シドニー雑記帳
その友達はきれいな心を持ってる
Blankey Jet City 小論
すいません、今回も音楽趣味話です。興味のない人はスキップしてね。
名古屋出身のロックバンド、ブランキー・ジェット・シティのボーカル&ギター担当のベンジーこと浅井健一氏の描き出す詩の世界は、今まで一度も見たことがない光景なくせに、やたら細部に至るまでクッキリと明瞭である。もの凄くリアルな夢を見たときのように。
それは詩が一般にもつ夢幻的で、縁取りがボヤっとしたメルヘンチックな世界ではない。路地裏のスナップ写真のように、日時も場所も撮影者も分からない一枚のモノクロ写真のようだ。それ自体特に何を意味しているようにも見えないし、どうしてそんな光景を「歌」にするのか理解に苦しむくらいだ。ただ、一眼レフの高級機種で撮影したハイクォリティな写真のよう、ひたすらクリアであろうとする。
無表情で立ってたんだ 雨の国道沿いに
茶色いコートを着た男が
俺は車を停めて話し掛けたんだ
一体こんなところで何を待ってるんだって
今にも吹き飛ばされそうな風の中を
走り抜けてゆく俺の車のフロントガラスに
ポツリと雨の滴が落ちてきた
あの時の歌がよみがえってくる 「Rain Dog」
窓がひとつあるこの部屋のカーテンが朝から揺れている
なぜだかわからないけど もう何処へも行く気がしないから
通りには明るい日だまりがあふれているっていうのに
安ホテルの2階 この部屋で僕はブーツのラインを眺めるだけ
「ヘッドライトのわくのとれかたがいかしてる車」
しかし、その画像は「なにか」を雄弁に語る。極めて象徴的であると同時に、極めてリアルで現実の匂いのする空間を、彼は鋭利なナイフでサクッと切り取ってくる。そしてその光景が突き刺さるのだ。
一体どこからその空間を見つけてくるのか不思議でならないのだが、彼の切り取ってくる風景は、「絶対に知らない筈なのになぜか知っている風景」である。「この夢は前にも一度見たことがあるな」と思いながら見ている夢のように、どこか深いところで馴染みのある光景だったりする。
その光景の基調に流れているのは、今どき信じられないほどの純粋さである。音というのは、音程を限りなく上げていくうちにやがて超音波になって聞こえなくなるように、純粋さも純度が高くなるにつれて、殆どそうとは分からなくなり、聞こえるかどうかという領域で「キーン」と響くものなのだろうか。
その純粋さは、道徳とか倫理とか愛とかそんなレベルのものではない。
それらを構成する根本的な原子のような純粋さである。
そして、その純粋さゆえに感じざるを得ない痛々しいまでの悲しみと憧れ。
ただの風景ではなく、それらが可聴限界領域で鳴り響いている光景だから突き刺さってくるのだと僕は思う。もっともこれはブランキーだけの話ではなく、芸術と呼ばれるもの一般が持つ特質なのかもしれないけど。
真冬にコートを着込んで、友達とふたりで、いろんな話をしながら
道を歩いて行くのは 好きだな 冷たい風が吹く
明るい光の中で吐く息は真っ白さ
ところどころ雪が残ってる乾いた道を
両手はポケットに 襟を立てて歩いて行く
まだ昼の12時過ぎさ クリスマスの4日くらい前
その友達はきれいな心を持ってる
鼻を赤くしながら 楽しそうに話してる
俺はときどき嬉しすぎて 道路標識を蹴飛ばすほどさ 「ライラック」
この「クリスマスの4日くらい前」という妙にリアルな設定もさることながら、「心がきれいな友達と喋りながら歩く」というただそれだけのことが、標識を蹴飛ばすくらいに「嬉しすぎる」というコンセプトは何なんだろう。別に恋人とデートしているわけでもない、特に何かラッキーな出来事があったわけでもない。単に男同士連れ立ってくっちゃべって歩いているだけだ。そんなことが「歌」になるのか?
