岡部遥奈さん、ラウンドへ
半年間のシドニー生活に一区切りをつけ、岡部遥菜さんがラウンドに旅立つため荷物を預けに来られました。
やあ、お久しぶりで、世間話かたがた話し込んでました。
ジョーカー使わず
彼女、高校でてそのまま来てます。もちろんバイトしてお金貯めて。そういえば、今更だけど、なんで大学行かなかったの?と聞くと、大学で何をやりたいのか分からなかったからとのお答で、ほう、それは珍しい。いい意味で珍しい。なぜって、それは自分の人生に意味を求める気持ちが人一倍強いってことなんだろうね、と。
だって、大学なんか、何をしたいのかわからない「から」行くようなものじゃないですか?ありていに言えば。勿論、これがやりたいからとか、僕のように司法試験の一次試験免除の特点があるから(当時、大学院のある法学部で一般教養を履修したら、だったかな)というプラクティカルな合目的性がある場合もあるけど、多くはそこまで明確ではない。というか、17−8歳の子供に「やりたいこと」なんか、そうそう分かるもんじゃないでしょう。
でもなんか進路を決めないといけないとなると、もっとも傷が浅そうな、できるだけ何も決めないニュートラルのままでいたいという選択肢が大学で、それも私立文系の経済とか経営学部じゃないですかね。高校1−2年のとき、数学や科学が出来るかどうかで文系・理系で強引に分離され、特に理数系に強いわけでもないマジョリティは文系。そして国立と私立だったら受験科目が少ない私立。その私立文系の中でも、法学部はなんかしんどそうだな、文学部は就職ヤバそうだな、で消去法で決まるのが経営とか経済でしょう。普通17歳の少年少女が「経済」なんか興味ないですから(「パレート最適」に美を感じる高校生は滅多におらんだろう)、別に経済がやりたいからではなく、「何も決めたくないから」そうなったというのは、リアルなところじゃないでしょうか。
だから、やりたいことが良くわからないなら、とりあえず大学行っとけ、てなもんで、わからないから行かないという流れは珍しい。でも、よく考えたらわからないのに安くもないお金を注ぎ込んで行くほうが異常だとも言えるし、それが異常でないとするならば、論理的に出てくる帰結は2つ。一つは大学などその程度のものだということ(就活用の入場切符以上でも以下でもない)。もう一つは、自分の人生にそれほど深い意味性を求めていないということでしょう。これは個々人に帰責させるのは酷で、社会一丸となって自分の人生にそこまで積極的な意味性を求めてないような気がする。むしろ敢えて目をそらしているかのように。そうなると、日本社会の不思議なジョーカー、「皆、そうしているから」というオールマイティの動機付けが出てくる。
でもハルナ氏は、そこで積極的な意義を求めた。積極的な意義の感じられないことはしたくなかった。もっと他にあるんじゃないのかと探そうとした。ジョーカーは使わなかった。
失敗特権
で、その積極的な意義とやらは、この半年のシドニー生活であったのか?といえば、昨日話していた限りでは、「あった」と言えるでしょう。なにかというとずっとバイトしていたジャパレスです。シドニー生活は学校とジャパレスだけで、というと何かパッとしない感じだけど、WRONGですよね。形はどうでもええねん。何を得るか、どう気持ちよかったか、ですから。
でもって、このジャパレス、MarrickvilleとNorth Sydney二軒でやってたそうですが、もうポンポコ怒られっぱなし〜。毎日怒られてますのeveryday じゃなくて、every hourの一時間に一回は怒られてます状態で。「大変だ〜」とは思ったそうですが、でもその怒られることに積極的な意義は感じたという。「そりゃそうだよな」と怒られることに納得できたし、自分の至らなさに気づかせてもらい、矯正してもらってるわけですから。
つい先日の最終日。一番最初に注文を取りに行ったお客さんが、常連さんなのかまたやってきたそうです。あとで、聞いたところによると、キャッシャーで精算するときに常連さんは、こういったそうです。「あの子、最初注文取りに来た時は、うわ、大丈夫かなって危なっかしかったんだけど、今はもう完璧だねえ」って。それを仕事中に教えてもらって、あとはもう感動の半泣き状態で仕事してたそうです。
よかったじゃん。積極的な意味があって。
