Tweet
Essay 918:リスクと本音
2020年01月27日
写真は、昨日(Australia Day)のもの。たまたま歩いてたら、なんか人が群れてるから野次馬気分で見に行きました。
コロナウィルス(2019-nCoV)がだんだん話題になってきて、その昔のSARSを思い出しますね。あのときも日本は大騒ぎで、海外旅行や留学中止する人が続出って感じだったような記憶があるけど、ことシドニー現地の風景はそんないつも変わらなかったです。
今回の場合も。オーストラリアの現状は、そんな大騒ぎってことはないです。こちらの報道状況を書いたのですが、長くなったので別途Facobookの記事として上げておきました。
本題は、僕らのリスク管理(査定)がいかに情緒的、ご都合主義的であり、非理性的であるかという点。と、同時にこれに「隠された本音」を加味すると、実はすごい「理性的」だったりする面白さです。
コロナウィルスについてもう少し
調べちゃったので、コロナウィルスについて、FBで載せた以降の話をします。初期の段階で数値をあれこれいうのも野暮なんですけど、現時点で中国での認定患者数が1300人弱で、うち死亡者が40名ちょい。これだけで致死率をいうのは乱暴すぎる話ですが、だいたい感染車中の3%くらい。次の速報では1975人感染で55人死亡だから、2.7%で、まあ似たようなもんですか。
でも、一般の、特に名前がついていない(or 報道されない)普通のインフルエンザはどうか?というと、日本で年間で大体600万〜千数百万人感染し、年によっては死亡者が1万人になるとも言われているそうです(出典)。日本の人口がだいたい1.25億人くらい、1%で125万人だから、600万〜千数百万というのは感染率5〜10%くらい。「10人にひとりいるか・いないか」「20人いたら一人か二人」ということで、「まあ、そんなもんか」って数字です。多い年で犠牲者が1万人ということは、仮に一千万人罹患したとしたら感染者中の致死率は千人に一人(0.1%)ですね。人口全体1.25億(12500万人)からすれば12500分の1です。くだけた表現でいえば、感染者が多い当たり年だったとしても、かかって死ぬのは「1万人に一人未満」という確率で、よほど運が悪いか体調が悪いかでもないと、そう死ぬものではないとは言えるでしょう。インフルエンザが流行ってると言っても、まさかそれで自分が死ぬとはあまり思わないけど、それで、まあ大体合ってるとも言えます。
ちなみに、先に概算で出した今回コロナウィルスの感染者中の致死率を約3%だとしたら、一般のインフルに比べて30倍以上致死率は高いことになり、その意味でこの疾患を重大視する必要はよくわかります。さらにちなみに過去のSARSの場合、世界の罹患者総数は約8500人、死亡者約800名くらいですから、SARSの(感染者内)致死率はさらに凶悪な10%だったことになります。
一方、全体の数でいうと話はまた別です。あくまで今これを書いている時点の話ですけど、武漢の人口1100万、ロックダウンされた7都市を合計すると2500万人らしいです(のちに13都市3600万→さらに16都市5000万人)。仮に2500万人を母数とすれば、この時点での1300人強が感染、40人強が死亡というのは、(この先どんどん増えるにしろ、今の時点だけ捉えれば)とてつもなく少ないと言えます。なぜなら、もしこれが普通のインフルのような感染力をもっているなら、(最終的には)2500万のうち125万人〜300万人くらい感染する計算になりますから。
といっても、今の時点では何とも言えないです。注意深く経過を見るしかないです。
でも、僕がなんとなく楽観し、WHOも緊急事態宣言を見送っているのは、先程書いたように、かつてのSARSですら全地球で死亡者800名、今回のコロナと同じ型のMERSでも850人かそこらだったらです。一方、「普通のインフル」の場合、世界での年間死者数は、年によってバラつきはあれど大体30-60万人くらい(出典)。
絶対数が3桁も違う
