回違うこと書いてた。子供の頃からそうだったから、「仕事なんか3年でチェンジするもの」という認識が叩き込まれていたりします。弁護士になって2年目の頃も、オヤジは「で、次は何をやるつもりだ?」と聞いてきましたもん。こっちも「そうだなあ、何がいいかなあ」とかマジに考えたりして。
日本人には珍しいタイプとか言われることもあるけど、そうですかあ?結構いますよ、この手のタイプ。「日本人農耕民族説」とかあるけど、個人的には全然信じてなくて、「そういうタイプの人もいるだろ」という程度で、でも全部じゃないし、圧倒的多数というわけでもないと思ってます。いわゆる狩猟型の日本人も、たーくさんいます。
そもそもですね、マタギの皆さんとか、「〜それを猟師が鉄砲で撃ってさ」とか歌われてるとおり、イニシエより文字どおり「狩猟」していた人は沢山いるわけです。それと漁業なんか基本的に狩猟タイプだと思いますね。「おじいさんは山にシバかりに〜」とか自営業っぽい、あまり農村社会っぽくない背景の説話もありますね。他にもガンガン海外に出ていって、ルソンと貿易したり、倭寇とかなって海賊やってたわけだし、満州行ったら馬賊やってた人もいるし(祖父もそうです)。そもそも騎馬民族征服説なんてのがあるくらいだから元は騎馬民族じゃないのかという気もするし。国民的アイドルである寅さんなんか、あのキャラクターのどこが農耕民族だというのだ。
まあ、そんなことはどうでもいいんですが、一つ思うのは、自分が農耕民族型だと思ってる人って「他人も自分と同じだろう」と無意識に決めてかかる傾向が、ほんのちょっと強いのかなあという気もします。狩猟タイプの人はそこらへん冷淡というか、「他人なんかどうでもいいもんね」と思ってたりするから、あんまりそういうことに興味がない。「いや狩猟型だよ」と反論もしない。だから結果として、「日本人は皆農耕タイプ」という見解だけが罷り通ってるだけではないかと思うのですが、違いますか。
というわけで、今回のテーマは、別にありません。「ワタシはゴッタ煮です」と言ってるだけの話です。そうそう、比喩じゃなくて料理のゴッタ煮も好きですね。「具がいっぱい」というのに弱いんですね。シチューとか大好きですし、繊細な味の御吸い物よりはトン汁が好きだし。ほかにも、鍋料理でも一品でも具が多いとウレシイとか、サンドイッチでも挟むものが多いほど豊かな気分に浸れるというわけで、貧乏性なんでしょうか。
そういった意味では、シドニーのこの民族文化ゴチャ混ぜ状態は非常に心地よいですね。世界各地を一人旅してきた人が言ってましたが、シドニーは異様だと。街並みのある店を見てるとイギリス度100%だったりするのだけど、すぐ隣はギンギンにアメリカ!となってて、その隣はインド、その隣はチャイーニーズ、その隣はトルコで、、、と一軒一軒が全然脈絡なくいきなり違う文化になってるというのがえらく新鮮だったそうで。「よくこんなんで喧嘩しないでいるねえ」と妙なところで感心してはりましたが。
そこに住んでいると「そういうもんだ」と当たり前になってよく分からんのですが、確かに僕らの住んでる近くのニュータウンなんか爆発してますもんね。シドニー有数のレストランの激戦地でもあるし、ゲイとレズビアンの人も多いし、紫色のモヒカンのお姉ちゃんが闊歩してて、シドニー大学の隣だから学生や教授がカフェで議論してて、生活感バリバリのオバサンが野菜買ってる。オシャレなんだか場末なんだか見当もつかん。統計によると、このあたりの地域で家で英語喋っていない家庭は57%とかなんとか、どんな人種、どんな人がおっても誰も驚かない。ちょっと買物に行って帰ってくるだけで、数十の民族の人とすれ違っていることでしょう。そいえば、悠然と全裸で歩いている兄ちゃんもいたそうな(僕は見てないけど)。この町に長く住んでるオーストラリア人の友人の名言、"Nothing is unusual in Newtown. Everything would be happen."(ニュータウンでは、何が起こってもフシギじゃない)。
もっともシドニーでもこういう地域はどちらかと言えば珍しいし、特に北部とかはイギリス系オーストラリア人が多いようだけど(図書館行って「センサス」という統計本を見るとこのあたりのことが地図で示されていて面白いですよ)、ゴッタ煮が好きな人間としては、モノトーンな所にあまり魅力を感じないわけです。
ゴッタ煮ついでにもう一つ。何か新しいものに出会ったり習得しようとしたとき、過去自分がやってきた体験やコツ感覚になぞらえて理解すると効率が良いように思います。で、過去の記憶ファイルがゴッタ煮だと、そこらへんのコツの掴み方も他人から見れば素っ頓狂な連想で覚えたりするわけです。
例えば、英語の発音のRとLがありますが、これなんかもエレキギター弾いてたアナロジーで、Rはレスポール(というタイプのギターがある)の音、Lはストラトキャスターの音とか、「フロントピックアップの音とリアピックアップの音」とか考えてみたり。あるいは、道路走っているとラウンドアバウトという日本にはないシステムがあるのですが、これも「背負い投げで相手の懐に入るようなタイミングで進入する」とか覚えると、自分一人だけ「なあるほど」と納得したりします。変ですかね?
