俺はここにいるよ。
 そしていつの日か消えるよ。 
 土砂降りの雨が上がり、
 谷底から白い霧が湧いてくる。
 霧の切れ切れに君の姿が見えた。
 小柄な身体を、
 リンと音が鳴るように立たせ、
 切れ長の目で微笑む。
 まるで昔絵本かなんかで見た
 牛若丸のように。
 ベッドサイドに埋め込まれたホテルの時計は、
 4:43という緑色の数字を音もなく輝かせていた。
 窓辺の冷たいカーテンを開く。
 眼下に見える高速道路には
 オモチャのようなトラックが
 真夜中の町を走り去っていった。
 振り返ると、
 君は静かに部屋のドアの前に立って
 微笑んでいた。
 粉々に砕け再び構成される、
 数珠のような時間の断片。
 その中に、DNAのように君がいる。
 世界がまだ肌慣れぬ幼児の頃、
 俺はまだ3歳になったばかり
 なぜか親の姿はなく
 暗い部屋にポツンと残されていた。
 −−−−−−−−−−と四囲から押しつぶすような現実の圧力に
 かぼそい声で俺は泣いた。
 ほの暗い空間に、君の白い顔と切れ長の目が浮かび
 優しく微笑んでくれた
 俺はホッとして、心からホッとして
 泣くのをやめて、君に微笑み返した。
 いつも君はいた。
 無数に散らばる時間の断片の全てに
 まるでDNAのように、
 まるで牛若丸のように、
 いつも君はいた
 −−−まだ。
     まだよ。
     もう少し、この世界に居なさい。
 
 俺は素直に、コックリと頷き
 滑るように眠りの斜面に吸い込まれていった。
 涼しげな風に吹かれて
 牛若丸のように君は立っている。
 リンッと音が鳴るように。
 俺が俺に戻るとき
 いつも君がいる。
 不安定でいらだたたしい「無音」が
 全てをやさしく包み込む「静寂」に変わるとき
 君もまた現れ、俺は俺に戻る。
 ここには誰も入れない。
 親も恋人も入れない。
 深夜3時
 酔いと澄みがまだらになった頭で
 マンションの自宅の鍵をカシャと開けたとき 
 
 また君が現れた。
 君が現れるといつもそうなるように
 普段は完全に忘れている「あの回路」が作動しはじめる
 「やあ」と俺は懐かしげに微笑んだ。
 でも、君はいつものように微笑んではくれず
 じっと静かに俺を見つめて
 あの切れ長の目で俺を見つめて
 こう言った。
 −−−−−早く、もとの姿に戻れたらいいね。
 もとに戻るさ。
 しばらくしたら。
 −−−−−早く、もとの姿に戻れたらいいね。
 大丈夫。
 俺はまだここにいるよ。
 もうすぐもとの姿に戻るよ。
 それはそんなに先のことではないと思うよ。
 そしていつの日か消えるよ。 
 少しばかり照れ笑いを浮かべて
 君のところに行くと思うよ。
 でも、それは、
 まだちょっと先のことだと思うけどさ。
(2nd,May,1997)