もう全然ケタが違うじゃないか。3ケタくらい違う。物事で3ケタ違うというのは途方もない差ですよ。1対1000くらい違うって、自分の年収が10万円なのか1億円なのかくらい違うわけですよ。こういう言い方は不謹慎なのかもしれないけど、パンデミックとか言葉が独り歩きしすぎてないか。コロナにせよ、SARSにせよ、有名度は高いし、罹患した場合の致死率は高いんだけど、しかし絶対数そのものでいえば、お話にならないくらい少ない。それは種々の理由があるでしょう。世界の医療関係者のご努力の賜物という点はあります。それは大いにあるでしょう、感謝です。あるいは、そもそもウィルスの絶対数(出現頻度やら繁殖度)が非常に少ないという点もあるかもしれない。あと素朴に思うに、感染後の殺傷力はすごいんだけど、逆になかなか感染しないかように見えます。それは感染力そのものが弱いのか、感染はするんだけど体内で侵襲を開始する前に白血球などに滅ぼされてしまうのか、そのあたりはわかりません。
過去のSARSとMERSのケースでは、かなり未然に食い止められて大成功ですし、大成功の数値をもとにして結果論的にいうのもナンなんですが、仮に食い止められなくて、SARSの死者総数800人が10倍、百倍、いや千倍の被害が出たとして80万人くらいですから、普通のインフル(30-60万)と同じ桁数になるわけです。
やっぱり、ここでちょっと首を傾げてしまうのですが、だったらフラットに罹患率や死亡率だけ考えれば、普通のあまり有名ではないインフルエンザの方がずっと恐いではないか?実践的なリスク管理でいえば、気をつけるのはむしろそちら(普通のインフル)じゃないか。ウィルスの世界で、今年の舞台はコロナ君が主役だから、ほかのウィルスは引っ込んでろってルールがあるとも思えず、同時並行で無名のインフル君達も頑張ってるんじゃないんですかね?
ま、いずれにせよ経過待ちですが、ロックダウンしている2500万人口中、進展するスピードにもよりますが、罹患者が数十万人規模、死亡者が数千人規模になってきたら、やばいのかなって気もします。一応の目安として。また、その際、中国政府だから(てかどこの政府でもそうだと思うが)、真剣にヤバくなってきたら事態を隠蔽する可能性もあるので、安全係数を10倍(10のうち9を隠蔽する)とみれば、罹患者が万のオーダーになったらって感じですか。
でも、そんなに言うほど10倍も隠蔽してるっぽくもないんですけどね。なぜなら、実際には年末くらいから密かに感染は始まってると思われるところ、交通遮断されるまでの約1ヶ月くらいの間に、そのエリアから世界中にかなり飛び火してるはずです。潜伏期間は約5日(人により2日〜14日の幅はある)だから、もしこれが爆発的な感染力をもっていたら、今の時点で世界中が凄いことになってるんじゃないか?でも、今のところ各国とも数名以下ですし、各国の数値は改ざんできないだろうし。
ところで、今オーストラリアほか先進諸国の話題と課題は、ロックダウンされている地区から自国民をいかに救い出すかに焦点が移動してきて、オーストラリアでも100名ばかりのオーストラリア人が足止めを食らっているのを、飛行機をチャーターしつつ、中国当局と交渉中だそうです。
ここを先度と〜
オーストラリアではそれほど目立たないのですが、日本のネットを見ると、目を覆わんばかりというか、腹抱えて笑い出してしまうというか、ここを先度と〜みたいな意見がありますね。例えば中国や中国人が嫌いで、怖くて、なにかといっちゃ叩かないと気がすまないヘイト君の場合、中国政府だから真実は隠蔽しているはずで、本当はその数百倍、数万人がすでに死んでいるんだと言ってる人。隠蔽しているってところまで半分同意ですけど、だからといって数万人死亡というのは、本人の勝手な推測に過ぎず、また推測の根拠もなし。中国人観光客が罹患したら、中国と完全に往来を絶てとか言うわけですね。なんか百数十年前の黒船からなんも進歩してない感じだし、もし100%断交したら、日本経済もガタガタになって、回りまわって自分も失業するリスクは高いですよ。でもそこまで頭は回らない感じ。
だから本気でリスクを心配しているわけではないのでしょ。そう考える(リスク論議)から、非常に非合理的なこと言ってるように見えるんだけど、「あらゆる機会を逃さず中国人(外国人)を罵倒する」という「本音」からすれば、合理的なわけです(笑)。
また、被爆の危険性を心配している人は多々いるわけですが、ここでもオーバーランする人がいて、皆の足を引っ張る。積年の被爆で免疫機構がズタズタになってるから、いったん日本に上陸したらもう日本崩壊レベルの大惨事になると。被爆によって免疫機構が侵されるのは、一般論としては正しいでしょうけど、個人差があまりにも激しいし、長期的に発現してくるものだと思います。すでに誰も彼もが免疫ズタズタだったら、別に新型ウィルスでなくて普通のインフルでも、いや普通の風邪ですら崩壊状態に陥っている筈でしょう。
