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これらの記事は1997年から書き始めたもので随分古い!!と思われるかもしれませんが、これらは今も普通にオーストラリアの病院で見られることで、自分でいうのもなんですが、結構、おもしろいです。日本の病院で当たり前のことがオーストラリアの病院で通用しなかったり、その逆の場合もあるオーストラリアの看護事情を、マティの失敗談も含めてご紹介します。
※ここで紹介するエピソードに登場する人々のプライバシーを保護するため、すべて仮名を使っています。
日本の看護学校1年生の初めての病院実習で、一番印象に強く残っているのはシビンの扱い方だった。
患者さんがシビンを使っていることを訪問者に知られると非常に恥ずかしい思いをするので、廊下を持ち歩くときはカバーを掛け、病室内では目立たないところに置き、絶対に食事をするテーブルにはおいてはならないと頭にたたき込まれた。
オーストラリアの病院へ行ってまず驚いたのが、シビンが床頭台やオーバーテーブルの上にポンと置かれていることだ。中にはシビンをテーブルの端において食事をしている人もいる。これが一番最初の大きなカルチャーショックだった。
昔、ホスピスでボランテイアをしたときのこと。緊張でビンビンの状態で面接に行き、働く許可を得たのだが、このとき私の頭の中に「この人は総婦長のMRS.Hだ」ということがインプットされた。
一緒にボランテイアを始めたダイアンは、すぐみんなと慣れて、総婦長のこともファーストネームで呼ぶようになった。私は病棟の看護婦さんたちには毎日あうし、名前で呼ぶことができたが、総婦長のことだけはどうしてもファーストネームで呼ぶことができなかった。
この人は偉い人、尊敬しなければならない人という日本の常識のカラからでることができなかった。(もちろん今は総婦長も理事長もみんなファーストネームで呼んでいるが)
オーストラリアでは職場で電話対応する時にも普通ファーストネームが使われる。転院調整のため他の病院に電話をすると、「Aホスピタル、デビー スピーキング」、つまり「A病院のデビーです。」とすぐファーストネームの返事があるのだ。
だからMattieが病棟で電話に出る時は「クラーク病棟、Mattieです。」となる。実は各病棟にも名前がついているのだ。
大きな大学病院や公立病院では、1A、1B、1C…、4A、4B…、などと番号で1A病棟、2B病棟…と呼ばれたりしますが、Mattieの働く病院ではすべての病棟にもデービッドソン、ペリーなどと名前がついている。これも個人を尊重する文化の現われなのだろう。
つまり子供のいる人を一食多に「おばさん」、「叔父さん」と一つの集団として呼んでいる日本との違いではないかと思う。ところでMattieは日本に帰ったとき、姪におばさんとは呼ばせない。だからMattieの姪達は物心ついたときからファーストネームでMattieのことを呼んでいる。
マティは今、アデレイドにある私立病院で働いているが、苦労してようやくこの正職員の仕事を得た3年前のこと。ユニフォームがあるが注文してから6週間待たなくてはならず、仕事始めには間に合わないため、それまで何か着る物はあるかと聞かれ、紺のキュロットスカートと白のブラウスを着ますと答えた。この病院の柄入りブラウスがくるまでは、白が一番無難だろうと思った。(看護豆知識のユニフォーム参照)そしてマティは白のブラウスを買った。
マティが働き初めて6ヶ月から1年目位の時、新しく数人の看護婦が入ってきた。驚いたことに前の病院のトレードマークの入ったブラウス、黒や紫のポロシャツ、Tシャツを着て働いているではないか。
マティも前の病院で着ていたブラウスは持っていたが、はっきりとどこのものかがわかるブラウスを着ることは失礼に当たると思った。また、病院内で黒や紫色のポロシャツを着るなど頭の片隅にも浮かばなかった。
わざわざ白いブラウスを買って着る者などマティの他にはいなかった。マティの常識の範囲にはないことが普通のこととして起きるのは、やはり文化の違いなのだろう。
