戸籍の性別変更と人権 ──自己決定権の法理の展開──
松村比奈子の論文 より引用
戸籍の性別変更と人権
──自己決定権の法理の展開──松村比奈子
(2001年3月)
1 はじめに
(1)これまでの経過
(2)戸籍の性別変更の一斉申立5 判例の現状
(1)間性の場合
(2)性同一性障害の場合6 性別変更不可の法的根拠(戸籍法113条)
(1)戸籍の機能
(2)性別変更不可の根拠の考察
(3)戸籍の性別変更の可否7 憲法上の論点
(1) 憲法13条
(2) 憲法24条
(3) 憲法25条
(4) 国際人権B規約17条
(5) 参考:ドイツの違憲判決8 自己決定権からみた戸籍の性別変更
(1) 13条の権利構造
(2) 幸福追求権の保障
(3) プライバシー権と自己決定権
(4) 性と生殖の自己決定権と性再指定の自由
(5) 自己決定権と戸籍の性別変更
2001年5月、性同一性障害者の戸籍の性別変更の申請が一斉に申し立てられ、各地の新聞にその概要が掲載された。性同一性障害者とは、自分の意識する性別が肉体上の性別と一致しないという、悩みを抱えた人々を指す。彼らはなぜ、戸籍の性別変更を求めるのであろうか。一般に、戸籍の性別を変更してまで、肉体上の性別とは異なる性を生きるという要求は、容易に理解しがたい。実は戸籍の性別変更に関する裁判例は少なからずあるのだが、性同一性障害者に対しては殆ど却下されてきた。とはいえ、理解しがたいからといって、許可されないことに問題や矛盾はないのだろうか。あるとすれば、どのような問題や矛盾があるのだろうか。そのような疑問から、この問題を考察した。
肉体上の性とは異なる性であっても、本人がそれを確信するならば、その性に基づいて生きることは個人の幸福追求の権利といえる可能性がある。また、肉体上の性を自分の性と確信している人々と同様、自分の確信する性で生きることを差別してはならないということもできる。同様に、性同一性障害でありながら異性を愛し婚姻を望むとき、戸籍が肉体上の性のままでは同性婚となり法律婚ができない。さらには、性同一性障害について世界的に承認されている治療を受けたくても、高額な医療費や法的未整備のため、受けることができない人々が多数存在する。これらの問題を憲法上の観点から考察する場合、13条、24条、25条等に違反する可能性がある。
以下、この問題について特に13条の幸福追求権、ひいてはその一内容としての自己決定権の概念を整理しながら検討していきたい。(1) これまでの経過
性同一性障害者の存在は、いろいろな形で古くから知られていた。俗にオカマとかオナベといった差別用語、あるいはニューハーフという呼称で示される人々の一部はそうであろうと推定される。世界にも普遍的な精神障害の一つといわれる。性同一性障害の治療は、20世紀以前は脳の病気であるから脳を治すという趣旨で暗示や電気ショック療法等が行われていたが成果ははかばかしくなく、1930年代になると高度医療技術の発達に伴い、肉体の性別の方を治すという形で、オランダやドイツなど西欧諸国において性器の整形手術すなわち性再指定手術が行われるようになった。
その性再指定手術(または性転換手術)(1)は、現在、性同一性障害者にとっては治療に必要な手術とされている。しかし日本では、1969年に東京地裁で三人の男性に性再指定手術を行った産婦人科医に対して、優生保護法違反で有罪の判決が下されて以来、三十年近く性再指定手術は触れてはならない領域となっていた(2)。その後1996年になって、埼玉医科大学の倫理委員会で「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」が出された(3)。またこれを受けて翌年、日本精神神経学会で「性同一性障害に関する答申と提言」が出され、初めてのガイドラインが作られた(4)。これによって永らくタブーとされていた性再指定手術が国内でも正当な医療行為として認められるようになった。さらにこれに基づいて、1998年10月同医科大学で最初の性再指定手術が行われた。今日まで同医科大学で8例、岡山医科大学で1例の性再指定手術が行われている。およそ三十年の間、いわゆる「ニューハーフ」とも呼ばれるMTFのトランスセクシャルを含めて、性再指定手術を望む人は闇であるいは海外に渡って手術を受けていたが、このような日本国内での対応を皮切りに、性同一性障害者に対してどういう「治療」が適当なのか、また、このような手術がどこまで行われてよいのか、医学ばかりでなく法学的な処遇も含めて急速に問題がクローズアップされている。(2) 戸籍の性別変更の一斉申立
さらに2001年5月に入り、埼玉医科大学で性再指定手術を受けた性同一性障害者を中心とする6人が、集団で家庭裁判所に戸籍の性別変更の申立を申請した。戸籍の性別変更の申立申請は今までにも十数件あるが、性同一性障害者に関しては、1例(一説には3例)を除いて全て却下されている。西欧では、この問題に対し性転換法を制定して性別変更を認めたり、裁判で許可したりする国が多い(5)。従って、日本でのこの対応に憲法上の問題がないといえるかどうか、充分に吟味する必要があると思われる。
戸籍の性別変更一斉申立は、ちょっとした事件として各地の新聞に紹介された。例えば日本経済新聞(2001年5月24日)や毎日新聞(2001年5月24日)等である。その他品の毎日新聞(2001年5月6日)等、地方紙にも掲載された。ここでは詳細に報道している佐賀新聞の記事を紹介して、概要を伝えたい。
「見出し」性同一性障害手術、戸籍の性別訂正要求へ <共> (佐賀新聞.2001.5.6)
〈性同一性障害手術、戸籍の性別訂正要求へ〉
身体的性別に強い違和感を抱く性同一性障害の治療として、埼玉医大(埼玉県川越市)で性転換手術を受けた当事者ら六人が二十四日、戸籍の性別の訂正を各地の家裁に一斉に申し立てることを五日までに決めた。
手術で性器が変わり、新しい性で暮らし始めても、戸籍の性別が元のままでは、就職など日常生活が困難なため。三年前に国内で始まった正式な性転換手術の経験者が戸籍の性別訂正を求めるのは初めてで、裁判所の判断が注目される。
申し立てるのは、埼玉医大で女性から男性への性転換手術を受けた四人と、米国とシンガポールでそれぞれ女性から男性、男性から女性への手術を受けた二人。関東、東北地方在住の二十―四十代で、全員が手術後の性別で暮らしている。
だが当事者らによると、外見上の性別と戸籍の性別が一致しないことから、戸籍を基にした住民票やパスポート、健康保険証などを使う度に疑われ、性同一性障害であることを明らかにせざるを得ない。このため希望する企業に就職できなかったり、差別や嫌がらせに遭うなどの深刻な事態に直面している。〈社会の受け止め方問う〉
《解説》性同一性障害のため性転換手術を受けた当事者らによる戸籍の性別訂正申し立ては、医療としては定着しつつある性別の変更を社会がどう受け止めるかを正面から問う試みだ。
日本では一九六九年、性転換を希望する男性の睾丸(こうがん)を摘出した医師が優生保護法(現母体保護法)違反で有罪判決を受けた影響などから、性転換手術は長くタブー視されてきた。
だが性同一性障害に悩む人の悲痛な訴えを受けて、埼玉医大の医師チームが性転換手術を計画。同大倫理委員会の答申、日本精神神経学会の治療指針を得た上で、九八年に国内初の正式な手術に踏み切った。以来、同大と岡山大で計九人が手術を受けており、医療現場での認知は進んでいる。
これに対し、戸籍の性別訂正は、手続きが非公開のため統計はないものの、数少ない申し立てのほとんどが「戸籍の性別は生物学的な性別で決定される」との理由で却下されてきた。
訂正を認めた唯一のケースとして知られる八○年の東京家裁の審判も、法律家の間では「米国での手術証明書を基に、あまり考えずに決めてしまった例外」と評価されている。
実際、東京高裁は昨年、別のケースで「現段階では性転換手術は社会一般の承認を得るには至っておらず、戸籍訂正の可否は立法にゆだねられるべきだ」と結論づけた。
