2002年Mattieの3大ニュース

2002年もあっという間に過ぎてしまいました。大学での勉強が終わり、仕事量を増やしよく働いた年でした。

お腹の肉を引っ込ませようとジムでがんばりすぎて、腱鞘炎になったり、左親指にとげが刺さっていたのを知らず、そのとげを中心にコリコリとした肉芽形成ができ、手術で取ったりと健康だけがとりえだった私にとっては、ちょっと驚く一年でした。

さて、Mattieの2002年の3大ニュースは下記の3つです。



第1のニュース:仕事を変えた

私が看護師としてオーストラリアで働き始めて10年が経ちました。最初の一年は就職先が見つからず看護婦斡旋会社を通していろいろな病院や施設で働きました。

その後、The Memorial Hospital に就職し9年が経ちました。この病院は英国教会が貧困で病弱な人を助けるために始めた利潤を求めないプライベート病院として発展してきました。18世紀のゴシック建築を残す美しい建物は州の法律で手を加えてはならないと決められ、それぞれの部屋は天井が高く壁も一部屋ずつ違った色が塗られ、カーテンもその壁の色に合わせて選ばれており、アデレードでいくつかの病院を見ましたが、私は一番きれいな病院だと思っています。


働き始めた時、英語のできない私を支え、いろいろ教えてくれたすばらしいスタッフのおかげで、私はオーストラリアで看護を続けることができました。

言葉の通じる日本へ帰って再就職したときのほうがよほど大変でした。物のありかを聞いても、皆、忙しいから簡単にしか教えてくれず全然見つけられない、全くしたことのない処置を準備して介助につくよう言われたり、術後の看護について先輩に聞くと皆、違うことを言うので看護手順マニュアルを作りましょうと提案すると、そんなことは自分で学ぶことだと相手にされず…と日本で仕事に慣れるほうが大変でした。

私がオーストラリアで看護婦をすることができたのは、多国籍国家のオーストラリアの寛大さと温かさのお陰だと心から感謝しています。


日本では全く経験したことのない、眼科・耳鼻科・整形外科・婦人科、そして脳外科看護を経験し実に多くのことを学びました。

しかし、長く続けていると色々なことがあります。まず、就職当時のすばらしいスタッフは皆、別の病棟や病院へ移りほとんどいなくなりました。この一番の原因は、病棟管理でした。

前の婦長がダーウィンへ行くため辞め、新しい婦長が来て、それまでの成人病棟に突然、小児科を作ろうとしたのです。そのワンマンな管理に多くの先輩看護婦が病棟を離れ、私も病棟変更を希望し脳外科病棟に移ったのです。この婦長は結局、皆の支持を得ず、3年程で辞めてしまいました。

次に看護部長が辞めて別の病院へ行ってしまいました。この看護部長は大変気さくで、廊下で会うといつも「Hi、Mattie」と声をかけてくれ、日本から医療従事者や看護学生の訪問があった時も喜んで見学や実習を受け入れてくれていました。

ところが、次に来た副看護部長が日本からの訪問に否定的で、「日本人の医療従事者が来てもその人達がオーストラリアへ就職するわけではないし、日本人の患者が多く来るわけではないので、受け入れても病院の利にならない。」と言われ、病院見学などを他の施設へ頼まなくてはならなくなりました。この人も数年で他の病院へ行きましたが。


そして2000年、プライベート保険を解約する人が急増し(オーストラリアの医療・看護・豆知識の公立病院・私立病院参照)病院の存続が危ぶまれるようになり、他の3つのプライベート病院と合併し、サウス・オーストラリアで最も大きなプライベート病院組織となりました。

2000人以上の職員を持つ大組織になり、コスト削減のため、様々な職種の人達がリストラになり、看護の質を維持できなくなってきているという印象を持ち始めました。

長く勤めると、ほとんどすべてのスタッフと顔見知りとなり、Drとも信頼関係が取れ、また、勤務表も希望が通りやすくといいことも多かったのですが、ずっと興味を持っていたホスピスで働いてみたいという気持ちもあり、とうとう2002年末に病院を変わりました。余裕ができたら、この新しい病院についてご報告します。



第2のニュース:始めて個人の看護研修受け入れ

今まで、母校の看護短大の看護科2年生対象の看護研修や看護大学の先生方の施設見学アレンジや通訳などをしてきましたが、この度始めて、個人の看護婦さんを受け入れて研修を行なうことができました。

これは参加されたCさんが大人で、一ヶ月と長期にわたって来ることが可能だったため実現しました。以前にも何度もワーキングホリデーで来ている看護婦さんが病院を見学したいと問い合せてきましたが、オーストラリアではちょっと看護婦長に声をかけてOKをとって…という簡単なものではなく、すべて正式書状で依頼し、その日のために休みを希望し・・と準備がなかなか大変で、実現できずにいました。

