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3人に1人がガンに罹り、3人に2人が家族や友人でガンになった人を知っているという時代になった。これは日本もオーストラリアも同じだろう。どちらの国も悪性腫瘍・悪性新生物が死亡原因の第一位になってずいぶん経つ。
私の義姉は30歳前にお母さんをガンで亡くし、その2年後お父さんもガンで亡くなった。私の身の回りで、今の時代に(少なくとも日本は戦争や飢餓で若くして亡くなる心配はしなくていい時代だ)、この若さで両親を亡くした人に出会ったのは初めてだった。
そして、義姉にとっては義母にあたる私の母が2001年、やはりガンで亡くなった。
非常に悪性で進行も急速、治療があまり効をなさないガンも多いが、同時に慢性疾患の一つとして、一緒に生きていこうというとらえ方が必要なガンも増えてきた。
特に人口が高齢化し、多くの高齢者が人生の中でガンに罹患し、ある者は治癒し、ある者は緩解期に入った状態で生活していく時代になった。このガンの増加は、夫婦が同時にガンと闘わなくてはならない時代をもたらした。
75歳のティムは大腸がんの手術を受け、順調に回復し、重症ケアユニットから重症ケア病棟へ移ったばかりだった。カンガルー島で農業を営んでいるというティムは身長も185cm近くあって大きいが、何といっても手の大きさに驚いた。こんな大きな手は見たこともなかった。ティムは物静かであまり痛みを表現しない人で、こちらから痛み止めを使ったほうがいいと勧める必要があった。
娘さん2人と奥さんが毎日、面会に来ていた。奥さんは毎日違う帽子をかぶっていて、それがインドで買ったようなカラフルな丸い帽子や、サウス・アメリカの物かと思われるやはり原色の鮮やかな帽子で、今一つ着ている普通のブラウスとはマッチせず変わった人だな・・・と思っていた。
翌日、また皆が来ていて、色々話しているうちに、奥さんも乳癌で定期的な抗癌剤療法を受けている最中だということがわかった。髪の毛が抜けてしまったから帽子をかぶっていたこともようやくわかった。
奥さんも娘さんも明るくて感じがよく、特に奥さんは顔色もよくふっくらしていて、とても今、ガンと闘っている人とは予測できなかった。もちろん、手術を受けたばかりのご主人、ティムに心配をかけないよう努めて明るくしていたのだろう。
これから、ティムも抗癌剤療法を受けて行くことになる。70歳を過ぎて、子供たちが成長し、そろそろ夫婦でゆっくりしようと思った頃に、夫婦でガンと闘わなくてはならないとは・・・何て気の毒のことだろうと思わずにはいられなかった。
内科病棟の日勤でケアした55歳のガイは身長190cm、肺がんに罹ってかなり体重が減ったようだが、それでも100kgは軽く越えてる大きな人で、清拭をするだけで一苦労だった。
ガイは精神錯乱状態だった。錠剤を飲ますため、口に入れても水だけ飲んで薬を飲み込まず、投薬だけでもずいぶん時間がかかった。ようやく、清拭と着替え、シーツ交換を終え、ガイをベッドサイドのいすに座らせてあげたときにはクタクタになった。ところがガイは足元がふらふらなのに立ち上がろうとして目が離せず、結局ベッドに戻さなくてはならなかった。この朝はガイから全く目が話せず、他の患者さんのところへなかなかいけず、実に忙しく動きまわらなければならなかった。
11時頃、ガイの部屋に戻るとやはり背の高い女性が、ベッドサイドに座っていた。金髪のおかっぱの長い髪の毛が彼女を非常に若く見せていたが、今一つ不自然な印象を受けた。奥さんかな?と思ったが、一応、「ご家族ですか?」と確かめた。
やはり奥さんだった。彼女も身長183cmはあるという。今朝のガイの様子を話し、彼は昔どんな仕事についていたかなどを奥さんと話した。ガイは疲れて寝ていた。
そのうちに奥さんが、実は私も2年前に脳腫瘍の手術を受け、抗癌剤療法を受けていたという話をしてくれた。手術後、片麻痺が出て、言葉もうまく出てこなくなったことがあったが順調に回復したということだった。
「ああ、やっぱり、この髪の毛は地毛ではなく、きっとカツラなんだ、だから不自然に見えたんだ。」と思った。そして、50代の働き盛りでまだ人生を楽しんでいこうという人が、夫婦でガンと闘っている現実に正直言ってショックを受けた。ガイは10日後、亡くなった。
母を亡くしてからずっと感じていたが、最近ますます、「人生、いつ何が起きるかわからないのだから,やりたいことはしておいたほうがいい。」と考えるようになった。