マティとほぼ同じ時期にカトリーナも正職員としてM病院で働き始めた。カトリーナは看護婦の資格を取って1年も働かない内に子供ができて仕事を辞め、17年ぶりに看護婦に復帰してきた38歳の女性だ。仕事復帰のため1年間再トレーニングを受け、働く資格を取ったが、経験のない彼女はなかなか仕事に就くことができなかった。
M病院に電話をして相談してみたところ、そこで行われている重症看護コースに参加したら、仕事を得る可能性があるといわれ、カトリーナは早速そのコースに入った。コースを終了してすぐ仕事を申しこんだが断られ、頭に来たカトリーナはすぐM病院に電話をし、「あなたのいわれたとおりにコースを終了したのにどうして自分は仕事に就けないのか」と抗議の電話をし、臨時職員の職を得、3ヶ月後正職員になった。
カトリーナはすごく気が強いとか、きかないとかいうわけではない。マティが不合格の手紙を受け取ったら、自分に力が足りなかったんだとあきらめるだけだっただろう。これも文化の違いだなとびっくりした。
オーストラリアで初めての病院実習は、分厚い英語の壁にぶつかり、大変つらかった。患者さんに接するよりベッドメーキングをしている方がずっと気が楽だった。
ある日、ナースにTさんの点滴が終わったから抜針してきてといわれ、それなら私にもお茶の子さいさいにできると張り切って行き抜針し終わった時、そのナースがやってきて、「デイスポのグローブをはめないとだめじゃない」と叱られた。「えっ?たかが抜針でグローブはくの?」とびっくり。
その後、働き初めてわかったことだが、入れ歯を洗うのにもデイスポのグローブをはめる。日本でそんなことをしたら、無駄使いだとさんざんおこられるのに。
オーストラリアで初めての病院実習で、輸血をしている患者さんを受け持った。1パックが終了し、交換を頼まれ次のパックに取り替えたら、血液製品は全てグローブをはめて処置するよう注意を受けた。輸血パックを交換後、カラのパックを汚物処理室のゴミ箱に捨てた。
申し送りが終わってから臨床指導者のパットが、「輸血パックはどうしたの?」と聞くので捨てたと答えると「えっ?」、なんと使用後の輸血パックは、患者に輸血後何か症状がでた時、パックに残っている血液を調べるため2ー3日は保管するという。
あわてて汚物処理室に行くが、ゴミはすでに回収されていた。ラッキーなことに外につまれた大きなゴミ袋の山はまだ残っていた。パットと二人で一つずつゴミ袋を開け、輸血パック探しをし、4つ目くらいで発見。よかった。パットはとても優しく本当に助けられた。
オーストラリアには男の助産婦がいるし、看護士が女性患者の導尿をすることが許されているのに、看護婦・士が男性患者の導尿をすることは許されていない。日本では何十回としていたのに。
看護斡旋会社で働いていたとき、よく行ったC病院の看護部長は30台中頃のとても感じのいい人だった。どんなに忙しくても決していらだつことがなく応対してくれた。顔を見るとこわそうなのだが、話すと笑顔になり優しかった。
ある時、この人はHIVプラスなのだと看護婦の一人が教えてくれた。「へー、あの人はゲイか、そういえば顔色が悪くてやせている思った」と思った。彼の仕事は管理職で直接患者看護をしないので仕事を続けられるということだった。この人は2年後に亡くなったそうだ。
オーストラリアでは筋注は、お尻か大腿にする。肩にも時々するが少ない。大腿の筋注は日本では禁止されていて、したことがない。(日本でも昔、乳児の筋注は大腿を使っていたが、それが原因で足に障害を持つ者がでたため禁止となったときいている)
最初の6ヶ月は患者さんが大腿に注射を希望したとき、他の人に頼まないと恐ろしくてできなかった。
オーストラリアの患者さんはベッドでパンツをはかない。術後の状態が落ち着き病院のガウンから本人のパジャマに取り替えるとき、男の人はたいていパンツを脱いで、パジャマの下だけはく。女の人も寝間着を着ているときはパンテイを脱いでいる人が多い。文化というのはいろんな事に影響を与えるものだ。
93歳のおばあちゃんが白内障の手術で入院した。今まで眠るときはいつも裸なのでここでも裸で寝ていいかと聞かれ、4人部屋だったがいいといった。そういう習慣なら仕方がない。