しかし欧米などでは、体と性に関する自己決定権を尊重する立場から、性転換手術を済ませていれば、出生証明書などの性別の変更を容認している国が多い。
今回申し立てを行う一人は「命がけの手術で本来の性別の体を手に入れても、戸籍の性別が変わらない限り、いつまでも普通の生活はできない」と強調。一斉に立ち上がることで、世論を喚起しようと必死だ。
性同一性障害は精神障害の一つとされている。性同一性障害者について考察する際に、ここで使用する用語を簡単に説明しておきたい。同一性障害に関する用語は、研究者や医療関係者によってばらつきがあり、厳密に確定した呼称は無いようであるが、以下は代表例である(6)。
@「トランスセクシュアル」 性同一性障害(GID)と同義。身体的な性とジェンダーが不一致で性(別)再指定手術(性転換手術)をした人,またはしようとしている人をいう。
A「ポストオペラティブ」 トランスセクシュアルで,性(別)再指定手術をした人。
B「プレオペラティブ」 トランスセクシュアルで,性(別)再指定手術をまだしていない人。
C「MTF」 male to female 自分の性別を男から女に移行する人。
D「FTM」 female to male 自分の性別を女から男に移行する人。
埼玉医科大の答申では、性同一性障害という症状は、本人の自認する性が身体上の性と一致しない「性同一性障害(gender identity disorder)」および、その一つである「性転換症( transsexualism )」を定義して、「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している」状態とする。そしてこれに対して、1)精神療法、2)ホルモン療法、3)手術療法(性再指定手術)、という三つの段階の治療を是認している(7)。
この性同一性障害の特徴は、答申が引用している国際診断基準DSM−Wによると、「A.反対の性に対する強く、持続的な同一感。B.自分の性に対する持続的な不快感、またその性の役割についての不適切感。C.その障害のために臨床的に強い苦痛または社会的、職業的、または他の重要な場での機能に障害を起こしている」といった点にあるが、当人には、概して子ども時代から自分の本来の性は逆の性だという強い意識があり、日常生活に支障をきたすほどの身体的な違和感が存在している。
答申に際しての対象症例となり、その後最初の性再指定手術を受けたあるFTMの患者は、二、三歳の頃から自分の性別(女)に違和感を覚え、女児服を嫌い、中学校の制服も「女装しているようで表を歩くのが恥ずかしい」と感じていたらしい。また声変わりしない自分の高い声が嫌で、釜串を突っ込んで声帯を傷つけてハスキーな声を獲得することも行った。そして自分は他の人とは違うが、今の体は間違いでいつかはペニスが生えてくると信じていたが、「大人になっても男の体にはならないんだと突きつけられて、初潮を死刑宣告のように感じた」と述べている。同様の経験は他のFTMのトランスセクシャルにも多く見られるとされる(8)。
この性同一性障害と同性愛との差異について、概念的にははっきり区別される。性同一性障害の患者の場合、自分の性の意識(=性自認)ははっきりしており、体の方が間違っているという意識(=身体違和)があるのに対し、本来の同性愛者にはそのような意味での身体違和がない。「本来の」と言ったのは、実際には性同一性障害の場合でも、周囲から「同性愛」と見なされることは実際上かなりあるからだ。本来の同性愛は、語の定義からして同性を愛するのであるから、性同一性障害のように自分が本当は異性であるのなら、もはや同性愛ではない。従って前者は自己のジェンダーの同一性に基づいて、自己のセックス(身体上の性)を否定するのに対し、後者は自己のセックスの同一性に基づいて、制度としてのジェンダー(あるいはセクシャリティ)を否定していることになる(9)。
ところで、性の同一性というのは、医学的に見てもけっして単純なものではないとされる。人間の性の土台となる 生物学的性(セックス)は、きわめて複雑な過程をへて成立するとされる。我々は通常、性染色体の組み合わせによって個体の性が決定されることを知っている。性染色体にはX染色体とY染色体があり、受精によりXX型となれば女性、XY型になれば男性である。しかし、これはあくまで遺伝子レベルでの性であり、身体的性がこれと同一であるとは限らない。
身体的性はまず、精巣ができるか卵巣ができるかという生殖腺の分化に始まり、次に内部生殖器と外部生殖器の分化が起こる。精巣あるいは卵巣が形成されるなら、それからそれぞれ男性あるいは女性へと発達していく。だが、現実にはこの性分化の過程は単純ではない。各段階でさまざまな要因が働き、その結果としてさまざまな中間的な性の形態が存在することになる。それらは間性あるいは 半陰陽と呼ばれる(10)。
たとえば遺伝的には女性だが、胎児の性分化の過程で身体がさまざまな程度に男性化する副腎性器症候群などがある。極端な場合には、陰核が男性の陰茎とみえるほどに発達し、陰門が合わさって睾丸のない空の陰嚢が形成されるため、出生時に過って「男の子」と診断されることがある。
反対に、遺伝的には男性だが、身体が女性化する睾丸性女性化症候群などがある。遺伝的にはXYで男性であり精巣がありながら、外部性器が女性型で二次性徴後の体型も女性的なため、ほとんどの場合「女の子」として診断され生活している。子宮や卵管がなく無月経で不妊の点を除けば、正常な女性とほとんど変わりなく、女性として結婚している人がほとんどといわれる。
このように、性分化は医学的にも多様である。これらの人々を身体レベルで男女に分けるのは便宜に過ぎない。遺伝子の性を基準とすることは可能ではあるが、遺伝子レベルでの性染色体構成の異常もある。XO型(ターナー症候群)、XXX型、XXXX型、XXY型(クラインフェルター症候群)、XYY型などである。こうした多様な性の形態に対して、医師は「将来、男性としての性機能が期待できる少数例を除いては、染色体を問わず女性とするほうがよい」という(11)。そこで、ひとたび性別が選択され決定されると、それと異なる性腺と内性器を除去し、外性器を形成する手術が行われるという。
これに対し、性別の決定は個人の一生にかかわる重大な問題であり、単に一医師がどちらかの性に合わせて内性器を勝手に取り除く決定が正当化されている現状に対する疑問も提起されている。後になってその事実を知らされた当人は、みな大きな衝撃を受けるという。彼らは内性器や性腺を除去されたため、自ら性ホルモンを分泌することができない。従って生涯医療に頼らなければ生活できない。それゆえ、半陰陽のグループはこの種の手術の実施に対して反発している。少なくとも当人の意思を無視した、あるいはまだ意思を表明することもできない幼児に対する性器改造手術は、きわめて残酷だというのである(12)。【性の多様性と性同一性障害の図式】
(※セックスが女性の場合にも、これと同様の多様性があり、その他染色体異常者や性器異常者等身体上の性が中間の場合も存在する)
身体上の性 性自認 性的指向 概要 セックス ジェンダー 男 男 女 男性異性愛者 男 男 男 男性同性愛者 男 男 男・女 男性両性愛者 男 女 男 女性異性愛GID(見かけ男性同性愛者) 男 女 女 女性同性愛GID(見かけ男性異性愛者) 男 女 男・女 男・女 女性両性愛GID(見かけ男性両性愛者)
戸籍上の性別表記の訂正について考える際、申請者がインターセクシャル(いわゆる間性)の場合とトランスセクシャル(性同一性障害)の場合とでは対応が異なるので、別個に考察する。
ところで戸籍法113条は「戸籍の記載が法律上許されないものであること又はその記載に錯誤若しくは遺漏があることを発見した場合には、利害関係人は、家庭裁判所の許可を得て、戸籍の訂正を申請することができる」と規定している。実際の手続では、家庭裁判所における審判によって、家庭裁判所の許可を得ることになる。
