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ワーホリ・留学の実戦原理

02 .”修行”のススメ  ヒドイ目にあおう!

 

ワーホリ・留学の目的=修行じゃないの?

 皆さんは何のためにオーストラリアに来るのでしょうか。また、僕はずっと昔に何を考えてオーストラリアくんだりまでやってきたのか。一言でいえば「修行のため」だと思います。

 「修行」とか言うといかにも古臭く聞こえるかもしれないけど、結局そーゆーことでしょう。円満退職して、有り余る年金と預貯金で妻と二人で悠々自適というリタイアメント(退職者)ビザならいざしらず、学生ビザやワーホリビザは、今ある自分を何らかの形でヴァージョンアップさせたいというのが原点の筈です。これが、ズルズルと滞在7年目で、モラトリアム的に学生ビザの更新を重ねているというような場合は別ですが、日本から最初にやってくる場合は、「おっしゃあああ!」と気合を入れてオーストラリアまで乗り込んできていることと思います。全ての人がそうだと言い切る自信も根拠もないけど、とりあえずはそういう前提で話を進めます。

 でも、いきなり話の腰を折るようだけど、ヴァージョンアップだったら別に日本ででも出来ますよね。特に資格とかキャリアという面でいえば、将来の稼働エリアを日本と考えているなら、日本の学校でゲットした資格の方が日本市場で通用しやすい。言葉の壁に打ちのめされながら、日本の何倍もの努力を払ってこっちの学校を卒業しても、その資格が日本でどれだけ認知されるかというと、業種職種によりますが、けっこう微妙ですよね。対費用労力効率でいえば、そんなに良いとは思えない(英語学習などの例外はあるけど)。

 しかし、それでもオーストラリアに行こうと思っている。なぜか?
 おそらくは資格がどうとか、キャリアやライフプランがどうとかいう以上のサムシングを考えておられるのだと思います。サムシングとはなにか?これを言葉で表わすのは難しいのですが、海外に一人で出ていって、「おおー!」という体験をして、ドドーンと自分が成長する、変わる、そして人生の展開もまた変わる、見えてる風景が変わる、、、ってなことを漠然と期待されているのではなかろうか。つまりは細々と分別定義できる特定のスキルとかじゃなくて(それもあるけど)、もっと大きな人間力そのものをUPさせたいという。別の箇所でも書いたけど、「日本での生活では得られない何か異質なモノを、裸の自分にぶつけることによって、何らかの好ましい化学変化を自分に生じさせる」ことだと思います。

 それを一言でいえば、「修行」なのではないかと。別に「修行」という言葉が嫌いだったら好きな言葉に言い換えてもらっていいですけど、「いろいろあって、大きくなった」ってことです。

 ここでいう「修行」の定義は曖昧ですけど(別に明確にする必要もないけど)、とりあえず考えてみると、

  @何かの教科書やマニュアルがあるわけではなく、
  A生きていて遭遇するあらゆる出来事が栄養になり、
  B基本的にカリキュラムを組むのは自分自身であり、
  Cその効果はある特定のスキルの習得というよりは全人格的な成長であるもの、

 とでも言っておきましょうか。

 留学だって同じこと

 えてして教室や部屋に籠もって英語技術だけを磨けばいいんだ、いわゆる「勉強」をしてればいいんだって人もいますが、それは大いなる勘違いだと思います。それじゃ英語は上達しにくいし、効率が悪いです。なぜなら、英語というのは体育や武道みたいなもので身体に染みつかないと役に立たず、実戦での使用経験が何よりもモノを言います。また、英語圏の人達の価値観や生活習慣、喜びや悲しみという部分を深く理解しないと、なんで英語でそういう表現になるのかが理解できない。つまりは英語センスが磨かれない。そのあたりは、シュミレーションだけやってても辛いところがあります。

 第二に、英語が出来ることによって→人生が開ける、生計・仕事に有利という最終目的に達するためには、日本人以外と接し、そこで何らかの有益なものを生み出すことができるようになるってことです。英語力を見込まれて採用されたとしても、肝心な商談がうまくいかなかったり、周囲の同僚達と馴染めなかったら、早晩厳しい立場に立たされるでしょう。そのためには、英語技術もさることながら、「英語の使い方」=「外人との付き合い方」を知らないと実りが少ない。そして「外国」という名前の国はないから、中国人、チェコ人、インド人、、それぞれの人達と肩組んで酒を飲むような人間的な付き合いを経て初めて付き合い方の何たるかが分かるのでしょう。そのあたりは異性との交際と同じです。

 したがって英語というテクニカルな面にのみ囚われ人間的な側面を軽視してたら、技芸そのもの未熟のままだわ、英語が出来るようになっても大してイイコトなんか起きないわってことになります。効率悪いというのはそういうことです。だから人間的に自分が大きくなるっきゃないんですよ。だから「修行」なんです。大きくなっておいて損はないでしょ?