こうしてこのおばあちゃんは、半分カーテンをしたまままっ裸でぐっすり眠った。ちなみにパジャマや寝間着を着たことがないとか、持っていないといってTシャツと短パンを持って入院してくる若い患者さんもよく見かける。
初めての病院実習でDay Surgery(日帰り手術)の患者さんの入院アナムネーゼをとった。英語に自信がないためビクビクしながら患者さんの元へ言った。とにかく入院時用紙に書かれていることを質問して空白を埋めればいいと思った。
首の後ろに親指大の出来物がありそれを取るために来た人だった。ピンクが大好きだといい、ピンクのガウンとソックス、ピンクのヘアピン・・と全てピンクの物を付けた54歳の女性だった。
そして「フランキーとよんで」と言った。とても感じが良く穏やかで、おかしな発音で話す私にいやな顔もせず、時には単語のスペルまで言ってくれ助けられた。
質問の一つに「誰と暮らしていますか?」と言うのがあって、書いてあるまま聞くとフランキーは「私はガンで後2〜3ヶ月の命なのでイギリスから友人夫婦が来ていて、弟も泊まってくれているの。」と言った。あまりに予期せぬ言葉に驚いて、その時何と答えたのか、どんな対応をしたのか今も思い出せない。
ただフランキーの優しさと穏やかさ、そして明るい笑顔から死を想像することはできなかった。たぶんフランキーは悲しみ・怒りの時をこえて受け入れの気持ちでいたのかも知れないが、真実を伝えると言うことは、すごいことだ、マイナスの影響を与えるだけではないと思った。
フランキーは一度遊びにいらっしゃいと言って通りの名前を教えてくれた。家もピンクに塗ってあるのですぐわかるからと言うことだった。1ヶ月後、ピンクの和紙で作った箱を持ってフランキーに会いに行った。大きな手入れされた庭のあるほんとにピンクの家だった。フランキーはそれから3ヶ月後に亡くなったと風の噂に聞いた。
準夜勤では申し送りの後、それぞれの患者さんに挨拶に行き、状態を観察するのが日課となっている。35歳の椎間板ヘルニアの手術を受けた患者さんを受け持ち、会いに行った。術前の痛みがひどかったため「術後は楽だ」と、その日の午前中に手術を受けたばかりなのにとても元気だった。
彼女は眼鏡をかけていて、その横にやはり眼鏡をかけた5〜6歳年上の女性が編み物をしながら付き添っていた。顔がそっくりに見えたので「ご姉妹ですか?」と聞くと「これは私のパートナーのメアリーよ。」と紹介してくれた。
付き添いの人がレズのパートナーとは全く予期していなかったので焦ったが、何とか「初めまして」と言ってごまかした。これからは「どなたですか?」とは聞いても兄弟とか姉妹ですかという聞き方はしてはならないと思った。
オーストラリアの麻薬の取り扱いは、日本とは全く違う。勤務の初めと終わりは2重にロックされた棚にはいっている麻薬を数えることから始まる。MSコンチンなどの麻薬系錠剤も全てロックされている。
投薬するときは必ず2人のナースが数を数えてサインし、それから2人で患者の元へ行き患者の名前と病院登録番号を与薬簿と照らし合わせ、患者がきちんと飲むか注射を受け終わるまで看護婦2人がついていることが原則となっている。
そのかわりアンプルはゴミ箱に捨てるし、例えばモルヒネの2分の1アンプルしか使わなかったら、残りは流しかゴミ箱に捨てる。場所が変わるとやり方もころっと変わるものだ。
日曜日の準夜勤務の申し送りで、明日、腰部の手術を受ける56歳の女性ソフォについて「かなり病院慣れした人で、入院時記録を取りに行くとすでに写真がベッドの周りに飾られ、アレルギーのリストを出して待っていました。また手術には催眠術士が入ることになっており、麻酔医の承諾がとれています。」と言うことだった。
フーン、催眠術士が入るとはどういうことなのか?と思いつつ、変わった人らしいので少し警戒しながら患者訪問に行った。話しててみると非常に感じがよく、なんと専門学校で外国人学生の英語の指導をしていると聞き、たちまち親近感を持った。
食後時間があったので、催眠術をかけて手術を受けることについて聞いてみる。