(1)間性の場合
間性 intersexual の場合には、戸籍上の性別表記の訂正は一般に認められる。以下の7例中、性別表記の訂正を許可したものは6例で、許可しなかったものは1例である。しかし、唯一の否定例であるBは、後の抗告審Cで破棄されている。したがって、当事者に着目すれば、全員が性別表記の訂正を許可されていることになる(13)。
ただし、私が個人的に把握している2001年3月の1例では、1審で却下されている。@福井家庭裁判所審判昭和33(1958)年8月21日=許可(女→男)「幼少より女として育てられてきたが、生来半陰陽の肉体的素養を有しており、青年期に至り次第に男性的徴候が顕著となってきたので、女としての生活様式を改め、男として再出発することを決意し、6回にわたり外科的手術を行った結果、肉体的にも男性としての条件を具備するに至った」(14)。
A東京家庭裁判所審判昭和38(1963)年5月27日=許可(長女→長男)(15)。
B札幌家庭裁判所小樽支部審判平成1(1989)年3月30日(Cの原審)=申立却下(二男→長女)「戸籍訂正は、戸籍の記載が当初から不適法又は真実に反する場合等についてなされるものであるところ、上記の事実からみるならば、申立人については、その性染色体、生殖腺、内性器の形態等からみて、そもそも男子として出生したものであることが明らかであり、更に、申立人は、現在、性染色体はもとより、その他においても女性として何らかの身体的特徴を備えている訳ではないことが認められる。そうであれば、申立人について、戸籍上の性別を男から女に訂正すべき余地はないものといわざるをえず、本件申立ては理由がないものというべきである」(16)。
C札幌高等裁判所決定平成3(1991)年3月13日(Bの抗告審)=許可(二男→長女)「このような典型的な男性にも女性にも属さない場合(医学上は「間性」と呼ばれる。)、その性別を何を基準として決定するかについては、かつては医学上においても性染色体の構成を唯一の基準としていたが、次第に性分化の異常に関する症例報告が増え、研究が進展するに伴い、性染色体のいかんは唯一、絶対の基準ではないとされるようになり、現在の医療の実践においては、外性器異常を伴う新生児が出生した場合、異常の原因、内性器、外性器の状態、性染色体の構成のほか、外性器の外科的修復の可能性、将来の性的機能の予測等(これらの要素を考慮するのは、外性器異常を生涯にわたってもつことのハンディキャップ及び劣等感が甚大なものであるからである。)を慎重に勘案し、将来においてどちらの性別を選択した方が当該新生児にとってより幸福かという予測も加味した上で性別を決定し、その決定に基づいて外性器の形成、ホルモンの投与その他必要な医療上の措置がなされるという扱いが定着するようになってきている。そして、このような医療の実践が社会通念、国民感情に照らして容認しがたいほど不相当であると断ずることはできない」(17)。
D浦和家庭裁判所越谷支部審判平成9(1997)年7月22日=許可(長男→三女)「申立人は、性染色体が男性型のXYであるものの、性分化の過程で異常を生じ、現在表現形式としての男性生殖器を有せず、男性仮性半陰陽にあたるものであり、ホルモン分泌としては女性としての正常値に位置し、その結果中枢神経系の機能や精神活動にも影響を及ぼし個体としては女性型へ進行しているといえる。そうであれば、申立人は女性であるというべきであり、その戸籍の続柄欄が長男と表示されていることは誤りというべきである」(18)。
E新潟家庭裁判所審判平成11(1999)年1月25日=許可(長男→長女)「性別の決定については、@立位での排尿及び男性的性生活の可能性を有する長さの陰茎が存在するか否か、A排尿及び性生活を可能とするのに必要な整形手術の難易度、B精巣分化・テストステロン作用の障害程度、C子宮・膣の存否のほか、さらに、『脳の性差』『心理的男・女』を無視することはできないとして、Dその心理的傾向がいずれの性に近いか、をも加えて総合的に吟味すべきである」(19)。
F水戸家庭裁判所土浦支部審判平成11(1999)年7月22日=許可(長女→長男)「申立人の性染色体は46XYであり、診断書による病名は男性半陰陽であり、本来の性は男性であること、睾丸の働きが遅れたため出生時外陰部異常がみられ3歳時に左側の除睾術と外陰形成を施されたが、思春期に右側の除睾術は施されておらず、申立人の性別自認は一貫して男性であり、男性か女性かについての揺らぎは今後はみられることはなく、妊孕性はないものの性器の手術等により男性としての性行動が可能であることが認められる。そうすると、申立人が女性であることを前提とする戸籍の記載は真実に反するものというべきである」(20)。
(2)性同一性障害の場合
性同一性障害者の場合には、半陰陽とは異なり、戸籍上の性別表記の訂正は一般に認められない。以下の10例中、性別表記の訂正が許可されたものは1例のみであり、他のすべての事例においては、許可されていない。なお、当事者に着目すれば、@=A、C=D、E=F、H=Iであり、当事者の数としては合計6人である。
@名古屋家庭裁判所審判昭和54(1979)年9月27日(Aの原審)=申立却下(二男→長女)「鑑定結果によれば、事件本人は、染色体検査、骨盤エックス線検査、診断所見によっても本来正常な男性であって、造膣術等の性転換術や豊胸術によって外見上女性型を示しているに過ぎない。よって、事件本人は依然男と認めるほかなく、本件申立は前提を欠く」(21)。
A名古屋高等裁判所決定昭和54(1979)年11月8日(@の抗告審)=抗告却下(二男→長女)「人間の性別は性染色体の如何によって決定されるべきものであるところ、鑑定書によれば、事件本人の性染色体は正常男性型であるというのであるから、同人を女と認める余地は全くない」(22)。
B東京家庭裁判所審判昭和55(1980)年10月28日=許可(長男→長女)「同大学院の医学博士の証明書によると、事案の概要記載の事実は真実と認められる」(23)。
C横浜家庭裁判所審判平成6(1994)年3月31日(Dの原審)=申立却下(二女→二男)「戸籍は真実が記載されることを強く要請するものであって、戸籍訂正の制度自体、この目的に沿ったものである。他方、戸籍制度も人が人々の社会生活の利便の増進のために設けた制度なのであるから、その目的に適うならば、ある程度弾力的に運用してもよいとの考え方はありうる。この観点から熟慮はしたが、人の性別を本来のものから異性に変更するという重大な事柄は、戸籍が維持を目的とする身分秩序に真っ向から対立し、その壁はあまりにも大きく、本件において申立人の性別『女』を錯誤と評価して、父母との続柄欄を『二男』と訂正することを相当とすべき根拠は見出せない」(24)。
D東京高等裁判所決定平成9(1997)年3月28日(Cの抗告審)=抗告棄却(二女→二男)「申立人が社会的、法的に女性として扱われることに耐えられず精神的に深く苦悩していることはもっともなことであり、証拠資料によれば、人の法的性所属の確定に当たり、生物学的性とともに社会的、精神的性も併せ考慮すべきであるとの考え方がいわゆる先進諸国において強まってきていることが窺われるけれども、我が国においては、生物学的、生理学的な性と異なる性を戸籍に記載することを容認する社会的環境にはまだないといわざるを得ない」(25)。
E東京家庭裁判所審判平成7(1995)年9月27日(Fの原審)=申立却下(長男→長女)「申立人は、男子として出生し、長期間男性として行動してきたことが明らかであり、また、本来正常な男性であるため、日本において性再指定手術がかなわなかったので、タイ王国において性再指定手術を受けて外見上女性型を示しているにすぎないと認められる。そうすると、申立人について、戸籍の性別の記載が当初から不適法又は真実に反する場合とはいえず、戸籍上の性別を男から女に訂正すべき余地はない」(26)。
