*ペンネーム:Tammy
*留学・暮らした期間
- 日本では夫婦2人とも理学療法士(Physiotherapist)として働いていたが、夫の大学院留学に伴い同行することになった。
- 語学留学は1998年7〜9月までの10週間、CALUSA−Centre for Applied Linguistics
in the University of South Australia(Adelaide)。Student Dependant Visaのため学業期間は3ヶ月までだった。
- オーストラリア滞在期間は、1998年7月〜2001年7月まで(途中、一時帰国あり)2003年4月より夫の勉強再開のためパースへ戻り、現在に至る。
*英語の勉強歴
日本
- 義務教育で中学校と高校の6年間と短大での教養課程1年間。ラジオ英会話:1997年秋頃〜1998年7月の渡豪前まで、通勤中にwalkmanで聴講。仕事で疲れていたのであまり身に入らなかった。
- 家庭内英会話:1998年1月〜1998年7月の渡豪前まで、夫との会話を英会話で。単語程度しかでてこないので会話にならなかったが・・・。
- 英語クラブ:1998年5〜6月の2ヶ月間、週に1回2時間の英会話向上をめざす日本人の自主グループに参加(500円/月)。留学歴のある中級以上のレベルの人ばかりで、会話を聞くだけで精一杯だった。
オーストラリア
- 英語学校に10週間行った後、1998年10月〜12月までの3ヶ月間、英語フリークラス。ここはCALUSAの友人が教えてくれた。Eynesbury Academy of Englishという私立教育機関内にあったと思うが、英語教師養成のために、教師の卵が無料で英語の授業を開いてくれるというもの。
- 州立図書館のフリーの英会話クラスも5回ほど参加。(テキストなしで、会話だけを楽しむクラス)
- 1998年11月〜12月までの2ヶ月間、週1回2時間、日本語を学んでいるオージーと交換学習(上記フリークラスの友人より紹介してもらった)
*なぜオーストラリアを選びましたか?
- アメリカよりは治安がよく、主人の留学希望先がオーストラリアであったこと。
*なぜこの学校を選びましたか?
- 主人が英語留学先を上記学校に決めたため(主体性がないなあ!!!)
*どのように留学手続きをしましたか?
- インターネットで検索後、e-mail・ mailにて英語学校と直接交渉、費用は0。
*日本で得た情報と実際に現地へ来て得た情報が違っていて困ったことはありましたか?
- 英語クラスの人数が多くて戸惑った。1クラス10人以下と言われていたにもかかわらず、北半球の夏休み期間と重なったために、留学生の数が倍増していた。
*この学校(大学)を選んで良かった点は何ですか?
- 他校で学んだことがないのでよくはわからないが、図書館が比較的充実していたこと、教育機関が密集している地域だったため、他校の図書館へのアクセスも容易だった。
*この学校(大学)を選んで良くなかった点は何ですか?
- 午後フリータイムの時間が比較的多く、自習だと進み具合が悪かった。(この学校だけではないと思うが)
*留学中、一番困ったことはなんですか?
- 経済的問題。英語学校および夫の大学授業料が高かったため。
*留学して一番良かったと思うことは何ですか?
*卒業後、どうしましたか?
- 1999年1月、夫が大学院へ入学するため、パースへ移動。Tammyは 1ヶ月半ボランティアとしてナーシングホームで働き、生の英語を学ぶ。
- 1999年3月より、ナーシングアシスタントとして同ナーシングホームへ勤務。その間、Physio(Physiotherapist = 理学療法士、略してPhysio)アシスタントも兼務。
- 2000年5月退職し一時帰国。7月パースへ戻るも、オーストラリアの企業や医療機関、すなわち英語のみの環境への再就職が厳しいため、日系旅行会社に2ヶ月勤務。(初めに就職できたナーシングホームは最初にボランティアをしていなければ、就職できなかったと思う)
- 2000年10月〜2001年6月、公立病院でPhysioアシスタントとして勤務。生活費は何とかなったが、これ以上夫の学費が捻出できなくなったため夫が休学手続きをとり、2001年7月帰国、8月より総合病院で1年間、2002年8月より整形外科クリニックでPhysioとして勤務。
- 2003年4月、再びパースへ戻り、夫が大学院へ再入学。Tammyは現在無職。
*卒業後、オーストラリアでの勉強(経験)はいかされていますか?
