*ペンネーム:スコット
- 始めに私の経験はかなり古く、看護留学した1985年当時は看護教育が大学レベルへの移行期であり、現在とは事情が違うであろうことをおことわりしておきます。
*留学・海外生活
- 英語に関しては語学留学として1974年3月〜1975年6月(看護師になる前)London,
Westminster College, Cambridge Certificate Course
- 看護に関して( NICU 専門) 留学+勤務
- 1985年6月〜1986年7月 Flinders Medical Centre, South Australia (Adelaide),
Australia Neonatal Critical Care Nursing Course 留学 Neonatal Nurse 資格取得
- 1989年11月〜1990年11月
Mater Mother*s Hospital 勤務 (NICU)(ブリスベン)
*英語の勉強歴
- 実力は別として英語歴だけは長い。学生時代から英語は好きだった。上記ロンドン語学留学前は仕事をしながら英語学校や英語仲間の友人と二人でプライベートレッスンを受けたりしていた。
- 看護師になってからは看護留学したいという目的があったのでYMCAの通学やアルク社の“ヒヤリングマラソン”(創刊期!!のかなり古い時期から)の通信教育、プライベートレッスン、いろんな手段で常に英語の勉強はしていた。オーストラリアから戻ってからは翻訳の通信教育など(2年)現在はTVでアメリカやBBCニュースを聞いたり新聞を読んだり好きな本を読んだりなど。
*なぜオーストラリアを選びましたか?
- アメリカなど高い学費を払って何年も留学する経済的なゆとりがなかった事当時、日本でNICUで働いていたのでNICUの専門的な勉強をしたかった事
- 以上の2点からいろいろ調べた結果、働いて学べるコースがあるオーストラリアを選んだ。オーストラリア人の友人がいたことも選択した理由のひとつ。
*あなたはオーストラリアで働きたい・暮らしたいという気持ちがあって来ましたか?
- オーストラリアで働きたいという気持はあった。そのために働いて勉強できるというコースは私にとっては願ってもないコースだった。現実は厳しかったですけれど・・・・・。永住権については取れるとも思っていなかったし、働きたい、という気持だけでそこまでは考えていなかった。
- 永住権の取得に関しての本(その頃はインターネットがなかったので)などで一応、情報収集はしたが難しそう、看護師で取るのは無理だろうという印象だった。
*卒業後、取れた資格
- Neonatal Nurse、 コースの間のみという条件付きで看護師登録 ( Provisional Registration )
- 卒業後は病院が残ることを勧めてくれたので学生ビザを労働ビザに切り替えようと努力したが、 困難だった。その後、結婚して永住ビザを取ったので南オーストラリア州とクウィーズランド州で登録できた。(Registered
Nurse + Neonatal Nurse )この永住ビザがなければオーストラリアでの資格があっても登録はできなかった可能性が高いと思う。
- オーストラリアで看護師として働くには看護師登録をしなければならず、登録するには外国人の場合、労働ビザまたは永住ビザが必要となる。看護師として労働ビザを取るのは不可能に近かった。例え、大学や大学院で勉強して資格を得てもそのまま働くことができるかどうかとなると・・・?ビザの問題が大きく立ちはだかると思う。
*なぜこの学校を選びましたか?
- 以前一緒に働いたことのあるNICUの医師、(現在は大阪府立母子センターの副院長)がオーストラリア人のNICU関係の友人がおられたので、紹介してもらい、留学する前1年位前に2週間ほど、休みを取ってメルボルンとアデレードのNICUを見学と留学の下調べに行った。この時紹介されたNICUのコースコーディネーターにFlinders Medical
Centre(FMC)を紹介され、その足で見学に行った。他のNICUコース(各州に大体、ひとつかふたつあり)はほとんど、助産師資格が必要だったが、ここのコースは新しく助産師資格なしでもOKであったのが選んだ理由。
*どのように留学手続きをしましたか?