F東京高等裁判所決定平成7(1995)年11月10日(Eの抗告審)=抗告棄却(長男→長女)「申立人は、性染色体の構成上も生殖器等の形態上も正常な男子として出生したものであるが、その後、次第に性転向症的な傾向を強めるようになって、平成6(1994)年に性再指定手術を受けるに至ったに過ぎないものであることが明らかである。そして、男女の性別の判断は、専ら性染色体の構成や生来の内性器、外性器の状態などの生物学的ないし解剖学的な基準によって決せられるべきものと解すべきであるから、事後の手術によって性の転換をみたとして戸籍訂正が許容される余地はなく、申立人については戸籍法113条所定の戸籍訂正の事由が存在しないものといわなければならない」(27)。
G名古屋家庭裁判所審判平成10(1998)年7月22日=申立却下(長男→長女)「申立人は、妻との間に二人の子をもうけているのであるから、生物学的に男性として生まれ、男性としての生殖機能を持っていたことが明らかである。申立人は性再指定手術及び豊胸手術を受けたことにより、外形的には女性の性的特徴を有するようになったものであり、また、精神的にも女性としての意識を持っているものであるが、上記手術によって生物学的に女性になったものとまでは認めることはできず、依然として男性であるといわざるを得ない」(28)。
H東京家庭裁判所八王子支部審判平成11(1999)年8月9日(Iの原審)=申立却下(長男→二女)「申立人は、染色体の構成や生殖器の構造等生物学的には正常な男性として出生したが、平成×年にいわゆる性転換手術を受けたものであることが認められる。そうすると、申立人の戸籍の性別の記載が当初から不適法又は真実に反する場合であったとはいえず、 戸籍法113条所定の戸籍訂正の事由は存在しない」(29)。
I東京高等裁判所決定平成12(2000)年2月9日(Hの抗告審)=抗告棄却(長男→二女)「現行の法制においては、男女の性別は遺伝的に規定される生物学的性によって決定されるという建前を採っており、戸籍法とその下における取扱いも、その前提の下に成り立っているものというほかないから、生物学的にみて完全な男(又は女)として出生し、その旨の届出がされて、戸籍に男(又は女)として記載された者が、性同一性障害と診断され、医師の関与の下にいわゆる性転換手術を受けて、外形的にみる限り別の性(女又は男)の内・外性器の形状を備えるに至ったとしても、性別に関する戸籍の記載が、 戸籍法113条にいう「法律上許されないものであること又はその記載に錯誤若しくは遺漏があること」に当たるということはできないといわざるを得ないのであって、抗告人の本件申立ては理由がないというほかない」。
「なお、付言するに、性同一性障害に苦しみ、いわゆる性転換手術を受けてまでも生来の生物学的性とは別の性の下で生きることを真剣に望む者が相当数いることは否定できない事実であり、医学界においても、 その治療及び診断のガイドラインを作成、公表するなどの動きのあることは、…認定のとおりである。しかし、いわゆる性転換手術については、それが性同一性障害の治療方法として社会一般の承認を得るに至っているかといえば、現段階ではこれを肯定することを躊躇せざるを得ず、社会的なコンセンサスを得るためにはなお十分な議論を要する実情にあるといわざるを得ないし、性別の変更を肯定するとしても、単に戸籍法の分野のみならず、関連する法令の適用上種々の重大な問題を惹起し、社会生活全般に極めて大きい影響を及ぼすことが予想されるのであって、その解決のためには、幅広い視点に立って問題点を洗い出し、社会生活に及ぼす影響の程度や将来の社会のあり方等についても慎重な検討が加えられる必要があり、戸籍訂正の可否やその手続に関しても、これらの作業の一環として解決が図られるべきものというべきであって、結局のところ、立法に委ねられるべきものと考えられる」(30)。
(1)戸籍の機能
戸籍は、人が社会生活を営んでいく上で、最小限必要なその人の個人的身分事項を記載し、公証する役割を持つものである。つまり、戸籍は人が社会的存在であるが故に必要とされる制度である。
従って戸籍に記載される事項は、人が社会生活を営む上で、その人個人を特定・識別し、かつ他者との関わりの上で、必要とされる最小限度の事項に限られる。またその記載は、その人が社会生活を営むことを阻害するものであってはならないのが本来の趣旨であろう。
戸籍は、単に過去の歴史的事実を記載するだけのものではない。その人の現在の身分事項を公証するものとして、実際に社会の様々な場面で現実に使用され、機能している。
また、住民票、健康保険証、パスポート、選挙人名簿など、その人の現在の状態を示す各種帳票も全て戸籍の記載をもとに作成されており、これらは全て連動して統一的な記載がなされる仕組みとなっている。それらの点から、日本における戸籍の機能は単にその人の過去の歴史的事実を記載しているものではなく、その者の現在の身分状態を公示する役割を果たしているということができる。
(2)性別変更不可の根拠の考察
戸籍・登記のように、ある一定の事項を登録し公証する仕組みは、その記載と事実とが一致しない場合には訂正されなければならず、法的手段が明記されている必要がある。
戸籍に関しては、その仕組みとして戸籍法113条が存在しており、同条は「戸籍の記載が法律上許されないものであること又はその記載に錯誤若しくは遺漏があることを発見した場合には、利害関係人は、家庭裁判所の許可を得て、戸籍の訂正を申請することができる」と定めている。そこで法技術としては、性同一性障害者の戸籍の記載が、この「錯誤」に該当すると言えれば、この規定により、性別の訂正を求めることができる。
これまで戸籍の性別記載は、出生時における肉体的な外性器の形態に基づいて記載されてきた。しかしそれは戸籍上の性別基準に関する科学的ないし法律的な充分な検討を経た上のものではなく、それで圧倒的多数には支障が生じないという理由でいわば慣行として行われてきたに過ぎない。
従来の多数の人々の範疇に入らない人がいることが明かであるならば、それら少数の人々への配慮として、改めて性別判断の基準が問い直されなければならない。それは社会権を発達させてきた人権保障の趣旨にも適合する。
ちなみに、戸籍法には性別の判断基準に関する明文規定はない。そこでこれを(1)行政上の解釈で補うか、(2)法の欠缺として新たに立法手続による法改正で追加するか、(3)人権の視点に立って司法上の配慮を試みるか、等の手段を吟味する必要がある。
人間にとって、自由な精神活動が何にもまして重要とする民主主義の理念に立ち、精神の自由という人権は最も保障を受けるものとされる。とすると、精神活動の根拠となる自意識を構成する性的自認を保障することも、その範疇にはいると言えるのではないか。性的自己の同一性は、個人の人格的自律と自由な精神活動に欠かせないとみるならば、憲法上の視点からは、少なくとも13条による幸福追求権の保障を受けるべきと考えるのが妥当であろう。
(3)性同一性障害に関する戸籍変更の可否
出生の際の性の確認は、一般に、新生児の外性器の形態に基づいて行われる。また戸籍の機能は過去の事実の記載のみにとどまらず、現在の身分の公示としての性格を持つ。間性の場合には、出生後の成長の結果を考慮し、また発生学的な性の他に、生殖腺の性、内分泌学的な性を考慮し、さらに形成手術の結果をも考慮して、出生時の性別の判定に錯誤があったとして、性別表記の訂正が認められている。「錯誤」に対するこのような解釈は、性同一性障害の場合にも同様にあてはまる。出生後の成長の結果、また精神的な性・心理的な性、さらに性再指定手術の結果も考慮して、出生時の性の確認に錯誤があったとして、性別表記の訂正を認めるべきではなかろうか?
