今週の1枚(2000.01.17)
Glebe Island Bridge/ANZAC Bridge(その2)
今週と来週はグリーブ・アイランド・ブリッジ(公称改メ ANZACブリッジ)です。
上の写真は全景。向こうにハーバーブリッジも見えます。来るオリンピックのマラソンでは、選手はあのハーバーブリッジともどもこのグリーブアイラインドブリッジも走るとのことです。
シティ寄りの登り口は、フィッシュマーケットのさらに先にある、大きくウネウネとくねっているスロープを渡っていきます。
登りきったところに、この橋の説明が色々書いてあります。
この橋の概要が書かれてます。例えば、main span(橋梁径間=支柱と支柱の間)は345米で、ハーバーブリッジ(503米)に次ぐシドニー第二の橋であるとか(第三位はGladesville Bridgeで305米)、ケーブルは直径15.7センチの鋼鉄性のロープで、7本のワイヤーが編み込まれているとか。
また、支柱のなかは空洞で、なかにメンテ用の階段があり、階段数は下から上まで433段あるとか。
写真右はケーブル、左は支柱に書かれている立ち入り禁止の標識。
歴史が書かれています。
Glebeエリアの最初の所有者は、一番最初にオーストラリアにやってきた船団に乗り込んでいたリチャード・ジョンソンという人でした。彼は”chaplain”(公共施設付の牧師さん)としてやってきたわけですが、上陸後18ヵ月の後、この一帯を与えられました。このように、政府から教会に土地などが付与されることを"glebe”というらしいです。「ほお〜」と思って辞書をひくと、glebe landで「教会所属地」という意味があったりします(小さな辞書には載ってないです)。
グリーブの先にグリーブアイランドという小さな島があったわけですが、1850年代にシドニーで最初のabattoirs(食肉処理場、これも小さな辞書には載ってない)が建造されたそうです。島といっても、土手道作ってbalmainとくっつけてしまってます。
しかし、ほどなくして人口が急激に増加するにともなって、牛や羊がメインロードを通ってゾロゾロと処理場に向かうのが迷惑であり、処理場を閉鎖せよという住民の声も大きくなりました(日本では黒船がやってきた頃ですが、その頃から住民運動があったわけですね)。そこで、1857年にBlackbutts Bridgeという木造の橋が建造されました。この橋は、さらに1903年に建て直されました。旧グリーブアイランドブリッジです。しかし、それもさらなる人口の発展と自動車の普及によって、大幅に見直しが迫られ、現在の橋になったとのことです。ですので、これで3代目になるわけですか。ちなみに、この食肉処理場は、1918年にHomebush(オリンピックメイン会場になるところ)に移転したそうです。
その他、建築工法の解説やら、開通のときの様子などがいろいろ記されています。
直径1.5メートルのパイルを56本、場所によっては水深35メートルまで打ち込み、そのパイルの上に、3000立方米のコンクリートでパイルキャップという土台を作り、さらにそのうえに支柱を構築する、と。支柱は、”Jump Form”と呼ばれる型枠を徐々に上に移動させることによって作るそうです。
支柱が出来たら、今度は"Form Traveller"という型枠で、10.3メートルづつ、支柱の前後を交互に橋を架けていきます(交互にしないとバランスが保てないとか)。出来た橋から支柱にワイヤーで結びます。支柱両端からやってきた橋が最後に合体するわけですが、合体後、この「トラベラー」はクレーンで下の船に吊り下ろされます。前回、予め作った橋の一部をクレーンで最後にハメ込むと書きましたが、あれは、クレーンに吊るされたトラベラーが最後の仕事をしてる部分を見て僕が勘違いしてたようです。ごめんなさい。
1995年12月3日、いよいよ開通式です。州知事のBob Carrがテープカットをしたわけですが、彼がこのときに使用したハサミは、ハーバーブリッジ開通のときに使用した由緒あるハサミだったそうです。
その後、6万5000人の市民が「歩き初め」で歩いて渡り、なかには丁度100歳の誕生日を迎えたおばあちゃんもいたそうです。彼女は、グリーブアイランドブリッジ三代とも知っている貴重な人だったそうです。
また、市バス100台のパレードの行なわれました。
グリーブポイントから望む。
勤めを終えた旧橋。
歩道沿いに雑草が茂り、よく見ると、白いカモメ達の休憩所になってるようです。
写真・文/田村
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