- アシスタントではあったが実際の臨床に携わり、良い面と悪い面を学んだ。日本で1年8ヶ月間、臨床に当たった際、積極的に良い面を取り入れた。
*これから、オーストラリアへ来たいという人へアドバイスがありましたらお願いします。
Tammyのエピソード・体験談1−ナーシングホームでのボランティア
夫が大学に入学してから、貯金が一気になくなっていったため、何とかして仕事を探さなければならなかった。しかし、オーストラリアに来て半年が経ったにもかかわらず、2歳の幼児がしゃべる程度の英語しか話せなかった。コミュニケーションがとれない者を誰が雇おうか?それで最初はボランティアをしながらでもいいから、まず英語を身につけなければと思った。
イエローページが目にとまった。さっそくTammyの住んでいたVictoria Parkのナーシングホームの住所と電話番号をメモし、ボランティアで雇ってくれないかどうかあたってみることにした。以前作っておいた履歴書を印刷し、まず一つ目のナーシングホームへ向かった。なんだか敷居が高そうだし、入り口が何処だかさえわからない。(後で考えてみると、徘徊老人が間違って外に出るのを防ぐために、出入り口は複雑になっていたのだった)とりあえず、ここに目星をつけておいて次のナーシングホームへ足を運んだ。
無用心にも鍵が開いていたので遠慮なく入っていくと、せかせか仕事をしているある女性、Kateに会った。彼女は、「このホームではボランティアが、常時、働いているのでチャンスがあるかも知れないわ。あいにく今日は土曜日で、DON (Director of Nursing = 看護部長)とマネージャーがいないので、月曜日にもう一度来てちょうだい。」と親切に教えてくれた。そして、翌週の月曜日、ジーンズ・Tシャツ姿で再度、そのホームを訪れた。DONとマネージャーはすぐに私をボランティアとして雇ってくれると言ってくれた。
Tammyのエピソード・体験談2−必要書類
履歴書の他に,オーストラリアではReference Letter(人物紹介状)なるものが必要とされる。とりわけ、最後に勤務した職場の上司に、そのReference Letterを書いてもらわなければならない。その人物がどういう人間か、どういう仕事をしたか・・・等である。全く予期してなかったことなので、それから前職場の上司にお願いすることになった。
またボランティアをする場合はPolice Certificate なるものも要求される。犯罪暦はないかなどを近くの交番で書いてもらうのだか、数週間はかかる。以上の書類は揃ってなかったが、とりあえずボランティアの仕事につくことができ、約1ヶ月後に、すべての書類を出し終えた。
Tammyのエピソード・体験談3−ボランティアがすること
ボランティアであるため、一切の医療行為はできない。ここで必要とされるのは、ホーム居住者(オーストラリアではナーシングホームは高齢者の住居と考え、そこに入っている高齢者を居住者と呼ぶ)のアクティビティの時間のお手伝いをすることだった。
Occupational Therapist (OT)がプログラムを立て、Occupational Therapy Assistant(OTA)がアクティビティを運営する。音楽鑑賞・朗読会・映画鑑賞・ビンゴゲーム・トランプ・ピクニック等、日によってメニューが違うのであるが、アクティビティ運営は一人のOTAでは手が足らず、ボランティアがマンパワーとなる。途中でモーニングティー・アフタヌーンティの時間が入り、その際にもセッティングや嚥下障害のない居住者の摂食を手伝うのだ。
ピクニックは、パースを知る良い機会になった。ホーム専用のミニバンで、参加を募った居住者とOTA、そしてドライバーでいろんなところに出かけていく。そのときに初めて、Fremantleに行ったのである。参加者の半分は車椅子なので、ボランティアが移動を助ける。歩ける居住者であっても視力障害があったりして100%自立しているわけではない。このような人たちとFremantleのレストランでFish and Chipsを頬張ったが、その時の味は今でも忘れられない。高齢者も揚げ物が食べられるということに驚いたりもした。
Tammyのエピソード・体験談4−運命の転機