学びポイントはもうムッチャありますよね。一つは、他人は「見てないようで、見てる」ということです。コトバとしては誰でもしっているだろうけど、パーソナルな体験としてこれを持ってるかどうかはデカいですよ。良い場合には、このように気づかないところでちゃんと評価されているという点で。悪いパターンでは、見えないだろうと思ってサボってると、ちゃんと見られてると。「見えない」というのは、技量未熟な自分にとって見えないだけの筈で、そんなもん子供の言い訳(知らないおじさんが入ってきてお皿を割ったんだよ、みたいな)もんで、プロからみたら一目瞭然。客観的な証拠(もしやったらこういう痕跡になってるはずだという経験値による所見)があるもん。奥さんに浮気がバレる時も、そう(笑)。
もう一つは(って、もっと沢山あるけど)、若さの特権だよなあ。若いときは失敗する特権がある。失敗御免、天下御免のご赦免状を持ってるようなものです。だって、経験値浅いんだからしょうがないもん。またまだこれから成長するという伸びしろ特権がある。だからポンポン怒られるけど、それはもうお約束みたいなもの、部活のコーチの叱責のようなもの。でも、年食ってきたら、怒られる機会は減ってくるけど、それは特権ではなく、「諦められる」「深く軽蔑される」「見捨てられる」だけの話で、怒られてるほうがなんぼかマシです。
それに儒教的な年長者絶対を否定したところで、誰にもナチュラルにそれに類する発想はある。だって、そういうのが嫌(センコーが気に食わねえ、大人が嫌いだとか)といっても、彼らの中でも先輩絶対とかあるから同じじゃん。タメとかいう言葉使ってる事自体が、その概念にひっぱられてる証拠。でもって、15歳年上に怒られるのと、15歳年下に怒られるのと、どっちが辛いか?あなたが25歳で、「ったく、使えねーな、お前は」って、40歳の店長から言われるのと、10歳の小学校5年生に言われるのと、どっちが精神的に辛いか?「はい、すんません」ってどっちが素直に言えるかです。
だから若い時に山ほど怒られておいて、あれこれ学んでおいたほうがいいです。客観的に欠点があるなら、早く直して死角を減らしておいた方がいい。人生80年で、20歳で直しておくとあと60年そのミスはなくて過ごせるが、70歳でそれに気づいても有効期間が10年しかないから損。そして、どうせ直さないといけないなら、できるだけ精神的苦痛の少ない方がいい。つまりは、怒られても割りとやり過ごせる若いうちに修了させておいた方がいい。でないと、年食ってから無能ってのは、本当に辛いですよ。特に下からウザがられるのはココロが辛いし(笑)。
日本で年をとると就職が難しくなるという年齢差別の合理的な根拠をあげよ、というと多分そこでしょう。出来もしないのにプライドばっかり高くて、ちょっと注意すると鬼のような形相で睨みつけて、もうやりにくいんだよなあって。年下上司からしてみたら、そう見えるでしょう。多少出来は悪くても、素直に「はいはい」言って、すくすく学んで伸びていく人の方がずっといいですよ。教え甲斐もあるし。
薬か毒か
もっとも、これは「怒る」というのが、正しく「叱る」=矯正・教育である場合です。単に不機嫌を八つ当たりのように爆発させたり、サディスティックに虐めるのが好きだとか、無理やり自分の口から辞めると言わせるためにやってるとか、教育成分が少なく、人間のもつ邪悪成分が高いときは、それは「薬」ではなく「毒」でしょう。いわゆるブラックであるかどうか、いろいろな給与とか労働条件とかシステマティックなところで語られるのだけど(労働法上の救済を求める以上は、その形にもっていかないとならないのだけど)、本当の部分は、この薬なのか毒なのかの部分かもしれません。それは会社単位で判断するというよりは、直近上司と兄弟子のパーソナルな相性で決まる部分が大きく、多くの場合は単なる「運」です。そして「運」というファクターが入ってきた時は、トライ回数を増やすという正しい返し技があるのであって、無理に我慢してもしゃーないです。とにかく我慢=辛抱=忍耐=努力=成長、、と、夜空の星座のように一直線のように並んでいるのですが、必ずしもさにあらず。そうである場合も多いけど、そうでない場合もある。我慢以外の成長もある。そこを見極めるためには、やっぱ、自分の周囲の物事をちゃんと見るしかないんじゃないですかね。「積極的な意義はあるか」と。