Cさんは英語を学びたいという気持ちも持っていたので、最初の2週間はフルタイムで英語学校へ行っていただき、正看護婦で日本で英語を教えた経験のある友人宅にホームステイしてもらいました。

もし4週間看護研修だけをしたいというのでしたら受け入れは不可能でした。看護研修としては、一人のために組織だった内容をくむことはできませんでしたが、手術室見学や病棟見学、高齢者施設とホスピス見学などは含めることができました。


ここ数年、オーストラリアの医療損害賠償保険の掛け金は高騰の一途にあります。アメリカのように、医療裁判を起こす人が急激に増加し、大きな医療損害賠償保険会社が倒産したため、病院は非常に神経質になり、Cさんが来た時には、個人で医療損害賠償保険に入ることは困難だからということで病院での実習は許可されませんでした。

それまでは、英語のできない日本人の看護学生が病棟に入って、現地のナースに一人づつついて実際の看護を観察し、バイタルサインのチェックなどの手伝いをさせてもらえていたのです。

いろいろな条件がそろって研修は成り立つので、今後また個人に対する研修が可能かどうかは定かではありませんが、大変いい経験をさせていただきました。またCさんとは良い友人としてお付き合いさせていただいています。




第3のニュース:ヨーロッパ旅行に行った

2002年10月末よりロンドン、ダブリン、パリ、日本と一ヶ月半旅行してきました。イギリスはトニー・ブレア主相がアメリカの軍事活動を支持しているのでテロが心配でしたが、何事もなく終わり「ホッ」。ヨーロッパは10年以上前に数回行きましたが、ロンドンはいつも行きと帰りの中継地で、ゆっくり見たことがなくやっと満喫できました。

それにしてもイギリスのポンドは強い。オーストラリアドルで換算するとすべては3倍の値段、日本円では2倍。10年前に作った円のトラベラーズチェックが残っていたのでラッキーでした。


ロンドンは物価の高い街ですが、高い入場料を払っても行く価値はあったと満足できるところが多かったですね。オーストラリアの観光地は、「こんなに入場料が高いのにたったこれしか見るものはないの?」というのが多い気がします。

オーストラリアの方が、多国籍人種を受け入れていると思うのですが、イギリスはアフリカ系・インド系の人がたくさんいて、オーストラリアよりもっと人種が入り混じっている印象が強かったですね。昔の植民地時代の名残りでしょうか?


それにしてもイギリスはあんなに小さな国なのにどうしてこんなに力があったのだろう???教会や古い建物を見るとよくこんなにお金をかけられたものだ…と驚くしかなく、英国美術館ではそのコレクションにびっくり。

実は昔、エジプトのカイロ博物館で古代の遺跡や遺留品をたくさん見ていたので、ヨーロッパではエジプトコレクションは飛ばして見ていこうと思っていたのですが、行ってみると目を見張るようなコレクションばかり。イギリスは莫大な数のしかも最高の遺跡をエジプトから運んだようで、無視することはできませんでした。私は声を大にして言いたい。

「ちょっと、イギリスさん、こんなに持ってきちゃっていいの?」


次にIrelandですが、ダブリンは驚くほど人口の若い国で、30歳未満の人が人口の60%だそうです。そのため小さな街ですがにぎやかで、ファッションもステキ、また大変‘フェア’な国だという印象を持ちました。

なぜかというと、例えば観光地へ行くと日本でもオーストラリアでもロンドンでも、絵葉書一枚の値段をとっても行くところすべてで値段が大きく違ったりするわけですが、ダブリンではすべて値段が一定でした。また、空港のお土産店は市内の店より何かと高い値段をつけることが多いのですが、ダブリン空港では、市内の店より安く売っていました。

観光局で大きなパンフレットでアイリッシュダンスが見られるパブを宣伝していて、行ってみたいけどきっと高いだろうと思ったら、ここもダンスは無料で見せてくれ料理も安く、とにかくダブリンは‘ふっかけ’がないのです。


また、アイリッシュ・ウイスキーの味見、ギネス工場見学、勇気を出して、一人でアイリッシュプブでギネスとランチを頼み、本場のアイリッシュコーヒーを味わいました。街そのものには、ロンドンのようにたくさん見るものはないのですが、絶対お薦めです。


パリは以前にもゆっくり行ったことがあったのですが、その時はバックパックの貧乏旅行で、お金を使わないように、ただ街を歩き回っていたように思います。今回は5日間の「Museum Pass」というのを買い、普段聞いたこともない博物館や美術館を訪ね、どれも思った以上に大きくコレクションもすばらしく満足しました。パスがなけれべ、絶対足を運ぶことはなかったでしょう。また、ピカソとモネのプライベート美術館も良かったですよ。お薦めです。