約一ヶ月半、このボランティアを続けた。少しずつ英語も覚えていった。そんなある日、マネージャーが「Tammyは良く働いているわね。ナーシングアシスタントに興味があるなら雇いたいんだけど。」私は迷うことなく首を縦にふった。Physioの経験があってもナーシングアシスタントの経験は全くない。不安はよぎったがチャンスだと思った。
早速、Application Form(申込書)を渡された。時々、わからない英語が出てきたが、辞書を引きながら何とか書き終えた。運良くマネージャーはアジア人で私の境遇がよくわかる人だった。そしてこれからいろんなチャンスを与えてくれるキーパーソンであるということをこの時は知る由もなかった。
Tammyのエピソード・体験談5−Contract(契約)
この国ではどんな仕事をするにもContract(契約)が重要な鍵を持つ。たった紙切れ一枚ではあるが、仕事内容・勤務時間・時給・休暇等すべてが明確に書かれていて、これにサインすると契約が成り立つのである。日本では曖昧にされてしまう多くの部分が、はっきりと示されているので働く側にとっても気分が良いものだ。当面3ヶ月はCasual(臨時職)という扱いで働き、3ヶ月たって問題なければ正職員になれるということだった。
Tammyのエピソード・体験談6−ナーシングアシスタント
Nursing Assistant (N/A)と呼ばれているが、業界用語的にはPatient Care Assistant(PCA)と言う。後でマネージャーに聞いたところによると、N/AのほうがN/Aにとっては聞こえがいいからだと・・・。近年はPCAのコースを卒業して、Certificateを持っていないと仕事に就くことはできないそうだが、当時はPhysioの経験を買ってもらって仕事につくことができた。
自国でRegistered Nurse(RN:正看護師)の免許を持っているのにもかかわらず、オーストラリアではすぐに免許が有効にならないからといって、N/Aとして働いている人が3人いた。一人はBridging Course(他国で資格を持つ看護師にオーストラリアで働く知識を提供する橋渡しのコース)に在学中のFilipino(フィリピン人)。彼女は半年後、見事にRNに登録された。また2年間の短期滞在なので、N/AのままでいいというFijian(フィジー人)や、7カ国語しゃべれるPolish(ポーランド人)も自国でRNなのだが、writingができないからといって、Bridging Courseへの道を断念してN/Aとして働いている人もいた。
大半はオージーで、30〜40代の女性が主流。中には20代の看護学生もいた。看護学校である程度の実習を終了すると、3年間の勉強を終了してRNの資格をもらう前にEnrolled Nurse (EN:日本でいえば準看護師にあたるのだろう)の資格も与えられ、正勤ENが休みの場合、その看護学生がENポジションに割り当てられるなどの対応が取られることもあった。
Tammyのエピソード・体験談7−実務
3交代制で、Tammyは日勤・準夜を希望し、希望通りの勤務表を作ってもらえた。日勤の場合N/Aが2人でペアを組み、約12人の居住者を担当し、清拭・シャワー・摂食介助・トイレ介助・移動介助などを行なう。1日に6人程度リストアップされた居住者のシャワー介助を行なうのだが、これが戦争状態なのである。日本とは違って湯船につかることはないので、その点時間は短いのかもしれないが、その間に他の居住者からナースコールがひっきりなしになる。
Tammyのエピソード・体験談8−マニュアルハンドリング
オーストラリアではWork Safeという概念が広まっていて、働く人または居住者や患者が怪我をこうむらないように、ベッド上・椅子−車椅子・ベッド−車椅子などの移動の仕方に十分な注意が施されている。特に55kg以上の居住者を一人で介助してはならず、必ず、スライディングシートやホイスト(注1)なる移動介助補助機を使う。
体重の軽い居住者であってもモビリティが低下している場合は、介助者が2人ついて介助用ベルトを使うなどの取り決めが細かくなされている。これはPhysioが一人一人のモビリティを評価した上で、移動方法を決定し、居住者ノートに記載される。この方法を守らなければ違反である。