修行の内容  ヒドイ目に遭うこと

 ここでBad Newsが一つ。残念なことに、人間の能力や人格というのは、楽チンなことだけしてたら鍛えられないようになっているようです。筋力UPのためには筋肉に適正な負荷を与え、心肺機能をUPさせるためにはヒーヒー言いながら走らないとならない。寝っ転がってポテチ食べてたらいつの間にか世界最強の男になってました、なんてことは、まず絶対ありえない。精神面でも、ハードな局面にぶつかり、そこでもがいて苦労するから、ちょっとやそっとのことでは動じなくなる。いずれにせよ、人体(肉体&精神)に一定のストレス(負荷)がかかり、その負荷に対応しようとして人間本来の適応能力が作動し、そのストレスにアジャストする。アジャストした分だけその人の能力は向上する。100メートル走っただけで息が切れて座り込んでた人も、毎日少しづつ歩いたり走ったりすることによって、しまいには42キロマラソンが走れるようになる。新入社員のときは、取引先が怒ってるというだけで真っ青にパニックになり、辞職や自殺すら考えたりするのが、慣れてくればその程度のトラブルだったら鼻歌混じりに処理できるようになる。若気の至りの過ちをさんざん繰り返した末に、深みと包容力のあるいい男(女)になる。

 このように、ストレス+適応努力=能力向上というのが、人間の生理原理だとしたら、なんらかの向上を目指す人は、なんらかのストレス(負荷)を受けねばならないということになります。

 ここで導き出される定理(らしきもの)は、

   ストレス(負荷)+適応努力=成長(能力向上)

 ということです。

 もっとも、成長は何もストレスだけによって生じるわけではなく、筋トレに休養が必要なように色々な要素がミックスされます。ヒドイ目の他に「いい思い」も沢山しなきゃいけない。それは後で書きます。話がゴチャゴチャになるから、ここではストレス一本に話をしぼりますね。

 しかしですね、ストレス(負荷)って嫌なもんです。まあ、あんまり楽しくはないよね。特にその最中は不愉快だったりします。精神的肉体的にヒーコラいうのがストレスであり、また自分の限界をUPしようとすればするほど今の自分には対応できない強度のストレスを与えることになるから死ぬような思いをする。

 このストレス(負荷)も、筋トレにおける筋力負荷だったらバーベルという形で見えやすいから楽です。しかし、ここで言っている「修行」となると全生活局面ですから、内容も形態もあいまいです。「バイトをクビになった」「フラれた」「シェアメイトとうまくいってない」「英語が伸びない」「お金がない!」「パスポートをなくした」「騙された」、、、その形態は千差万別だし、どこからどこまでがどういうストレスなのか分からない。単純に日常感覚で言えば、アンラッキーとか、ドツボみたいな感じでしょう。つまりは「ひどい目にあった」ということです。

 逆に言えば、一見不毛なアンラッキーに見えるようなことが、修行のためのバーベルになるわけです。実はチャンスだったりするわけです。まあ、到底そんな風には思えないだろうけど。

 では、この原理を、日常生活、特にワーホリ・留学生活においていかに上手に活用するか、ストレスというマイナスをいかに上手いことプラスに転化させるか、という問題があります。ここの上手/下手というのは結構デカいです。同じようなヒドイ目に遭いながら、Aさんはそれを肥やしにして逞しく成長し、Bさんはそれで何もかもがイヤになって自殺してしまった、、、という真逆な結論になったりもします。ここで、そんなんでポシャるんだったら、しょせんそれだけの人間だったんだ、という冷たく突き放した言い方だって出来るけど、僕はそうは思いません。そうなるには、そうなるだけのロジックがあるはずだと思います。同じバーベルでも、このくらいの体重筋力の人にはこのくらいの重さを○セットとか理屈があるように、いきなり1トンの重さのバーベルを上から投げつけたら背骨が折れて即死してしまう。