ここでも、「ことあるごとに」系で、なにかチャンスがあったら、なんでもかんでも自分のテーマを主張したいという「本音」が突出し、そして空回りしてしまうという。
我田引水の嵐〜リスクと本音
話はいよいよ本題のリスクと本音論です。もう終わりだ系
例えば、「もう終わりだ」系の人が居ます。それは自分の人生がパッとしないからか、世間の人が羨ましいからか、とにかく世界が憎くてたまらないからか、なんとなく何かをこじらせている人が、何がなんでも日本やら人類を破滅させたい。つまんない学校や会社が燃えてしまったらいいのにな〜という可愛い逃避系もあるだろうし、紅蓮の炎に包まれて滅びゆくときに究極の美が〜というイッちゃってるアート系のものもあろうし。
いずれにせよ、そういう想念に取り憑かれてしまうと、ありとあらゆる災害や不幸を待ち望むようになり、ちょっとしたリスクでも針小棒大に語るでしょう。もう理由やメカニズムなんかどうでもよく、ノストラダムスの大予言だって、「天から恐怖の大王が降ってきて」と理由にも説明にもなってない意味不明なことで、世界中が盛り上がっていましたからね。なんでもいいんですよ。
商魂系
あとはもっと商魂たくましい系で、これこれこういう大災厄が予想されるから→だから救われるために我が宗門に来たれと新興宗教から勧誘があり、ノアの方舟的な最強サバイバル・アイテムとして壺やらお守りやら御札を買えとか、家相・墓相・印相(ハンコ)・姓名が悪いので変えろとか、株はもうダメだから不動産を買えとか、いやいや確実なのは金や貴金属だとか、もっと確実な現物資産(名画や骨董品)だとか、、、彼らも、リスクを最大限に「活用」します。言い訳系
もともとやりたくない事があり、なんかの拍子に中止になればいいなと思ってる場合は、どんな小さな障害事由でも、なんだかんだ針小棒大に誇張してやめさせようとしますよね。校内マラソン大会がイヤでたまらない人は、ちょっと曇り空になったくらいで、「雷雨になるかもしれないから止めましょうよ」って発言になる。息子や娘でなにかに出かけるのが気に食わない親は、なんだかんだ理由をつけては思いとどまらせようとしますしね。すごい混雑が予想されているとか、事故にあうかもしれないからとか。ライバル派閥のプロジェクトが成功されると困るから、世界経済がどうしたこうしたいって止めさせようとしたり。
大体もれなくカップリングされるフレーズが、「万が一」「絶対大丈夫と」「言い切れるんですか?」「責任取れるんですか」あたりで、多くの皆さまにご愛用いただいているわけです。逆にいえば、この種のフレーズをよく使う人がいたら、基本そんなに頭が良くないか、あるいはなんか隠された意図があるか、ですよね。まあ後者が多いし、隠されたっていってもミエミエなんだけど(笑)。
保身系(非難回避)
言い訳とニアリーなんだけど、普通に考えたら当然GOでしょ、そのくらいのリスクは何をやるにしたってついてくるんだし、ことさら言うほどのことでもないしって、常識的なところは分かってるんだけど、自分がその責任者になってしまうと、やっぱり「万が一」が怖くなる。そのため、リスクを、実際以上に大きめに見積もることになります。結果として理不尽とも思われるよな判断になるんですけど、「本音」からしたら合理的。なぜなら、その時点でリスクの対象が変わるからです。それまでは、悪しき事態になったときの被害がリスクだったんだけど、いつしか「それで非難される自分」がリスクになる。自己保身こそがリスクの内容に変わる。
教育やら行政やらでよく見かけるパターンですけど、このあたりが日常的なビジネスレベルで一番頭の痛いところですね。組織運営なんかをする場合でも、リーダーシップを発揮するような場面でも、このさばき方というのは大事なポイントになるでしょう。
思うに、リーダーというのはある程度バクチは打つのが仕事だと思います。素直にみて成功確率8割で、失敗2割の被害もまあ回復可能であるならば、当然GOです。そこで、もし失敗したら責任取らされて、、とか考えてビビってるようでは、アタマは務まらないと思う。当然裏目にでたら、ギャースカ罵倒されるんだけど、それはもうしょうがないよねーって腹を括れです。そこで腹を括れるのが大人・アダルトで、括れないのがマイナーなんだと思います。
創造的破壊