「私は20年前に整形の手術を受けたのだけれど、そのとき骨を金槌でガンガンただく音が聞こえ、全身麻酔だったのに痛みを感じたの。手術はしばらく受けてなかったけれど去年3回も受けなくてはならず、もうあんないやな体験はしたくないので催眠術の先生に手術に入ってもらうようになったの。もちろん私もリラックスする方法を練習しなくてはならなかったわ。2年前に主人と娘とコンサートに行ってハレルヤを聞いてとてもすばらしかったのを覚えているの。だからテープでハレルヤを聴きながらそのときの状況を思い浮かべ楽しかったことを思い出して、深くリラックスする練習を何度かしたわ。」
「去年の9月に受けた手術ではあのときのコンサートにまた行って楽しんでいるうちに終わったのよ。でも11月に受けた手術では時々、コンサートから手術場に戻されたわ。だから手術が終わっても目を覚まさなかったの。だって私は手術室の天井のすみから手術されている私の体を見ているんですもの、目を覚ますはずないわ。そのときは催眠術の先生が手を握ってコンサートに戻してくれたの。瞼や指先がぴくぴくと動き出すのでわかるんですって。」ということだった。
この話を聞きながら、日本でも一度死んだ人が生き返ったという話を聞いたことがあるが、みんな口をそろえたように、きれいな花畑を越えて一人だけ川を渡ってしまい戻れないでいたところを誰かに呼ばれて戻ってきたら生き返っていたという話が多かったように思う。状況は違うがにているものだと感心した。
さて翌日また準夜でソフォを受け持った。バイタルサイン(血圧・脈拍・体温・呼吸)は正常で問題はなかった。術後、麻酔医に薬について問い合わせの電話をしたとき、「手術のことを覚えているみたいかい?」ときかれ、「その話はしていません。」と答えると、「ああ、しない方がいいよ。」と言うことだった。
その後、主治医の脳外科医が経過を見にやってきて、「手術のことは覚えてる?」と聞くとソフォは「全く覚えてません。」とのことで、すべてうまくいったようだった。本人がそれで満足し、費用も自分で払うのだし、こういうことがあってもいいんだなあと思った。
腰の手術のため入院してきたイタリア人のサムは、術後も強い痛みを訴え、退院が長引いていた。ある日曜日の準夜勤の時、夜7時頃、ぞろぞろと山のような人たちがサムのベッドサイドにやってきた。ワイワイ・ガヤガヤその騒々しさはすごかった。
サムは4人部屋で(日本だったら10人部屋にしてもおかしくないくらいの広い部屋、この病院では4人部屋以上はない)、同室に78歳のジャックが尿路感染症から幻覚が出て入院してきたばかりだった。
この部屋を受け持っていた看護婦は斡旋会社からきた人で、その日チームリーダーだった私にところにやってきて、ジャックが落ち着きなく、不穏状態になってきたのでサムの訪問者を何とかできないだろうかと相談にきた。
行って見て驚いた。サムのベッドを囲んでケーキやシャンペン・ジュースが並び、あまりに人が多くてかき分けて入っていかないとサムの姿が見えないくらいだ。今日はサムの奥さんの誕生日でお祝いをすることは先週看護婦に話し、許可を得ていると義理のお母さんが言う。
もちろん私たちは誕生祝いをしたいという人を拒否しない。オーストラリアの人は誕生日を非常に重要なものとしてよくお祝いをする。長期に入院している人に病棟でケーキを取り寄せてお祝いしてあげることもある。
しかしやはり常識というものがあるものだ。ここは病院である。サムの訪問者の人数を数えてみると大人・子供を含めて25人いた。この人たちがイタリア語でワーワー言っていたら、誰でもおかしくなってしまって不思議ではない。特に幻覚が出ているジャックには気の毒だ。
それで「もっとゆっくりできる所があるからついてきて」といってサムを含めて総計26人を3階の病棟から1階のスタッフ休憩室へ案内した。この間、義理のお母さんは、私に何度も『シャンペンはいつ持ってきてくれるの?』と半分冗談・半分本気の口調で言っていた。
病棟に戻りその静けさ安心しながら本当に常識の観念は国によって違うのだなーと驚いた。ジャックは病室が静かになると薬を使わなくても落ち着きが出てきてホッとした。
初めての一人旅でニュージーランドのユースホステルへ泊まった時のこと。大きなダイニングルームとテレビの置いてあるラウンジにソファーと大きなコーヒーテーブルがあった。そこで色々な国の人が交じり合って話をしたり旅の情報交換をしたりする。