 ストレス(負荷)利用による成長法のノウハウはまた後で考えるとして、ここではヒドイ目に遭うことが成長につながるという大原則だけ覚えておいてください。ワーホリや留学で「うおおー!」という体験をして、ドーン!と自分が成長する、大物になって帰ってくるぜい!ってのを、一言でいえば「いろいろあった」ってことですし、その過程の瞬間瞬間を切り取ってミもフタもない言い方をすれば、「ひどい目に遭う」ってことです。

 というわけで、あなたがオーストラリアに来て色々とひどい目に遭ったとします。そのときは、こう考えてください。ひどい目に遭うために来て、ひどい目に遭ってるのだから本望だと。全ては計画通り、思惑どおりだぜ、と。自分を励ます言葉は何でもいいんですけど、よくあるマンガのタフでクールな主人公のセリフのように「ちっくしょー、面白くなって来やがったぜ」でもいいし、「これだよ、俺が求めていたのは」でもいい、やせ我慢でもなんでもいいから、口に出して言ってみたらいいです。まさに、それをしに来たんでしょうが。


無事、これ駄馬


 しかし、人間なかなかそこまで達観できないでしょう。誰だってひどい目には遭いたくない。僕だってイヤですよ。
 でも、見知らぬ異国であれこれ苦労をしたくないんだったら、最初から来なきゃいいんです。ワーホリに限らず、社会に出てあれこれ嫌な思いをしたくないならニートになればいいんだし、男女関係でイヤな思いをしたくないなら最初から異性と付き合わないで二次元ファンタジーに浸っていればいいんですよね。まあ、その通り実践している人もいるし、それはその人の人生の流儀なんだから、それはもう、Suit yourself、Be my guestです。

 でも、冒頭で書いたように、赤道越えて南半球のオーストラリアくんだりまでわざわざ足を運んでるってことは、やっぱりなんらかのココロザシみたいなものがあるからでしょう。野望、希望、ほのかな期待、漠然とした夢、なんでもいいですけど、サムシングがあるはずだ。無ければやらないって、こんなクソ面倒臭いこと。誰だって、いよいよ自宅を出るとき、オーストラリアの空港で第一歩を踏み出したときは、「よおおし!」って気分はあったと思います。

 ところが初期の思惑を120%に実現できる人というのもまた少ない。最初の怒濤の勢いも生活が落ち着いていくうちに沈静化し、やがて粘性を帯びたまったり状態になり、何をするのも面倒になり、ただ何となくオーストラリアに暮して、それで終わりという。それも日本人同士固まって、タコツボみたいなシェアをして、ジャパレスなどで働いて、日本社会独特のカルチャー(上下関係やら派閥やら)で人間関係に疲れたりして。それから離脱するためにオーストラリアに来たはずなのに、日本というヘソの緒を断ち切れないままタイムアップ、、という。

 結局、日本から心理的に一番離れていたのは実は初日の空港で、あとは1年がかりで日本の生活を徐々に再構築しているだけ、という感じになりがち。

 好きでそうしているならいいですけど、問題は、そんなつもりじゃないかったのにいつの間にかそうなってしまっている場合で、それは何かがおかしい。昔の人に出来たことが今の人に出来ないわけがない。また同世代でもA君は出来るけど、B君は出来ない。だけど両者の間にそれほど決定的な違いがあるわけでもない。生来的な素質というのも勿論ありますけど、間近で1000人以上見てきた経験でいうと、素質の差はそれほど大きくない。いわんや英語力の差など決定的なファクターでもない。英語もTOEIC800点以上出来て、海外旅行経験は30カ国以上、でもなぜか日本人村に沈殿してしまう人もいる一方、海外どころか飛行機乗るのが初めてであり、英語もボロボロって人が爆発的な経験を積んで意気揚々と帰国したりします。なにが違うの?