それか今の現状がどうしようもなくクソだから、一回ガラガラポンでやりなおすしかなく、そのためには綺麗さっぱりぶっ壊れてくれないかなーという、創造的破壊を待ち望む意識もあるでしょう。日本には昔からあるよね。バブル直後くらいに僕はオーストラリアに来たんだけど、そのとき日本に国際電話してて、そっちはどう?と聞くと、「いや、相変わらず日本はもうダメだ、もう終わりだって皆言ってるよ〜」「でも、そう言いながらも皆どことなく嬉しそうだよ」とか返ってきて笑いましたけど。いや、ほんと、90年代にドカンと創造的破壊をやっておけば、その後の失われた10年、20年、30年って、もうほっといたら永遠に失われ続けるような羽目にもならんかったろうに。その逆
もちろんその逆もあります。なにがなんでもやりたいときは、意図的にリスクを過小評価しますし、ときには隠蔽したり、ミスリードしたりします。ところでコロナウィルスの話に戻りますと、政府が比較的おとなしいのはなぜかなーと思うと、あんまり大騒ぎすると、「やっぱオリンピックなんか無理だよ」って話の流れになってしまうのが恐いのかな。なんせSARSのときは終息するまで8ヶ月かかりましたし、今から8ヶ月とかいったらオリンピックにモロにかちあいますから。
いずれにせよ共通するのは、リスク論を語っているようでいながら別のことを語っている。なんらかの意図(本音)のもとに、リスクをダシにして主張しているような気がします。
検証方法
それが真剣にリスク査定の話なのか、リスクにかこつけて別の目論見があるのかを検証する方法としては、仮定の条件を付加したり、他の事例と比較したりするとわかりやすいです。例えば、海外、オーストラリアに行こうと思ったけど、山火事がひどいからとか、ウィルスが恐いからという理由で、やめようかって話になりますね。そこで、条件をもう一つ加えてあげます。「オーストラリアに行けば、もれなく1億円もらえるとしたら?」と。一転して行くんじゃないかなー。いや、そんな銭金の問題じゃないぞ、バカにすんなよって頑張ってる人も、周囲の連中が続々と行って、本当に1億円もらって、家を建て替えたり、車買ったりするのを見てたら、どうかな。しかも「今月一杯でおしまいです」とか言われたらどうかな?一億円が一兆円になったらどう?行くんじゃないの?
もしそこで行くのだったら、最初のリスク査定はなんなのよ?です。1億もらえるのが事実だとしても、山火事が消えたわけでも、ウィルスがおさまったわけでもなく、リスク値そのものは何ら変わらない。なのに金が入るとなったら、そんなのどうでもいいって話になるんか?その程度の話だったのかといえば、「その程度の話」だったんでしょう、最初っから。
大体、最初にやりたいか/やりたくないかがあるわけです。なんとなく気乗りがしなかったり、イヤイヤやってるようなときは、「万が一を考えて」とか言う。でも、本気で「やりたい!」と思うときは、今度は「万が一でもチャンスがあれば」とかいってやるわけです。
「万が一」を文字通り10000対1確率だとするならば、前者は成功率99.99%であっても「やらない」のであり、後者は成功率0.01%であっても「やる」わけです。もう、めっちゃくちゃいい加減だよね。人間なんかそんなもんよ。真面目にリスク査定をやってるのは、真剣に死ぬかもしれない冬山登山で、進むべきか退却すべきかとか、ガチにやってる人くらいじゃないかな。あとは、リスクの話をしてるようで、決定因子はもっと別のところにあるんだわね。
あと、そのリスクが人気があるかどうか、知ってるか知らないかにも左右されるし、マネージャブル(管理可能)かどうかにもよります。ここらへんは幾らでも書けるけど、このくらいで。
僕が思うリスク
最後におまけに、僕が何をリスクとしてカウントするか?について。交通事故
物質的なリスクでいえば交通事故でしょう。発生率と結果の重大性(自分が負傷しても、他人を負傷させても)からしてもダントツだと思いますね。そして、その危険性は自分でかなりコントロールできることがデカいです。自分が頑張ればリスクが減るかという視点ですが、少なくとも感染防止よりも、事故防止の方がより確実にリスクは減ります。頑張り甲斐がありますし、それを怠ったときは1秒で人生破滅するという怖さは圧倒的ですもん。自由と練肚