そのテーブルで紅茶を飲んで何か食べている人がいた。その人の横に座ったイギリス人の20才位の女の子が、靴を履いたままテーブルの上に両足を乗せたのを見た時は目を見張った。
食事をしている人の横に土足の足を乗せたのだ。しかし食事をしている人もそれを別に気にする様子もなく食べつづけていた。これは大きなカルチャーショックだった。
オーストラリアで看護婦になるため大学へ行き始めた頃、講義の時間に大学の先生が机に腰掛けて話しをするのにも驚いた。そして働き始めてからは、申し送りの時に椅子が足りないと、机に座ったり床にどっしりと座り込んでしまう看護婦や看護学生を見て驚いた。休憩室で、食事をしている人の横でコーヒーテーブルに足をのせる看護婦も時々見かけるようになった。
勤務中、モーニングティ−を取る15分ほどの休憩時間があるが、先輩と一緒にベランダに出て椅子に座ったら、余った椅子を目に前に持ってきてくれて、「疲れたでしょう。足をのせなさい。」と言って自分にも一つ余分の椅子持ってきて靴を履いたまま足をのせてくつろぐのにも驚いた。
病棟で何か高い所から物を取ったっり描けたりするのに椅子に乗らなくてはならない時があるが、もちろんいちいち靴は脱がない。幸い、サウス・オーストラリアは気候が乾燥していて、靴を履いたまま椅子に乗ったりしても泥がつくという事はないが、湿った気候の人は靴を脱ぐのかどうかは疑問だ。新しいシーツを敷いてベッドメーキングをしたばかりのベッドに靴やスリッパを履いたまま寝ている患者さんも時々見かける。
つまり、これは土足文化なのだ。土足で歩く場所に平気で座り込んだり,食事のテーブルに靴を履いたまま足を載せられるのなら、シビンをテーブルの上に載せて食事をするのが気にならないのも)頷ける気がする。
ただ面白いのは入院患者さんの体重を測るとき,男女関係なく半分以上の人が靴を履いたまま体重計にのっていいのかと聞くことだ。それが体重が靴の重さで少し多く出るのを気にして…という感じではなく,靴をはいてのるのは悪いのでは?という感じで聞いてくるのだ。全く文化というのは面白いものだ。
この土足文化が様々な生活習慣に大きく影響しているように思えてならないのは私だけだろうか?
夫のチンがひどい風邪を引き、それがうつって日勤の終わりに声がかすれて出なくなった。頭痛や倦怠感がひどいわけではないが、患者さんの前で咳をしたり、かすれ声で話すのは気が引けるため、病欠をとることにした。
ここ3〜4年は毎年、病院で無料のインフルエンザの予防接種を受けていたので風邪をひいたことはなく、久しぶりの病欠だった。
夫は気管が弱いようで昔は毎年のようにひどい風邪を引き必ずうつされた。そのため、念に一回、GP(一般医・家庭医)の所へ行かなくてはならなかった。
ある時、GPの一人がナースは患者さんから病気を移されるリスクが高いからインフルエンザの予防接種を受けたほうがよいと言われた。注射が大嫌いで、病院で無料のインフルエンザの予防接種ができることは知っていたが、受けたことはなかった。それから毎年、病院で予防接種を受け、夫にも同時にGPのところで受けさせるようにしてから、2人とも4〜5年は風邪を引いたことはなかった。
日本にいた時は、一度も病欠を取ったことはなく熱が38度5分あっても働いた。体の調子が悪くても無理をして働くことが美徳だと感じていたし、皆がそうしていたからそれが当たり前だと思って働いていた。
オーストラリアに来ても風邪くらいでは仕事を休んだりしなかった。しかし病棟で頻繁に鼻をかんだり咳をしていたら、先輩からそんな状態では働かないほうがいいと言われた。
いっしょに働く看護婦に風邪をうつす可能性があるし、体力の弱っている患者さんにそんな状態で接するのは良くないことだとはっきり言われた。「そうか、そういう考え方もあるのだ。」と知りそれからは風邪を引いたら、仕事を休むことにした。
最初は「こんな軽い症状で休んでいいのだろうか?」と多少罪悪感を感じたが、無理をして仕事に出ても周りからいい顔をされないことがわかったので、無理はしないことにした。
サウス・オーストラリアでは年に12日の病欠が取ることが許される。そのうち3日間は単独で1日ずつ取った場合、医師の診断書がなくても1日分の給料がもらえる。2日以上続けて病欠を取る場合は医師の診断者がないと給料は1日分しかもらえない。