ここまで書いてきてふと気付いたのですが、ゴッタ煮が好きなのは僕だけではなく、日本の人って基本的にゴッタ煮好きなんじゃないですか?「ゴッタ煮」というと分かりにくいかもしれないけど、「これ一筋!」というキメ撃ちはあまりしなくて、「アレもあるコレもある」というバラエティの広いものを好むという。
だって、「詰め合わせセット」とか凄い好きじゃないですか。「標準コース」とかいう言葉も好きだし。これ、何か日本人の特徴みたいですね。ずっと前に読んだのですが、えっと何処にいったかなあの本、、、、、あったあった。Australian Small Businessという月刊ビジネス誌の95年10月号の巻頭特集、これ生活マニュアルでもちらっと紹介した本ですけど、この7頁に、“It is worth to remember that Japanese in paticular won't purchase products thar aren't packaged. They also buy things in sets and you should communicate your products to them through pictures, eg: display pictures of companion products." とか書いてあるわけで、やっぱりセット物が好きなのかなあと。
いや、かく言うワタシも詰め合わせセット好きです。こういうのも幼児体験というのでしょうか、ガキの時分、お中元などに貰う色とりどりのカルピスの詰め合わせセットとか見てワクワクしてましたからね。基本的にはあの感覚のままですね。セット物というのは、「アレもちょっと、コレもちょっと、取りこぼしなく、まんべんなく」ということで、発想はモロにゴッタ煮じゃないかと思うのですね。なかには、内容は全く一緒であっても、色を違えて変化をもたせるとか。マーブルチョコレートなんか、あれ全部同じ色だったら僕も買わなかったような気がしますし。
そう言えば家なんか建てても、ラウンジやキッチンは洋風にキメるけど、奥の座敷は和風にして床の間なんか作ったりしますもんね。よ〜く考えるとあれも相当ケッタイな建物なんじゃなかろか。食事にしても、これだけ毎日違ったもの家で食べてる民族も珍しいのではなかろうか。オーストラリアも最近はマルチカルチャルで急激に食生活が多様化してますけど、伝統的パターンは来る日も来る日も「茹でたジャガイモとステーキ、それと温野菜。それだけ」だもんね。よく発狂しないよなあと僕は不思議なくらいですけど。おかずのバラエティに関してだけいえば、日本の刑務所のほうがまだしもマシではないか。
ほかにも色々な局面を考えていくと、日本の人ってものすごくゴッタ煮状態が好きなのではなかろうかという気がしてきます。一つだけゴッタ煮になってない領域があるとしたら「人」でしょう。外国の人がいると、どうにもキンチョーしてしまうというとか、異物排除とか言われるけど、あれは要するに慣れてないだけじゃないのか。そのうちに慣れてきて「バラエティが豊かな方が面白い」という面白さの引き出し方を覚えたらいきなり情勢はガラッと変わったりしてね。だって運動会だって99.9%日本人だけでやってるのに何故か「万国旗」飾ってるじゃないですか。あれ、なんでなの?
実際、シドニー大学の語学センター行ってるとき、各国の留学生が来てるわけだけど、日本人が一番固まってなかったですね。韓国とかマレーシアの人とか、もっとしっかり集まってそれなりにコミュニティを作っていて(まあ、移民の人が多いから母集団があるという事もあるのだろうが)、よくパーティとかやってたみたい。「なんで日本人はそんなにバラバラに行動するの?」と聞かれたこともあるし。だいたい、「日本人はすぐに群れて」とか、いかにも集まってたらイケナイかのように思ってしまうのも日本人だけなのではなかろうか。どこの民族だって、しっかり固まって互助組織なりコミュニティがあるし、その意味で一番コミュニティ組織が明確でないのが日本人かもしれない。経済的に恵まれてるから特にその必要もないのだけど。
まあ、こんな断片情報で何が分かるもんでもないのですけど、もしですね、仮に日本人がゴッタ煮状態が好きな人々だとしたらですね、今の日本のホモジニアスとかモノトーンとか言われている単元社会というのは、ものすご〜く性格に合わないこと皆してやってるのかもしれませんね。で、向かないことやってるもんだから、誰もが、なんとなくスッキリしないでいるとか。どうなんでしょうね?
(1997年4月24日:田村)