しかし、パリは危険です。着いた当日、駅からホテルへ行くメトロ(地下鉄)のなかで、一緒に行ったジャスミンのウエストバックに手を入れようとしている男を目撃、メトロは込んでなかったから私の目の前で見えたので、思わず「ジャスミン、バックに気をつけて。この人、手を入れようとしてるよ。」というと、その男は英語で「僕は何もしていない。」と言って次の駅で降りました。(フランスは英語を話せない?話さない?人が多い)

後からジャスミンに聞くと、ジャスミンの目の前の別の男がスーツケースに体を押し付けてきていて「何するのよ。」と言ってたのだそうです。つまり、グループで、一人が注意をそらしている間にもう一人は後ろから手を出そうとしていたようです。私の後ろの男も私をにらんでいたのですが、きっとこの男もグループの一人だったのではないかと後から思いました。この三人の男は皆アラブ系の黒い髪の毛と濃い髭の人達でした。


一緒に行ったもう一人のフィリピン人ナースはエッフェル塔の側で若い黒人に財布をバックから抜かれ、私も凱旋門でメトロを降り、背中のリュックを見るとファスナーが全開で「カメラを取られた?」と焦りました。

メトロの中では、現地の人達でも皆自分のバックを膝の上にしっかりと抱えている姿を見ていたので、私もよほど気を付けなければとかなり注意を払い、パスポートや現金はいつも体の前のコート下に隠れるポシェットに入れていたので無事でした。

メトロを降りてエスカレーターで地上に上がる時、リュックを背中に背負った時に開けられたのでしょう。この出来事は天気のいい午後一時頃、人がたくさん行き来する中でおきており、まさか、こんな明るい時にでくわすとは思いませんでした。


とりあえず何も取られた物はなくホットして、観光を続け、翌日出かける時、母の形見のモヘアのマフラーがない事に気づきました。前日は、天気が良く暖かかったのでマフラーを取りリュックの一番上に入れておいたのでした。そのため、マフラーだけリュックから抜かれ、それが赤のタータンチェックで目立つ物だったので、それ以上抜かれずにすんだのか?どうかわかりませんが、とにかく、母に救われた思いがしました。

さて、この時、地上に出てリュックが開いているのを見つけ、焦った私は落ち着くために、開いてるベンチを探しそこに座ってカバンの中を調べていました。すると後ろから、突然、首筋にガーンと何かあたったような衝撃を受け、誰かが石でも投げたのかと思って見てみると、背中合わせにあるベンチに座った髪の毛がバサバサの40代くらいの白人の女の人が、すごい顔をして私をにらみつけていました。この女に殴られたのだと思い何か言い返そうかと思ったけれど「この人も精神科疾患でもあるのだろう。」と思いすばやくそこから逃げました。


とにかくパリは変な人が多いんです。メトロの中で突然演説を始める人(フランス語なので意味はわからないが)、アコーディオンや笛を吹き始め、それから紙コップを一人一人の乗客の前に差し出してお金を催促し、誰もくれないと次の車両に移る者、犬を連れてメトロに乗り、片側の座席から中央の通路に渡って次の座席まで体を伸ばして寝転がり、その下で犬も大きな顔して通路に寝ていたり…・。

ホテルでは朝の4時頃、誰かの叫び声で目覚め一体何があったのか?と、2階の窓から外を見ると30代くらいの男が(酔っ払い?)向かいのビルの2階に向けて叫び続けている、これが30分は続きました。

その数日後、朝の8時頃、今度は女の叫び声が聞こえて、窓から通りを見ると、30歳位の女が道路を隔てて、誰かを怒って叫び続けており、ラッシュアワーで車がどんどん来る中、道路を渡り始めて車を止め、その車の運転手に指を指して何か叫んでいるのです。「アタシを轢いたらただじゃ済まないよ。」くらい言っていたのでしょうが、パリではおかしな人をたくさんみました。


しかし、街の作り、ショッピング、美術館、教会など見ごたえのあるものばかりで、安くておいしいレストランも見つけ、パリはパリで大変面白かったです。

その後、日本では京都、名古屋、長野、北海道と寄って、札幌では久しぶりの看護学校時代のクラス会に出席し、大変充実したホリデーとなりました。

今回、ロンドン、パリ、東京を見て感じたことは「都会はどこも同じだ。」ということです。言葉や建物の形などはもちろん違いますが、都会では皆、煙草を吸ってその辺に投げ捨て、壁は落書きであふれ、街の中では若者はファッションや最新の流行を追い、イラクで戦争が始まるかもしれないなど気にかけてもいない…。そういう意味では、オーストラリアがあまりに他の国と違って「クリーンな国」なんだと感じました。

こうしてMattieの2002年は過ぎ去りました。これから個人旅行をする人のために、近いうちに「Mattieのお薦めヨーロッパ」をお知らせしますね。


2003年2月8日 Mattie


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