オーストラリアで働いて間もない頃、先輩の一人が「年に3日間はメンタル・ヘルス・ディが取れるのよ。」と教えてくれたが、つまりは年に3日間は精神の健康のため、ズル休みができるという意味だった。
そうは言われても、やはり病院に電話をして理由を言わなくてはならないし、ズル休みはとても気が引けて取れなかった。ある時、知り合いの日本人がDrの所に行くため通訳をしてあげなければならなかったが、どうしても勤務を交換してもらえなかった。
ようやく取れた大切なアポイントメントだったので優先させなければならなかった。困っていたら、同僚が「病欠を取ればいいのよ。病院に電話をしても理由を言う必要はないし、病院側も聞く権利はないのよ。」というわけで、その日、病院に電話をして、ただ「調子が悪いので仕事に行けません。」と言ったら、それ以上は聞かれず病欠が取れて驚いた。しかし私はやはりよほどの事情がないとズル休みはできない。
前の病棟婦長のリサは30才になったばかりだが、人当たりがよく要領もよく一般看護婦からいきなり病棟婦長に抜擢された。うまくリーダーシップをとって病棟をうまくまとめ皆から慕われていた。私も好感を持っていた。
ある日、準夜への申し送りの前にリサが、ミーティングルームで「私は病欠はすべて使いきるわ。GP(家庭医)の所に行って、頭痛がするとか腰痛があるとか言えば必ず診断書がもらえるから使わないと損よ。」と言っているのを聞いてリサに対する尊敬の念は崩れ去った。
仕事に対する理念、道徳感の問題でそれぞれの人が色々な考え方をするのはわかるが、病棟の‘長’としてモデルになるべき存在の人間が、その元で働く看護婦に言う言葉ではないと思った。
さて私は、3日間の病欠を取るため、GP(一般医・家庭医)の所へ行った。GPの所へ行っても、薬を出してくれたり何か検査をしてくれるわけではないことは十分承知だ。
胸の聴診と耳・喉を懐中電灯で見て、「赤くなってはいないから炎症は起きてないよ。抗生物質は必要ないね。」と言われ、今なにか薬を飲んでるかと聞かれた。ビタミン剤と鼻水を止める抗ヒスタミン剤を飲んでいるというとそれでいいという。
最後に病欠の診断書を頼むと仕事を聞かれ、ナースだと言ったら、「それはきちんと休んだほうがいいね、ナースが無理をして働いてますます症状が悪くなっていたらまずいからね。」と3日間休みを取る診断書をくれた。つまり、私はGPの所へ診断書をもらうだけの目的で行ったのだ。
オーストラリアでは、この病欠、特にズル休みで社会に何億円ものロスが出ていると毎年、新聞に発表されている。社会福祉や労働者の権利が確立された国の難しさはこのバランスである。
例えば、私はこの度の風邪で3日間の病欠を取った。最初の2日間でゆっくり休み疲れも取れてかなり調子が良くなり、3日目に仕事に戻ろうと思えべ戻れた。でもこの追加の一日は本当に、体の調子をほぼ万全に整えてくれた。十分な休息を取れるということは本当にありがたいことだと思った。
しかし、一方でこの病欠の権利を悪用する労働者も周りでたくさんいる。ついこの間も、準看護士のフィルが病欠を取った。前の日に仕事の帰りに会ったときは元気そうだったのにと思っていたら、その日の準夜で一緒に働いた準看護婦のクリスが、「昨日、フィルに日勤と準夜を変わってほしいと言われたけど、断ったのよ。だからフィルは休んだんだわ。」という。それを聞いた斡旋会社派遣のナースが「でもフィルは足をくじいたと言っていたわ。」と言った。するとそれを聞いた新卒ナースのタミーが「足をくじく予定だと言っていたわ。」と言う。
つまり、フィルのズル休みは明らかだった。私は幸い、病欠はほとんど取っていないため毎年繰り上げとなり、たぶん今は一ヶ月半くらいは休めるだけの病欠がたまっているはずだ。人間、いくら健康に気をつけていてもどんな事故や病気になるかはわからない。その時まで大切に取っておこうと思う。
テレビはニュースとドキュメンタリー番組、たまに映画というくらいであまり見ないほうであるが、毎週火曜日の夜8時半からの「All Saints」というオーストラリアの病院を舞台にした番組は気に入っている。
