今週の1枚(99.09.27)
マンリーまでのFerryの旅(その2)
先週に引き続き、マンリーまでのフェリーの写真を。
今週からちょっと体裁を変えます。掲載画像の数を減らして、一枚を大きくします(小さなサムネイルは横100ピクセルから150ピクセルへ、クリックしてでてくる大きな画像は640から800ピクセルにしました)。トータルとしての容量はこれまでどさほど変わってません。
なお、上の大きな写真(640ピクセル)もクリックするともう一回り大きくなりますよ(既にロード済なので時間はかかりません)。
オペラハウスを離れて、徐々に進んでいきます。
やたらクルーザーやヨットがいますが、この先、もっと沢山でてきます。別に休日でもなんでもない、普通の水曜か木曜なんですけど。オーストラリアに来たとき最初に抱いた疑問は、「どうして平日なのにこんなに皆遊んでるんだろう?」ということでした。
写真左端はキングスクロス沖。同時に軍港であったりします(軍艦が見えますね)。ちなみに新聞なんかでよく出て来るHMASはHer (or his) Majesty's Australian Shipの略で、RAAFは Royal Australian Air Force。「女王陛下の船舶」なわけですね。今度のレファレンダムで民主制になったら名前も変わるのだろうか。
写真右端の中央あたりに双子のようなビルが見えますが、あのあたりがボンダイジャンクション。
写真右二枚にみえる右手の陸地は、以前特集したこともあるBradleys Head。タロンガ動物園の入り口から歩いていけます。先っぽに船のマストが見えてますが、HMASのとある有名な船(としか判らない)のマストだけメモリアルに設置されてるものです。まあ、横浜の公園にある氷川丸(だっけ?)みたいなものかな。
写真はいずれも進行(マンリー)方向の左手、つまりノースサイド。Lower North Shoreと言われる緑の多い(坂も多いが)高級住宅地。ちょうどモスマンの海っぺりあたりですが、このあたりにも海軍と陸軍の敷地があります。
平和を絵にかいたようなシドニーハーバーですが、意外と軍事施設は多いです。ハーバーブリッジの橋のたもとに置かれている大砲のように昔ながらの遺跡のようなものもあれば、現役で使ってるものまであります。なんといっても外洋から攻めてくるならシドニー湾に入ってきますから、当然といえば当然ですけど。
しかし、実際に敵が侵攻してきたのは後にも先にも、大戦中、日本軍の潜水艦が潜航してきたときだけらしいですが。僕もオーストラリアに行こうと思って調べはじめるまでは、こんなところまで日本軍が手を広げていたとは知りませんでした。より正確にいうと、昭和17年、3隻の特殊潜航艇に分乗した6名が侵攻し、停泊中の船舶に魚雷を発射してるそうです。6名中4名は戦死、2名は潜航艇とともに消息不明。4名の遺骨は日本へ送られ、引き上げられた2隻の潜航艇はパーツを組み合わせてキャンベラの戦争博物館に展示されてます。今でこそのんびりフェリークルーズしてますが、もう50年ほど生まれるのが早かったら、この海の下を潜っていたかもしれないわけです。
こんな話は殆どの日本人が知らないでしょうが、逆にオーストラリアでは殆どのオージーが知ってるんじゃなかろか。で、あと1000年くらいは語り継がれるのではなかろか。だって、日本だって、1000年近く前の「蒙古来襲(沖合でコケてるから来てないんだけど)」という出来事を語り継いでるわけですから。でもモンゴルの人達はおそらく知らんだろうなあ。とかく、やられた方は覚えてるもんなんでしょう。
写真・文/田村
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