性同一性障害の場合、変更不可の理由として発生学的性(性染色体の型)に固執するが、すでに裁判所は間性の場合の性の判定で発生学的性を唯一絶対の基準とはしていない。また、性再指定手術は、医学的に認められた治療方法であり、その結果としての身体的変容であるから、それが違法とされない以上、性別の訂正を認めても良いのではなかろうか。
憲法上、論点となるのは13条、24条、25条、そして国際人権B規約17条との関係においてである。またドイツではすでに違憲判決が出され、それに基づいて性転換法が制定されている。それらを検討しながら、この問題を13条を中心に考察する。
(1)憲法13条
判例・学説においては、憲法13条「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」との規定から、特に後段のいわゆる幸福追求権の一内容としてプライバシー権が認められるとされている。しかし性別表記の訂正が認められていない現状においては、性同一性障害者は、戸籍謄本、戸籍抄本、住民票、保険証などの提示が必要なときには、戸籍上の性別表記と身体的な外見の相違から、性同一性障害について知られることになる。このことは、プライバシー権の侵害と考えることができる。また性別表記の変更は、自己情報のコントロール権という概念によって正当化することもできる。さらに自己の性別を自己が決定することの正当性は、人権の最先端に位置する自己決定権という概念を持ち込むことによっても可能である。したがって性同一性障害者の戸籍の性別変更の問題は、この13条の解釈によって考察するのが一番重要に思われる。(2)憲法24条
憲法24条2項は、「……婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。性同一性障害者の戸籍上の性別表記の訂正を認めない限り、事実上性同一性障害者が異性愛者であっても、法律婚を禁ずることを意味する。一般の異性愛者と異なる扱いは、14条の差別にもつながる可能性がある。(3)憲法25条1項
憲法25条1項は,「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定している。性同一性障害の治療,特に性再指定手術は高額である(31)。それにもかかわらず保険の適用がないために,多くの性同一性障害者から治療の機会を奪っている。
ヨーロッパ諸国の多くでは,性再指定手術を含む性同一性障害の治療費は,国民健康保険などの公的な保険によってカバーされている。すでに世界的な治療基準の中に性再指定手術がある以上、これに保険を適用することに困難はないはずであろう。(4)市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権B規約)17条
国際人権B規約17条(プライバシー、家庭、住居、通信、名誉及び信用の尊重)は、「1何人も、その私生活、家族、住居若しくは通信に対して恣意的に若しくは不法に干渉され又は名誉及び信用を不法に攻撃されない。2すべての者は、1の干渉又は攻撃に対する法律の保護を受ける権利を有する」と規定している。性同一性障害者の戸籍上の性別表記の訂正を認めないことは,私生活に対する恣意的な干渉に該当するといえる。日本は国際人権B規約に批准しているのであるから、この規約に違反して良いというわけにはいかない。とはいえ憲法理念と条約理念が異なる場合に、どちらを優先させるのかという疑義もあり、この規約に違反することがそのまま問題になるわけではない。(5)参考:ドイツの違憲判決
わが国ではまだ、人の性別は身体的・生物学的に決められるべきとの考え方から抜け出していないが、欧米諸国では、次第に性別を生物学的のみならず精神的・社会的要因をも広く考慮して考えるという方向に進んでいる。ドイツでは、性再指定を遂げた人の身分登録簿の性別変更を認める法律がつくられ、スウェーデンやカナダのケベック州でもそのような法律があるが、法律がなくてもフランス、オランダ、スペインのように裁判上でこれを認めたり、イギリスやアメリカの幾つかの州のように行政上で柔軟に転向した性に合致した取扱いをする国も多い(32)。
世界に先駆けて法律を制定したスウェーデンやドイツでは、その制定に至るまでには長い困難な経緯があった。今日のドイツでは性同一性障害者の権利に関し、性転換法を制定して対応している。その背景には、ドイツの連邦憲法裁判所のある違憲判決の影響がある。そこでその事実関係と判決内容を概要として紹介したい。
裁判の原告となったA(男性)は、少年の頃から自分を女性名に変え、また睾丸摘出・陰茎除去・人工膣を取りつける性再指定手術を受け、病院で看護婦として働いていた。Aは出生届の性別の記載を「女性」に改めてもらうよう裁判所に申し立てたが、この申立ては最終的に連邦憲法裁判所に持ち越された。裁判所は当人を真性の性同一性障害者と認めた上で、ドイツ憲法は人間としての尊厳と人格の自由な発展を保障しているから、真に精神と肉体の不一致に悩む人には、道徳律としての「性の不可変更性の原則」にもその例外を認めるべきとして、性別の変更を認めたという(1978年10月11日)。更にこの判決は、男性および女性の生殖能力が婚姻締結のための前提条件ではないとして、性再指定手術を終えた人にも結婚の道を開いた(33)。
この判決により、ドイツでは性別変更を認める法律の立法作業が開始され、連邦議会および連邦参議院における審議を経た後、1980年9月10日に「特別な場合における名前の変更および性所属の確定に関する法律(性転換法)」が成立した。
その重要な特徴は8条(性所属の確定)にある。そこでは性別変更を認める前提条件として、a.性転向症(性同一性障害の医学用語)により、出生届に申告された性とは別の性に所属する感覚を持ち、少なくとも3年以上そのような強い圧迫感のある者が、裁判所に性所属変更の申立てをすること、b.他の性への所属感覚をもはや変えることができないと認められること、c.結婚していないこと、d.長期の生殖不能者であること、e.性再指定手術を受け、それによって他の性の表現型と明らかに類似するに至ったこと、である。この法律の制定後ドイツでは性転向症者に好意的な判決が多く出され、また就職上の差別を禁じたものもあるという(34)。
(1)13条の権利構造
異性装や異性として生活する人々の存在は古代から知られていたが、彼らが性同一性障害者という医学用語で理解されるようになったのは比較的新しい。彼らの権利について特別に考察する必要があるという考え方もまた、世界でも1970年代以降のことであろう。つまり1946年に制定された日本国憲法の従来の解釈では、性同一性障害者の権利は充分に保障し得ない可能性がある。一般に憲法の人権保障は14条以下の個別的人権条項を中心とするものであるが、それで保障し得ない人権の必要性が生じた場合は、14条以下の条項を類推解釈するか、一般的条項から新しい人権保障の道を見出すか、という操作が必要になる。そこで最近では、憲法13条を根拠として戦後の新しい人権概念を発達させ、判例でもそれら学説の導入を検討しつつある。13条は、その意味で、新しい時代の人権を保障するための重要な根拠条文になっている。それゆえ、性同一性障害者の人権を考慮する際にも、13条を考察することが基本といえる。
日本国憲法は14条以下において詳細な人権規定をおいているが、制定法の性質上、それらの人権は過去に国家によって侵害されることの多かった重要な権利を列記したに過ぎず、あらゆる人権を規定したものではない。特に憲法制定後の1960年代以降、社会状況の変化に伴い、より良い社会生活の維持を目指す「新しい人権」が主張されるようになった。プライバシー権、知る権利、アクセス権、学習権、健康権、平和的生存権や環境権、日照権、嫌煙権、自己決定権などがそれである。それらは個人主義の浸透と同時に、個人の力ではどうにもならない状況の中で自らを守る防波堤として考えられた権利であり、その利益自体が新しい概念なのではなく、その利益を人権として確保せざるを得なくなった社会状況が新しいといえる。