当初は、例え重い患者さんでもPhysioはコツでトランスファー(移動)させられるという自負があったため、このマニュアルハンドリングの手間のかかることに閉口したが、身体の大きい居住者が想像以上に多いことを実感し、いい法律だと納得している。それでも男性のN/AはRNの目を盗んで居住者を持ち上げていたが・・・・内緒。
Mattie:注1
スライディングシートやホイスト−これはMattieは聞いたことがない名前で、Tammyさんに問い合わせたところ、Mattieの住むSouth Australia州では、別の名前で呼ばれていることがわかりました。スライディングシートは「スリップリーサム」。これは、パラシュートを作る生地でできていて、ツルツルしており、サイズはドローシーツに近いです。これを患者さんの下に敷き、両側に立った看護・介護者が1・2の3で左右・上下にすべらせて患者さんを移動します。これを使うことによって、患者さんを持ち上げることなく、スライドして移動できるため、看護・介護従事者の腰痛や肩の怪我の防止になります。ホイストは、リフティング・マシンのことです。
Tammyのエピソード・体験談9−Agency (派遣会社)
人員不足の場合、仕事が成り立たないためAgency(派遣会社)からスタッフが送られてくる。急遽あいたポジションの埋めるのがAgencyスタッフである。N/A同様、RNも派遣されることがある。ただ、この施設で働くオージーの休み方は、計画的としか思えないことがよくあった。例えば、仲の良いDeniseとMarleneは日勤の朝になって、急に二人一緒に休みの連絡を入れることがよくあったし、嫌われていたMargaretとペアを組むことになるオージーは、よく休んでいた。
Agencyスタッフは良く働いてくれるのだが、一つ一つケアの方法をチェックしなければならないので時間がかかる。特にTammyの場合、流暢に英語が出てくるわけではないので、Agencyスタッフに指示するのにも時間がかかった。自慢ではないが、Tammyは無遅刻無欠勤。(やっぱり、日本人だなあ〜・・・)
Tammyのエピソード・体験談10−チャンスをくれたマネージャー
このナーシングホームに専属のPhysioアシスタントがいたが、彼が1ヶ月ホリデーをとるので、その穴埋めをしてくれないかとアジア人のマネージャーが言ってくれた。もちろん、Tammyは快諾でPhysioアシスタントを引き受けた。
Physioによるマニュアルハンドリングのコースや、新しく入ってきた車椅子の使い方の講習会などが定期的にあったが、Physioは午後2時に仕事を終えるため、準夜で3時以降に来るスタッフが聴講できなかった。(これらのスタッフはPhysioのいる2時までに一度出勤して講習会を受けるというのが建て前であるが、出てこない人が多い)
それでマネージャーが、Physioの指示でTammyがやればよいのでは?と提案してくれたのだった。(Physioアシスタントは勤務が3時半までなので)それからはTammyが簡易講習会を開いたりした。5〜6人のオージーを前に英語をしゃべるのはすごく抵抗があったが、講習会を開くにあたり練習もし、わかりやすく説明するには・・・?といろいろ考えるきっかけになり、本当にいい経験になった。(尚、深夜のスタッフは、日勤帯に出勤して参加していたようだ)
Tammyのエピソード・体験談11−Mattieが言ってたこと
N/Aを実際にやってみて、RNとN/Aの違いがわかった。ボランティアの時、ガラガラと台車を押して投薬をしていたKateのことをPharmacist(薬剤師)と思っていたが、N/Aとして働き始めてKateがRNであると知って驚いた。実際には投薬・計温・PEG-FEED(胃婁栄養)・Skin Tear(皮膚の裂傷)や褥創治療などの医療行為を行ない、N/Aが居住者の実際の身の回りのケアを担当していた。
日本で言えばN/Aは介護福祉士にあたるのだろうか。 Mattieが以前にオーストラリアでは、看護の仕事に専念できるのが利点と言っていたのを思い出した。ただ、Kateは、N/Aがシャワーやトイレ介助で全く手が空いていないのにもかかわらず、「居住者Bがトイレ介助を必要としている」とか、よく私たちに報告しに来た。目の前で居住者がトイレに行きたくて困っているのに、Kateはトイレ介助を絶対にしなかった。これって看護の仕事の一つでは?(注2)と当初は悩まされたが・・・。それとも日本の看護師がケアから雑用まで何もかも任されているのがやりすぎなのか?