でも「なる」のである。歌われてみて自分でもわかったが、「きれいな心を持ってる友達」以上に大切なものってこの世にあるのか?その友達と喋りながら歩く以上の至福の刻というのはそう滅多にないのではないか?
歯切れの良いカッティングを響かせるアコースティックギターに乗せて歌われるこの佳曲の後半は、「ライラックって、どんな花だっけ?」「多分5センチくらいの冬に咲く花」「あんまり人気のない花だと思うけど」と、ライラックに関する主人公の勝手な想像(しかも間違ってる)が続いてそれで終りになる。
なんで友達の話から突如ライラックの想像図になるのか、曲中では何の説明もなされていないが、でも「わかる」のである。嬉しいと道路標識を蹴っ飛ばすような、とてもジェントルとは言えないような感情表現をしてしまう男の子、ちょっと乱暴で、でも健康な男の子が、友達の心のきれいさを嬉しく思えるときには、日頃気にもかけなかった花のことも気にかけてしまうのだ。その貴重で美しい心の流れ。それが聴いた瞬間、「あ、わかる!」で伝わってくるから、こっちも嬉しくなって道路標識を蹴っ飛ばしたくなるのである。
映画プラトーンの一場面を想像させるような、「鉄の月」では、一兵士として戦場に赴き、アミアゲのブーツを履いて、落ち葉を踏みしだき、森の奥へ進んでいく情景が淡々と描写されている。抽象的に戦争の是非云々を問うのでもなく、その悲惨さを描こうとするのでもなく、アコースティックギターの淡々たる調べに乗って歌われるのは、戦争になって自分が戦場に行くことになった場合どういう風景が見えるのかである。
知らない国の知らない誰かを殺すために
きっと僕はためらったりはしない
落ち葉を踏んで 森の奥へと
狙いをつけて銃を撃ちまくる
来る日も来る日も僕はただ殺し続ける
信じられないだろう こんな世界なんて 「鉄の月」
目に映るのは落ち葉と森の風景だけ。ありふれた仕事のように、単調に森を歩き、敵に遭遇したら、機械的に引き金を引く、それだけのことだ。時代を離れて遠くから見れば狂気の沙汰のようにみえて、いざその中に入ってしまえば、静かな日常でしかなくなるさまが描かれる。
その日常たる戦場の静けさに亀裂が走る。一転してつんざくようなエレキギターのヒステリックな轟音が響く。敵に遭遇したのではない。「きれいな眼をした女の人」に出くわしたのだ。それがショックなのだ。なぜなら「その白い顔に触れてみたいけど、僕の手はとても汚れているから」だ。それまで麻痺していた感性が、その女の人に出会うことによって覚醒し、自分が飛んでもない地点にまで来てしまったことを知り、引き裂かれた自我の悲しみが突き刺さるように襲い掛かってくるからだ。
この「鉄の月」が収録されている同じミニアルバムに、「Orange」という曲がある。カナダあたりの大森林を彷彿とさせる大自然に抱かれ、平和に暮らす家族が描かれる。「冬が来る前にもう少しだけ食べ物を集めなくちゃいけない」と思い、「川へ水を汲みにいく子供の後ろ姿が茶色い草の中に消えた」のを見守る。淡々として戦場を歩く「鉄の月」とは全く対極にあるような平和な情景である。
あるインタビューで、「メタルムーンの世界とオレンジの世界とで、どっちがより自分の世界なのか?」という問いに浅井氏が答えていたのを読んだことがある。彼は「どっちも本当だと思うよ。そりゃ戦争は嫌だけど、でも本当に戦争になってしまえば、そんなに絶対反対だなんて言わないんじゃないかな。結構進んで行ってしまうような気がするよ。でもオレンジも本当の世界だと思う。どっちも本当だよ。ただ、どっちの世界に先に出くわすかだけじゃないかな」と。
彼の言ってることは凄くよく判る。戦争反対などと気楽に言えるのは、平和な時代だからだろう。いざ世の中が戦争に傾斜していったら、皆が戦争に向って進んでいくなかで、たった一人だけ反対を唱えられるだろうか。多分、そんな勇気は僕にはないだろう。その場になってみれば、とても逆らえるような雰囲気ではないだろう。そして、流されるまま戦場に向ってしまい、そういうものとして現実を進んで受け入れていくだろう。もしそこで反対を言う勇気があるのなら、今現在だって出来ることは沢山あるのだ。