その他、社会的なリスクでいえば、やっぱ自由の制約が一番のリスクですかね。例えばヤバい会社に入ってしまったとか、家に住んでしまったとき、とっとと離脱できるかどうかです。これがもうローン組んでしまいましたとか、誰それのコネで入ったから今更イヤとは言えないとか、あれこれシガラミが出てきて、制約が多くなると、思い通りに動けなくなって、手足縛られてプールに投げ込まれるような地獄的な状況になりますから、それは避けたい。そのためには、なるべくシガラミがすくない人生環境にするというのが一番のリスク管理の課題です。同じように、ダメだ、動かねばと思っても、怖くて動けない、勇気がないとかいうメンタル的なこともあるので、リスク管理としては、そのあたりの手当。いつでも腹を括れるように、てか常時腹を括ってる状態にすることです。「練肚(れんたん)」っていうのかな、武道とかでよく使う言葉で、肝ったまを練り上げることです。今死んでも悔いはないって感じで、そのためには、遡って、いつ死んでも悔いはないくらい、今のうちにやりたいことはやっておくことです。
これやっておくと、死にはしないまでも、破産覚悟、全てを失う覚悟で動きやすく、なにかと自由ですよね。僕も30代前半で今まで積み上げたものを一回全部ご破算にしてオーストラリアに来ましたけど、この年代でコレをやっておかないと、後の人生の守りに入って弱くなるからアカンという意識もありましたし、ご破算にして正解だったと思います。そのくらいの覚悟でやらなきゃいけないことって人生に何度かあるけど、保身にかられて勝機を逸するとその後が大変なんで。
同調圧力
それに関連して、今のオーストラリアではそんなないけど、日本に帰ったなら、たぶん「馬鹿ストレス」と「同調圧力」が一番のリスクになるような気がしますね。前者は、愚劣な言動を見聞きして不愉快になることですけど、これが意外と尾を引くので馬鹿にならない。精神健康的に被害が大きい以上に、時間の有効活用とか生産性という意味でかなり損失を被るので、それが恐いですね。同調圧力も同じで、多分そんなに同調しないし影響は少ないだろうけど、ゼロではないし、またそれに対抗するだけでエネルギー食うのですよ。馬鹿ストレスと同じでエネルギーと時間の浪費で、それだけあったらもっと前向きなことが出来たのに、できなくなる損失リスク。また、本格的にヤバくなってきたら、もう事実上抗えませんからねー。戦時中に、アメリカに勝てるわけないだろとごく当たり前のことを言うと、半殺しないし全殺しにされてたんですから。そんなのピストル突きつけられて生きてるのと変わらんし、半分死んでるのも同じ。それで、203高地みたいに死ぬに決まってる愚劣な突撃やらされたり、最後の一兵まで死守とかいって無駄なことやって殺されるのはたまらん。人生を無意味化させられるというのはかなり恐怖ですし、それだけは避けたいから、リスクとしても最大凶レベル。
これをウィルスに例えるなら、「なんか素直にものが言えないなー」と感じた時点で、コホンコホンと空咳が出ているような状態と同じで、けっこうヤバいと思うべき。そのあたり、わりと真剣に「リスク」としてカウントされるべきかなって思ってます。
そこで、写真とリンクするのですが、これらはAustralia Dayに対するプロテスト集会でして、先住民のアボリジニからみれば、一方的に侵略・虐殺・収奪されてるわけですから、それを「祝う」というのはおかしいだろという発想です。本来かなりパトリアティック(愛国的)になりそうな日なんだけど、オーストラリア各地で大規模なラリー(デモや集会のこと)が行われたそうです。まあ、大きな文化祭みたいな感じでやってましたけど。自分の国のアイデンティティを真っ向から問い直すという意識は年々強まってるわけで、世界的な右翼的な(というと正統右翼に失礼なくらいで、変形ナルシズムの同族意識×排他意識)潮流のなか、わりと珍しいと思います。その意味で同調圧力リスクはかなり低いですね、ここは。
ちなみに自治体レベルで、オーストラリアデーを他の日に動かしているところもあります。ここによると、Yarra City, Victoria、Darebin, Victoria、Moreland, Victoria、Inner West, New South Wales、Fremantle, Western Australia、Flinders Island, Tasmania、Launceston, Tasmania、Byron Shire, New South Walesです。
文責:田村
Tweet