アメリカの「E.R.」(Emergency Room)、救急外来を舞台にした番組は日本でも放送されたと聞いているが、「All Saints」はもっと身近で本当に起こりそうなことを取り上げて、毎回一時間のドラマとしている。「E.R.」はどちらかというと、心停止、心臓マッサージ、中心静脈カテーテル挿入・・という緊急時の対処に話を進めることが多いが「All Saints」は、ガンの末期の患者さんの話、小児の化学療法,MRSA 患者の看護についてなど思い当たる話が多い。
さて前置きが長くなったが、2002年5月7日のドラマの中に「アドレナリンジャンキー」が出てきた。それだけなら特にここで紹介することではない筈だった。ところがこの患者が若い日本人妻の設定であったところに、興味がひかれた。
麻薬中毒者のことをドラッグジャンキーと呼ぶ。つまりこれはアドレナリン中毒のことである。アドレナリンは副腎髄質ホルモンで、交換神経末端を興奮させ、血管収縮、心拍数増加、心収縮力増大、血圧上昇、瞳孔散大などの効果をもたらす。ジェットコースターに乗ったり、車を運転していて何か危険が目の前に迫った時、アドレナリンが分泌され上記の反応を起こす。
さて,ドラマの内容であるが、オーストラリア男性と結婚した日本人の「さとみ」が、首(咽頭?喉頭?)にできた膿瘍切除術を受け、気管切開されていた。(途中から見たので詳しいことはわからなかった)担当ナースがさとみの既往歴を見ると、過去に顎の骨折など数々の怪我で入院しており、ナースはさとみが夫から暴力を受けているのではないかと疑い始める。
そこへ夫が「さとみ、また何をやったんだ。」とすごい剣幕でやってくる。ナースはますます夫に対して疑いを持つが、さとみが真実を語ってくれなければ警察やソーシャルワーカーを呼んで援助の手を差し伸べることができない。
ところが、夫から話を聞いてみると、実はさとみはアドレナリンジャンキーで、飛行機から飛び降りるスカイダイビングなど次から次へと挑戦しては怪我を繰り返し、この5年間で15回は入院しているという。
夫はもうこれ以上はたくさんだとナースに打ち明ける。そうこうするうちに、さとみが腹痛を訴え始める。そして調べた結果、何と妊娠10週目で流産したらしい。病院に運ばれて来た時、ナースには生理は2週間前に終わったとうそをつき、夫にも妊娠のことは何も教えてなかった。妊娠していると言ったら、何もさせてもらえないから・・とさとみは打ち明け、流産の手術に向かうという内容だった。
もちろんこれはテレビ番組でフィクション、つまり作り話であるが、多分、原作者こんな日本人にあったか、話しを聞いたかして書いたに違いない。そしてこんな日本人がいても不思議ではないと否定できないところが、今の日本人の現状ではないかと感じた。
エネルギーを持てました若者が、何か刺激を求め、時に過剰になっている部分もあるのではないだろうか?人に迷惑をかけないのなら何をやってもいいが、このさとみのように、夫や無駄な医療費に使い方にとって国民にも迷惑をかけているのはいただけないと思う。
ところで、このドラマに中国系の女性医師が出てくる。去年から今年にかけて、5‐6人の患者さんとスタッフに、Mattieは「All Saints」のDrにそっくりだといわれている。それから注意してみるようになると、髪の毛の長さと後ろで束ねているところ、角度によっては顔の感じが似ているのかも知れない。
つい2‐3日前も外科手術後、心不全と脱水が原因で、せん妄状態になり、ようやく少し良くなったばかりの83歳の女性患者さんが突然、「All Saints」のDrに似ているといい始めて驚いた。
私は写真が嫌いで、ホームページのどこにも自分の顔を出していないが、興味のある方でオーストラリア在住の方は、火曜日の「All Saints」を見てください。(このDrは2003年より、All Saintsにはでていません!!2004・Jul、Mattie))
仕事を自分のプライベートな問題で抜けるというのは、文化が関係しているようだ。少なくとも、私が働いていた頃は、親が病気で重症な状態だといっても危篤になるまで休みをもらえなかった…という話しを何度か聞いた。しばらく日本を離れているが、今の日本の社会は変わってきているだろうか?