Mattie:注2
病院にはナーシングアシスタントの人がいないので、Mattieは正看護師(RN)として働いていますが、トイレ介助からシャワー浴・入浴介助、寝たきりの人のオムツ交換まで何でもします。高齢者ケア施設では、看護師は政府から予算を得るため、高齢者の評価・ケアプラン・記録等をかなり詳しくしなくてはならず、それをするだけで大変で他のことはできない・・・と私の友人は言っています。しかし、結局は個人個人の価値観や意思によると思います。
Tammyのエピソード・体験談12−環境整備の充実さ
土地が広いことも一つの理由なのであろうが、ホームの中は広々としている。ベッドの傍には必ずといっていいほど、居住者用の日中使用の椅子がある。この椅子に坐れない場合は、車椅子や安楽椅子があてがわれるのだが、それらの種類が充実していることに驚いた。
日本では体幹が安定してない患者でも、猫も杓子も標準型の車椅子に坐らされ、ぐったりしているのを時々見かけていた。しかし、こちらは居住者にぴったりのヘッドレスト(枕のような物)付きリクライニング車椅子やベッドのような安楽椅子が用意されていた。
ポータブルトイレも、いかにも・・というようなデザインのものではなく、Commodeと呼ばれる家具調タイプのポータブルトイレであった。
Tammyのエピソード・体験談13−発音には注意
「s」と「sh」の発音の違いに初めて気がついたのは、このナーシングホームで働くことができたおかげかもしれない。居住者に「坐ってください。」‘sit down’と言ったのだが、居住者にびっくりされてしまった。ペアを組んでいたイギリス出身のDeniseがおなかを抱えて大笑いし始めた。どうやら私の発音は‘shit down’で、そもそもそのような英語は文法的にないのだが、あえて言えば「くそをしろ」というような意味になるらしい。(shit = くそ)それからは「s」と「sh」の発音には十分注意している。
またペアを組んだLindaをいくら呼んでも振り向いてくれない。どうやら私の発音はRindaと訳のわからないものだったらしいのだ。 Lは舌が上の歯の裏につくようにしながら発音するようにと教えてもらった。オージーは私の一風代わった英語を面白がっていたが、これが英語を学習するいい機会になったことは間違いない。
Tammyのエピソード・体験談14−しらみ事件
生まれて初めてシラミを見た。ホームの居住者に感染が広がっていたのだ。Lilyの頭に何万匹ものシラミが沸いていた。日本では昭和の30年頃に壊滅していると聞いていたので、オーストラリアにまだ存在することを知って驚いた。また本物のシラミを見てこんなに気持ち悪いものかと2重の驚きを味わった。
そして、治療方法にも驚いた。軽症の居住者には十分なシャンプー後、ココナッツオイルが頭皮に塗布され、「こんなので効くのかしら?」と首を傾げてしまった。重症の居住者には特別の薬が用意され、治療用シャンプー液使用後、それを塗布した。約50人の居住者のうち4人が感染。2週間〜1ヶ月でシラミは消失したが、学童期の子供にも発生していることを聞き、驚きは10倍にも膨れ上がった。
Tammyのエピソード・体験談15−メルボルンカップ
賭け事はどこの国でも好きな人が多いが、とりわけ、オーストラリアでは、メルボルンカップ(競馬)が一大行事になっている。この日は朝からホーム内の広場にテント設営が始まり、椅子・テーブルがセッティングされる。この日に限っては、担当するシャワー浴者の数も少ない。というのは、居住者は皆、ドレスアップして、メルボルンカップの始まる時間までに広場に出なければならないからだ。
女性居住者は、たいていおしゃれな帽子を数種類持っていて、この日、彼女達は最もおしゃれでゴージャスな帽子とドレスをまとい、ありったけのジュエリーを付け、パウダーをはたき、口紅を塗り、きれいに飾られていく。男性居住者もネクタイをしめ、きれいにひげをそって広場へ向かう。居住者の家族もホームでの食事に招待されているため、この日は、多くの人がどたばた忙しく走り回るのだ。
広場には特設テレビが構えられ、いよいよ競馬が始まった。今までボーとしていた居住者も昔を思い出したのか、目を凝らし、凛々しく、且つ、可憐な様子であった。
痴呆老人の治療の一環として、昔の出来事を再現したり、写真・家具などをホームに取り入れることが、盛んになっているが、メルボルンカップがこのひとつの例にあたるだろう。
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