オーストラリア医療・看護 豆知識



カルチャーショック No2



放浪ナース 2003/05/01

私は2003年1月からカソリックのプライベートのC病院で「放浪ナース」として働いている。

C病院に履歴書を送ったのは、去年の8月だった。9年働いたM病院を辞めるつもりは全くなかった。大学で勉強していたため、M病院ではずっと週3日しか働いていなかった。大学が終わり時間に余裕ができたので、M病院での勤務日数をふやす代わりに、ずっと興味があって勉強してきた‘ホスピス’のあるC病院で週に1〜2日働いて、実際のホスピスを見てみようと思ったのだ。

だからM病院ではそのまま正職員として働き、C病院では臨時職として、病院が忙しくて追加スタッフが必要で私も時間がある時に働くという形をとるつもりだった。そして、私はホスピスに興味があるので、ホスピスで人手が必要な時は優先して廻してほしいと頼むつもりであった。このような融通が利くのがオーストラリアの看護の特徴だろう。特に看護婦不足の状況の中で、私たち看護婦はかなりのわがままを要求できるようだ。


面接で合格し臨時職として働くという契約を結んだのは10月だったが、ヨーロッパ旅行へ行くため、仕事は12月まで始められないと伝え、そのままM病院だけで働いていた。

ところが、この新しい仕事が決まった後で、新聞にM病院の所属する医療団体が大きな負債を抱え、倒産するかもしれないというニュースがすっぱ抜かれた。(M病院は2000年に他のプライベート病院と合併し大きな医療団体として存在していた)

オーストラリアでは10年勤めると3ヶ月の有給休暇がもらえる。あと1年で10年目に達しようとしていた私は、病棟に不満も出てきてはいたが、10年はがんばろうと決めていた。

ところがこの病院危機ニュースに伴い行なわれた看護婦組合の臨時ミーティングで、銀行は12月31日までしか援助を保証しないと言っているという情報が入った。するとその後はどうなるのだ?12月末で倒産したら9年間働いた退職手当などがすべてが「ゼロ」になるのではないか?旅行から帰るのが12月中旬、それからどうするかを決めるのでは遅すぎるのではないか?などいろいろ考え、思いきって退職を選んだ。



旅行から帰り、C病院で「放浪ナース」の勤務が始まった。正職員として勤務表が作られるが(希望がすべて通る、つまり自分で勤務表をうめることが許される)、どこの病棟で働くかはその日、病院へ行くまでわからない。病欠や忙しくて追加スタッフが必要な病棟へ廻されるのだ。

驚いたことにこのような形で働いているナースがC病院には10人以上もいた。以前は一つの病棟で働いていたが、子供ができて勤務に復帰してから週に2〜3日、このような形で働いているという人が多い。勤務希望がすべて通るのはこの「放浪ナース」だけだからだ。

私はいずれホスピスで働きたいと思うが、ホスピスケアは非常に特有で、最新の医療技術は使わない。そしてこれらの技術や新しい医療機器の使い方は離れるとすぐ忘れ、自信をなくしてしまう。だから今は外科看護と両方並行して経験していきたいという気持ちと、病棟の雰囲気や働きやすさなどは実際に中に入って働いてみなくてはわからないから、「放浪ナース」として病棟を廻ってみようと思った。


しかし、これは思った以上に大変なことだった。(3ヶ月たち、やっと過去形で言えるようになった)。毎日違う病棟で、知らないスタッフと働き、物品のありかやその病棟独特の看護やDrのやり方などをすべて聞かなくてはわからないのだ。そして、時には忙しくて聞こうと思ってもスタッフが見つからないのだ。

C病院の患者一人に対する看護時間の配分はM病院より厳しい。つまり一人の看護婦が受け持つ患者数が多くケア度も高くて、やってもやっても仕事が終わらないという印象を受けた。道端で偶然会ったDrと話をしたら「それはカソリック病院の特徴だろうね。シスター(尼さん)は、必死に働くのが好きだからね。」と言っていた。


週に3回、準夜の前にジムに行く生活を何年も続け、体力には自信があるほうだが、病棟が大きいのと、物品のありかがわからず無駄な動きも多く、とことん疲れきった。「まるで犬のように働いている。」こんなことを言ったら犬に悪いのかもしれないが、心底そう思った。