オーストラリアでは、病棟の飲み会とかDrと宴会とかいうことはほとんどないといっていい。しかし、年に1回、クリスマスだけは、「クリスマスディナー」といって、病棟の飲み会が催される。まあ、日本でいう忘年会のようなものだ。パートナーや夫、妻を連れてくることは大歓迎でカップルで参加する人も多い。
去年のクリスマスに準看のポールが奥さんを連れてきた。ポールは41歳、18歳の息子はすでに子持ちで、孫がいる。席が近くになったので奥さんといくらか言葉を交わした。ポールはこれから正看になるための勉強を始めるということで、それはいいことだと言ったら、奥さんは「私はずっと勧めていたのだけれど、ようやくその気になったようだわ。」と言って喜んでいた。
翌日はポールと準夜だった。申し送りが終わり、病室を回ったりチャートをチェックしたりと忙しく動いていると、病棟の電話が鳴った。ポール当てだった。「あれ、昨日会った奥さんの声じゃないかな?」と思ったが、名前が思い出せないので何も聞かずポールを探し、また仕事に戻った。
電話が終わったらしいポールが、リーダーの私のところへやってきて「急用で帰らなくてはならない。妻が家を出て行くといっているんだ。」という。そしてすでに、ナースマネージャーの許可は取ったからといってそそくさと帰っていった。
突然、マイナス1で準夜をするのは、その日の勤務者にとってはおそろしく迷惑な話しだ。日本では、奥さんがわざわざ家を出ると職場へ電話してくることはほとんどないだろうし、仮にあっても、それを聞いてすぐ帰る人もあまりいないのではないか?家庭中心のオーストラリアの文化だなと思わざるをえない。
斡旋会社からきた20代の準看なりたての、アルバートはまず病棟にくると、ちょっと電話を借りるといって家に電話をし、「今日、僕は***病棟で働いているからね。」と奥さんに電話を入れる。
どこの病院で働いているのかは奥さんは知っているはずだから、わざわざ電話でどこの病棟で働いているかなど言わなくても、急用であれば連絡はいくらでも取れるのだから、そんなことで私用電話を使わないでほしいと私は思う。
準夜勤務は午後2時半から申し送りで、日勤者は3時に帰る。その日の4時頃、奥さんからアルバートに電話がかかってきた。「2歳の娘に熱が出て、解熱剤を飲ませたがまだ下がらず、今も38度5分ある。」という。
電話を切ると、アルバートは「僕、帰らなくちゃ。」と言って、仕事をキャンセルしさっさと帰っていった。お父さんがここまで子育てに参加してくれるというのは幸せなことだ。
余談であるが、1990年代後半にオーストラリアのHoward主相が、奥さんの病気を理由に日本訪問を突然中止した。奥さんが乳がんの手術を受けることになったのだ。
国際交流とか貿易問題とかそんなことよりも、病気の奥さんの側にいてあげるためにすべてを中止し、それが受け入れられる社会に住んでいるということは、私にとってはかけがえもなく幸せなことだなと思う。
日本ではそうしたくてもできないことが多く、そんのことを上司に頼んでみようとも思わないのではないだろうか?文化は本当に色々なことに影響を与えるものだ。