新しい人権を現在の憲法で保障する方法は、二つある。一つは、14条以下の個別に列記された人権規定から類推・拡張して解釈する方法であり、もう一つは、包括的人権を定めたものとされる13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」に由来すると考えて保障する方法である。後者からは、プライバシー権、環境権、日照権、嫌煙権、自己決定権などが導き出されている。13条は、個々の人権規定に明確に関連づけられない権利を保障する条文であり、各種の根拠となるその権利概念は、条文上の文言から幸福追求権と呼ぶ。
幸福追求権は抽象的な権利概念であり、当初具体的保障を受けないとされていたが、今日では新しい人権の根拠となる包括的人権と位置づけられ、幸福追求権によって導き出される各種の人権が、裁判上の救済を受ける具体的な権利として認められるようになった。例えば肖像権についての判例がそれである(35)。
性の識別において、自分の認識する性を性別判定の根拠にするという考え方は、それが個人の幸福追求に必要不可欠ならば保障されるべきではなかろうか。少なくともそれによって公共の福祉が明らかに阻害されるのでなければ、拒否する理由はない。この点について、以下にもう少し詳細な考察を加えてみたい。(2) 幸福追求権の保障
幸福追求に関わる権利の保障には2種類の学説がある。保障の対象を、あらゆる生活領域の行為の自由を含むとして肯定する立場は一般的自由説である。しかし、個人にとって幸福と考えられるものの追求を限りなく認めれば人権の濫用をまねき、協調を不可欠とする社会秩序を混乱させるため、多数説では、幸福追求権は「自律した個人が人格的に生存するために不可欠と考えられる自己決定」に限定して考えるべきとする。これを人格的利益説という。 これによれば、人格に不可欠でないいくつかの自己決定は単に法律上の権利としてとどまり、@国家の干渉が著しい侵害を与えるか、A他人の人権を侵害するか、B多くの国民の生活に必要不可欠と考えられる場合には、新しい人権として保障する(36)。とはいえ、司法の世界で最高裁判所が認めた新しい人権は、厳密には、プライバシーの権利の一部である肖像権のみである(37)。
一般的自由説に立つのは、山田卓生、内野正幸、戸波江二らである。この場合、国家に干渉されない選択の自由という自由権的性格を基本にしているため、その権利の及ぶ範囲は私的な事項に限定され、個人の自己決定能力と自己責任・理性が潜在的に前提となる。制限行為能力者には制限された自己決定のみ権利として保障するという論理になる。精神障害者の自己決定は決定能力の有無に従って制限される。
人格的利益説に立つのは、佐藤幸治、芦部信喜らである。ここでは自己決定の及ぶ範囲を私事に限定しない。他事であっても、それが人格的自律に不可欠ならば、保障されるべきとなる。人権の歴史において、自由権から社会権へと、弱い個人にも権利保障の道が開かれた流れをここに取り入れようとする動きが見られる。しかし社会権は行き過ぎると福祉国家・管理社会を生み、その集団優先性のために個人の自律を侵害する。それへの抵抗権として自己決定権があると考えているようである。
このように両者を比較した場合、自己決定の保障について、どちらがより現状を反映しているだろうか。少なくとも障害者・高齢者の人権としてこれらを考える際、彼らは医療や介護を必要とするという理由で自律的でないとされがちである。そこに障害者・高齢者の人権の軽視があると思われる。同様に、専業主婦のあからさまな保護と差別は、彼女たちが生計を夫に依存していて自律的ではないという理由から派生しているのではないだろうか。このように、自律的でないが故に人権を制限される人々に、それでも権利を保障する必要があると考えられるとき、それらが作為請求権的すなわち社会権的な性格を色濃く持つという側面からみても、人格的利益説の方が性同一性障害者の権利を考察する上で、より合理的と思われる。(3) プライバシー権と自己決定権
幸福追求権の代表格であるプライバシーの権利は、一般には私生活をみだりに公開されない権利、より進んで、最近では自己に関する情報をコントロールする権利(情報プライバシー権)として理解されている(38)。しかし@結婚するかしないか、子供を持つか持たないか等の家族の形成・生殖にかかわる自由(避妊・妊娠中絶など)や、A医療拒否などの自己の生命・身体にかかわる自由(尊厳死・安楽死など)や、B髪型や服装などのライフ・スタイルにかかわる自由は、いずれも人格的生存に欠かせない個人の問題として、国家の介入や干渉なしに決定すべき事項と考えられるが、情報プライバシーに関する権利ではない。したがってこれらもまた広義のプライバシー権の一部ではあるが、総称して自己決定権(人格的自律権→佐藤幸治による)と呼び、情報プライバシー権と区別される。
もともとプライバシーの権利は、アメリカの「ひとりで放っておいてもらう権利」として発展し、具体的には@の中絶の自由を中心に形成された。したがって、自己決定権は独自の人権というよりは、情報プライバシー権と並ぶ広義のプライバシー権として考えられている(芦部説)。ただ、日本では自己決定権を人権として認めた判例はまだ存在しない。中学・高校の校則による髪型やバイクの規制が、自己決定という形で扱われたことはあるが、未成年者への教育を目的とした学校施設においては、目的と手段に教育上の合理的な理由があれば規制もやむなしとされ、人権としての自己決定権として純粋に論じられていない(39)。(4) 性と生殖の自己決定権と性再指定の自由
そもそも自己決定権は、J・S・ミルの『自由論』で述べた個人の自律の原則に由来する。そこでは、「どんな行為でも、その人が社会に対して責を負わねばならない唯一の部分は、他人に関係する部分である。単に彼自身に関する部分においては、彼の独立は当然、絶対的である。個人は彼自身に対して、すなわち彼自身の肉体と精神とに対しては、その主権者なのである」とされる(40)。一般に他人に迷惑にならない限り、私のことは私が決めるというこの論理は、自己決定権の基本的な考え方である。ここから導き出された具体的な権利として@産む産まないは私の自由という性と生殖の自由、A私の性は私が決めるという性再指定の自由、がある。これらはリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖の建康・権利)と呼ばれ、@についてはエジプト・カイロで開かれた国連の「国際人口開発会議」(1994年)の行動計画にも盛り込まれた。それは、すべての男女が、身体的・精神的・社会的によりよい状態で「子供をもつかどうか」「子供をいつ、何人産むか」について、女性の自己選択権を尊重することである。発展途上国の人口爆発が世界の重要問題になっている現在において、その解決には政治的・経済的な対応だけでなく、女性の教育や地位の向上を図り、慣習や制度による望まない妊娠や出産に苦しむ女性に自己決定の保障が必要だという考えから生まれた。性と生殖に関する自己決定権は、他人との性的な関係や妊娠・出産・中絶など、女性の身体に関わる事柄は女性自身の意志で決めるべきとされるので、女性の人権とも呼ばれる。先進国では特に、中絶の権利、また男女を問わず家族形成権としての人工生殖技術利用の権利が、女性の人権の中心として考えられている。
しかし問題点もある。リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖の建康・権利)という権利を考える際、ミル流の私事に関する自己決定という視点からでは正当化できない。中絶は純粋に女性の私事のみに関わるものではない。女性の決定が胎児の生存に決定的な影響を与えるからである。私事における自己決定という概念では、女性の人権を説明することができない。