おまけに最初の1ヶ月で足が棒になるくらい忙しい外科病棟勤務が数回あり、「仕事に行きたくない。」「このまま続けたら看護の仕事そのものがいやになる。」と感じた。


日本で神経難病専門病院で看護婦として働き始めたばかりの頃、筋萎縮性側索硬化症の患者さんを受け持った時も、同じように感じたことがあった。

話すことも動くことも呼吸すらも自分でできないが、意識は確かな患者さんが人工呼吸器をつけた人生を送っていた。自分の親のような年齢の患者さんが、コミュニケーションをとれないため歯ぎしり、涙、睨みつけるといった方法でその苦しみ・怒りをぶつけてきていた。

看護婦なりたての私は「白衣の天使」としてその苦しみをすべて受けとめようとした。毎日、夢にまで患者さんが出てきて気持ちが休まる暇がなく、疲れきった。しかし、それ以来、どんなに忙しかったり、難しい患者さんや怠け者のナースと一緒になったりしてもここまで感じることはなかった。


考えてみれば、M病院では、経験ナースとして勤務の半分以上はチームリーダーとして、若いナースや斡旋会社から来たナースのサポートや入退院、次の勤務の調節などにあたり、患者は少数で、自立して手のかからない人を受け持つことが多かった。スタッフナースとして忙しい日にあたっても、どういう時にどういう対処をしたらいいのかわかっていたからさほど苦にはならなかった。

今まで経験したことがない消化器・胸部外科・泌尿器科の術後管理も、わからないことが多く、これも疲労の原因となった。そして万国共通で親切な人もいればイヤな人もいる。聞いても曖昧にしか答えてくれなかったり、露骨にいやな顔をするナースにも会った。

まあ、気持ちはわからないでもない。忙しい日に、その病棟で働いたことが一度もないというナースに来られると、すべて説明しなければならないので時間がかかるし、そのナースがどのくらい動けるのかわからないから、受け入れる側は、かなりの負担を感じるのだ。しかし、それでも猫の手よりはましで、丁寧にアドバイスしてうまく働いてもらったほうがずっとスムーズにいくし、最初にきちんと説明していれば次に来てもらった時に大きな戦力になるのだが…。

ある日の内科病棟での勤務では、申し送りに行くと常勤スタッフは2人だけ、私は放浪ナースで病棟のことをあまり知らず、残りの2人は斡旋会社からのナースという状況で、「これは大変だな。」と内心感じていた。おまけによく話を聞くと、斡旋会社派遣のナースの1人は、準看護婦としてのトレーニングを終えたばかりで、その日が初めての病院勤務ということだった。

たまたま、常勤スタッフがあまりフレンドリーでなかったので、この斡旋会社のナースが2人とも私にいろいろ質問してくるのだ。患者の病状についての質問には答えられるが病棟の細かいやり方は私にはわからない。またこの日、初勤務のナースは斡旋会社から働きぶりを評価してもらうようにと言われてきており、私に評価を頼んできた。申し訳なかったが、常勤ナースの2人に頼んでと言うしかなかった。


オーストラリアで看護を10年経験し(M病院に入る前に看護婦斡旋会社で一年働いた)、積み重ねてきたものを「退職」ですべてなくてしまったのだろうか?自分の選択はまちがいだったのだろうか?と暗くなることもあった。

しかし、振り返るとM病院を去ったことに後悔はなかった。一つの病院に長くいてスタッフやDrとも顔見知りとなり働きやすかったことは事実であるが、その世界しか見えていなかった。どんなに忙しくても皆がチームワークを持って一生懸命働いていると感じられる日は、充実感があるが、以前に一緒に働いていた経験看護婦のほとんどが病棟を去り、ここ数年で病棟の雰囲気は随分変わってきていた。

ナースコールにすぐに対応しないで私用電話やおしゃべりばかりしている若いナースや不機嫌なスタッフがでてきていて、一緒に働いていて仕事が楽しくなくなってきていた。


同じプライベートの病院で、M病院は英国教会、C病院はカソリックに基づいて経営され、距離的にも街の中心に位置し、お互いに車で5分とかからないところにありながら、あまりに多くの違いがあり、両方の病院にいいところも悪いところもたくさんあることがわかった。

オーストラリアは看護のスタンダードが一定していて、だから斡旋会社のナースが毎日違う病院へ行っても勤務が勤まると思っていたが、サウス・オーストラリアという一つの小さな州の、同じプライベート病院でもこんなに違いがあるということは驚きであり、いままで自分がいかに「井の中の蛙」だったのかを知った。


M病院を離れてみると、あの病院は本当にいい病院だったと感じられることも自分にとってはうれしい発見だった。そしてどこへ行っても大なり小なり、同じような問題を抱えていることもわかり、様々な面で勉強になった。