彼はその人の弱さ、戦争すらも諦めて受け入れ、受け入れるうちに当然のことにように感覚が鈍磨し、何の感動もないまま人を殺していく情景を歌う。本来はオレンジの世界に憧れている自分も、そうなってしまえば流されていくことを。
科学者のように冷徹な観察眼で、突き詰めた純粋さは、ときにとても不器用に出現する。理不尽に管理しようとする学校側とモメ倒した高校時代、他の仲間が「退学になったら中卒だぞ」という一言に脱落していくなか、たった一人だけ最期まで突っ張りとおした彼は、「やっぱ中卒だぞと脅されたらビビるのも無理ないわ。他の連中を責める気はないよ。俺は納得できないからやっただけ」と言う。
その彼の左上腕には入墨がある。そして、その入墨には「Father Mother」と彫られている。いかにも彼らしい入墨だ。「父母というのは、やっぱりこの世で一番基本的なものだからさ。だって両親がいなければ俺もここに居ないわけだしさあ」。
純粋さがゆえに不器用にならざるを得ない現世では、渇望と絶望との間の緊張関係から、当然いろいろとギャップが生じるし疎外感も生じる。それは折に触れて歌われるモチーフになっているが、それを愚痴るわけでもなく、被害者意識を連綿と綴るわけでもなく、それを受け入れつつも、「いろいろやりにくい事もあるけど、でも俺はこのままやっていくよ」という心境が歌われる。
Baby こんな俺だけど、愛してくれるかい?
どうやら違う星から迷い込んできたらしい 「D.I.Jのピストル」
パパ、ママ、聞いてくれ
こんな遊び方しか知らない
この俺のことを 誇りに思って欲しい 「12月」
古い世代の奴等は、金で何でも買いあさった
だけど俺達は自然の掟の中で、生きるケダモノの世代さ
「Punky Bad Hip」
ただ、しかし、そのような不器用な生き方してると、どうしても「太く短く」ならざるをえず、必然的に「終末の予感」も漂ってくる。
この細く美しいワイヤーが切れるまで
「ダイナマイト・プッシー・キャット」
俺は旅人 この広い世界で欲しいものは きれいな水
クリームの夢を見た朝に ひとり最後を迎えるつもりさ
「Rain Dog」
全編を通じて鳴っているのは、素朴な原石のような純粋さであり、それに基づく悲しみと憧れであるが、だからといって湿っぽいわけではない。それどころかその質感は日本人離れして乾いている。透明で、美しく、そして勁(つよ)い悲しみとでも言うべきか。
で、肝心のサウンドであるが、こっちの方が本題だったりする。まず音に「なんてカッコいいんだ」でヤられて、好きになって、それから歌詞カードを読みながら「おお、そういうことだったのね」となるのが通常のダンドリだから、歌詞のことだけ書いてもこのバンドの良さの半分も言ったことにならない。しかし、紙幅も尽きたし、音も鳴らない(MIDI で鳴らしてもしゃーないし)。
音のこと言い出したらキリがないのであるが、一回ライブを見た体験でいえば、「鳥肌立ちました」と言っておきます。いわゆるJポップからは離れた音で、一般にはとっつきにくい超硬派。ガーンと鳴ってビシッとブレイクが入る、ロックの基本中の基本のカッコ良さが凝縮してると思います。結局は演奏技術、とりわけベースとドラムの基礎構造が異様にしっかりしてるということに尽きるのだろうけど、「しっかり鳴らして息を揃えて止める」という当たり前のことを詰めていくことによって、こんなレベルにまで高まってしまうわけねということを思い知らされました。特に中村達也氏のドラムは、ドラム聴いているだけで満足できるほど好きです。普通に叩いてるだけなのに、ライブでも自然と目がそっちにいってしまうほど目立ちます。
(1997年9月30日:田村)
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