 ここで思うのは、要するに「ひどい目に遭うのがイヤ」って思いがどれだけ強いか、だと思います。「楽をしたい」と思ってるかどうかですね。

 そしてなぜそう思うのか?といえば、「ヒドイ目」の価値を理解していない、「ひどい目」の有効利用の方法を自覚していないという原因があるのでしょう。

 ヒドイ目→成長という人体のメカニズムは誰だって持ってます。適応機能と学習機能ですから、もしそれが全然なかったら、赤ちゃんのまんま、一人で立って歩くことも、日本語を喋ることも、自分の名前を覚えることすらできないでしょう。だから、性能面、メカ的には同じなんだけど、その機能を活用するのが苦手。そもそも気づいてない。それを推し進めていけば、要するに「成長するのがヘタかどうか」だと思います。

 今、なまじ英語が多少出来る人が足踏みし、全然出来ない人がスコーンと突き抜けるって例を挙げましたけど、これ、ある意味では当然なんです。なぜかというと、全然出来ない人は、最初から自分の英語が通用しないことは百も承知だし、覚悟の上です。だから街の現場で英語が通じずにひどい目にあったとして「そりゃそうだよね」って納得できるし、そんなに傷つかない。しかし、妙に自信やプライドがある人が通じなかったら、それも皆の見てる前でダメだったりしたら、屈辱ですし、傷ついたりします。つまり、「英語が通じない」という同じ現象があったとしても、片や「うひょ〜、やっぱ本物は違うわ、全然わかんね」ってむしろ楽しんでいて、「ひどい目」だと思っていないのに対し、他方では「もう二度とあんな恥はかきたくない」と思う。この差です。で、一事が万事この調子で進んでいけば、全然出来なかった人でも四六時中英語に接するからどんどん上手になります。TOIEC300と800の差だったら、半年くらいで逆転するでしょう。テストはともかく、実戦力では。

   修行=ひどい目に遭うために来ていた筈なのに、いつのまにかひどい目から逃げようとしている。無事=成功みたいに思ってしまう。「無事、これ名馬」って言いますが、ナニゴトもなく、平穏無事に推移するのが最高だという考え方です。それはそれで一面真理ですよ。冬山の岩壁にアタックしたなら、何よりも無事に生還することを考えるべきだし、下らないトラブルに巻き込まれて人生がグチャグチャになってしまうような事は避けた方がいい。「君子危うきに近寄らず」とも言いますからね。

 だけど、「無事これ名馬」「君子危うき〜」も、無事だったら全て良し、ゼロに勝るものはないなんて意味じゃないですよ。いたずらに功名心や虚栄心にひきずられて意味のないリスクをとるべきではないって意味でしょ。「何もしないのが一番」って意味ではない。無事生還するのが目的だったら最初から行かなければいいのだ。建築現場で安全第一だというなら、最初っから建物なんか建てなきゃいいのだ。山には登る、しかし山に付随するリスクはクレバーに回避すべきだという意味でしょう。リスキーでチャレンジングなことはやる。しかし、意味のないリスクは取らないということで、煎じ詰めれば「リスクはちゃんと選べ」ってことです。とにかくリスクを避けろ、何もするなって意味ではない。

 また、安心したり安全であることが何よりも価値があるように思ってしまう。そりゃ安全はいいし、安心も大事だけど、それが嵩じて何もするなというのなら、ただの老婆心でしょ。都会に出るといえば悪い人が沢山いるから止めろといい、車に乗るといえば交通事故があるから止めろという。海外に行くなんて論外。でも、そんなこと言ってたら何にも出来ないですよ。「君子危うき〜」の諺シリーズでいえば、「可愛い子には旅をさせろ」「苦労は買ってでもしろ」「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ってコトワザもあるわけです。

 ここで、「修行」という原点に立つならば、安心で安全なことやってたって修行にはならない。不安なことを、勇気を出してチャレンジするからこそ、そこにストレスが生じ、適応が生じ、成長があるのだから。でも、勇気のない、意気地なしの自分を正当化する免罪符として”安心だから”なんてことを持ち出してきたら、もうその時点で不戦敗ですよね。

 だから、無事=成功ではないのだ。トラブル=失敗でもない。これが慰安旅行とかいうんだったら、トラブルは避けたほうが良いですよ。別に成長することが目的ではなく、疲れをのんびり癒すのが目的なんだから、トラブルに遭って疲れてたら意味ないです。でも、修行というのは、バガボンドの宮本武蔵のように、強くなるためにやるんだから、トラブルを避けてたら意味がない。決闘シーンになるたびに、「安全が一番」とかいってコソコソ逃げてたらそれは武蔵じゃないよね。