ちなみにM病院の属する医療団体はメルボルンのDrグループが持つ個人会社に管理権を買い取られ、いままでNon Profit Organization(利潤を求めない組織、つまり病院の儲けはすべて組織や職員に還元され、特定の人の儲けにはならない)として存在していたが、これからは利潤を求める組織として活動を始めることになった。

利潤を求めていくためには、スタッフにも患者さんにも経営の効率を求めることになり、M病院の良さや特色は変わらざる得なくなるだろう。とても残念なことだ。


それにしても人間の体というのは実に正直なものだ。もともと緊張やストレスで過敏性大腸炎がでて、極度の便秘になり薬が必要だった。私の過敏性大腸炎は、ストレスのためS字状結腸が過度に動きすぎるため、便から水分がどんどん吸い取られ、ガチガチに堅いウサギの糞のような便になる。

この度、下剤を飲むとますます便秘がひどくなるという状況に陥り、「これはまずい。」と思った。「仕事に行きたくない、憂鬱だ」と感じることがあったが、自分自身、ここまで追いこまれているとは思わなかった。

最初は下腹がぽっこりと膨れ、ストレスで太ってしまったと思った。その上、朝は胃もたれ感があり、腹部の触診ではところどころに固いものが触れ、もしかして卵巣癌か?大腸癌か?などと考えたりもした。下手に医療の知識があるとすぐに最悪の事を考えてしまうのは私の悪い癖だ。

下剤が効かず、治療はリラックスすることしかない。それで始めたのが、自分で調合したエッセンシャルオイルによるお腹のマッサージと指圧であった。そして休みの日は何もせず、ひたすら日本語の面白い推理小説などを読んで過ごした。こうして3週間で薬を使わず体調はよくなった。


オーストラリアでこれから実習に行く人にMattieからの一言アドバイス。わからないこと、できないことははっきり伝えること。

私が外国人看護婦のための勉強を終え、看護婦登録してオーストラリアで働く資格を取った時、大学の先生から注意があった。「君たちには斡旋会社で働くことは勧めない。」過去の先輩で、自分のやり方で(聞かずに)独自の看護をして問題を起こした人がいるということだった。(詳しい内容は教えてもらえなかったが)国も違えば文化も違うのだから、「これでいいのかな?」と思うことは、どんなことでも聞いた方がいい。

病棟に看護学生や斡旋会社のナースが来た時、その人達がどんな小さなことでもいろいろ質問してくれると信頼してまかせられると感じる。反対に何も聞かず、無難にやっているような時、大丈夫なのだろうかと心配になる。

今まで働いたことのない病棟ですべてがわかってしまうほうがおかしいのだ。わからないことは恥ではない。わからないことをわからないと自覚できることはすばらしいことなのだ。

といっても、英語力、特に医学用語の語彙が少なく、自信がない時は聞くことに勇気がいる。「こんなことを聞いたらバカだと思われるのではないか?」と不安になって何も聞けなくなってしまう。

でも看護については質問できる。この患者さんを移動させる時、何に気をつけたらいいのか、何をしたらいけないのか、どこまで動かしていいのか?また使ったことのない輸液ポンプなどは一度や二度使い方を聞いただけではマスターできない。だから自信がない時は何度も頼んでチェックしてもらう。間違えを起こすことのほうが大変なのだ。解剖用語はうちに帰ってきてから調べても間にあう。

今まで経験したことがない看護への挑戦は、医学用語も辞書を引かないとわからない言葉がたくさんあるし、細かなことも聞かなくてはならず時間がかかるが、学ぶことも多い。私はいまだにわからない医学用語をメモ帳に書いてきて調べている。


それにしても最初の3ヶ月で最も忙しく最悪の勤務にあたったようで、その後は、あそこまで忙しい日はなく、スタッフも親切で(これも、最初に不親切なナースに出合ったようだ)、ゆっくり話してみると、忙しい時は皆、私と同じように感じていたとわかった。とにかく一生懸命働けば、認めてくれ大事にしてくれると感じられるようになった。

実はC病院には、元、M病院で働いていた顔見知りの看護部長やナースが4人くらいいて、廊下で会うと声をかけて励ましてくれる。「放浪ナース」をしているお陰で、各病棟のスタッフも早く私の顔と名前を覚えてくれ、廊下ですれ違っても声をかけてくれるようになった。

ありがたいことに外科と内科病棟から常勤スタッフとして働かないかと声がかかったが、しばらくはこのまま「放浪ナース」を続けたいと思っている。



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