Aの性再指定の自由については、まさにここで取り上げる性同一性障害者が焦点となる人権である。しかし性再指定の自由とはどのような自己決定権だろうか。現代の医学が、インフォームド・コンセントの立場から患者の自己決定を尊重することは、すでに常識になりつつある。その延長として、性再指定についても自己決定が認められて良いだろうか。この問題を考えるためには、性的アイデンティティ(性的自己同一性)が個人の人格的自律に不可欠であるかどうかの視点が重要である。
一般に、人に性再指定手術を認めれば、生殖機能に影響を及ぼすだけに医学的には「侵襲」にあたる可能性がある。もし本人の意思不在の外的強制力によって肉体の改造が試みられるなら、それは人間性に反する。また個人の自発的な意思であっても、十分な根拠なくしてこうした手術が行われてはならないだろう。それらを充分に見極めるためには、性再指定手術を認めるよりも、手術以外の他の方法がもっと模索されるべきかも知れない。
とはいえ性同一性障害の患者は、身体上の性と性自認の不一致に悩むあまり、時として自殺を考えたり、日常生活を円滑に行い得ない場合が少なくない。患者のQOL(生活の質の向上)を重視するためには、できる治療をしない方が人間性を無視していることにもなる。埼玉医科大学の山内俊雄教授は、「医療は人の苦しみを和らげるものですから、そこに身体的性とジェンダーが不一致の人がいて、両者を一致させることでその苦しみをやわらげてあげられるのであれば、(手術することも)いいのではないか」と語ったという。
これは治療に携わる当事者としての実際的な見方であろう。本人の解決できない苦しみを救うのが医療の目的ならば、他に可能な方法がないときに性再指定手術を行うことは正当である。
しかしこのような事態において、実は性再指定手術の「自由=選択」自体が新しく認められたわけではない。なぜなら当人にとって自分の性別はすでに決定・確信されており、選択など出来ないからである。その確信された「性」が身体の性ではないだけのことである。むしろ、この意味での性の確信は、自分の意志で決定できないから手術が必要なのである。身体的「性」だけで一義的に「性」を決定することはできないという前提を認めるならば、性同一性障害者の性の決定については、パターナリズム(=自己加害防止等の保護主義)を放棄して、あくまで本人の意思を重視するという意味での自己決定権を保障すべきではなかろうか。
性同一性障害で悩む人には、自己の性自認が、身体の性または周囲の見る性と一致しないという、長い間にわたる意識と苦悩がある。特に思春期以後になると、身体が自分の認識を裏切り、周囲の目によって強化される。そもそも美容整形手術であっても、他人が禁じる権利は原則としてない。ならばいっそう、性同一性障害で苦しんでいる当人がどちらの性を選ぶかが問題になる場合には、性に関する自己決定権は認められるべきであろう。
しかしここで区別しなければならないのは、職業選択の自由などと違い、その当人にとっては、自分の性が選べるようなものではないということである。少なくとも性同一性障害者の性再指定の自由は、この場合、性の選択の自由を意味しない。また逆に、性自認が明確ではない場合、それだけを理由に自己決定を強制することがあってもならない。ここでの性再指定の自由の保障は、苦しみを取り除くという消極的・否定的な意味以上に性の自己決定権を主張してはいない。性同一性障害者ではない一般の人々にも、性を「自由に」選択する自由を保障すべきかどうかはまた別に論じなければならないが、それはこの論考の目的ではない。
性再指定の自由は認められるべきである。なぜならそれは既存の概念をうち破る画期的な概念ではないからである。性同一性障害であり、性的アイデンティティの不一致に悩む場合、本人の同意があれば、本人の望む性へ整形手術を行い、戸籍を変更し、社会的な認知を改めるというのは、性は本質的に嗜好の問題だなどと主張してはいない。障害故に認めるべきという論理ならば、ここでの性再指定の自由は自由権よりは社会権(生存権)的性格を持つ人権と考えられる。本人の意思を基準にしていえば、他人と同じ扱いを受ける権利すなわち平等請求権と考えることもできる。(5) 自己決定権と戸籍の性別変更
以上から、性同一性障害者の戸籍の性別変更を許可する妥当性は、導き出されたといえるのではなかろうか。
元来、自己決定権が前提にしていたのは近代の個人主義である。その個人とは、カントが理想としたような自律する個人であり、内的信念に基づいて理性的に行動しその全責任を負うマックス・ウェーバー的主体であった。そこでは個人の倫理がそのまま社会の倫理であることに疑いはなかった。しかし現代はそうではない。全ての国民が近代的個人ではないかも知れないが、全ての国民に人権を保障する義務が国家にはある。
性同一性障害者が人間らしく生きるためには、どのような配慮が必要であろうか。それはまず、本人の意思があれば性同一性障害の治療が受けられるよう医療方面を整備するとともに、本人の意思があれば、社会的認知すなわち戸籍の性別変更も認めるということではないだろうか。国家がそれを整備しなければならない根拠は、そうしなければ性同一性障害者の人間らしさ、いうなれば人格的自律が保てないからである。
その意味での性再指定の自由とは、性的自己同一性の不一致に悩む性同一性障害者に、性自認に近づく手術を選択する自由を与え、戸籍の性別を変更することを自己決定権の一つとして保障するということである。ただしこの人権は、今のところ誰もが当然に持つべき性格の権利として主張されているのではない。13条の個人の尊重に照らして、少なくとも性同一性障害者の人格的自律に関わる事例だからこそ、保障される人権と考える。
このように、ある特定のハンディキャップに対して補完的な権利を認めることは、そのままでは他人や社会との支配・従属関係になりやすい弱者を、その権力関係から保護するためにだけ国家が保障することになる。そして出来る限り多くの人に、出来る限り多くの自己実現を可能にする社会、すなわちライプニッツが言うところの、出来る限り多くの共可能性を実現する社会が、目指されるべき理想の社会であるなら、性再指定の自由という自己決定権は、性同一性障害者に対して認められてよい権利である。
性再指定の自由は、性的自己同一性の不一致に悩む性同一性障害者にとって、人格的自律に関わる問題であり、戸籍の性別表記の訂正を認めなければ、彼らの性と生殖の自己決定権侵害につながる。性再指定の自由は、少なくとも性同一性障害者と医学的に診断された人々に対しては、保障すべき権利である。性同一性障害者と条件を付けることで、@他者加害、A自己加害(パターナリズム)、B公共の福祉(モラリズム)のいずれにおいても問題とはならない。
ただし、性同一性障害者の現況では、この症状が早くから本人ないし周囲のものに理解され受け入れられることは少ないため、相当の年月を望まない性別で送っている事例が殆どであり、ここで周囲に対する以下のような問題が発生する。まず本人が既婚者である場合、既存の夫婦関係・親子関係に重大な影響を及ぼす可能性がある。例えば、子どものある夫婦の一方が性別の訂正を求めた場合、その配偶者や子どもの立場や利益ということも考えざるを得ない。また訂正を認められた後、子どもが生まれてしまった場合にも困難な問題が生じる。
しかしこのような問題は、具体的な事例ごとに訂正の可否を考えるしかない。そのような問題があるからといって、一般的に全ての場合に戸籍の訂正を否定しなければならない理由もない。独身で、子どももなく、性再指定手術を受けていて将来も子どもができる可能性がないような場合は、前述の問題は生じない。現に各国の立法状況においても独身や生殖不能などの要件があり、性同一性障害者でも認められない場合がある。本来ならば立法で対応するのが妥当であるから、立法の際に独身・成人であるとか、手術の有無、生殖の可能性について具体的に検討すべき課題であろう。
次に、性別の混乱を招くという可能性を指摘する声がある。確かに、男女の性別をみだりに変更することは許されないという、性の不可変更性の原則がある。これは恣意的に性を変更したり、性的快楽追求のために両性間を行き来することを禁止していると解する。しかし性同一性障害の場合、恣意的に性を変更するものではなく、性再指定手術が行われた後であれば、むしろ変更を認めないことによって性の混乱を生じさせることにもなりかねない。性再指定手術が世界的に治療と見なされ、日本でも実際に手術を行っている以上、これに配慮することは公序良俗に沿うものであっても反するものではないと言えよう。