 だからここが原点です。楽しに来たの?修行に来たの?疲れを癒すために来たんだったら、それはそれでいいですよ。でも、修行〜!とか言いながら、いざ実際にトラブルが起きるたびにコソコソ逃げたり、なるべくトラブルを避けようとしてたら、修行になんないじゃんってことです。
リスク回避傾向

 リスク逃避傾向はどこから来るのかといえば、豊かになることと楽をすることがイコールになっちゃってるんでしょうか。
 経済成長を達成した後の日本は、それでも内需拡大とやらで経済を無理やり広げなきゃならなかった。「屋上屋を架する(屋根の上にまた屋根を作る)」って表現があるけど、無駄の上に無駄を積み重ねるような、過剰に便利&楽な方向に商品開発していくしかなかったのでしょう。痒いところに手が届きすぎるかのような商品開発が進むにしたがって、生活はどんどん便利で楽になっていきます。そういう環境に慣れてしまえば、楽することが一番、安心が一番、嫌な思いはしたくない、ストレス嫌い、トラブル大嫌いってなっていく。英語が出来なくて恥をかく、想定外の出来事に遭遇する等のストレスに対する恐怖心は、昔の不便だった頃の日本人よりもずっと強くなってると思います。でもって行き着く先は、「安心のワーホリ」という、「安全な冒険(「危険を冒す」から”冒険”なのに)」みたいな矛盾になっていくのでしょう。

 でも、そんな日本特異の「安心」イリュージョンなんか、こっちに来たら一発で木っ端ミジンになります。そこで、ストレス耐性がしょぼい、ストレス→成長転化もヘタクソだったら、そりゃあやっていけんと思うのは無理ないです。生まれてこの方ろくすっぽ練習もさせてもらってないのに、いきなり外洋に放り込まれたら誰だってビビるし、心が折れても不思議ではない。ワーホリや留学初期の連中は、なーんの情報も、ネットも、サポートもなかった。来てる日本人の絶対数が少ないから、つるみたくても日本人がいない。でも、最初から期待もしてないから、それが不幸だとも思わない。それに、当時の「海外に行く」というのは、今でいえば「イラクに行く」くらいの図太い根性できたのでしょう。終身雇用・年功序列バリバリの当時の日本で途中下車するのは、それなりに腹を括ってないと出来ない。だから、彼らからしたら、ふつーにやってたら、ふつーに出来ちゃったてなもんでしょう。「英語?できねーよ、そんなもん、がはは」という感じ。「昔は良かった」とかいうけど、昔は良くなかったから良かったのね。日本が便利で楽チンでなかったからこそ、こっちにきたらとっても楽だったという。今はその逆。

 生活水準が高くて豊かであることと、楽チンであることとは本来次元が違います。何でも便利になれば良いのではなく、苦労してマラソンで42キロ走るのを電車でいったら意味がないように、大事なものを守るためにはわざわざ不便なまま残しておかねばならない領域もあります。

 この点、「豊かさ」数百年のキャリアを持つ西欧に一日の長があるのでしょう。彼らは豊かなんだけど、楽をすることで一番大事なエッセンスを失わないようにする。洗練されたマナーを磨く一方で、人間がもっている荒々しいワイルドさをキープしようとする。一対一で彼らと接すると、生き生きとした動物的な存在感があるでしょう?エレベーターで二人きりになると、なんか動物と一緒に乗ってるような気がするくらい。技術や文明によって人間性を去勢させない。日本でも何代も続いた名家は子供に楽や贅沢をさせない家が多いですよね。やたら何でも金で解決したり、楽しようとしたりするのは(例えば裏口入学とか)、芸能人とか一代成金が多い。豊かであるためには、もの凄い自己規律が必要なのでしょう。

 ということで、ある意味では今の人の方が可哀想だとも言えるのだけど、別に同情はしません。自分の意思、自分のワガママでこっちに来てるんだから。難民船に乗ってオーストラリアに来てる人だって普通にそこらに沢山いるんだから、ワーホリや留学生なんか貴族みたいなものです。それに、日本と違っていれば違っているほど「日本では得られないもの」が豊富にあるということでもあり、「お宝」はむしろ増えていると言ってもいいからです。


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ワーホリ・留学の実戦原理

01:はじめに 意外と役に立つ精神論 英語は気合だっ! 
02:修行のススメ 〜ひどい目にあおう! 
03:「失敗」の美味しすぎる効用 
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