- 手続きはすべて自分で行った。当時はインターネットもなくすべて電話や手紙であり、今、思うと手続きにとても手間がかかった。FMCのコースに限らず、オーストラリアでこのようなコースを取るには看護師登録していることが条件なので(ということはオーストラリア人か、オーストラリアの永住ビザがある人に限られる)これをクリアするのが問題だった。
- 入学手続きのために紹介状2通(当時働いていた病院のNICUドクター、卒業した看護学校の教務主任に書いてもらった)、学校の卒業および成績証明、看護師免許の公式英訳(厚生省にて)などが必要であった。
- すべての必要書類の提出後、1986年の1月末に南オーストラリア州の看護省へFMCを通して私が提出した書類を送った。看護師登録が認められれば大学は受け入れるという返事であった。3月半ばに入り、コースで勉強中の1年間のみ登録可だと期限つきで認められたので出発の準備をするようにと返事が来た時は信じられない気持だった。それからビザの取得のためにオーストラリア大使館に英語のテストを受けに行った。このテストはオーストラリア政府による外国人学生のためのテストでリスニング、長文読解、文章力などをテストするものであった。その後、ビザの取得が私のようなケースは前例がないため難航して、一時はあきらめかける場面もあったがFMCの尽力のおかげでコース直前の6月中旬にやっとビザがおりた。
- コースは学生として就職して働きながらコースを修めるので、スタッフとしての給料も支払われるがビザは学生ビザとなる。(この時の準備や留学体験は1987年の“ペリネイタル ケアー”(メディカ出版)の6月号に“海外レポート・世界のペリネイタルケア(10):南オーストラリア州の周産期医療看護の現状と新生児集中看護コース“として掲載)
*この学校(大学)を選んで良かった点は何ですか?
- FMCは南オーストラリア州の医療・看護教育を担う基幹病院であり、そのような規模の中で学ぶことができたこと。
- 日本人の私を受け入れ、働きながら学ぶというチャンスを与えてくれたオーストラリアに感謝している。
*この学校(大学)を選んで良くなかった点は何ですか?
*英語のサポートはどのくらい受けることができましたか?
- オーストラリア人のためのコースを偶然に知って、運良くまぎれ込んだようなものだったので英語のサポートは全くなし。クラスメートやコースコーディネーターは気にはかけてくれていたと思うが、私が“ここをこう助けて欲しい”というような具体的なSOSを出さなかったこともサポートがなかった理由だと思う。これは今になって思うともっと助けを求めたらよかったと思う。
*留学中、一番困ったことはなんですか?
- 英語力。最初は全くついていけず、かなり落ち込んでいた。詳しい内容も行ってから知ったので、初日に聞かされた時は真っ青になった。(知らないことほど、強いことはない、最初からコースの内容を知らされていたら怖くて行っていなかったかも・・・・)
- 車の免許がないため、常にどこに行くにも誰かに頼んだり、バスやタクシーが必要だったこと。 コース期間中、他の病院のNICUと子供病院での実習が各1ヶ月あり、引っ越しが必要だったが この時も友人の手を煩わせてしまったこと。
*留学して一番良かったと思うことは何ですか?
- 人生のある時期を異文化の中で暮らし、多くの人と交わることができたこと。
- 知らずにいきなり飛び込んだようなもので怒涛の1年であったが、短い期間に濃縮された多くの学びがありとても有意義な日々だった。
*卒業後、どうしましたか?
- 日本に戻り、元の職場(NICU)に復帰し、学んだことを還元できた。
- 3年後、ブリスベンに戻りNICU勤務(Mater Mother's Hospital)
*卒業後、オーストラリアでの勉強(経験)はいかされていますか?
- 現在はNICUから離れて長い(成人、老人病棟)が、外国人の多い土地柄もあり、外国人患者さんが多い病院なので英語が必要なことが多く、オーストラリアでの経験はいかされていると思う。
- 看護学校で看護英語を教えているが、授業でも自分の体験を学生に話している。(私の情報は古くなってしまったので、新しい情報としてMattieのHPも紹介しています。)
*その他なんでも結構ですから、何かありましたら書き加えてください。
- 今は留学のための情報や留学会社、研修などお金を出せばいくらでも楽をして手に入れることができる。でもできるだけ自分でやれることは自分でやることが、将来、オーストラリアに行った時に役に立つと思う。
- まず人に頼らずに何でも自分でやること、その上で必要な時はサポートしあっていける友人を作ることが大切だと思う。
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