以上のような観点から、性同一性障害者に性再指定の自由を認めることは、一般の人々に性と生殖の自己決定権を保障すべきとする幸福追求権解釈の法理からみて、特段の熟考を要するまでもなく当然の帰結といえる。
【註】
(1)「性転換手術」は、判決文で使用される表記であるが、その実態は生殖機能の除去と、性器形成手術である。従って性が「転換」されるわけではなく、当事者の側からも誤解を招くのではとの不満がある。そのため本論では、複数の医学用語のうち「性再指定手術」という表記を使うことにする。
※(著者後註)なお、2002年3月23日に岡山市で開催された第4回GID 研究会において,日本精神神経学会のGID診療ガイドラインの改訂と同時に、様々に呼称されていた手術の名称を「性別適合手術」に統一することが発表された。従って、2002年3月以降は、性別適合手術が適切な表記となる。
(2)「ブルーボーイ事件」(東京地判昭44.2.15刑月1.2.133)
(3)埼玉医科大学倫理委員会「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」1996年7月2日。
(4)「性同一性障害に関する答申と提言」日本精神神経学会性同一性障害に関する特別委員会『精神神経学雑誌(第99巻第7号)』543頁。
(5)1998年現在で、性再指定に関する法律を制定しているのは、スウェーデン(1972年)、ドイツ(1980年)、イタリア(1982年)、オランダ(1985年)、トルコ(1988年)である。
特別な法律を制定していない他のヨーロッパでも、ノルウェー、オーストリア、デンマークのように行政的方法により解決したり、ルクセンブルグ、ベルギー、スペイン、ポーランド、ポルトガル、スイス、のように司法裁判所の決定に委ねたりしている。スイスの裁判所は「性別を決定するのは、身体だけでなく、精神も同様に性別を決定するのである」という判例を1945年以来踏襲しており、ルクセンブルグと同様、国民だけでなく外国人にも性再指定を認めている。以上は健石真公子「性転換とはどのような人権か」『法学セミナー(?525・98年9月号)』24〜25頁参照。その他調べたところによると、性転換法についてはカナダの2州(1973年)、ケベック州(1977年)、トルコ(1988年)サウス・オーストリア州(1988年)、ニュージーランド(1995年)があり、行政的手法(パスポート・保険証の変更)ではイギリス、アメリカのいくつかの州があり、裁判ではフィンランド、フランスがあった。以上は大島俊之「性同一性障害と法」『判例タイムス?1049』69〜71頁。
(6)石原明・大島俊之編著『性同一性障害と法律』(晃洋書房・2001年)はしがき3〜4頁参照。
(7)高橋三郎ほか訳『DSM−IV 精神疾患の診断・統計マニュアル』(医学書院・1996年)495〜541頁参照。
(8)『週刊朝日』(1998年10月30日号)152〜153頁。他のFTMの代表的な例として、虎井まさ衛『女から男になったワタシ』(青弓社・1996年)、松尾寿子『トランスジェンダリズム 性別の彼岸』(世織書房・1997年)にも具体的な事例がある。
(9)上村芳郎「性転換手術は正しいか?(東京文化短期大学研究紀要17号(2000)」『村の広場』(last modified May 30, 2001)〈http://www.ne.jp/asahi/village/good/transsexualism.htm〉。
(10)荒井康允『脳から見た男と女』(講談社ブルーバックス・1983年)48〜66頁。他に川上正澄『男の脳と女の脳』(紀伊國屋書店・1982年)など。
(11)植村次雄・橋本栄「性分化の異常」(『日本医師会雑誌(第115巻第9号)』1996年)1524〜28頁。
(12)松尾寿子・同上参照。
(13)大島俊之「性同一性障害・インターセックス者の戸籍問題」『 助産婦雑誌(2000年2月号(Vol.54 No.2))』参照。
(14)東海林保「いわゆる性同一性障害と名の変更事件、戸籍訂正事件について」『家裁月報(52巻7号)』1〜76頁参照。
(15)田中加藤男「戸籍訂正に関する諸問題の研究」『司法研究報告書(16輯3号)』256頁。
(16)『家裁月報(43巻8号)』62頁。
(17)『家裁月報(43巻8号)』48頁。なお、これに対する評釈として、大島俊之「間性と性別表記の訂正」『神戸学院法学(29巻1号)』がある。
(18)東海林保「いわゆる性同一性障害と名の変更事件、戸籍訂正事件について」同上、1〜76頁。
(19)東海林保同上。
(20)東海林保同上。なお評釈として、田中恒朗「実父母との続柄欄の『長女』を『長男』とする戸籍訂正を許可した事例」『判例タイムズ(1036号)』170〜172頁、大島俊之「続柄『長女』を『長男』とする戸籍訂正を許可した事例」『民商法雑誌(123巻3号)』145〜152頁を参照。
(21)『家裁月報(33巻9号)』63頁。その他評釈として、大島俊之「性転換と戸籍訂正」『法律時報(55巻1号)』202〜206頁 を参照。
(22)『家裁月報(33巻9号)』61頁、判例タイムズ404号137頁。その他評釈として、大島俊之「性転換と戸籍訂正」『法律時報(55巻1号)』202〜206頁を参照。
(23)この判決の詳細は明らかにされていないが、山内俊雄『性転換手術は許されるのか/性同一性障害と性のあり方』(明石書店)142頁に掲載されている戸籍のコピーは、この事件の申立人のものと思われる。
(24)東海林保同上。
(25)同上。
(26)同上。
(27)同上。
(28)同上。
(29)『判例時報(1718号)』62頁。
(30)同上。
(31)2001年3月31日、東京で開催された日本精神神経学会分会・第3回GID研究会の報告では、日本でのMTFの性再指定手術・入院費用は平均で160万円前後、FTMの性再指定手術・入院費用は平均で300万円前後と発表されていた。一般の人々は言うに及ばず、戸籍上の性別で生活したくないために正社員に就けない多くのGIDにとっては、さらに高額な費用であることが分かる。
(32)(4)参照のこと。
(33)大島俊之「性転換法成立(1980年)前におけるドイツ判例の転換─連邦憲法裁判所1978年10月11日決定を契機とする転換─ 」『神戸学院法学(第29巻第2号・2000年8月)』(last modified Jun. 30, 2001)〈http://home.law.kobegakuin.ac.jp/~jura/30-1/30-1_hgakkai.htm〉参照。
(34)同上。
(35)「京都府学連事件」(最大判昭44.12.24刑集23.12.1625)
(36)芦部『憲法』など参考。
(37)参考として「前科照会の禁止事件」(最高裁昭和56.4.14・憲法判例百選4版44頁)、「指紋押捺の拒否事件」(東京高裁昭和61.8)など。
(38)例えば「個人が道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求して、他者とコミュニケートし、自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利」とか「個人にかかわる情報のうち道徳的自律の存在としての個人の実存にかかわる情報」としているのは佐藤幸治である。佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院、1995年)453頁を参照。
(39)「パーマ禁止校則事件」(最大判平8.7.18裁判所時報1176.233)、:「修徳学園バイク退学事件」(東京地判平3.5.27判時1387.25)が有名である。
(40)J.S.ミル『自由論』